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映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』和歌山上映会(2018年10月6日@和歌山市あいあいセンター)のお知らせ

 2018年9月14日配信(予定)のメルマガ金原No.3270を転載します。
 
映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』和歌山上映会(2018年10月6日@和歌山市あいあいセンター)のお知らせ
 
 和歌山県平和委員会の里﨑正さんから、ドキュメンタリー映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』(2017年©TBSテレビ)上映会のご案内をいただきましたのでお知らせします。
 2018年10月6日(土)午前10時00分からと、午後1時30分からの2回上映、会場は、この種の上映会によく利用される男女共生推進センター6Fみらいホール(あいあいセンター内、和歌山市小人町29番地)です。
 どんな映画なんだ?と思われる方のために、とりあえず、チラシ記載データから、主な内容を引用します。
 
(引用開始)
米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロ
 
占領下の沖縄で米軍の圧政と闘った男の生き様を、
貴重な映像で描くドキュメンタリー映画
 
一握りの砂も、一坪の土地も アメリカのものではない
 
2018年10月6日(土)
上映時間►①10:00/②13:30【2回上映】 ※107分
 
男女共生推進センター6Fみらいホール(あいあいセンター内)
 和歌山市小人町29番地 TEL:073-432-4704
 
上映協力券►1000円(当日1200円) 高校生・障害者500円
 
お問い合わせ
TEL:073-488-3095(和歌山県平和委員会) TEL:090-1142-7774(里﨑)
 
●主催●「映画カメジロー」上映わかやま実行委員会
 
アメリカ占領下の沖縄で米軍に挑んだ男 瀬長亀次郎のドキュメンタリー映画
なぜ沖縄の人々は声を上げ続けるのか、その原点はカメジローにあった―
 第2次大戦後、米軍統治下の沖縄で唯一人“弾圧”を恐れず米軍にNOと叫んだ日本人がいた。「不屈」の精神で立ち向かった沖縄のヒーロー瀬長亀次郎。民衆の前に立ち、演説会を開けば毎回何万人も集め、人々を熱狂させた。彼を恐れた米軍は、様々な策略を巡らすが、民衆に支えられて那覇市長、国会議員と立場を変えながら闘い続けた政治家、亀次郎。その知られざる実像と、信念を貫いた抵抗の人生を、稲嶺元沖縄県知事や亀次郎の次女など関係者の証言を通して浮き彫りにしていくドキュメンタリー。
 
JNNだけが持つ、当時の貴重な資料映像の数々をふんだんに盛り込みました。
 沖縄戦を起点に、今につながる基地問題。27年間にわたったアメリカの軍事占領を経て、日本復帰後45年が経ってもなお基地が集中するなか、沖縄の人々が声を上げ続ける、その原点…。それはまさに戦後の沖縄で米軍支配と闘った瀬長亀次郎の生き様にあった。
(上映時間/1時間47分)
 
監督:佐古忠彦 撮影:福田安美 音声:町田英史 編集:後藤亮太
エグゼクティブプロデューサー:藤井和史 プロデューサー:大友淳、秋山浩之
語り:山根基世大杉漣 テーマ音楽:「Sacco」作曲・演奏 坂本龍一
2017年/日本/日本語/カラー(一部モノクロ)/ビスタ/ステレオ/107分
配給:彩プロ  ©TBSテレビ
(引用終わり)

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 以上でおおよそのイメージは掴めたかとは思いますが、なぜ制作がTBSテレビなのか?ということについて、この作品の成り立ちを、映画の公式サイトは、「2016年TBSテレビで放送されたドキュメンタリー番組が、第54回ギャラクシー賞月間賞を受賞するなど高い評価を得ており、映画化を熱望する声を受けて、追加取材、再編集を行って映画化。・・・JNNだからこそ保存されていた貴重な未公開映像やインタビュー、そしてアメリカ取材を交えて描き切る。」と説明しています。
 
 それでは、予告編をご覧ください。
 
 最後に、映画公式サイトから、瀬長亀次郎氏の「PROFILE」と「略歴」をご紹介しておきます。
 是非多くの人に観て欲しい(私も観たい)映画ですね。この上映会開催情報の「拡散」にご協力ください。
 
(引用開始)
瀬長亀次郎 PROFILE
 
1907年6月10日、沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇に生まれ。沖縄県立二中(現、沖縄県那覇高等学校)、東京・順天中学(現、順天中学校・高等学校)を経て旧制第七高等学校(現、鹿児島大学)に進んだが、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分となる。
 
1932年に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑を受ける。
 
1936年に沖縄朝日新聞記者になり、1938年7月に兵役召集され「中支」へ。1940年に復員し、毎日新聞那覇支局記者として活動。戦後は田井等市助役として避難民の救援にあたる。1946年にうるま新報(現、琉球新報)社長に就任。翌1947年、沖縄人民党結成に参加。1950年に沖縄群島知事選挙に出馬するが、落選。しかし、1952年の第1回立法院議員選挙では最高得票数で当選を果たす。この選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否したことで占領軍から睨まれることとなる。
 
1954年10月 沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑で逮捕される。弁護人なしの裁判で、懲役2年の判決を受け投獄された(沖縄人民党事件)。
 
1956年4月に出獄後、同年12月に行われた那覇市長選に出馬する。米軍から妨害を受けるものの、当選を果たす。その後、占領軍出資の銀行による那覇市への補助金や融資、預金の凍結の措置に遭うが、多くの市民が米軍の弾圧から瀬長を助けようと、自主的な納税に訪れ、納税率は97%にもなったといわれる。これにより自主財源による公共工事再開など、市政運営の危機を脱する。一方、占領軍の意向も働き、反瀬長派は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。しびれを切らした占領軍は1957年、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)、瀬長は追放され、投獄の過去を理由に被選挙権も剥奪された。市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米軍との攻防は、瀬長に対する沖縄の住民の絶大な支持を呼んだ。
 
1966年12月に被選挙権剥奪規定廃止で被選挙権を回復。翌年、拒否されつづけたパスポート取得が17回目の申請で許可され、11年ぶりの上京。1968年 立法院議員選挙に最高得票で当選する。1970年、戦後初の国政参加選挙で衆議院議員に当選、以降7期連続当選を果たした。1990年に衆院議員勇退。2001年10月5日死去。享年94。
■不屈館HPなどより
 
<略歴>
1907年 沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇に誕生
1932年 治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で投獄
1936年 沖縄朝日新聞記者になる
1938年 兵役召集され「中支」へ
1940年 復員し、毎日新聞那覇支局記者になる
1946年 うるま新報(現、琉球新報)社長に就任
1952年 第1回立法院議員選挙で最高得票数でトップ当選
1954年 沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑で逮捕
1956年 那覇市長選に出馬し、当選
1957年 市長の座から追放 *瀬長布令
1966年 瀬長布令の廃止により、被選挙権を回復。
1968年 立法院議員選挙で当選
1970年 戦後沖縄初の衆議院議員に当選 *以後7期連続当選
1990年 衆院議員勇退
2001年 死去 *享年94歳
(引用終わり)