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書き起こしで読む立憲デモクラシーの会「安倍晋三首相による改憲メッセージに対する見解」発表記者会見(5/22)

 今晩(2017年6月16日)配信した「メルマガ金原No.2845」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
書き起こしで読む立憲デモクラシーの会「安倍晋三首相による改憲メッセージに対する見解」発表記者会見(5/22)

 今年の憲法記念日(5月3日)、「第19回 公開憲法フォーラム」(主催:民間憲法臨調、美しい日本の憲法をつくる国民の会)に安倍晋三氏(内閣総理大臣自由民主党総裁)が寄せたビデオメッセージ(以下「安倍改憲メッセージ」と言います)について、「立憲デモクラシーの会」が5月22日に「見解」を公表したことは、私のメルマガ(ブログ)でご紹介済みです(
立憲デモクラシーの会「安倍晋三首相による改憲メッセージに対する見解」を読む/2017年5月24日)。

 ただ、その「見解」を発表した記者会見の動画が見つからず、会見に出席した5人の方々、なかんずく、3人の憲法研究者(長谷部恭男早稲田大学教授、石川健治東京大学教授、青井未帆学習院大学教授)の皆さんの見解を知りたいものだが、と思っていたところ、「立憲デモクラシーの会」ホームページに、「見解」発表記者会見での発言・質疑応答の書き起こしが掲載されていることに、まことに遅ればせながら
気がつきました。
 私もまだざっと目を通したに過ぎませんが、非常に勉強になりました。精読すれば、もっと得るものが
多いはずです。
 ということで、是非、皆さまにもお読みいただきたく、ご紹介することとしました。

 まず、以前のメルマガ(ブログ)でご紹介済みであはりますが、安倍改憲メッセージと、それに対する
「立憲デモクラシーの会」の「見解」を再掲した上で、それに続いて、記者会見の書き起こしの内、3人憲法研究者の方々の基調発言部分をご紹介します。
 西谷修氏(立教大学特任教授・哲学)と山口二郎氏(法政大学教授・政治学、立憲デモクラシーの会共同代表)の基調発言及び質疑応答は、是非リンク先でお読みください。

朝日新聞デジタル 2017年5月3日15時09分
憲法改正「2020年に施行したい」 首相がメッセージ

(メッセージ全文から抜粋引用開始)
 ご来場の皆様、こんにちは。「自由民主党」総裁の安倍晋三です。
 憲法施行70年の節目の年に、「第19回公開憲法フォーラム」が盛大に開催されましたことに、まず
もって、お慶(よろこ)びを申し上げます。憲法改正の早期実現に向けて、それぞれのお立場で、精力的
に活動されている皆様に、心から敬意を表します。
(略)
 憲法は、国の未来、理想の姿を語るものです。私たち国会議員は、この国の未来像について、憲法改正の発議案を国民に提示するための、「具体的な議論」を始めなければならない、その時期に来ていると思
います。
(略)
 例えば、憲法9条です。今日、災害救助を含め、命懸けで、24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊違憲とする議論が、今なお存在しています。「自衛隊は、違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ」というのは、あまりにも無責任
です。
 私は、少なくとも、私たちの世代の内に、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、「自衛隊が違
憲かもしれない」などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます。
 もちろん、9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと、堅持していかなければなり
ません。そこで、「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という考え方、これは、国民的な議論に値するのだろう、と思います。
 教育の問題。子どもたちこそ、我が国の未来であり、憲法において、国の未来の姿を議論する際、教育は極めて重要なテーマだと思います。誰もが生きがいを持って、その能力を存分に発揮できる「一億総
躍社会」を実現する上で、教育が果たすべき役割は極めて大きい。
 世代を超えた貧困の連鎖を断ち切り、経済状況にかかわらず、子どもたちが、それぞれの夢に向かって
頑張ることができる、そうした日本でありたいと思っています。
 70年前、現行憲法の下で制度化された、小中学校9年間の義務教育制度、普通教育の無償化は、まさ
に、戦後の発展の大きな原動力となりました。
 70年の時を経て、社会も経済も大きく変化した現在、子どもたちがそれぞれの夢を追いかけるためには、高等教育についても、全ての国民に真に開かれたものとしなければならないと思います。これは、個人の問題にとどまりません。人材を育てることは、社会、経済の発展に、確実につながっていくものであ
ります。
 これらの議論の他にも、この国の未来を見据えて議論していくべき課題は多々あるでしょう。
 私は、かねがね、半世紀ぶりに、夏季のオリンピック、パラリンピックが開催される2020年を、未来を見据えながら日本が新しく生まれ変わる大きなきっかけにすべきだと申し上げてきました。かつて、1964年の東京五輪を目指して、日本は、大きく生まれ変わりました。その際に得た自信が、その後、
先進国へと急成長を遂げる原動力となりました。
 2020年もまた、日本人共通の大きな目標となっています。新しく生まれ変わった日本が、しっかり
と動き出す年、2020年を、新しい憲法が施行される年にしたい、と強く願っています。私は、こうした形で国の未来を切り拓(ひら)いていきたいと考えています。
(略)
 憲法改正に向けて、ともに頑張りましょう。
(引用終わり)

立憲デモクラシーの会
安倍晋三首相による改憲メッセージに対する見解

(引用開始)
 5月3日、安倍首相は憲法改正の具体的提案を行った。9条の1項2項を残したまま、自衛隊の存在を
新たに憲法に明記し、さらに高等教育を無償化する提案で、2020年の施行を目指すとのことである。
 自衛隊はすでに国民に広く受け入れられた存在で、それを憲法に明記すること自体に意味はない。不必要な改正である。自衛隊違憲だと主張する憲法学者を黙らせることが目的だとすると、自分の腹の虫を
おさめるための改憲であって、憲法の私物化に他ならない。
 他方、現状を追認するだけだから問題はないとも言えない。長年、歴代の政府が違憲だと言い続けてきた集団的自衛権の行使に、9条の条文を変えないまま解釈変更によって踏み込んだ安倍首相である。自衛
隊の存在を憲法に明記すれば、今度は何が可能だと言い始めるか、予測は困難である。
 安倍首相は北朝鮮情勢の「緊迫」を奇貨として9条の「改正」を提案したのであろうが、たとえ日本が9条を廃止して平和主義をかなぐり捨てようとも、体制の維持そのものを目的とする北朝鮮核兵器やミサイルの開発を放棄することは期待できない。憲法による拘束を緩めれば、軍拡競争を推し進め、情勢をさらに悪化させるおそれさえある。国民の6割が手をつけることに反対している9条を変更する案として
は、理由も必要性も不透明なお粗末な提案と言わざるを得ない。
 高等教育の無償化の提案も必要性が不明である。憲法の条文に高等教育は無償だと書いただけでは、無償化は実現しない。そのための財政措置が必要である。他方、財政措置が整いさえすれば、憲法を改正す
る必要はない。
 高等教育を受ける権利を実質的に均等化するために必要なことは、憲法改正を経た無償化ではなく、給
付型奨学金の充実などの具体的な政策であることは、明らかである。
 何より問題なのは、理由も必要性も不透明な生焼けの改憲を提案し、批判を受けると「代案を示せ」と言い募る安倍首相の憲法に対する不真面目さである。改憲自体が目的であれば代案を出せということにもなろうが、改憲が自己目的であるはずがない。不要不急の改憲をしなければよいだけのことである。憲法の役割は、党派を超え世代を超えて守るべき政治の基本的な枠組みを示すことにある。簡単に変えられなくなっているのは、浅はかな考えで政治や社会の基本原則に手を付けるべきではないからであり、山積する喫緊の日常的政治課題に力を注ぐよう促すためである。日本政治の現状を見れば、最高権力者は、国家を「私物化」し、説明責任を放棄し、法の支配を蔑ろにしていると言わなければならない。そもそも憲法は権力者による恣意的な権力の行使を防ぐためにあるという立憲主義の原理をここで再確認する必要がある。このような状況で改憲自体が目的であるかのように、憲法を軽んじる言辞を繰り返すことは、責任あ
る政治家のとるべき態度ではない。

2017年5月22日
立憲デモクラシーの会
(引用終わり)
 
(抜粋引用開始)
青井未帆(学習院大学憲法学)
 学習院大学の青井と申します。憲法学を専攻しております。少しお時間をいただいて、私のほうからは9
条を中心に意見を申し上げたいと思います。一言で今日申し上げたいことを表すならば、それは軍、軍事力といったものを扱う態度として危険極まりないということでございます。二点に絞ります。一つ目としましては「9条1項、2項を残した状態で自衛隊を書き加えるだけ」という説明がされておりますけれども、もたらされるであろう効果、結果というのは一見するよりも大きい。この点について、まず述べたいと思います。それから二つ目につきましては、軍、軍事力というものをどう制御するかということは、我が国が明治の開国以来ずっと課題としてきたであろうこと。これに鑑みるならば、今の憲法をめぐる態度とい
うのはあまりにも恥ずかしい内容ではないか。こういう内容を二点目として申し上げます。
 まず一点目でございますけれども、「すでに存在する自衛隊を書き込むだけであるといったような言説」が報道等でもされている。一部の報道等では、これを積極的に評価する論者も紹介しておりますけれども、しかしながら、2014年、2015年に9条、集団的自衛権を認めないというような解釈を変更したことで、わたくしは箍(たが)がはずれたと思っておりますけれども、箍(たが)がはずされたとはいえ、現在においてもなお条文としてそこに存在しているからこそこれはじゃまになっているわけで。別の言い方をすると、9条1項、2項というのは、まだ法としてみなされている。この法であったものが、法であるにふさわしいような規範としての力を持たなくなる。論理破綻をするというのが、自衛隊を書き込むことの意味です。なぜかというと、これまでの2014年の政府解釈の変更を含めてもなお、今なおある9条の解釈というのは、武力行使は原則できないということです。政府解釈は二つのラインからなっています。一つは、例外的にできる武力行使があるということと、もう一つは、武力行使に当たらないからできるという、これら二つの理屈で政府解釈というのは作られております。自衛隊がその例外的な「武力行使できる」組織としてあり、武力行使でないからできるという理屈で、例えば海外での活動など枠づけられてきました。こういう面倒な説明が必要になる根本的な理由をなくすのが、憲法に「自衛隊」を書き込むことの意味です。「例外的にできる」ということを消去して、自衛の活動ができるということが原則になるに他ならないわけですので、結局これまでの二本柱、「大原則ができないけれども、武力行使ができる場合がある。それとは
別に武力行使に当たらないからできる活動がある」等々の説明が破たんするということになります。
 このことは実は、米艦防護などにおいて非常にクリティカルな問題を提起しておりまして、安保法制懇の報告書では、「あれは集団的自衛権になる」との批判があったわけですけれども、結局、「武力行使に当たらないからできる。警察権の行使だ」と説明されているわけです。このようにぐちゃぐちゃっとなったところで、さらに自衛隊について書き込むとなると、武力行使の違法化、限界がもともとなくなったも
のとして、戦力不保持について定める2項も無効化すると言わざるを得ないと考えます。
 そしてまた二つ目ですけれども、改めてここで私たちが考えなくてはならないのは、近代国家成立以来、軍、軍事力の統制というのが、私たちにとって大変大きな課題であったはずである点です。薩長の兵権を統制するということから始まりまして、統帥権の独立、軍人勅諭による動員を経て、最終的には軍の統制に失敗してしまった。その失敗したことが日本国憲法の出発点である。この点に鑑みたときに、今の扱い、9条1項2項に加えて3項を加えるというのは、あまりにも軽い扱いなのではないか。基本的に軍の論理というのは、市民社会に最終的にはぶつかりあう部分があります。だからこそ、細心の注意を持って制度設計しなければならないはずである。私はこの9条というのは、そういう意味で非常に斬新な方法であり、今なお邪魔になっているということからも、この規定を設けることによる軍事力の統制というのはなかなか評価に値する試みであると思っておりますが、仮にこれを変えるべきであるとしても、たくさんの命が失われたという過去を背負いながら、これを真面目に議論するべきであって、書き込むならば、9条1項、2項に3項を加えるだけではなく、統治機構全般にわたる一つのパッケージとして議論を真面目にするべきであると、このように考えております。先ほども申し上げましたけれども、一言で申し上げるならば、もっと真面目に、この軍について取り扱わなくてはいけないところ、「軽すぎる」という点を、大変危機感を持って申し上げたいと思います。
 
石川健治東京大学憲法学)
 東京大学の石川です。今回の件については、いろんなかたちで、あるいはいろんな角度から検討することができると思います。特にこの立憲デモクラシーの会について申しますと、いわゆる護憲派だけではなくて改憲派もともに同一の戦列に並んでいる、という形で問題状況の深刻さを示すところに、発足の折の志がありました。それを考えますと、護憲派にとっても改憲派にとっても今回の事態は危険である、とい
う観点を持つことが、ここでは大事なのではないかと考えます。
 まず、おそらく多くの人が前提として共有できるだろうと思われるのは、「現在はうまくいっている」という事実ですね。今、青井さんがおっしゃいましたけれども、これまでの軍事力の統制がまずまず成功であったのは間違いがない、ということです。その前提から、今回何が加えられ、何が引き算されるのかというふうに考えてみるというのが、護憲派にとっても改憲派にとっても、大事なプラットフォームにな
るのではないかと思うわけです。
 そう考えますと、現状において軍事力のコントロールをなりたたせている機構というのは、青井さんもおっしゃっていましたが、重層的に出来ている、ということを考えていただきたいと思うんですね。眼の前にある9条の字面がどうしたという表層的なことだけではなくて、軍事という、この典型的な統治作用について、コントロールを成り立たせている重層的な構造が、どのように今回変わろうとしているのか。そういう観点から考えるならば、仮に9条をいずれ変えたいという人にとっても、このまま、あるいはこのかたちで、現状を変えてしまうことは危険であるということは、おわかりいただけるのではないかと思いま
す。
 ごく手短に、9条が国会に禁じているはずの軍事組織の設立がすでになされてしまっている、というふうに現状を理解するといたします。ここは、9条2項をどう解釈するかによって、実はいろいろな理解の仕方
があり得ますけれども、立ち入りません。しかし、それでも9条2項は、まだ役に立っているのです。
 おおざっぱに申しましても、まずは、常に「われわれはこのようなかたちで軍隊を持っていいのだろうか」という問いかけをする根拠が、そこにあるということです。つねに組織としての存立が問われ続ける
ことで、自衛隊の権限の行使がコントロールされてきた面があるはずです。
 そしてより大きいのは、軍事組織を持つことの正統性が常に問われ続けるということとの関係で、大幅な軍拡予算を組むことが難しくなっている、という側面です。予算編成を通じて、国の財政権の行使に実際上とりわけ大きな役割を果たしてきたのは、大蔵省、財務省だと思いますけれども、なぜそういう財務官庁が軍拡予算についてブレーキになることができたのかというと、彼らによる財政権の統制に憲法上の根拠があるからであるわけで、それが9条とりわけその2項ということになるはずなんですね。これは非常
に大きい側面だったろうと思います。
 ですから、少なくとも今述べた二つの層において、9条はまだ生きているということになるわけなのです
が、これらの、現在、現実に機能している統治権のコントロールが、今回の改憲提案のような形で自衛隊憲法上正統化してしまうと、一挙に消えてしまうということになるはずです。この「一挙に消えてしまう」という点において、これは最も危険な提案になっている、ということを申し上げておきたいと思います。この点を指摘した上で、その先の議論をどうするかというのは、またいろいろな立場があり得るでしょう。けれども、立憲デモクラシーの会の最初の志に立ち返って、今このかたちで、こういう改憲提案を出されて、何の問題意識もなしに通してしまうというのは、いかなる立場にたつにせよ、きわめて危険であるということに、まずは警鐘を鳴らしておきたいと思います。以上です。
 
長谷部恭男早稲田大学憲法学)
 この声明文、それからいまお二人、青井さんと石川さんのコメントでは、この度の9条に関する改憲提案は、現状を変えるわけではないという主張は、「額面通りに受け止めるわけにはいかないんだ。ただの現状追認ではないんだ」というリスクを強調されていたわけなんですが。ただ、ひるがえって考えてみますと、現状を追認するだけだということを、額面通りに受け取ったといたしましても、かなり大きな問題がそこにあると思います。なんのために、現状を追認するためだけに9条を変えるかと言いますと、「国のために命をささげる自衛官違憲の存在だと言われないようにするため」「自衛官が、誇りと自信を持って活動できるようにするため」であるという理由が示されているわけですが、これは純粋な情緒論です。現状を追認するだけでしたら、この提案が実現したからといって日本の安全保障がより堅固になる、日本がより安全になるということはないはずです。つまり、純粋にひとの情緒に訴えかけているだけの提案です。国の防衛とか安全保障に関する議論というのは、ただでさえ情緒的なものになりがちです。大抵のひとが理性的かつ合理的に、何をどうすれば国はより安全になるのか。より効果的に危険を排除することができるのか。これを冷静に計算できるのだということであれば、ことは大変簡単です。ただ、実際には情報は錯綜する。議論は情緒化する。理性的な計算は見失われがちになるからこそ憲法によって武力の行使、あるいはそれにあたる装備の規模や範囲、これを限定しておく必要が生まれるわけです。今回の9条を変えるという提案は、合理的な安全保障論抜きで専ら情緒論に訴えかけて、憲法を変えようとするもので、防
衛問題に関する憲法論としてまったくあべこべであると言わざるを得ません。
 今回の安倍提案が問題を情緒化しているだけで理性的な思考には支えられていないことは、仮に今回の提案が否決されたら一体どうなるのかということを考えてみればよくわかります。「現状を追認し、それを憲法に書き込むだけのことだ」ということですので、反転させてみますと、この提案が否決されてしまうと、「現状を主権者たる国民が否定をした」ということになります。従って、もはや、現状に戻ることはもうできません。どこに立ち戻ることになるのか。人によっては、それは集団的自衛権の行使が否定されたところに戻るのだということになるのかもしれませんし、PKO活動ももうできなくなるのだと。あるいはさらに言えば、自衛隊の存在そのものが否定されてしまったのだというふうに主張する人もいるだろうと思います。可決されることばかりを念頭において、否決された場合にどうなるのか。これをおそらく考えていないのではないでしょうか。現状では約6割の有権者は「9条に手を触れるべきではない」と言っているわけですが、否決される蓋然性は決して否定できないと思います。そうなりますと、収集(金原注:「収拾」の誤変換と思われる)不能の大混乱がもたらされることになるのではないでしょうか。「情緒論に訴えかけて、何が何でも憲法を変えよう」という自身の願望を通そうとするあまり、国の安全保障を大きく損なう。そういう事態を招こうとして
いるのではないか。
 同じ日本国民である以上は、自衛隊員の尊厳は守られる必要があります。しかし、安倍首相の改憲提案というのは、是が非でも9条を変えたい。憲法を変えたいという自身の願望を遂げるための単なる手段として、この自衛官の尊厳、自衛官の誇りと自信というものを扱っているのではないでしょうか。「人を道具としてのみ、手段としてのみ扱うな」というカントの道徳原則に真っ向から反していると思います。人を単なる道具として扱う極みでありまして、「自衛官を道具扱いするのにも程があるのではないか」という
ふうに私は考えています。以上です。
(引用終わり)
 

(付録)
『一台のリヤカーが立ち向かう』 作詞・作曲・演奏中川五郎

私のブログでこの曲を紹介しています。
※2017年7月30日(日)に中川五郎さんが和歌山県新宮市で歌います(くまの平和の風コンサート2017)。