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司法に安保法制の違憲を訴える意義(20)~東京・国家賠償請求訴訟(第5回口頭弁論)における原告による意見陳述(今野寿美雄さん他)

 2017年11月2配信(予定)のメルマガ金原.No.2974を転載します。
 
司法に安保法制の違憲を訴える意義(20)~東京・国家賠償請求訴訟(第5回口頭弁論)における原告による意見陳述(今野寿美雄さん他)
 
 昨日の原告訴訟代理人の陳述に続き、去る9月28日に東京地方裁判所で開かれた安保法制違憲・国家賠償請求訴訟の第5回口頭弁論での3人の原告の皆さんによる意見陳述の要旨を、安保法制違憲訴訟の会ホームページから転載してご紹介します。
 
 東京国賠請求訴訟では、次回(第6回)期日(2018年1月26日)、次々回(第7回)期日(同年5月11日)のいずれも、午後一杯の時間を取った指定がされ、いよいよ次回以降、証人尋問、原告本人尋問等の証拠調べの段階に入っていくことになります。
 従って、第5回口頭弁論まで行われたような形式の原告意見陳述は、今回が最後かもしれません。
 
 今日ご紹介する3人の原告は、これまで意見陳述された原告と同様、福島第一原発事故に遭遇した原子力発電関連従事者、仙台大空襲被災者、JR勤務者など、様々な背景を持った方々であり、それぞれ安保法制の制定により、どのように精神的苦痛を受けたかを説得力豊に語ってくださっています。是非、その声に耳を傾けていただければと思います。
 

原告 今 野 寿美雄
 
1 私は、2011年3月11日の東日本大震災の頃、福島第一原発から10㎞くらいの浪江町で妻と幼稚園のひとり息子と暮らしていました。
 私は、原子力従事者で、当日は宮城県女川原発に出張中でした。女川湾も津波に襲われ移動できず3月15日まで足止めになりました。
 3月11日の夜、ニュースで福島第一原発が全電源喪失し、原子炉水位が低下していることを知りました。メルトダウンしていることは確実だと思いました。家族はちゃんと遠くに避難しているだろうかといても立ってもいられない思いでした。
 15日になって、やっと福島に向かいましたが、自宅のある浪江町はすでに立ち入り禁止区域になっていました。 
 妻や息子は誘導されて避難していましたが、そこは、実は自宅周辺よりも放射線量の高い地域だったことがわかりました。国や県は、SPEEDIのデータを生かさず、汚染の状況や被ばく量を隠し続けて、汚染の酷い高線量地域に人々を留めおき、不要な被ばくを受けさせ続けたのです。情報が広報され誘導にいかされていればと悔しくて仕方ありません。国も自治体も、安定ヨウ素剤の配布も、服用もさせず、避難させず、何の対策も取らないどころか、被ばく拡大をしました。その後、故郷に帰れない私たちは転々とし、現在、福島市飯坂温泉に出来た復興公営住宅で避難生活を続けています。
 仮住まいで転校させた子どもも小学校を卒業する年になってしまい、不安定に6年を過ごさせたのではないか、あるいは、子どもの世界での「原発避難のいじめ」にも日々心を痛めています。
2 幼稚園だった息子は、確実に被ばくし、事故後、半年位経ってから、1か月に2度、風邪をひくようになりました。免疫力の低下によるものと思われます。2年間位続きました。私たち大人はともかく、まだ小さな子どもの受けた内部被ばくの影響が今後どのように出てくるのか、本当に不安でたまりません。
 行政は、被ばく量を測定してほしいと希望しても行いませんでした。高い数値が出ないように、半減期が過ぎる物質があればそれを待ちたかったのではないかと思います。また、旅館に避難中、当時出産直前の親戚の女性が、生まれてくる子に母乳が飲ませられるかどうか知りたく、母乳の汚染検査を求め県庁に何度も依頼しに出掛けましたが、「国や県の意向で測る事は、出来ない」と言われました。その数値が高いことを明らかにしたくなかったのではないでしょうか。彼女は初乳だけを赤ちゃんに飲ませ、あとは乳を捨て、支援物資の粉ミルクを与えていました。
 放射線障害防止法は『一般人の追加被ばく線量年間1mSv(シーベルト)以下』という基準を定めていました。ところが事故後は、年間20mSvまで許容される、などとしています。私は、原子力で29年間働いてきましたが、今までで最高の被ばく線量は、年間 12mSvです。いかに、20mSvと言う数値が大きいかということです。原子力従事者より多くの被ばくを小さな子どもたちに強要しているのです。子どもの将来をいったいどう考えているのかと本当に許せない思いです。
3 安保法制ができたことによる現実的な恐怖
 安保法制の成立により、戦争をするアメリカと一線を画してきましたが、これからはアメリカと一緒になって戦争をする国になってしまいました。
 日本も、また他国から疎まれてテロの対象になる可能性が高くなりました。日本が各地に多数おいている原発は格好の餌食です。少し前のパリのテロの時にも、フランス政府は原発へのテロを警戒したといいます。原発が狙われるというのは、私の思い過ごしではありません。
 原発が狙われたときには、その被害は甚大です。
 近隣住民は、故郷を失い、生活の安定を失い、健康被害を受けさらには、私たち大人が守らなければいけない子どもたちが、将来どんな被害を生じるとも分からない被爆の結果を残すのです。原発の被害は、絶望的な被害で、それを受けた者の苦悩は言葉で言い尽くせません。
 

原告 土 田 黎 子
 
 私は、1941年の生まれです。仙台で空襲に遭いました。
 1945年7月10日未明、テニアンを発ったB29が120機あまり襲来し、3000人近い人が一夜にしてなくなったいわゆる仙台大空襲です。私は、3歳8ヶ月でしたが、燃え盛る街なかを母に背負われ逃げたその時の映像が、記憶が鮮明にあります。
 翌朝、幸運にも焼け残った私の住まいの一部屋に、焼夷弾の直撃を受け亡くなった父の友人が畳に乗せられて運ばれてきました。その部屋に行ってはいけないといわれていましたが、私がそっと部屋をのぞいてみると、畳のへリに白い米粒のようなものが一面にびっしりはり付いていて、それが蠢いていた光景を幼子心に忘れることができません。今も「戦争」という言葉を耳にするとき、この光景が鮮明に蘇ってきます。
 戦争の記憶は重苦しい空気の記憶でもあります。
 私の父はキリスト教会の牧師でした。キリストを唯一の神と信じる父と母にとっては、現人神である天皇以外の神を礼拝することが許されなかった戦争の時代は本当に辛い時代だったということです。信者の礼拝出席はゼロになり、監視に来ていた特高の警官だけが、熱心な信者であるかのような皮肉な光景だったということでした。父は、特高からも何度も呼び出され、事情を聞かれたりしたそうです。また、隣組が組織されていたため、近隣からは、「耶蘇教の牧師なんて敵性思想にかぶれた英米のスパイだ」と言われ、我が家は、近所から完全に孤立していたようです。幼い私には、事情は分からず、ただ、父が家から連れて行かれるときの恐ろしさと不安、父が戻ってくるまで、母が合掌をしてずっとお祈りをしている光景は記憶に残っています。
 家の中一杯に漂う、その不安で重苦しい空気は忘れることができません。
 私は長く保育園で子どもたちに関わってきました。子どもたちは小さくても、3才から5 才くらいの時期に感受性も育ちます。私が体験した戦争、町が炎に焼かれ人が亡くなるという体験は子ども心に刻印され、消えることのないものだということを、自分の仕事を通しても学びました。
 私は、この自分の体験から、二度と戦争を起こさないため、子どもたちを戦争に巻き込まないために、戦争の時代にどんなことがあったのかを伝える冊子を作る活動をするようになりました。その活動の中で、実際戦場に行かされた兵士の苦しみにも出会いました。特に、日本軍の常軌を逸した残虐性、軍隊内の隷属関係、兵士を見殺しにするような無謀な作戦や他民族蔑視など、人が人でなくなる戦場の実相を次第に知るようになりました。
 戦後、二度とあのような戦争を起こさないように日本国憲法が作られました。戦前の言論弾圧や思想良心、信教の自由が侵害されたことから、これらを強く保障する規定も整備されました。にもかかわらず、2015年9月に安保法制が強行採決されて以来、精神的な自由さが奪われていた幼児期の息苦しさがよみがえるとともに、元兵士たちが伝えてくれた戦場での経験を反芻し、悪夢をみる思いでいます。
 この国は三権分立が貫かれており、立法や行政が誤ったことをしたときには、司法が正しく判断してくれる、人権の最後の砦である国だと信頼してきました。
 ところが、原発のこと 沖縄のこと 全国にある米軍基地のことなどについて、もっと国民の権利を考えてもらいたいから判断を避けてしまっているようにみえることに一国民として司法に信頼をもてなくなっています。
 どうか、私たちがこの安保法制ができたことで負っている戦争の不安、苦しみを分かって下さい。そして、司法の使命を果たして下さい。
 空襲のあと亡くなった人の周りで蠢いていたウジの話を、最近になって2才年上の兄にしてみました。兄ははっきり覚えていました。「あのときは7月で暑くてにおいがひどかったから、僕はヤマユリを何度も取りに行って、たくさん摘んで来てその人の周り置いたんだ。そして遺体を焼く薪を運ぶ手伝いもして、遺体を焼いたんだよ。」と初めて話してくれました。兄の心の中にも重苦しいものがずっしりと残っていました。
 二度とこんなことを日本でも他国でも起こすことのないようにして下さい。
 

原告 恒 本   肇
 
1 私は北海道の出身で、1978年に国鉄に就職し、その後分割民営化を経て清算事業団を2年経験し、1989年にJR東日本に採用になり現在に至っています。
 高校を卒業し就職して仕事を覚える傍ら、労働運動に出会いその側面から労働に対する見方、国鉄赤字に対する政府や財界の思惑などを知る中で、自ずと政治や社会について考えるようになりました。私の所属する国労は、日本がアジアの多くの民衆を犠牲にしてきた戦争を二度と繰り返さないこと、翼賛会政治のような潮流には決して流されないことを誓い合い労働者の団結の下に結成されました。結成当初から幾多の困難を経て現在まで一貫していることは、団結と平和の追求です。私は戦争を知らない世代ではありますが、第二次世界大戦後も世界で起きている戦争を見るときに、日本が当事者となって引き起こした先の戦争を反省し、誓った平和憲法こそ紛争の絶えない現代世界の中で胸を張って広めなくてはならないものであると思います。
2 ところが、2015年9月に多くの国民の声を無視し安保関連法が成立させられまし
た。平和憲法に反するものであり、精神的な苦痛は体調にも影響を及ぼしています。  
 私たち公共交通に従事する者は、必ず戦争に加担することになるからです。戦中の国鉄は人を運ぶだけではなく、兵隊と戦車と爆弾を載せて走った歴史があります。現在でも、米軍基地へのジェット燃料輸送にJRが使われていますが、アメリカの戦争にいかなる形であれ、参戦することになれば、自ずと対戦国の標的されることにもなりかねません。そして、私たちと同様に鉄路だけではなく空路、航路に従事する労働者、医療に従事する労働者など、過去の戦争にかかわった多くの産業労働者、直截的に関わることになる自衛隊員、その家族の悲惨な心情は、戦後70年間続いてきた日本の平和を覆すだけではなく、アジアの各国に対する信頼の崩壊に繋がりかねません。
3 ところで、私は7年前から、東京の目黒駅で出札・改札等や緑の窓口などを担当しています。
 目黒駅は、1日のJR利用者が約11万人ほど、それ以外に私鉄や地下鉄もあり、乗降人員だと70万人近くになります。また、場所柄大使館(コロンビア、タイ、フランス、ネパール、インドネシア等)等が多くあるので、外国人旅客数は増加していて、外国人だからと目立つこともありません。監視カメラは、目黒駅に何十台とありますが、警察官の姿もカメラにはよく写っています。監視やコントロール手段が充実してきているとはいえ、鉄道の駅は空港などとは違い、基本的にセキュリティーチェックはありません。切符さえ買えば、爆弾を身体に巻き付けた人でも紛れ込むことができます。この状況を冷静に考えたとき、この人混みでテロを行うことは容易であり、その被害は膨大に及びます。惨状は想像できます。それは、そして、一つの駅で事件が起きれば東京はあっという間に交通も生活もマヒします。
 アメリカと一緒になって武器を持って戦う国になることは、テロの危険を招くことになります。監視カメラや警官の監視では防ぎきれません。このことの不安は、安保関連法ができて以来、片時も私の心から離れることがありません。
 カメラに写る多くの人の波を日々目にするとき、穏やかにこの駅を通過し無事に目的地に着いてほしいと思います。日々行き来する乗客の方たちに危険は絶対に来ないでほしいと祈ります。
 司法には、この危険な憲法違反の安保関連法が違憲であることをはっきりと認めてほしいです。
 

(弁護士・金原徹雄のブログから/安保法制違憲訴訟関連)
2016年9月3日
東京・安保法制違憲訴訟(国賠請求)が始まりました(2016年9月2日)
※過去の安保法制違憲訴訟関連のブログ記事にリンクしています。
2016年9月6日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(1)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述
2016年9月10日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(2)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述
2016年10月4日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(3)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述
2016年10月5日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(4)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述
2016年12月9日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(5)~東京・国家賠償請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告代理人による意見陳述
2016年12月10日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(6)~東京・国家賠償請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告による意見陳述
2017年1月5日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(7)~寺井一弘弁護士(長崎国賠訴訟)と吉岡康祐弁護士(岡山国賠訴訟)の第1回口頭弁論における意見陳述
2017年1月7日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(8)~東京・差止請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告訴訟代理人による陳述
2017年1月8日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(9)~東京・差止請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告(田中煕巳さんと小倉志郎さん)による意見陳述
2017年2月14日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(10)~東京「女の会」訴訟(第1回口頭弁論)における原告・原告代理人による意見陳述
2017年3月15日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(11)~東京・国家賠償請求訴訟(第3回口頭弁論)における原告代理人による陳述 
2017年3月16日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(12)~東京・国家賠償請求訴訟(第3回口頭弁論)における原告(田島諦氏ほか)による意見陳述
2017年4月21日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(13)~東京・差止請求訴訟(第3回口頭弁論)における原告代理人による陳述
2017年4月22日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(14)~東京・差止請求訴訟(第3回口頭弁論)における原告による意見陳述(様々な立場から)
2017年6月23日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(15)~東京・国家賠償請求訴訟(第4回口頭弁論)における原告訴訟代理人による陳述
2017年6月25日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(16)~東京・国家賠償請求訴訟(第4回口頭弁論)における原告による意見陳述(野木裕子さん他)
2017年8月7日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(17)~東京・差止請求訴訟(第4回口頭弁論)における原告訴訟代理人による陳述
2017年8月8日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(18)~東京・差止請求訴訟(第4回口頭弁論)において3人の原告が陳述する予定だったこと
2017年8月20日
「私たちは戦争を許さない-安保法制の憲法違反を訴える」市民大集会(2017年9月28日/日本教育会館)へのご参加のお願い
2017年9月30日
市民大集会「私たちは戦争を許さない」(2017年9月28日)で確認されたこと
2017年11月1日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(19)~東京・国家賠償請求訴訟(第5回口頭弁論)における原告訴訟代理人による陳述