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伊藤宏さん(和歌山信愛女子短期大学教授)の論文「ゴジラが伝える日本国憲法の意義-平和・反核・民主主義-(2018年)」を読む(後編)

 2018年4月15日配信(予定)のメルマガ金原No.3118を転載します。
 
伊藤宏さん(和歌山信愛女子短期大学教授)の論文「ゴジラが伝える日本国憲法の意義-平和・反核・民主主義-(2018年)」を読む(後編)
 
 昨日ご紹介した(前編)に引き続き、伊藤宏さん(和歌山信愛女子短期大学教授)の論文「ゴジラが伝える日本国憲法の意義-平和・反核・民主主義-」(『信愛紀要』2018年第59号)の(後編)をお送りします。
 (後編)では、いよいよ『シン・ゴジラ』(2016年)の詳細な分析が行われ、何故、4月7日の講演タイトルが「ゴジラVSシン・ゴジラゴジラから読み解く平和憲法」となったのかが解き明かされます。
 もちろん、『シン・ゴジラ』については、様々な視点からの評価が可能であり、現に多様な論説が発表されているところですから、伊藤先生による結論「日本社会(特に政治の世界)の現状を描きながら改憲を促す第29作ゴジラ」という評価には、異論を持たれる方もおられて当然です。
 私自身の意見はどうかと問われれば、両監督に積極的に改憲を促進する意図はなかったかもしれない(多分なかった?)と思いながら、結果として、改憲促進に役立つ効果を映画が持つことをあえて阻止する気がなかったことは確実だと思います。刑法的用語になぞらえて評すれば、確信的故意はなくとも、未必的故意はあると判定します。
 まあ、これも単に私の個人的意見に過ぎませんけどね。
 
 4月7日の講演終了後の閉会挨拶で私も述べましたし、本論文や講演で伊藤先生も触れられていることですが、第1作『ゴジラ』が製作・公開された1954年というのは、憲法にとっても、平和にとっても、また、核(原子力)にとっても、節目の年でした。
 米国によるビキニ環礁水爆実験と第五福竜丸事件(3月1日)⇒中曽根康弘らが原子力研究開発予算2億3500万円を国会に提出(3月)⇒自衛隊発足(7月1日)⇒『ゴジラ』公開(11月3日)が、全てこの年の出来事です。
 さらに付け加えるとすれば、『七人の侍』公開(4月26日)もこの年でした。
 もう一つおまけに、私はこの年の12月に生まれており、実は、『ゴジラ』とは同い年なのです。

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 さて、とりあえず、伊藤宏氏講演会@和歌山実行委員会は、所期の目的を達成して解散するのが普通なのですが、どうやらそうはならない可能性が高まっています。
 というのは、これも閉会挨拶で披露したことですが、もともと、私が伊藤宏先生にゴジラに関わる講演会をお願いしようと考えて書いた当初の企画書では、講演テーマ(仮題)は「ゴジラから学ぶ原発と人権」としていました。
 それが、「ゴジラVSシン・ゴジラゴジラから読み解く平和憲法」に変わったのは、もっぱら伊藤先生のご提案によるものだったのですが、4月7日以前から、私は、この講演会が成功したあかつきには、次は、もう一度「ゴジラから学ぶ原発と人権」を提案してみようと思っていました。
 そして、「先日のゴジラ講演会(?)は、私自身は完全燃焼でした。近来稀に見るぐらい、力を込めてお話しさせていただき、今は真っ白な灰になった「明日のジョー」のラストシーン状態です(^_^;)」という伊藤先生ご自身からも、「次のゴジラは「本流(?)」の原子力、ということになりますでしょうか…(笑)」という意欲に満ちた実行委員宛のメールをいただいたりしていますので、落ち着いたら、以前書いた企画書の改訂版を書かねばと思っています。
 そして、次回は、伊藤先生のゴジラ・コレクションの展示について、さらにスペースや展示方法をヴァージョンアップして講演会と併催したいなどと、新企画書の構想はかなり具体的にイメージが湧きつつあります。
 次の実行委員会(もうやる気になっていますが)に加わりたいという方は、是非、お声をおかけください。

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 前置きが長くなりましたが、それでは、「ゴジラが伝える日本国憲法の意義-平和・反核・民主主義-」の後編をお読みください。
 
 なお、今回の論文では、「ゴジラがあくまでも「人類の脅威」として描かれた作品」に限定して論じられていますが、参考までに、現在までに公開された日本版ゴジラ30作品のタイトル、制作年、監督名を、ウイキペディアの「ゴジラ映画作品の一覧」から抜き出してご紹介しておきます。
 
第1作『ゴジラ』(1954年)本多猪四郎
第2作『ゴジラの逆襲』(1955年)小田基義
第3作『キングコング対ゴジラ』(1962年)本多猪四郎
第4作『モスラ対ゴジラ』(1964年)本多猪四郎
第5作『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)本多猪四郎
第6作『怪獣大戦争』(1965年)本多猪四郎
第8作『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)福田純
第9作『怪獣総進撃』(1968年)本多猪四郎
第11作『ゴジラ対ヘドラ』(1971年)坂野義光
第12作『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』(1972年)福田純
第13作『ゴジラ対メガロ』(1973年)福田純
第14作『ゴジラ対メカゴジラ』(1974年)福田純
第15作『メカゴジラの逆襲』(1975年)本多猪四郎
第16作『ゴジラ』(1984年)橋本幸治
第17作『ゴジラvsビオランテ』(1989年)大森一樹
第18作『ゴジラvsキングギドラ 』(1991年)大森一樹
第19作『ゴジラvsモスラ』(1992年)大河原孝夫
第20作『ゴジラvsメカゴジラ』(1993年)大河原孝夫
第21作『ゴジラvsスペースゴジラ』(1994年)山下賢章
第22作『ゴジラvsデストロイア』(1995年)大河原孝夫
第23作『ゴジラ2000 ミレニアム』(1999年)大河原孝夫
第24作『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』(2000年)手塚昌明
第25作『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年)金子修介
第26作『ゴジラ×メカゴジラ』(2002年)手塚昌明
第28作『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)北村龍平
第29作『シン・ゴジラ』(2016年)樋口真嗣庵野秀明(総監督)
第30作『GODZILLA 怪獣惑星』(2017年・アニメ)静野孔文瀬下寛之

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論文PDFファイル
 
                         ゴジラが伝える日本国憲法の意義
                             -平和・反核・民主主義-
 
                      Significance of the Constitution of Japan
                               that Godzilla conveys
                        -Peace, Anti-nuclear, Democracy-
 
                                                                         伊藤 宏
                                                                         Hiroshi Itou
                                             
(前編から続く)
 
                               4.強調された平和の尊さ
 
 話を第1作に戻す。核兵器に匹敵するオキシジェンデストロイヤーの使用を頑なに拒んだ芹澤博士は、なぜ最終的に使用を決意したのであろうか。そのシーンを振り返ってみる。
 尾形の必死の説得に「ああっ、こんなものさえ作らなきゃ…」と苦悩しつつも、首を縦に振らない芹澤博士だったが、その時にテレビがあるニュースを伝える。
 
アナウンサー:やすらぎよ、光よ、早とく還(かえ)れかし。本日、全国一斉に行われました平和への祈り。これは東京からお送りするその一コマであります。しばらくは命こめて祈る乙女たちの歌声をお聞きください。
 
 この後、映画のために香山滋が作詞し、伊福部昭が作曲をした「平和への祈り」が女学生(このシーンには、当時女子高だった桐朋学園が全面協力し、大講堂に在校生2,000名余りが集まって斉唱した)によって合唱される。その歌詞は、
 
やすらぎよ 光よ
早く 還れかし
命こめて 祈る我らの
このひとふしの あわれに愛(め)でて
やすらぎよ 光よ
早く 還れかし ああ
 
というもので、この歌声にのって焼け野原の状況、避難所の状況、ラジオに向かって手を合わせる人々の状況、そして祈りを込めて歌う女学生たちの姿が映し出されていくのであった。その映像に、見入ったかと思えば顔を背け逡巡する芹澤博士だったが、ついに意を決して立ち上がり、オキシジェンデストロイヤーの設計図を持ち出す。その行動に戸惑う尾形と恵美子に対して、芹澤博士は「尾形。君たちの勝利だ」と吹っ切れた表情で伝える。
 だが同時に、「しかし、僕の手でオキシジェンデストロイヤーを使用するのは、今回一回限りだ」と宣言し、これまでの研究成果である設計図を火にくべていくのであった。一枚一枚を愛おしそうに眺めながら、長年の苦労の結晶である設計図を燃やしていく芹澤博士の姿に、恵美子は泣き崩れる。すると芹澤博士は、「いいんだよ、恵美子さん。これだけは絶対に悪魔の手には渡してならない設計図なんだ」と語る。人々の平和のためにゴジラを倒す目的でオキシジェンデストロイヤーの使用を決意した芹澤博士は、同時にその後の世界の平和のために研究成果を葬ったのであった。先述したように、最後は自らの命を絶って、「世界の為政者たちが黙って見ているはずがないんだ。必ずこれを武器として使用するに決まっている」、つまり再び平和が脅かされるというリスクを封印したのである。
 日本国憲法は、しばしば「平和憲法」と称される。前文に込められた決意、そして第9条の存在がその理由である。日本国憲法制定時、また『ゴジラ』が公開された当時の日本において、人々がいかに「平和」を望んでいたのかは、文化の日の趣旨とともに、教育基本法にも表れている。1947年に施行された同法の前文は次のようになっている。
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならな
い。(傍線筆者)
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
 しかし、過去の戦争が遠ざかっていく中で、私たちは平和を当たり前のものとして受け止めるようになり、ややもするとその尊さを忘れてしまいがちになってきた。それに対して、警鐘を鳴らしたゴジラ映画がある。2001年に公開された、第25作『ゴジラ×モスラ×キングギドラ大怪獣総攻撃』だ。
 この作品に登場するゴジラは、シリーズの中で異彩を放っている。その目は白目であり、出自も水爆実験ではない。主人公のテレビレポーター立花由里に、謎の老人(伊佐山嘉利
とされる)は、「ゴジラは砲弾が当たっても死なん。古代の生き残りの恐竜に、原水爆放射能が異常な生命力を与えたとしても、生物であるなら死ぬはずではないか。ゴジラは強烈な残留思念の集合体だからだ。ゴジラには太平洋戦争で命を散らした数知れぬ人間たちの魂が宿っているのだ。救われない無数の魂がゴジラに宿ったのだ。ゴジラは彼らの化身のようなものだ」と語る。そして、「でも、ゴジラが戦争で犠牲になった人の化身なら、どうして日本を滅ぼそうとするんですか?」という問いに対しては、「人々がすっかり忘れてしまったからだ。過去の歴史に消えていった多くの人たちの叫びを!その無念を!」と答えるのであった。
 ちなみに、この作品でゴジラと対峙するのは自衛隊ではなく、「第2次大戦後、平和憲法のもとに創設された防衛軍」という架空の組織であり、その防衛軍が経験した唯一の実戦が1954年のゴジラとの戦いであったという想定だ。日米安全保障条約にあたるものも、作品中では「日米平和条約」に置き換えられている。明確に語られてはいないが、防衛軍が相手にするのは他国家ではなく、ゴジラをはじめとした巨大生物であったと推測できる。また、由理の父である防衛軍の立花泰三・准将に「平和な時代がゴジラの恐怖を忘れさせてしまったようだ」「実戦経験なきことこそ最大の名誉でした」と語らせているなど、随所に日本国憲法の平和主義を想起させるような場面が見受けられるのも、この作品の特徴であった。
 
                               5.民主主義社会への期待
 
 日本国憲法の三つの柱とされているのは「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」である。そして、戦前にはなかった男女平等、あるいは、規制されていた言論の自由などを明記することで、日本に民主主義をもたらした。初期のゴジラ映画には、その新しい社会の息吹と期待を伺わせる描写が時折盛り込まれている。
 第1作において、山根博士がゴジラについて報告した国会の委員会には、女性国会議員の姿が描かれている。そして、山根博士がゴジラと水爆実験との関連を語った後、以下のようなやり取りが行われた。
 
男性議員:ただ今の山根博士の報告は誠に重大でありまして、軽々しく公表すべきでないと思います。
女性議員:何を言うか。重大だからこそ公表すべきだ。(別の女性議員が「その通り!」と同調する)
男性議員:黙れ!というのは、あのゴジラなる代物が水爆実験が生んだ落とし子であるなどという…。
女性議員:その通り!その通りじゃないかっ!
男性議員:そんなことをだ。そんなことを発表したら、ただでさえうるさい国際問題がいったいどうなるか。
女性議員:事実は事実だ!
男性議員:だからこそ重大問題である。軽率に公表した暁には、国民大衆を恐怖に陥れ、ひいて政治、経済、外交まで混乱を引き起こし…。
女性議員:バカ者! 何を言うとるかっ!
男性議員:バカとは何だっ! 謝罪しろっ!
女性議員:事実は堂々と発表しろっ!
(場内は騒然とし「ご静粛に願います」と委員長が繰り返す)
 
女性議員の「バカ者!」発言は、1953 年の衆議院予算委員会における吉田茂首相と、社会党西村栄一議員の質疑応答の中で、吉田首相が「バカヤロー」と発言し衆議院解散に追い込まれたことのパロディーであった。男性国会議員が述べる国家的視点からの意見に対して、戦後誕生した女性国会議員が国民(主権者あるいは生活者と言い換えても良い)の立場から異論を唱えるというこのシーンは、戦前ではあり得ないものであっただろう。
 また、民主主義、特に日本国憲法が定める議会制民主主義においては、ジャーナリズムの役割が必要不可欠とされるが、その担い手の一つである新聞記者の活動も、第1作では目立っていた。山根博士がゴジラについて、「まずあの不思議な生命力を研究することこそ第一の急務です」と述べたことに対して、毎朝新聞社内で次のような議論が交わされる。
 
記者A:山根博士の意見には重大な点が含まれている。恐れているばかりが能じゃないですよ。大いに研究すべきですよ。
記者B:しかしね。現実の災害はどうするんだ。
記者C:そこなんだよ。難しいところは。
 
何気ないシーンではあるが、異なる二つの見解について記者たちが真剣に議論する様子は、言論の自由の必要性を喚起させるものであった。
 新聞記者ということで言うならば、1964 年に公開された第4作『モスラ対ゴジラ』では、毎朝新聞(ゴジラ映画でよく使用される新聞社名となっていた)の酒井市郎記者と丸田デスクとの以下のやり取りがある。
 
酒井:僕はもう書くのやめます。
丸太:じゃぁ、お前さんの負けだ。
酒井:もともと勝てっこないんですよ。何遍も言うように、新聞には裁く力もなければ命令権もないんですよ。
丸太:何年新聞記者やってるんだ。新聞がそんな力を持って権力者に成り上がったら、どうなるんだ。新聞は大衆の味方だ。
 
これも、新聞社内での会話の一つに過ぎないものの、民主主義におけるジャーナリズムのあり方が示されている。
 また、第4作においては、ゴジラの襲撃に遭った日本が、モスラの支援に望みを託し、酒井らがその故郷であるインファント島(かつて核実験が行われたという想定)に出向いて島民に理解を求めるというシーンがある。懇願する酒井らに対して、族長は「悪魔の火もて遊んだ報いだ。我々は知らぬ」と協力を拒否し、「我々、この島の人間以外信じない」と突き放す。それに対して酒井は「我々だって人間不信のない世の中が理想なんです。でも、人間が多ければどうしても難しい問題が起きてくるんです。しかし、我々はあきらめません。この理想を実現するために努力していきます。どうか長い目で見てください」と訴えた。ここで語られている内容は、幣原の「世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ」という言葉と、相通ずるものがあるのではなかろうか。
 さらに、「お子様ランチ化」していった第5作から第15作の中で、公害問題を正面から取り上げた異色作として1971年公開の『ゴジラ対ヘドラ』がある。この映画では、例えばテレビニュースで「富士市西南部は、ほとんど壊滅に近い状態であります。現在までのところ、死者1600、ケガないし発病者は3万を超えると推定されます」とアナウンサーが述べるなど、怪獣(この場合はヘドラ)による被害を数字で克明に伝えていることも、
特徴の一つであった。そして、「ヘドラを育てたのは誰だ!」「海も陸も住む所はなくなってしもうた!」「自衛隊は何をしとるんだ!」「政府は何をしてるんですか!」「資本家は何をしとるんだ!」という声が「国民の不満の声」として紹介された後、ニュースは「政府はついに工場の全面操業停止、市街地の自動車使用禁止を決定しました」と伝える。初期のゴジラ作品では、国家や経済よりも国民が優先されるというのが、ごく当たり前のこととして描かれていたのだ。
 
                          6.『シン・ゴジラ』が描く「現実」
 
 さて、ここまでの分析を踏まえて、改めて2016年に公開された第29作『シン・ゴジラ』の内容を見ていく。この映画のキャッチフレーズは「現実(日本)VS虚構(ゴジラ)」であるが、ゴジラ以外は後述するように、現在の日本が置かれた状況などがほぼ忠実に再現されていた。ゴジラについては、「太古から生き延びた海洋生物が奇跡的に生きながらえていた生息地域に、偶然大量の放射性廃棄物(世界各国によって不法に投棄されたもの)が海中投入され、その影響下で生き残るため放射線に耐性を持つ生物へと急速に変化した」という設定になっている。水爆実験と不法投棄された放射性廃棄物という違いはあるものの、人の手によって生み出されてしまった放射性因子を帯びた怪獣という点は、第1作と同様であった。
 しかし、ゴジラによる被害の描かれ方は第1作とは大きく異なる。第2形態(ゴジラ放射能の影響で、急激な突然変異を繰り返し形態が進化するという設定)が最初に多摩川を進む際の被害状況、そして蒲田に上陸して進行する際の被害状況は、戦争による被害ではなく地震津波による被害に酷似していた。これは、2011年に発災した東日本大地震・大津波の影響を受けてのことだと推測される。第3形態に進化して一旦は海に消えたゴジラが、第4形態として再び鎌倉に上陸して以降の被害状況も、東京都内で放射線流を発して周囲を焼き払う場面以外は、基本的に戦争を想起させるものではなかった。アメリカ軍や多国籍軍といった、戦争に結びついた用語は登場するものの、第29作で描かれるゴジラは戦争というよりは、巨大災害だったのである。
 主人公は若手の内閣官房副長官矢口蘭堂という設定で、登場人物もそのほとんどが政治家(閣僚)と官僚、そして自衛官というのも第29作の特徴だ。ゴジラの出現については主に閣議で議論され、またその対応のため緊急災害対策本部が設置される。また、ゴジラに対する自衛隊の出動をめぐっては、自衛隊法を根拠に治安出動か、防衛出動かが議論されるなど、今の日本において想定され得る政治的手続きが忠実に再現されている。例えばこんな感じだ。
 
矢口:ですから総理、自衛隊の運用や国民の避難など、政府による事案対処のあらゆる統合が必要です。直ちに災害緊急事態の布告の宣言をお願いします。
赤坂秀樹内閣総理大臣補佐官):今は超法規的な処置として、防衛出動を下すしか対応がありません。この国でそれが決められるのは総理だけです。
大河内清次首相:しかしな、今まで出たことがない大変な布告だぞ。その上、初の防衛出動の命令とは…。
郡山(内閣危機管理監):総理。警察による短時間での避難誘導は困難です。防衛出動となると、逃げ遅れた住民を戦闘事態に巻き込む覚悟が必要になります。
大河内首相:いやいや、それは…。
国平(副首相兼外務大臣):日米安保を適用し、在日米軍に駆除を肩代わりしてもらうのはどうですか。
花森龍子(防衛大臣):いえ、まずこの国の政府と自衛隊が動くべきです。安保条約があっても米国はあくまで支援の立場です。
 
また、「速やかに巨大不明生物の情報を収集し、駆除、捕獲、排除と各ケース別の対処方法についての検討を開始してください」という矢口の指示に対し、内閣官房副長官補の平岡が「それ、どこの役所に言ったんですか?」と問い返すなど、現実政治の実態をシニカルに描く場面も織り交ぜられている。
 ここで、映画の進行に従って、第29作における登場人物の「気になる科白」を、これまでの分析と明らかに違和感のある部分に絞ってみていきたい。まずは、緊急災害対策本部の設置に関する閣僚会議が行われた後の官僚同士の会話。
 
官僚A:形式的な会議は極力排除したいが、会議を開かないと動けないことが多すぎる。
官僚B:効率は悪いが、それが文書主義だ。民主主義の根幹だよ。
官僚C:しかし手続きを経ないと会見も開けないとは。
 
緊急時の対応についての問題提起となっているが、「民主主義の根幹」を批判的に受け止めている点が気になる。
 また、ゴジラに対して自衛隊による兵器を使用した「駆除」が実行される直前の閣僚同士の会話。
 
郡山:総理。市街地での作戦なので、老人や病人等が残ってる可能性もあります。
大河内首相:だとしたら、現場を見ないことには判断しかねるだろう。
赤坂:現状では国民の生命及び私有財産への損害も、やむを得ないと考えます。
 
ゴジラの被害拡大を防ぐために切迫した状況に直面しているとはいえ、国民の犠牲もやむを得ないということがサラリと言ってのけられた。似たような内容は、ゴジラの再上陸に備えている中、首相官邸に待機している記者同士の会話にも見ることができる。
 
記者A:にしても、防衛拠点が関東近郊に偏ってますよね。
記者B:迎撃作戦は首都防衛が最優先だ。まぁ、5階からのお達しらしい。
記者A:ここでも地方は後回しですか。
記者B:東京の人口は1300万人強。GNPは約85兆円。日本の17%の水準だ。関東地区に広げると 200兆円。40%にあたる。国家の維持を考えた戦略的判断だ。仕方ないだろう。
記者A:国を守るって大変ですね。
 
 ゴジラの脅威に対して、地方が後回しにされている問題提起と受け止めることもできるが、「国家の維持」を最優先するという政府の方針についてジャーナリストが「仕方ない」と言ってしまっているのだ。ゴジラは想定通りに関東一円の鎌倉に再上陸し、東京を目指したわけだが、もし東京から離れた地方都市に上陸していたら…と考えると、2011年の東日本大震災や2016年の熊本地震の被害と「その後」を想起してしまう。この「国家か地方か」という議論から、さらに踏み込んだ「国家か国民(主権者)か」という点については、以下のようなやり取りがある。自衛隊の駆除作戦が水泡に帰し、ゴジラは都内に進入したため、米軍による攻撃が始まろうとしていた。その際のやり取りだ。
 
郡山:ゴジラの予想進路内に官邸も位置しています。自衛隊で阻止できなかった奴です。米軍も駆除できない可能性があります。
大河内首相:まさか、ここを捨てろと言うのか。
郡山:はい。市ヶ谷も有明も危険です。直ちにここを退去し、官邸機能を立川予備施設に移管する必要があります。
大河内首相:しかし、米軍の攻撃が都内で始まる。私はここで、その推移を見極める義務がある。それに都民を置いて、我々だけ逃げ出すことはできん!
矢口:しかし総理。総理には東京を捨てても守らなければならない国民と、国そのものがあります。ここは退避してください。
 
ここで矢口が守らねばならないとしている「国民」から、少なくとも東京都民の多くは除外されてしまっている。
 米軍の攻撃も結果的には効果がなく、ゴジラの反撃に巻き込まれた大河内首相をはじめ総理臨時代理の就任予定者5名全員が命を落としてしまう。放射線流を放出し尽くしたゴジラは、東京駅付近でその活動を停止していた。その後の調査で、ゴジラに無生殖による個体増殖の可能性があり、さらには飛翔体に進化する可能性もあることが明らかになると、アメリカの研究チームは「その時は人類の終わりだ。その前に、人類の叡智の炎を使うしか救いの道はない」として、核兵器の使用を大統領に進言する。米軍を中心とした対巨大不明生物(ゴジラのこと)の多国籍軍の結成が、国連の安全保障理事会で決議され、当事国として日本も参加することになった。それは、東京における核兵器使用の容認も含んでいた。
 それらの決定後、赤坂と矢口は以下のような会話を交わす。
 
赤坂:熱核兵器の直撃。数百万度の熱量に耐えられる生物はいない。確実に駆除するなら核攻撃は正しい選択だ。
(中略)
赤坂:それに巨大不明生物の核攻撃を容認すれば、復興時の全面的支援を世界各国から約束される。巨大不明生物を確実に処理できなければ、日本は世界の信用を失う。多国籍軍
の核攻撃に頼るしかない。巨大不明生物を消した後の日本のことを考えるのが私の仕事だ。
矢口:今なら東京3区の被害で済みます。まだ東京の復興は可能です。核を使えば、それも難しくなります。
赤坂:既に東京の経済機能はないに等しい。円も国債も株価も暴落し続ける現状では、復興どころかデフォルトの危機にさらされている。日本には国際社会からの同情と融資が必要だ。
矢口:国の復興が最優先ですか…。
赤坂:この国を救う道は他にはない。
 
ここではもはや、第1作での反核の決意も、第16作での非核三原則の遵守も一切語られていない。赤坂はまた、360万人の疎開ということや、東京都知事が反対していることに対しては「国の重要決定事項だ。自治体レベルの話じゃない」と一蹴。「巨大不明生物が活動を再開した時点で、熱核攻撃の開始時刻は無条件に繰り上がる。その時は犠牲者もやむを得ないとし、速やかに戦略原潜の弾道弾による熱核攻撃を開始するというのが安保理多国籍軍の決定だ」とし、「遠いアジアの出来事だからって無茶苦茶言いやがる!」と悔しがる官僚に対して、「たとえここがニューヨークであっても、彼らは同じ決断をするそうだ」と返す。第16作で三田村首相に対して米ソの最高責任者が示した理解も、ここには全く存在しなかった。
 
                                         おわりに
 
 『シン・ゴジラ』においては、巨大災害への政府の対応や、核開発が抱える問題などについて、第1作に劣らないような鋭い描写も多々あったが、それらの検討は別の機会に行うものとしたい。これまでみてきたように、第1作におけるゴジラが戦争、あるいは核兵器の象徴として描かれていたのに対し、第29作のゴジラは明らかに巨大自然災害の象徴なっていた。
 そして、最も大きな違いは、第1作は日本国憲法を常に思い起こさせるような内容であったと言えるが、第29作はどちらかと言えば憲法改正の必要性を訴えるような内容になっていたことである。
 以下は、2012年4月27日に決定された自民党改憲草案の前文である。
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。
その前文が「日本国民は」で始まる日本国憲法に対して、自民党改憲草案の前文は「日本国は」で始まっている。これは、第29作の中で頻繁に繰り返された国家と経済が、場合によっては国民より優先されるという主張に合致してはいまいか。また、安倍首相が進めようとしている憲法改正の「改憲4項目」の一つに緊急事態条項(10)の創設が挙げられているが、第29作はその必要性を訴える内容になってはいまいか。あくまでも日本の「現実」を描いたとされる第29作においては、それは必然ということになるかも知れないが、もはや日本は第1作が描いたような日本国憲法の意義が通用しない国となってしまったのだろうか。
 また、先述した教育基本法は、実は2006年、奇しくも第一次安倍政権の時に全面改正されている。改正された同法の前文は次のようになっている。
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承
し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。(傍線筆者)
ここにおいても、「われらは」で始まった改正前の教育基本法の前文とは異なり、その始まりは「我々日本国民は」となっている。また、旧法で「真理と平和を希求」とされていた箇所は、「平和」の2文字が「正義」の2文字に置き換えられて姿を消している。
 ゴジラ映画を配給する東宝は、『シン・ゴジラ』などのヒットを受けて今を「ゴジラのモテ期」と位置づけ、「日本の大スター怪獣」を世界に売り込んでいくという(11)。2020 年まで毎年ゴジラ映画を公開し、東京オリンピックの時には「ゴジラを日本代表として世界にアピール」する方針だ。そのアピールが、単なる怪獣キャラクターとしてのゴジラにとどまるのか、それともゴジラが伝えるメッセージを含めてのものとなるのか注目される。
第1作のゴジラと第29作のゴジラとはそれぞれ別物であり、製作された時代背景も全く異なるため、そもそも比較すること自体に意味がないという指摘もあり得るだろう。だが、二つのゴジラ作品で描かれる日本国憲法の意義に、大きな違いがあることを看過することはできないと考える。平和憲法の意義を訴え護憲を促す第1作ゴジラと、日本社会(特に政治の世界)の現状を描きながら改憲を促す第29作ゴジラを比べる中で、私たちは自らの憲法に対するスタンスを問いかけていく必要があるのではないだろうか。
                                                 (文中敬称略、引用は原文のまま)
 
【脚注】
(10) 戦争やテロ、大規模災害などの非常事態に対処するため一時的に政府に強い権限を与える法的な規定。日本国憲法では定められていない。自民党東日本大震災後の2012年に公表した憲法改正草案に盛り込まれ、首相が緊急事態を宣言すれば、内閣が法律と同じ効力を持つ政令を定めたり、首相が地方自治体の首長に必要な指示をしたりできるとしている。国の指示への国民の順守義務も含まれている。(朝日新聞2016年7月9日付朝刊より)
(11)「ゴジラ世界戦略」(読売新聞2017年11月27日付10面)
 
【引用・参考文献および資料】
・赤星政尚、青柳宇井郎『大怪獣ゴジラ 99 の謎』(二見文庫、1993)
・和泉正明『公理的ゴジラ論』(アートン、1998)
井上寿一『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』(講談社現代新書、2017)
・奥平康弘『いかそう日本国憲法』(岩波書店、1994)
川北紘一監修『僕たちの愛した怪獣ゴジラ』(学習研究社、1996)
香山滋『怪獣ゴジラ』(大和書房、1983)
・小林豊昌『ゴジラの論理』(中経出版、1992)
・サーフライダー21『ゴジラ研究序説』(PHP、1996)
・サーフライダー21『ゴジラ生物学序説』(ネスコ、1992)
佐藤健志『さらば愛しきゴジラよ』(読売新聞社、1993)
・高橋敏夫『ゴジラの謎・怪獣神話と日本人』(講談社、1998)
武谷三男原子力発電』(岩波新書、1976)
田中友幸有川貞昌中野昭慶川北紘一ゴジラ・デイズ ゴジラ映画40年史』(集英社、1993)
・鉄筆編『日本国憲法 9 条に込められた魂』(鉄筆文庫、2016年)
・西尾宣明・中村博武・伊藤宏編『子どもへの視点』(聖公会出版、2005)
・野真典和他『ゴジラ研究読本』(パラダイム、2000)
野村宏平編『ゴジラ大辞典』(笠倉出版社、2004)
・ミック・ブロデリック編『ヒバクシャ・シネマ』(現代書館、1999)
・未来防衛研究所ゴジラ自衛隊』(銀河出版、1998)
 

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(弁護士・金原徹雄のブログから/伊藤宏さん関連)
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伊藤宏さん(和歌山信愛女子短期大学教授)の論文「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと(2005年)」を読む(前編)
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伊藤宏さん(和歌山信愛女子短期大学教授)の論文「ゴジラが子どもたちに伝えたかったこと(2005年)」を読む(後編)
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2018年4月14日
伊藤宏さん(和歌山信愛女子短期大学教授)の論文「ゴジラが伝える日本国憲法の意義-平和・反核・民主主義-(2018年)」を読む(前編)