wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

さだまさしさんが語る「風に立つライオン基金」/ナターシャ・グジーさんが歌う『防人の詩』

 2017年8月16日配信(予定)のメルマガ金原.No.2906を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
さだまさしさんが語る「風に立つライオン基金」/ナターシャ・グジーさんが歌う『防人の詩
 
 私のブログのタイトルページに、最初に「憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します」と表記したのは、2012年8月30日、「wakaben6888のブログ」を立ち上げ、最初の記事「中川五郎さんの新しい“We Sall Overcome”=『大きな壁が崩れる』」を配信した時でした(これが私の最初のブログでした)。
 その後、メインのブログをライブドアに乗り換えることにし、2013年1月24日、「橋本美香さん「原発、憲法…理想を現実に」」「弁護士・金原徹雄のブログ」のスタートを切った時にも、タイトルページには、そのまま「憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します。」というモットーを踏襲しました(末尾に「。」を付けただけの違いです)。
 
 もともと、3.11福島第一原発事故の衝撃からスタートした「メルマガ金原」を転載するためのブログでしたから、「原発を無くしたい」は当然でしたし、また、徐々に憲法問題について書く比重が増えてきていましたので(元来、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」事務局長として、憲法問題こそ主たる守備範囲でしたから)、「憲法を大事にし」も当然のことでした。
 その2つとやや異質なモットー「音楽を愛し」を何故書き込んだのか?今となっては明確な記憶もありませんが、ただ、上記2つのブログの最初の配信記事のテーマが、それぞれ中川五郎さんと橋本美香さんだったというのは象徴的ですね。

 昭和42年(1967年)4月に和歌山市で中学生になった私が、その後の数年間、「関西フォーク」のシャワーを浴び続けたことが、その後の人格形成に大きな影響を及ぼしたことはほぼ間違いありません。
 今日のブログで取り上げる「さだまさし」さんの歌を私が初めて聴くことになったのは、他の人もそうではないかと思いますが、グレープという男性2人組のユニットの2曲目のシングル『精霊流し』(1974年4月リリース)の大ヒットによってでしたから、私はもう大学生となっており、関西フォークの波も引いたあとでした。
 その後、ソロとなって以降のさだまさしさんのヒット作の数々は、もちろんよく聴いていましたし、必ずしもファンということではないものの、日本を代表するアーティストとして敬意を抱いてきました。

 これまで、私のブログで直接さださんを取り上げたことはなかったかと思いますが、さださんの楽曲『防人の詩』をナターシャ・グジーさんのコンサートで聴いて感銘を受け、それを「メルマガ金原」に書き(3.11の約半年後のことでした)、後に、それを「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載しています(
ナターシャ・グジーさんコンサートと今後の映画上映会(in和歌山市)/2011年9月3日)。少し長くなりますが、再掲したいと思います。
 
(引用開始)
ナターシャ・グジー 東日本大震災復興支援チャリティーコンサート
「ふるさとへの想い」(ホテル アバローム紀の国2F鳳凰の間)
 昨日(2011年9月3日)午後5時から、「ゆら・山﨑法律事務所 創設5周年記念企画」として、6歳の時にチェルノブイリ原発事故に遭遇し(お父さんが原発労働者)、11年前から日本で音楽活動をしているナターシャ・グジーさんのコンサートが行われ、参加してきました。
 台風12号による警報発令中にもかかわらず、満員の観客がナターシャ・グジーさんの素晴らしい演奏と歌唱を堪能しました。
 ちなみに、ウクライナの民族楽器パンドゥーラによる弾き語りでしたが、63本の弦を持つハープ族の楽器で、左手が低音部、右手が高音部のメロディーラインを受け持っているようでした。
 演奏された曲目は以下のとおりです。
   1 キエフの鳥の歌
   2 深い井戸
   3 眠りたくないの
   4 木の根
   5 いつも何度でも
   6 秋桜(コスモス)
   7 防人の詩(うた)
   8 遙かに遠い空
   9 白い翼
   10 あなたの声にこころが開く
  (以下、アンコール)
   13 ふるさと(会場全員で)
 
 「いつも何度でも」はYou Tube で何度もくり返し視聴していましたが、さだまさし作の2曲、特に『防人の詩』は印象的でした。私たちの世代にとって、『防人の詩』といえば、どうしても戦争映画『二百三高地』の主題歌であって、作者の意図がどうあれ、一定のバイアスがかかった目で見てしまいがちです。
 しかし、ナターシャさんが、そのようなバイアス抜きでこの曲を取り上げていることは明らかで、あらためて『防人の詩』を、作品そのものとして味わいたいと思いました。
 
『防人の詩』の歌詞著作権の関係で全文のコピー・ペーストができませんのでリンク先をご覧ください)
 
(『防人の詩』の)歌詩は『万葉集』第16巻第3852番に基づいて作られている。
原文:鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼
訓読:鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ
大意:海は死にますか 山は死にますか。死にます。死ぬからこそ潮は引き、山は枯れるのです。
 
 上記「万葉集」の歌は、短歌ではなく、「旋頭歌(せどうか)」という「五七七」を2連つらねる形式の歌です。
 手元にある「萬葉集釋注八」(伊藤博著/集英社文庫)に、以下のような解釈が載っていました。
「世に永久不変のものは何一つない、ましてや、人間がはかないのはやむを得ないのだ、と嘆く歌。海は再び満ち、山も春来りなばまた萌える、そしてさらに干て枯れて、迷いや悲しみを永久に繰り返すのだという輪廻の思想も、意識の底にあるのであろう」 
 
 さだまさしさん作の長い歌詞の最後の連はこう締めくくられています。
  海は死にますか 山は死にますか
  春は死にますか 秋は死にますか
  愛は死にますか 心は死にますか
  私の大切な故郷(ふるさと)もみんな
  逝ってしまいますか
 
 私は、ここまで聴いて、ナターシャ・グジーさんが、なぜ『防人の詩』を自分の持ち歌として歌っているのか、その一端が理解できたように思いました。
 
 なお、昨晩のコンサートで、ナターシャ・グジーさんは、チェルノブイリ事故のことには触れて、「大事なことを忘れて悲劇を繰り返すことのないように」という話はされましたが、おそらく意図的に、福島の事故には一切触れられませんでした(私はその点にも共感しました)。
(引用終わり)
 
 いかがでしょうか。私と同世代の方の中には、『防人の詩』というと右翼がかった曲という印象を持たれている方が(かつての私と同じように)少なからずおられるのではないでしょうか。このような聴き方、歌い方もあるのだということを知っていただければと思います。
 
 さて、今日ブログで取り上げる、さだまさしさんに関する話題というのは、さださんが、僻地医療、災害救援の従事者を支援するために2年前に設立した団体(一般社団法人「風に立つライオン基金」)が、公益財団法人の認定を受けたことを受け、法人の創設者として日本記者クラブで8月3日に会見された動画が公開されていますので、ご紹介することにしたものです。
 
「風に立つライオン基金さだまさしさん 2017.8.3(1時間17分)

 
 会見はかなり長いものですから、要点をまとめた「会見リポート」を引用させていただきます。
 
(引用開始)
歌から生まれる人助けの連鎖
 「風に立つライオン」という歌を発表したのは、日本がバブル景気のただ中にあった1987年。実在の医師をモデルに、アフリカで巡回医療に従事する日本人青年の悩みや喜びを、故国に残してきた女性への手紙という形で描いた。この歌を聴き医学の道を志したという人に近年よく会うと、さだ氏は語る。海外協力隊員や商社員からも「心の支えにしている」との声が届くという。
 その歌の名を冠した「風に立つライオン基金」は2015年、僻地医療や災害救援の従事者を物心両面で支援する一般社団法人として発足した。この夏、公益財団法人の認定を受けたのを機に創設者として会見に臨んだ。
 原点は1982年に故郷を襲った長崎大水害。「日本中の人が長崎に力を貸してくれた」。自身も急きょ東京でチャリティーコンサートを開催。その後、東日本大震災熊本地震に至るまで、ライブ会場に募金箱を置いたり、音楽仲間と歌を届けたりといった試みを重ね、援助団体などとのつながりを育ててきた。
 財団化したのは組織として支援を長く続けるため。この2年間も茨城、熊本、岩手、鳥取などの被災地を訪れ義援金を手渡してきた。公益法人として認められたのは「地道にやってきたことを、見る人は見てくれ、志をわかってくれたからでは」。その分、責任は重くなったと気を引き締める。
 海外ではケニアスーダン、フィリピンで障害児医療などに取り組む日本人を支援してきた。医療関係者に会員登録してもらい、災害時に被災地のニーズとマッチングする仕組みも稼働させ、すでに約100人が登録済み。活動の幅を広げるため、個人や企業、団体に寄付を呼びかけていく。
 いったんは被災者になった人が、別の地域に災害があれば助ける側に回る。そんな「お返し」の自然な広がりを目の当たりにしてきた。阪神淡路大震災以降の20年間で日本人のボランティア観は大きく変わったとみる。「慈善活動や善意の運動という力みが消え、自分にできることをするのは当然と考える若者が増えた」。彼らを応援しようと昨年、高校生向けボランティア・アワードを立ち上げた。
 歌手などによる支援活動も「ひところは売名と言われるのを恐れる風潮もあったが、今はなくなった」と感じる。これらの変化を先導してきた1人が、さだ氏なのではないか。そう思わせる会見だった。
(引用終わり)
 
 私は、会見でのさださんのお話に耳を傾けながら、「風に立つライオン基金」公式サイトの該当ページを閲覧していました。
 皆さんにもこの方法をお薦めしたいと思います。とてもよくお話の内容が理解できますよ。
 実は、私自身、日本記者クラブでの会見動画を見て、「風に立つライオン基金」の存在を初めて知りました。 
  さださんをはじめ、同基金に協力されている全ての方に敬意を表したいと思います。