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司法に安保法制の違憲を訴える意義(16)~東京・国家賠償請求訴訟(第4回口頭弁論)における原告による意見陳述(野木裕子さん他)

 今晩(2017年6月25日)配信した「メルマガ金原No.2854」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
司法に安保法制の違憲を訴える意義(16)~東京・国家賠償請求訴訟(第4回口頭弁論)における原告による意見陳述(野木裕子さん他)

 一昨日に引き続き、6月2日に東京地方裁判所で開かれた安保法制違憲・国家賠償請求訴訟の第4回口頭弁論で陳述された意見をご紹介します。
 一昨日は、3人の訴訟代理人弁護士による法的観点からの陳述でしたが、今日ご紹介するのは、3人の原告の皆さんの意見陳述です。
 小海基(こかい・もとい)さんは、キリスト教の牧師としての立場から、渡辺一枝(わたなべ・いちえ)さんは、お父さんを戦争で喪った満州からの引揚者の立場から、それぞれ何故安保法制に反対するのか、非常に説得力豊かに語っておられます。
 そして、野木裕子(のぎ・ゆうこ)さんによる「長年「言葉」を仕事の道具にしてきた人間の感覚で言いますと、十年ほど前から徐々に、そしてここ数年は加速度的に、言葉が「粗雑」で「野卑」になってきているように思えてなりません。」という発言には、「そのとおりだ」と思わず膝を打ってしまいました。
 是非、3人の皆さんの意見陳述を熟読玩味していただきたいと思います。

 なお、6月2日の裁判当日の午後、参議院議員会館講堂で行われた報告集会の動画もご紹介しておきます。

2017年6月2日 安保法制違憲訴訟国倍第4回期日 報告集会(1時間36分)

冒頭~ 司会 杉浦ひとみ弁護士
1分~ 挨拶 寺井一弘 弁護士(全国における訴訟の状況について)
(陳述した原告から)
16分~ 原告 野木裕子(のぎゆうこ)さん
25分~ 原告 渡辺一枝(わたなべいちえ)さん
(代理人から)
32分~ 伊藤 真 弁護士
52分~ 角田由紀子 弁護士(人格権について) 
1時間12分~ 古川(こがわ)健三 弁護士(若手弁護士の活動について)
1時間18分~ 内田雅敏 弁護士
1時間24分~ 福田 護 弁護士
 

原告意見陳述 小海 基(こかい もとい)
 
 私は日本基督教団荻窪教会の牧師です。この教会は1933年創立ですが、会員には旧満州からの引き揚げ者の方も多く、いざ戦争となったら「在外邦人救出」どころか、軍隊が真っ先に逃亡し、放置された民間人の筆舌に尽くしがたい苦難の経験を高齢の方たちから何度もうかがってきました。
 戦争中の教育が、日本の軍国主義を支えたことも、経験からの話として聞いてきました。第1 次安倍内閣で「教育基本法」が改悪され、内心の自由に関わる「日の丸・君が代強制」問題が起きた頃、私は子どもの親として、国が教育に不当に介入する恐れに心を痛め、折あるごとに杉並区教育委員会に申し入れを行ってきました。「つくる会歴史教科書」採用、杉並区独自の教員採用と教員養成機関である「師範館」設立、「教育特区」の名を借りて無理やり採用された「全国初の民間人中学校校長」や「夜スペ」という私塾など、子どもたちが吸収する教育に大きな危惧を持ち、区内の教員、保護者たちと「教育懇談会」を立ち上げ、公教育を見守り、現場情報を発信する団体としての活動を、現在も行っています。
 また、1990 年頃には、私は教会からアメリカミズーリ州セントルイスキリスト教の神学校へ留学させてもらいました。当時は丁度「湾岸戦争」が始まった時で、私が通っていた黒人教会では、軍の奨学金で大学に学んだ青年たちが次々と戦地へ送られ、「自爆テロで友人が目の前で亡くなった」、「反射的に人を殺す道具になり果ててしまった自分に嫌気がさす」など戦場からの生々しい手紙が礼拝の中で読み上げられるのを耳にしました。
 戦争は露骨に容赦なく貧しい黒人青年たちを戦場へ送り込み、現地で「侵略者」の片棒を担がされ、死と隣り合わせの日々を強いられ、挙句の果てに帰還しても「後遺症」のトラウマに悩まされ麻薬に溺れていくのです。家族に残されるのは祈ることしかないという理不尽さにやりきれない思いを感じていました。
 今回の「安保諸法」は、私がこれまで牧師として,あるいはひとりの人間として、戦争体験者の苦悩を受け止めようと務めてきた私自身が奈落に突き落とされるような衝撃をうけました。
 私は、長年賛美歌研究を続け、牧師を育成する神学校の教育現場にも立ってきましたが、賛美歌は単に言葉を美しいメロディーで歌うというだけでなく、歌詞の中に思想や思いを浸透させ、注入するような機能も持っているのです。
 子どもたちの教育は賛美歌と同じです。殺し殺される国の教育は子どもたちに害悪を浸透させます。
 また,セントルイスの黒人教会で見たように社会的貧困層の青年たちから戦争への犠牲が強いられ、苦しみを負わされるような社会の仕組みが、必ず、私たちの国でも展開されていきます。
 加えて牧師である私は、第二次世界大戦時のキリスト教会の反省を片時も忘れることはありません。教会やキリスト教信者たちが戦時体制下、単に時の政府の抑圧に抗しきれなかったというだけに留まらず、煮え湯を飲まされるような思いで、礼拝堂に日の丸を飾り、皇居に向かって遥拝し、教団幹部が伊勢神宮に先勝祈願の参拝をし、戦闘機奉納に募金を集め、アジアの特に朝鮮半島や中国大陸、台湾のキリスト者たちに神道は宗教ではなく「風俗儀礼」に過ぎないのだといって「強制参拝を強いる」…といった、あってはならない行動の数々をもって、積極的に戦争のお先棒担ぎさえもしていったのです。
 こうした先人の懺悔・反省を戦後に生きる私たちは自分のこととして十字架として負ってきました。しかし再びそのような世界に引きずり込まれ、同じ轍は踏むまいと誓って歩んでいる私たち戦後のキリスト者にとっては、これら「安保諸法」のすぐ先にある壮絶な未来を思うときに総毛立つような恐怖を感じています。
 

原告意見陳述 野木 裕子(のぎ ゆうこ)
 
 私は 1949 年生まれです。周囲には生々しい戦争の記憶を持つ人達が大勢おり、その体験談を聞く機会が結構ありました。小説を含めて戦争に関わる本なども読み、「戦争は人間を不幸にするだけだ」という、ごく当たり前の考えを自然に身に着けて育ったと思います。体験談と言えば亡くなった母の友人に、高等女子師範学校在学中、学徒勤労動員によって軍需工場で働いていた人がいました。彼女は戦後になって自分達がいわゆる「人間魚雷」の部品を造っていたと知り、知らぬうちに戦争に深く加担させられていたことに後ろめたく、かつ恨めしい思いを抱き続けたそうです。戦争は人の命を奪うだけでなく、生き残った人の心にも深い傷を残すのだと戦慄を覚える話でした。
 また、私はいわゆる「戦後民主主義教育」を受けた世代にあたり、上の世代からしばしば「本当にいい時代に育って」という言葉を聞かされました。すべての国民は「基本的人権を持ち」「個人として尊重され」「法の下に平等である」と定めた憲法に守られているのだと。……とりわけ女性に男性と同様の権利が認められたことについて、何人もの大人の女性達から羨ましがられたものです。とは言え、その「男女平等」がある意味で建前に過ぎないことも、子ども心に何となく感じていました。学校から一歩出れば「女の子のくせに」といった類いの言葉があふれていましたから。そして就職する頃から、ますますそれを痛感するようになりました。当時は四大卒の女性の求人はきわめて少なく、限られた求人の中にも「片親の子は不可」など、驚くべき差別がまかり通っていたのです。何とか就職できても「ウチの女のコ」と言われ、賃金差別や結婚退職制が存在する企業も少なくありませんでした。
 それでも、年月と共に「建前」が少しずつ「建前でなくなってきた」のも事実です。他の様々な差別についても、同じことが言えます。女性であり、さらに「母子家庭」ということで身近に差別を感じていたせいか、私は子ども時代から様々な「差別」に敏感だったのですが、それらを「恥」と見なす意識が徐々に浸透してくるのを感じてきました。男女同権を含めた基本的人権は「与えられたもの」であったかもしれませんが、その「内実」は私達が一つ一つ、勝ち取ってきたのです。私はそれを国民として本当に嬉しく、誇りに思います。
 ところが近年、その誇りをぐらつかせるような空気が漂い始めたような気がします。長年「言葉」を仕事の道具にしてきた人間の感覚で言いますと、十年ほど前から徐々に、そしてここ数年は加速度的に、言葉が「粗雑」で「野卑」になってきているように思えてなりません。「女の子に三角関数を教えて何になる」とか、沖縄における「土人」発言等々……。少し前でしたら、いわゆる差別的な発言は、たとえ酒の席のようなところであっても「下品だ」という共通認識があったように思います。それが平然と「常識あるはずの大人」の口から出る。
 言葉が粗雑で野卑になってきたのは、もしかするとマッチョイズムが──私達が懸命に否定し、封じ込めようとしてきたマッチョイズムが首をもたげてきたからではないかと私は思っています。丁寧に言葉を紡ぎ、互いの思いや感覚を(完全には理解できないにせよ)少なくとも理解しようと努力すること。それを「えーい、面倒だ」と放り出し、「力がすべてだ!」と肩を怒らせて威嚇し合うのが、マッチョイズムの本質だと私は思います。だから、言葉に対する感覚も鈍くなる。感情を剥き出しにし、それを「本音の発言」などと言って恬として恥じない。言葉の力を大切に思う者にとって、言葉が破壊されるさまを見るほど辛いことはありません。
 マッチョイズムと言えば、「平和を守るために軍事力が必要」という考え方はその最たるものです。存立危機事態等々の言い回しですぐに拳を振り上げる安易な道を選び、集団的自衛権の名のもとにそれこそ世界の裏側まで自衛隊を派遣する。これは「戦争は NO、差別も NO」と念じ続けてきた私に対する、国家の重大な裏切りというほかありません。力で物事を解決しようとする社会においては、当然、弱い人間は排除されます。弱い立場であると自覚し、微力ではあっても同じ立場の人々に寄り添いたいと願い続けた私の人権を侵害する安保法制を、私は何としても認めるわけにはいかないのです。
 

原告意見陳述 渡辺 一枝(わたなべ いちえ)

 1945年1月9日旧満州国ハルピン生まれです。父は7月20日招集され出征する日、父は「この戦争は、じきに日本が負けて終わる。必ず帰るからイチエを頼む」と母に言って出たそうです。一枝と書いてイチエと読ませる名は、父が私に残してくれたただ一つの形見です。
 翌年9月に私たち母娘は引き揚げ、母の実家に身をよせました。ある日叔母の連れ合いが復員する知らせが入り、1歳下の従弟と私は「お父ちゃんが帰る」と喜び跳ね回りました。叔父が戻り私たちが駆け寄ろうとすると、祖母は泣きながら私を抱きとめて「あんたのお父ちゃんじゃないんだよ」と言いました。父なし子を自覚した3歳の私です。
 中学生の時に、父と同じ部隊にいた人からの伝聞を母が訪問客に話すのを一緒に聞きました。部隊は8月18日に武装解除となり部隊長が「捕虜としてソ連に送られるだろうから、家が近いものは家族に会いに行ってこい」と言い、父たち3人は部隊を離れました。線路伝いに歩きましたが線路を見失い、地元の人に教えられた道を迷って湿地帯に入ってしまいました。父は足を痛めた仲間を背負っていたそうですが、その人が振り返った時には二人の姿はなかったそうです。「そいつを置いてこい」と言うと「家族が待っているだろう。連れて行く」と答えたのが、その人が聞いた父の最期の言葉です。
 その話を聞いて私は、父の墓石の下には紙切れしか入っていないことを知ったのです。
小さかった時の私はハルピンの街を憧れをもって想像していました。東洋のパリと言われ、街並みの美しいところだったと聞いていました。同時に、満州は日本が中国を侵略して作った国だとも教えられ、侵略をするような日本に疑問を感じてもいました。
 小学校に入ると学校でも戦争のことを学ぶようになりハルピンを懐かしく語る母親たち大人を、次第におぞましく思うようになりました。
 父の最期を知るまでの私は、働きながら私を育ててくれる母を誇らしく思い、尊敬していました。祖母に「あんたのお父ちゃんじゃないんだよ」と抱きとめられた時からずっと、父を恋しく思っていました。
 父の最期を知った日から、私は母に心を閉ざしました。父を恋しく思いながらも父を恨めしく思うようになりました。帝国主義に反対だった父、軍国主義に反対だった母は、なぜ自ら侵略地に行ったのか?なぜ私はハルピンで生まれたのか?生後6ヶ月の赤ん坊を残して、父はなぜ召集に応じたのか?「戦争はもうじき終わる」と言いながら出征した父を、母はなぜ止めなかったのか?止めれば良かったのにと、詮無いことと思いながらも、私は心の中で母を責めました。
 母が死んだ翌年、私はハルピンを訪ねました。父から聞けなかった言葉や母が語らなかった思いを、そこに立てば感じられるだろうかと思ったのです。初めてのハルピン行で出会ったおばあさんに、「私たちの国は中国の人たちに本当に済まないことをしました。お詫びします」と言うと、おばあさんは「それはあなたたちのせいではないですよ。日本の軍部がやったことです。あなたたちも犠牲者です。ここに住んでいたなら、懐かしくなったら何度でも訪ねていらっしゃい」と言ってくれたのです。
 その後も旧満州の各地を訪ね、残留邦人に会い、残留孤児を育てた養父母に会い、多くの人たちから話を聞いてきました。ある時は朝鮮人のおばあさんに「私2回の戦争あった。1つは日本、日本負けたね。それからアメリカと朝鮮ね。戦争2回ね」と言われ、朝鮮戦争では日本は米軍の前哨基地の役割を果たしていたことを思い、身がすくみました。「申しわけない思いでいっぱいです」と言うと、「終わったら、もういい。私かわいそうな人です。あんた、解ったらいい。私、あんたのこと解ります。あんた、私の娘よ」と、言葉をかけられました。
 異国で暮らす残留邦人や被害国中国の人たちが戦中・戦後どのように暮らし、何を望んできたかも知りました。
 人は自分の生を生きるだけではなく、自分が生きた時代をも生きるのではないでしょうか。それはまた、自分の生に責任を持つだけではなく、自分の生きた時代にも責任を持つことだと思います。
 私が出会ったどのお一人も、戦争に蹂躙されて人権を踏みにじられ、人生を弄ばれ傷つきながらも、立ち上がって生きてきた人たちでした。戦争のない平和な世界を願うのは、国家を超えて人としての願いなのだとはっきりと言えます。ですから私は、戦争への道を開く安保法制に反対します。
 

(弁護士・金原徹雄のブログから/安保法制違憲訴訟関連)
2016年9月3日
東京・安保法制違憲訴訟(国賠請求)が始まりました(2016年9月2日)
※過去の安保法制違憲訴訟関連のブログ記事にリンクしています。
2016年9月6日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(1)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述
2016年9月10日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(2)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述
2016年10月4日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(3)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述
2016年10月5日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(4)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述
2016年12月9日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(5)~東京・国家賠償請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告代理人による意見陳述

2016年12月10日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(6)~東京・国家賠償請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告による意見陳述
2017年1月5日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(7)~寺井一弘弁護士(長崎国賠訴訟)と吉岡康祐弁護士(岡山国賠訴訟)の第1回口頭弁論における意見陳述
2017年1月7日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(8)~東京・差止請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告訴訟代理人による陳述
2017年1月8日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(9)~東京・差止請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告(田中煕巳さんと小倉志郎さん)による意見陳述

2017年2月14日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(10)~東京「女の会」訴訟(第1回口頭弁論)における原告・原告代理人による意見陳述

2017年3月15日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(11)~東京・国家賠償請求訴訟(第3回口頭弁論)における原告代理人による陳述 
2017年3月16日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(12)~東京・国家賠償請求訴訟(第3回口頭弁論)における原告(田島諦氏ほか)による意見陳述
2017年4月21日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(13)~東京・差止請求訴訟(第3回口頭弁論)における原告代理人による陳述

2017年4月22日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(14)~東京・差止請求訴訟(第3回口頭弁論)における原告による意見陳述(様々な立場から)

2017年6月23日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(15)~東京・国家賠償請求訴訟(第4回口頭弁論)における原告訴訟代理人による陳述