wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

大石誠之助を名誉市民に推挙するか否かを議論した新宮市議会の会議録(2017年12月21日)を読む

 2018年9月15日配信(予定)のメルマガ金原No.3270を転載します。
 
大石誠之助を名誉市民に推挙するか否かを議論した新宮市議会の会議録(2017年12月21日)を読む
 
 今年(2018年)の1月19日、和歌山県新宮市が、大逆事件の犠牲者である大石誠之助を名誉市民としたことは、私のブログでもかなり詳しくご紹介しました。
 
2018年1月22日
新宮市、大石誠之助(大逆事件犠牲者)を名誉市民に~市民の矜恃をかけた決定に敬意を表する
 
 もともと、2017年12月21日に開かれた新宮市議会12月定例会(最終日)において、大石誠之助を名誉市民とするよう市長に推挙する件が審議され、11対4の賛成多数で可決され、市長の判断に委ねられていたのでした。
 ブログを書いた時点では、まだ会議録が公表されていなかったため、比較的詳細に賛否の議論状況を伝えてくれていた地元紙・紀南新聞ONLINEの記事「大石誠之助を名誉市民に 改正条例に基づき推挙 市議会」にリンクした上で、
私は、ブログの末尾にこういう所感を書きました。
 
(引用開始)
 いかがでしょうか。皆さんも、「是非正式な会議録を読みたい」と思われたのではないでしょうか。
 賛成するにせよ、反対するにせよ、「新宮市民の矜恃」をかけて、自らの信じるところを論じ合っている様子が、発言を要約した新聞報道を読むだけでも伝わってきます。私は、なまじ大した議論もないまま「全会一致」で大石を名誉市民に推挙する議案が議決されるよりは、このような討論を経て11対4の賛成多数で議決されて本当に良かったと思います。
 私は、地元の人間ではありませんから、普段の新宮市議会の様子には全く疎く、何とも評しようがありませんが、上に引用した紀南新聞の記事を読んで、つくづく自分の住む和歌山市の議会状況と比較しない訳にはいきませんでした。
 12月21日の議会には、「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」の皆さんも傍聴に駆け付けたようですが、私たち市民1人1人が、議会における議論の状況に常に関心を注ぎ続けなければならないということだと思います。
 いずれにせよ、大石誠之助を名誉市民とした新宮市に深甚なる敬意を表します。
(引用終わり)
 
 さて、今日は、まことに遅ればせながらではありますが、その「正式な会議録」をじっくりと、全て読んでみようと思い立ちました。
 以下に該当部分を全文引用しましたが、全部読むには相当の時間がかかります。けれども、それだけの値打ちは絶対にあります。
 
 賛成討論をした議員が3人(提案理由を説明した上田勝之議員を含めれば4人)、反対討論をした議員が4人(この4人以外の議員11人の賛成多数で可決)でした。それぞれ、議員として、市民としての「矜恃」をかけて(実際にこの言葉を使った議員もおられます)自らの所信を議場で訴えるという(もちろん、会派の縛りなどなく)、当たり前といえば当たり前の光景なのですが、日本の国会審議を見慣れた者にとっては、まことに新鮮です。
 反対した4人の意見についても、得心や同意はできぬまでも、そういう立場もあり得るだろうと理解はできます。もっとも、最後に「絶対反対の立場から討論」された福田讓議員が述べる「日本は法治国家であり、たとえ明治憲法下の裁判による有罪判決であっても、現在の憲法下において再審を請求してもなおかつ有罪判決が覆ることができないならば、裁判の決定を遵守することが当然であります。すなわち大石誠之助先生を名誉市民に推挙する議案には、市議会議員としての矜持に基づき、断じて賛成することはできません。」は、さすがにどうかと思いますけどね。
 第一、刑事訴訟法上、「有罪の言渡を受けた者が死亡し、又は心神喪失の状態に在る場合には、その配偶者、直系の親族及び兄弟姉妹」でなければ再審を請求できない上に(刑事訴訟法431条1項4号)、
「開かずの扉」と言われる日本の刑事再審裁判の実態を踏まえれば、大逆事件の判決に義理立てすることに「市議会議員としての矜恃」をかけるのは筋が違うと思います。
 
 それでは、大石誠之助を名誉市民にするよう市長に推挙する議案について議論が闘わされた新宮市議会の会議録をお読みください。
 
平成29年12月新宮市議会定例会会議録 第6日(12月21日)
日程24.議員発案第2号 新宮市名誉市民の候補者の推挙について
(引用開始)
再開 午後1時00分
○議長(屋敷満雄君) 
 休憩前に引き続き会議を開きます。
△日程24 議員発案第2号 新宮市名誉市民の候補者の推挙について
○議長(屋敷満雄君) 
 日程24、議員発案第2号、新宮市名誉市民の候補者の推挙についてを議題といたします。
 提出者の説明を求めます。
 12番、上田議員。
 
◆12番(上田勝之君) (登壇)
 ただいま上程をいただきました議員発案第2号、新宮市名誉市民の候補者の推挙について。次の者を新宮市名誉市民の候補者として市長に推挙したいので、新宮市名誉市民条例第3条第2項の規定により議会の同意を求めるものであります。
 候補者の氏名は、大石誠之助(故人)であります。
 それでは、以下、提案理由を申し述べます。
 去る12月5日開会の平成29年12月定例会において、新宮市名誉市民条例の一部を改正する条例が松畑玄議員を提出者、前田賢一議員外5名の議員の皆さんの賛成者をもって提案され、賛成多数をもって可決されました。本改正条例は、議会からも2名以上の賛成議員が名誉市民に推挙する提案が可能となり、議会の同意を得て市長が決定するというものに改められました。思い起こせば平成21年12月議会で、前田賢一議員が一般質問で、大石誠之助を名誉市民にと取り上げて以来、平成22年12月議会で、私が新宮市名誉市民条例の一部を改正する条例を提案するも、賛成少数で否決。同じ12月議会で、大西強議員が一般質問で、大石誠之助を名誉市民にと訴えられています。さらに同年の12月議会、大石誠之助を名誉市民に推挙する請願が付議され、翌平成23年1月には、さきの請願に反対意見の請願が提出され、当時の市議会総務委員会でかんかんがくがく議論が交わされたことをついきのうのことのように思い出しつつも、今、本議案の提案、7年ほど前のことですが、まさに隔世の感がありますし、御審議いただける議員各位に感謝を申し上げます。
 さて、大石誠之助の功績は、皆さん方もよく御承知のこととは存じますが、いま一度ここで述べさせていただきます。
 まず、医師の倫理として人間としてのヒューマニズムを優先させ、医療費の無請求主義や、現在にも相通ずるような医療制度批判として無効の投薬を拒否することなど枚挙にいとまがありません。玉置真吉氏が熊野誌6号に、禄亭さんの回顧として、無請求主義は貧しい人々、特に被差別部落の人々には薬代すら取らず、他方、富裕層の人々には往診代は1回1円、薬代は倍額。抗議されれば、貧しい人たちに社会奉仕と思って私の請求どおりお払いなさいと納得させていたと記述されています。「現時の売薬なるものは、人の病を治することを目的とせず、専ら自己の利益のために営む商法と言うべし」と売薬官営論として誠之助自身が論じています。誠之助は、「貧者や青年を愛することが使命であり、その心を酌み取ることに努めている。この汚れたる社会の中にはまり込んだればこそ、貴族と富豪に憎まれ、平民を友とする身になったのだ。型にはまらず自由に考える人間となったのだ。僕は、ただこれを誇りとする」と牟婁新報に寄稿し、貧者と若者に背かないとする、終生その姿勢は変わらなかったのであります。
 また、情歌、都々逸や狂歌、狂句に通じ、特に情歌は、禄亭永升として宗匠となり、また家庭雑誌にも投稿、西洋風合理的な生活を説き、衣食住についても発言し、熊野実業新聞に寄稿した医師訪問録に、「人間は元来平等なもので、現在、仮に貧富、貴賤などという階級に分かれていても、それは今日の悪制度がもたらした一時の現象にとまるので、決して永遠のものじゃない。否、本来はやっぱり平等なのだから、人の上に人なし、人の下に人なしという考え方が各自の頭の底にしみ込んでいるので、今日は主として貧困の原因をなくさんがためにさらに力を尽くしているのだ」と述べています。
 このような誠之助の論は、今でいう民主主義や人道主義、人権意識に通じ、既に新宮市の名誉市民である佐藤春夫西村伊作を初め、後世の新宮人に多大な思想的な影響や共感を与えました。
 私は、大石誠之助を名誉市民に推挙する意味を次のように考えます。そもそも名誉市民と大逆事件とは全く別のことであります。しかし今日、私たちは、大逆事件を抜きにして誠之助を語ることはできません。明治の末、日露戦争後、戦争の傷跡で国民の生活格差が拡大、戦争反対や平等を求める運動が高まりを見せる世相の中、国家によりフレームアップされ、多くの人々、多くの地域を巻き込んでいった国家犯罪が大逆事件であり、その中で全く実態のなかった紀州グループとして、郷土の誇るべき先覚者である大石誠之助をいり殺したのです。国家権力の悪行は恨んでも恨み切れるものではありません。ただ大逆事件で犠牲になられた方々とその家族たちに対し、私たちの父祖初め当時の新宮の住民は、石持って追うような仕打ちをしてしまいました。当時、まちの人々は、3人もの大悪人を出し、天子様に申しわけない。おわびしようと速玉大社の境内で集会を図ったりしています。また、役場では、我がまちの一大不面目であると議員や区長が集まり、新玉座において町民大会を開き、謹慎の誠意を示し、中学の教師には、国体や歴史について講演するよう手はずをとったりしています。
 時代が時代であったにせよ、このようなまちの空気の中、遺族の方たちは、どれほどつらい悲しみの日々を過ごしたのでしょうか。誠之助の妻と2人の子供さんは、沖野岩三郎の計らいで新宮を脱出し、東京のキリスト教施設に身を隠したそうです。高木顕明の妻と娘さんは追われるように新宮を出ます。徒歩でとぼとぼと名古屋までたどり着き、その後、娘さんは芸妓の置屋に入ったと言われています。峯尾節堂の妻、ノブさんは、結婚2カ月で離縁です。その年、若干15歳でした。ノブさんの身内は、彼女の行く末を案じ、人目を避け、身元を隠し、ふるさとの村から送り出したようです。これらの方々は何か罪を犯したでしょうか。もちろん大逆罪などとは何のかかわりもないのです。最もふるさとの温かさが人の情けが必要としたとき、人々は石を投げ、新宮のまちから追いやってしまったのです。失意の中、生まれ育ったふるさとを後にしなければならなかった奥さんや子供さんたちの心情を察するとき、私は万感胸に迫り、目頭が熱くなるのをこらえ切れません。
 NHKのラジオ放送、ふるさとの心では、誠之助だけにスポットが当てられていますが、ふるさとの心は、遺族の方にこそではないでしょうか。誠之助の兄、玉置酉久の子孫は以前、「私のところは玉置姓だったからこのまちで生きてこられた。大石姓であったならこのまちを出なくてはならなかった」とそのように言われていたそうです。私たちは石を持って追いやった側の末裔として幾ばくかの重荷を背負っているのです。
 作家の辻原登氏は、ある雑談の席上、「新宮市民が100年の桎梏から解き放たれるには、誠之助を新宮の顔にするほかあるまい」と述べています。ちなみに桎梏とは、手かせ足かせのことですが、けだし名言だと思います。誠之助に名誉市民の称号を贈ることは、ある意味、国家の非をただすことにほかなりません。中央より遠く離れた人口3万人足らずの小さなまちが新宮です。巨大な国家権力を前に国家の非をただす、これこそ新宮の矜持というものではないでしょうか。国家に対し物を申すということは少し勇気が要ります。でもその少しばかりの勇気こそふるさとの心であり、人の情けであるのであります。
 そして、新宮市が今、最も大切にしなければならないもの、それは何か。私は人権を守ることだと考えます。日本国憲法第10章最高法規の第97条、日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は過去幾多の試練にたえ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものであると規定し、人間が生まれながらにして持つ権利、天賦人権として明確化されています。さらに第3章国民の権利及び義務、第11条に、国民は全ての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として現在及び将来の国民に与えられる。第12条に、国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。また、国民はこれを乱用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。第13条に、全て国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とするとし、人権保障の基本原則を定めています。新宮市においても平成27年新宮市部落差別をはじめあらゆる差別の撤廃に関する条例を制定し、人権と自由を尊重することを定めています。
 昨今、世上の空気は、この最も大切にするべき守らなければならないことが軽んじられているのではないか。私たちは、コンピューターやスマートフォンを通じてインターネットのあふれる情報に接し、さまざまな技術革新がもたらす劇的な社会の変化の中で、知らず知らずのうちにこの世上の空気に流されてしまっているのではないか。今こそ誠之助が主唱した自由と平等、人権と博愛、非戦と平和の大切さを紡いでいかなくてはなりません。その象徴として、民主主義や人道主義、人権意識を論じ、実践した先達である誠之助を今この時代に名誉市民に推挙する意味があります。
 私たちは、この議場において佐藤春夫作詞の新宮市歌を歌います。「山紫に水明く、人朗らかに情あり」です。来年3月議会の冒頭には、「情あり」を心を込めて歌いたいものです。人道主義者であった誠之助の目指した社会は、この「情あり」の社会であったと私は確信しております。議員各位皆様方の賛同をいただけますようお願いを申し上げ、私の提案説明とさせていただきます。
 
○議長(屋敷満雄君) 
 本案について質疑に入ります。
 8番、辻本議員。
 
◆8番(辻本宏君) 
 今回も新宮市の名誉市民、大石誠之助氏の御推挙なんですけれども、大石誠之助さんというのは、もちろん子孫がいらっしゃいます。その子孫の方々のお気持ちというのはどうあるのか。名誉市民を条例では記念品、表彰状を贈呈するというふうになっていますので、その点はいかがなんでしょうかね。この大石誠之助さんには、もちろん子供さんやお孫さんがいらっしゃる。今、一通り説明いただいたんですけれども、そこにはちょっと触れていなかったように思うんですけれども、これ現実論の話として私、申し上げているんですけれども、どうですか、上田議員。
 
◆12番(上田勝之君) 
 大石誠之助氏の係累の方たち、あるいはお孫さんやひ孫さんの方たちに対するコンタクトというものは、現在この議案が同意をいただけるのであれば、コンタクトをとって御説明をさせていただきたいというふうには考えております。ただ、記念品を受け取る、あるいはその称号をお受け取りになる、それは私は墓前に報告であってもよいんではないかと。もちろんそういった御遺族の方々のお気持ちも当然の勘案されるところではありますが、新宮市としてこの考え方を持った大石誠之助氏を名誉市民にするということに尽きると思います。
 
◆8番(辻本宏君) 
 これまで名誉市民の方、10人いらっしゃいます。これまでのあり方ですけれども、いろいろなパターンはあるでしょうけれども、子々孫々、子供さん、お孫さんがいらっしゃる。その方のどなたかがそういうふうな形で受けていっていると思うんですよ。だから非常にこれ大事なことだと思いますので、ただそこが私とちょっと意見の違うところだと思うんですけれども、先にその記念品、表彰状を受け取る、まず第一に大事に考えないといけないのは子供さんとかお孫さん、そこを整えてからこの議案とすべきではないかなというふうに思います。その点いかがですか。
 
◆12番(上田勝之君) 
 確かにその辻本議員のおっしゃられる考え方も確かにあるとは思います。そういった中で遺族の方々、特に直系の遺族の方々を追い求めていく、そこで新宮市として、じゃ、どうしていくかというあたりをしっかりと考えた上で、私が考えますには、まずこの議会で同意をいただいた上で、その直系の方々やあるいは係累の方々にコンタクトを、議長やあるいは最終決定権者である市長等々が相談をされる中でしっかりとコンタクトをとっていく、そういったことも一つの手法ではないかと。そこは辻本議員言われるように、卵が先か鶏が先かのところに論じられるかもしれませんが、現在ではそのように考えております。
 
○議長(屋敷満雄君) 
 4番、大石議員。
 
◆4番(大石元則君) 
 先ほどの提案理由を伺っていて、本当に感銘いたしました。ただ思いますのは、その当時であれば同じ姓を受けた大石として、誠之助さんのことがあった当時は石を持って追われた立場の自分ではありますが、今、上田議員のおかげで、同じ大石として、私流でございますが、名誉市民に推挙されているような気分にもなっておりますので、お礼申し上げたいと思います。かれこれこれまでに上田議員は何年、大石誠之助さんのことで御研究をされてきたんでしょうか。
 
◆12番(上田勝之君) 
 門前の小僧ですので10年余りでございます。それほど研究というほどではございませんが、詳しい方々のお話を伺ったり墓参をさせていただいたりということを行動させていただいています。
 
◆4番(大石元則君) 
 残念ながら、私は同じ大石なんですけれども、誠之助さんに関しては、ごくごく最近研究を始めたばっかりでございますので、ぜひこの機会に上田議員に教えを請いたいと思いますので、たくさんある中で3点ほどお伺いしたいと思います。
 大石誠之助氏の人柄といいますか考えましたときに、私のように見かけは大きいんですけれども、きめ細かく感情豊かな持ち主であったのか、はたまたお見受けいたしますに上田議員のように大志を抱き、なおかつ日々研さんを積まれた方だったんでしょうか。その点についてお伺いいたします。
 
◆12番(上田勝之君) 
 何と言いますか、私自身はそんな大層なあれではないんですけれども、その大石議員が御質問された大石誠之助像というのは、両方実はあるんではないかと。おっちょこちょいな側面もあったり、いろいろとお騒がせをしたりしたこともあるようですけれども、そのこと、医療の道でありますとかそれは、あるいは貧者や青年やそういった方々に対する熱い思いといいますか、そういった信念というものは非常に貫かれておったし、そのために研さんを積まれたものだと、両面あったのではないかと私は考えています、感じています。
 
◆4番(大石元則君) 
 今回のことでちょっと気がつきましたんですけれども、私たちは議員であります。議会の立場で二元代表制、常々考えた上で行動してしかるべきなんですけれども、今回、名誉市民を選定するに当たり、まず推挙する方法に関して今回、議員提案でもって自分たちも推挙できるようになりました。その条件として12分の1の議案提出の基本を踏まえた上でなされているんですけれども、なおかつこの後、議論の後、採決に入ったときに過半数で決められます。果たして名誉市民を選定するときに、この条件で果たしてふさわしいのだろうか、その点についてちょっとお伺いしたいと思います。
 
◆12番(上田勝之君) 
 これまでも以前の平成22年当時もその御意見を賜りました。市民全体あるいは市議会が満場一致で名誉市民とする、そのことは本当に望ましいことではあります。ただ、ある面、この大石誠之助は、100年前の人物でもございます。そういった中でこの名誉市民という称号を贈ることに皆さん方の間でも、あるいは市民の皆さん方の間でもいろいろと意見が分かれることは、これはやむを得ないのではないかと。ただ、誠之助が唱えた、先ほど私が申しました人権意識や自由と平等、あるいは人権と博愛といったような主義主張は、特に現在でこそ光るものがあるのではないかと、その点をしっかりその考え方を受け継ぐことを名誉市民にしていくことが大事なのではないかと、そういったことが皆様方いろいろ議論が分かれて議論が行われることは、私は実は望ましいことだと思っております。一色に染まることばかりが満場一致になることばかりがいいことではないと思います。ただ、名誉市民の場合は、大石議員おっしゃられるように、満場一致が望ましいのかもしれません。ただ、相当先人でもありますので、そのことについて名誉市民の是非論というのは多分、意見も分かれるところではないかと私は思っております。
 
◆4番(大石元則君) 
 激論あってしかるべきだと思いますので、そのように対処したいと思うんですけれども、あと1点、幸いにも辻原登先生のお話をじかにお伺いすることができました。その中で吉田松陰の名前が挙がっておりました。ある意味、大石誠之助さんもそのような歴史の中で貢献されたのではないかという話だったように思います。果たして吉田松陰さんは、地元の皆さんから名誉市民的なことで認定されているのでしょうか。市民がそういうふうに名誉市民として推挙されているのでしょうか、実際。
 
◆12番(上田勝之君) 
 申しわけありません。萩市吉田松陰が名誉市民に推挙されているかどうかは、名誉市民という称号を贈られているかどうかについては、私、存じません。ただ、辻原登さんが吉田松陰と対比して大石誠之助を語っていただいたこと、それは当時の志を抱く青年たちに多大な影響を与えたという点が一致しているというふうに私は受け取りました。
 
◆4番(大石元則君) 
 そういった面で名誉市民に推挙する段階においていろいろ考察していく中で、私的には名誉市民という私自身のイメージとしては、皆さんから尊敬され愛される人物像を描いているんですけれども、上田議員はどういうふうな。
 
◆12番(上田勝之君) 
 大石議員がおっしゃられるとおりでありまして、皆さんから愛され、また市民の皆さんから尊敬を集める、それに大石誠之助は十分値する人物だと私は考えております。
 
◆4番(大石元則君) 
 どうもありがとうございました。
 
○議長(屋敷満雄君) 
 1番、北村議員。
 
◆1番(北村奈七海君) 
 1点だけ、質問させていただきます。
 大石誠之助さんを名誉回復し、名誉市民にという動きの背景には、高知県の旧中村市、現四万十市幸徳秋水を顕彰する会の動き、流れの影響があったのかなというふうに大石誠之助を研究していく中で思いました。同じ大逆事件の犠牲者というくくりにはならないとは思っているんですけれども、四万十市の方にお聞きした中で、幸徳秋水は名誉回復の決議は、旧中村市議会のときにされたそうです。そして、名誉回復も行ったので、幸徳秋水の刑死100周年の記念事業として平成23年には、四万十市内で関係団体、住民団体が集まって事業も行ったそうです。それは決議が出されたのは平成12年ですので、10年近くたってからのことにはなるんですけれども、私が一番お聞きしたいのは、四万十市議会の決議は確かに出されて、新宮市議会も名誉回復の決議は出されている、そこまでは同じです。ただ、四万十市のほうは、幸徳秋水を名誉市民にしましょうという動きがあったんですかという問い合わせに対しては、そういった動きはこれまでになく、そしてそういった話も市の中でも議会の中でも特にはなかったというふうに聞いています。同じような流れ、同じような運動といったものを経ながら、新宮市ではどうしても名誉市民にしないといけない、そこの点に関して、四万十市とはどの部分が一番違うと思われますか。
 
◆12番(上田勝之君) 
 ほとんどが違うと思いますが、四万十市への幸徳秋水を顕彰された皆さん、あるいはこの地で紀州グループと言われた6名を顕彰する皆さん、あるいは岡山県井原市で森近運平さんを顕彰されている方々、あるいはこれは熊本やそのほかにも各地にそういった団体があります。それはおのおの刺激はし合うかもしれませんし、切磋琢磨という言い方はおかしいですね。刺激をし合ってどういう運動を進めていくかというのは、その土地その土地、あるいはその人物に対する思い入れ、そういったものが全て同じかといえば、そういう同一歩調をとるものではないと私は考えます。そういった中で幸徳秋水は、もっと思想家ですよね。大石誠之助は、この地で自由と平等と人権意識を説いた先覚者です。その考えを後世に伝えるために名誉市民という称号を贈り、広く後世に伝えていく、この考え方を伝えていくことこそが私たち新宮市議会、そして新宮市の使命ではないかと私は考えています。だから四万十市と同様の動きである必然性は何もないと思います。
 
◆1番(北村奈七海君) 
 わかりました。
 以上です。
 
○議長(屋敷満雄君) 
 11番、濱田議員。
 
◆11番(濱田雅美君) 
 提案者に一つお伺いします。大石誠之助氏に関しましては、市民の皆様がいまだ理解を得ていない、または大石氏自体を知らないという方もいらっしゃると思います。その点で大石誠之助氏の顕彰を今後どのようにお考えでしょうか。
 
◆12番(上田勝之君) 
 たしか平成22年当時も市民の皆さんの御意見というのは、名誉市民にすべき、あるいはそうでない、それはちょっと違うんじゃないの、あるいは全くわからないと、知らないという方もたくさんいらっしゃいました。それは当時の状況と比べて、じゃ、今その理解が進んだのかといえば、確かに濱田議員の御指摘のように、まだまだ知られていない方もいらっしゃいます。
 そういった中では、これは先ほどの辻本議員の御遺族の方の質問のときにも使わせていただいた比喩ですけれども、卵が先か鶏が先かではないですけれども、市議会や市当局がしっかりと今後この名誉市民という称号を贈った後、広く市民の皆様、あるいはこれを全国発信していく、そういったような特にこの誠之助の考え方を市民の皆さんに御理解をいただけるよう啓発、啓蒙に努めていく、そういったことをするために、この名誉市民が皆さんの同意をいただけて名誉市民になれば、一層取り組んでいくということが必要だと私も考えております。
 
◆11番(濱田雅美君) 
 この議案がもし可決され、そして名誉市民として推挙した場合には、議会に本当に重大というか大きな責務が生じると考えております。その際、その重大さを本当に重く捉えて、私たちこの新宮の歴史の一つとして大石誠之助の研究を重ね、また市民にしっかりと顕彰していく必要が本当にあると考えておりますので、この場をかりて再度重ねてお願いしておきたいと思います。
 
◆12番(上田勝之君) 
 ありがとうございます。しっかりとこの議会で本議案が同意をいただけて名誉市民にという称号が贈られることになれば、これは私ども市議会、今、濱田議員もおっしゃっていただいたように、市議会としても推挙したという大きな責務を負います。また、新宮市としても名誉市民として、そのことをしっかりと広く市民の皆さん、あるいは次世代の皆さんにしっかりと紡いでいく、そういった努力を傾注してまいりたいと考えています。
 
○議長(屋敷満雄君) 
 質疑。
     (「なし」と呼ぶ者あり)
 
○議長(屋敷満雄君) 
 質疑を終わります。
 お諮りいたします。
 議員発案第2号は委員会付託を省略することに御異議ありませんか。
     (「異議なし」と呼ぶ者あり)
 
○議長(屋敷満雄君) 
 御異議なしと認め、よって議員発案第2号は委員会付託を省略することに決定いたしました。
 本案について討論ありませんか。
 反対は。
 8番、辻本議員。
 
◆8番(辻本宏君) 
 思い起こせば今から16年前、平成13年に当時の佐藤市長からの提案で、この市議会において大逆事件連座したとされる地域の6名の人たちの名誉回復宣言を全会一致で行っています。これは当局の皆さんも御存じかと思うんですけれども、このとき私も賛成討論をいたしました。今回、名誉市民候補として推挙している大石誠之助氏の人柄から、歴史的に残してきた行いは大きなものがあります。冤罪事件と言われる大逆事件を顧みれば、この地域で大石誠之助氏1人だけではなく、ほかにも社会に貢献していた人やこれからの活躍を期待されていた人が処刑され獄死、獄中で亡くなった人がいます。今回2度目の議会からの発案でありますが、以前このことに詳しい人に意見を伺いました。100年以上も経過した今、この6人の人たちの功績を考えると、大石誠之助氏だけを名誉市民とするよりは、今のままで歴史的、社会的な史実として人として崇高な精神哲学を後世に学んでもらうために、故人の功績や善行をたたえ、これからも続けて世間一般に広く知らせていくのが賢明であると思います。
 我々第三者の人たちだけで名誉市民に推挙したとしても、これ先ほども申し上げましたけれども、遺族、親族の方々は、これまでの時代の積み重ねの中で名誉市民となると複雑、割り切れない思いがあるのではないかと感じます。遺族、親族を尊重して、まず気持ちを伺ってから推挙すべきだと思います。名誉市民としての記念品を贈呈、表彰する相手先が定まってから議案として提出するのが道理にかなったやり方ではないでしょうか。また、これまでの名誉市民になられた方は、日本の文化に多く貢献して功績のある方々や、郷土の政治・経済・教育で活躍され大きな実績を残された方々で、時の市長から推挙され、議会も議員全員が同意して名誉をたたえ、その功績を表彰しているものであります。よって、市民、議会で賛成、反対の入り混じった中、市民の誰もが自然と納得されてこそ名誉市民ではないでしょうか。
 また、最後になりますが、市民全般に及ぶ政策については、議会の二元代表制による提案が望ましいと思われますが、名誉市民など人物を推挙することは、やはり市長の権限、選任の担当事務であり、市長が推挙し、議会が同意するのが本来の姿であると考えますので、この議案に対して反対します。
 以上です。
 
○議長(屋敷満雄君) 
 賛成討論はありませんか。
 5番、松畑議員。
 
◆5番(松畑玄君) 
 大石誠之助を名誉市民に推挙することに賛成の立場で討論させていただきます。
 大石誠之助の妻が昭和27年に亡くなりますが、亡くなるその1年前にお世話になった牧師に次のような手紙を書いております。「あれは秋水を首謀者に祭り上げ、時の軍閥という悪魔が後ろで画策していたものにほかならない。これは知る人ぞ知ることでありましたが、知らない人たちが薄気味悪がって私どもを見ておったのであります。それは何とか汚名をそそいでほしい。一生のお祈りですが、こちら側から騒ぎ出すことはないと思います、自然に世の人が真実を知ることになっているでしょうから。今ごろになって騒々しく人の話に乗せられることを好みません。政府のまいた種は政府みずからが刈り取らなければなるまい。既に軍閥は滅び、敗戦国になった哀れな日本ですけれども、これからよく立ち上がってまいりますから、もう少し世の中の成り行きを見てみたいと思います」。時の政府の捏造した事件により、大石を失った熊野の損害は大きい。西村伊作佐藤春夫中上健次に大きな影響を与え、ほかの名誉市民の何人かは大石の影響を受けております。まさにその時代の熊野を代表する人物の一人であることに違いなく、現代社会では当たり前ですが、自由、博愛、平等、非戦、福祉などの問題を明治時代に訴えた先覚者であります。不安定な国際情勢、世界全体がいつか来た道に戻っているのではないか、日本も例外ではないのではないか。今回、大石誠之助を名誉市民に推挙することは、ゆがみつつある日本に一石を投じ、警鐘を鳴らし、大石の唱えた自由、博愛、平等、非戦を再確認し、熊野新宮から発信する絶好の機会であります。
 最後に、数年前、新宮市市政功労者で新宮市にも貢献されました林雅彦明治大学名誉教授の御講演でおっしゃった言葉が頭から離れません。「時代の転換期には、いつも熊野が登場する。神武の統制、源平の合戦等、歴史が動くとき熊野であります。日本が変わるとき熊野が変わる、熊野が変わるとき日本が変わる」、この言葉を御紹介させていただきまして、私の賛成討論とさせていただきます。
 
○議長(屋敷満雄君) 
 反対討論はありませんか。
 1番、北村議員。
 
◆1番(北村奈七海君) 
 反対の立場で討論を行います。
 まず、しかし前提として大石誠之助に関しましては、できる限り私も資料を読み込みました。同僚の議員にお借りした書籍、そして新宮市立図書館に行きまして本をこちら読ませていただきました。そして、新宮市立図書館には2階に地域資料を保管してある部署がありますが、そちらにも行って、新宮市で市民団体の方がどのような活動をされてきたか、また名誉回復の決議をされた経緯なども新聞のスクラップとしてとってありますので、そちらも目を通せる限りは通してまいりました。ですので大石誠之助の行ったとされる功績につきましては、議案の提案があったとおり一定の理解をしているつもりです。
 しかし、私が今回反対の立場をとるには、もちろん理由があります。それは私自身の周囲には、大石誠之助を名誉市民とするのはもう少しゆっくりと時間をかけて市民の方に彼の功績を浸透させてからでも遅くはないのではないかという意見が多く聞かれるからです。これはもちろん先ほど提案者の上田議員が言われたとおり、鶏が先か卵が先かという話になるのかもしれません。その意味で言えば、私と提案者、そして賛同議員の皆さんとは立場を異にするのかもしれません。
 議員には二つの役割があると考えます。一つは、自分自身の主義主張を行って市民の方の共感を得て市政に参加すること、もう一つは、市民の方の代弁者であるということです。今回の件についてもちろん満場一致で賛成となれば、それが一番望ましいです。しかし、市民の方の代弁者ということを考えましたら、私がお話を聞いた市民の方、なかなか反映されにくい声かもしれませんが、その方の声を反映して今はまだ時期尚早ではないかと考えておられる方もいるということを示すことも私の役割かと考えます。もちろん私が調べて読んだ書籍、そしてほかの自治体への問い合わせなどを含めて、大石誠之助について議会内でもより深く議論をしていけたら、そちらのほうがより望ましいと私は考えます。もう少し時間をかけて議論すべきではないか、そして議会の中で共通見解をつくりながら、市民の方へも大石誠之助の功績を浸透させていく、そういった蓄積がさらに必要だと考えています。
 これまでずっと活動されてきた方からすれば、どれだけ時間をかければいいのかという考えもあるかもしれません。しかし、先ほど同僚議員の方からも質疑があったとおり、まだ大石誠之助のことを御存じない方もおられます。功績のことを正しく御理解、浸透し切れていない部分もあるかと思います。ですので、以上の考えからもう少し時間をかけていきたい、議会としてはそのようにすべきであるという理由から反対させていただきます。
 以上です。
 
○議長(屋敷満雄君) 
 賛成討論。
 3番、杉原議員。
 
◆3番(杉原弘規君) 
 まず最初に、名前の敬称を省略させていただきます。
 私は、この11月6日に議会内での勉強会、このことをきっかけに私なりに大石誠之助の功績について勉強をし始めました、させてもらいました。まだまだ勉強不足ですが、その功績が少し見えてくるようになりました。これまでは大石誠之助の名誉市民のことに対し、貧しい人たちからはお金をもらわなかったというそういう一面からの狭い視野でしか捉えていなかったのであります。大石誠之助の功績、例えば新宮鉄道の継承、川下げ税反対、いかだ師がいかだで流してきた材木に税金をかけるという動きに対して、大石誠之助は反対の立場で頑張ったと言われています。私立総合病院の設立の提唱、これは現在の新宮病院だそうであります。特に女性の人権侵害から人権を守るために公娼制度、昔、子供のころ遊郭と言ったのを覚えています。この制度を廃止させる問題など、この明治憲法下のもと、治安警察法によって社会主義運動を初め労働組合、農民運動、婦人運動などが極端な制約を受けていた時代に地元新宮のことを批評しつつ、社会全体のことを革新的立場に立って大石誠之助は論じてきたことを知ることができました。
 新宮町時代の当時、熊野新報改革派と言われたそうであります。熊野実業新聞実業派によって新宮での政争が二大地方紙の中で論じられ、大石誠之助は改革派の側から論陣が張られたようであります。町長や県会議員をめぐる問題、中学校や高等女学校の教育や制度に関する問題などなど、当時、大石誠之助の行ってきた論陣は、現在の憲法国民主権、平等、平和主義、人権尊重、議会制民主主義の基本原則から見ても相通ずるものがあると思います。私は、特にここ5年の間に日本の政治は2013年の特定秘密保護法、2015年の安保法制、戦争法、2016年の盗聴法、通信傍受法などで国民の言論を封殺し、2017年、ことしの戦争する国づくりの集大成としての共謀罪など、安倍政権の暴走を見ると、大石誠之助が冤罪で処刑されるまでに追い込められた時代、この時代とかなりの共通点があると思わざるを得ません。その立場に立ってみれば、大石誠之助を名誉市民に推挙し、大石誠之助の功績をもっと市民に広げることは、日本を戦争する国にさせない上においても意義あるものと考え、大石誠之助を名誉市民に推挙する議案に賛成をします。
 最後に、名誉市民という課題は全会一致が望ましいところであることを申し述べて賛成討論といたします。
 
○議長(屋敷満雄君) 
 反対討論はありませんか。
 4番、大石議員。
 
◆4番(大石元則君) 
 同案に対し、反対討論を行います。
 私は、大石誠之助氏の業績を否定するものではありません。彼が彼の人生を全うすることができていれば、既に新宮市の名誉市民になっている西村伊作氏や佐藤春夫氏以上の功績を上げたものと思います。しかし、残念なことに大逆事件の首謀者の一人にされてしまい、道半ばで処刑されております。確かに大石誠之助氏を名誉市民に推挙することは大切なことであると思います。しかし、もっと大切なことは、ドクトル大石の本当にやろうとしたことを今残された自分たちが継承し、今の新宮市をもっと潤いのあるまちにするために汗をかくことだと考えます。さらにこの5日の12月議会の開会において、名誉市民の選定方法の改正を行いました。間を置かず今、議会の閉会に当たり、大石誠之助氏を名誉市民に推挙する議案が提出されております。この間、17日間、大石誠之助の実情にどれだけ迫られたか、私自身、疑問であります。大石誠之助が名誉市民を本当に望んでいるのか、これを知るためにもう少し時間が必要であります。よって不徳のいたすところですが、推挙するのを見送らざるを得ないと考えます。私は同案に反対いたします。
 
○議長(屋敷満雄君) 
 賛成討論はありませんか。
 17番、大西議員。
 
◆17番(大西強君) 
 本案に賛成の立場で討論を行います。
 まずもって僭越ではありますが、レジェンドとして大石誠之助先生の敬称は省略させていただきます。
 さて、大石誠之助の辞世の句と言われる中に、「我がむくろ、煙となりて果てしなき、かの大空に通いゆくかも」という短歌が残されております。私はこれに近年、秋川雅史という歌手が歌って大ヒットした歌謡曲千の風になってという歌があるのですが、その歌詞の中に、「私のお墓の前で泣かないでください、そこに私はいません、死んでなんかいません、千の風千の風になってあの大きな空を吹きわたっています、千の風千の風になってあの大きな空を吹きわたっています」と歌っているのですが、この歌を聞くたびにこの大石誠之助の「我がむくろ、煙となりて果てしなき、かの大空に通いゆくかも」の辞世が「我がむくろ、煙となりて果てしなき、あの大空を吹きわたっています」と重なってしまうのであります。大石誠之助は、修めた医術をもって、ふるさとの人々に貴賤を問わず仁術を施し、青年に新しい文化、思想を啓蒙し、人権擁護、非戦を説いて市民生活の向上に尽力していたものを何らのとがもなく国家権力によって理不尽な弾圧を受け、犯罪者として処刑された。その無念と悲惨な最期を思うとき痛恨の極みでありますが、この歌の歌詞のとおり、大石誠之助が「私の墓の前で泣く必要はない、私はそこにはいない、死んでなんかいない、あの果てしない大きな空を吹きわたっているのだ」と言っているように感じるし、そう思うことで少しは気持ちが安らぐのであります。
 そして今、100年たった後も我々郷里の後輩がこうして大石誠之助の冤罪を恨み、その遺徳をしのんで名誉を回復した上、名誉市民として顕彰しようと活動していることこそ、大石誠之助がよみがえり、生きているあかしであると思えるのであります。
 私は、1944年、昭和19年1月25日、太平洋戦争の真っ最中に生まれたわけでありますが、その翌年の8月15日に終戦となり、1947年5月3日に平和憲法、民主憲法と言われる現日本国憲法が施行されたのであります。大石誠之助が犠牲になった旧大日本帝国憲法のもとで生まれた私ですが、敗戦の結果において制定された新憲法であるこの日本国憲法に守られ、以後70年余りにわたって平和で自由で人権を保障された幸福な生活を享受してきたのであります。しかし、この平和、民主憲法は、さきの太平洋戦争で350万人とも言われる国民の犠牲のもとに我々国民が勝ち得たものであります。さきの原子力発電所までも破壊された東日本の大震災による犠牲者や被害と太平洋戦争のそれを比較するだけでも人が起こした戦争の犠牲、損害ははかり知れないものではありませんか。ちなみに東日本大震災の死者、行方不明合わせて約2万4,000人と言われています。これを太平洋戦争の350万人と言われる犠牲者と単純に比較して、その恐ろしさを実感していただきたいのであります。
 果たしてこの太平洋戦争は、非戦平和、市民生活の向上を唱えていた大石誠之助が処刑された1911年からわずか30年後の1941年に勃発しているのであります。結局敗戦し、膨大な人的被害、産業、経済、国土の荒廃を招いたのであります。しかし、その後に新しく制定された日本国憲法のもとで我々国民が歩んできたこの70年余りの日本の政治、経済、教育、文化の発展の歴史をよくかみしめてみるべきではありませんか。
 翻って70年余りにわたってこの日本国憲法のために何らかの不利益、犠牲をこうむった国民が一人でもいるのでしょうか。私は、この70年余りの人生を振り返り、また自分の性格などを反省するたびに、いつも大石誠之助の時代に生まれていたとしたら到底人生を全うすることはできなかったであろうと背筋が凍りつくような思いにかられるのであります。それと同時に、現在の平和で民主主義の時代に生まれたことをつくづく感謝しながら人生を送ってきたのであります。
 しかしながら、現在、憲法の改正が政治問題となっておりますが、改正の賛否についてアンケート調査をすると、19歳から30歳までの年齢層の賛成割合が最も多く、我々70歳代以上になるほど反対意見が多くなっているのが実情であります。なぜそのような結果になるのかについては明らかではありませんか。我々70歳を超える人々は、戦争の悲惨さを直接体験しているか肉親を戦争でなくしたり戦後の貧しい生活を経験しているなど、戦争の恐ろしさ、愚かさを知っているからであります。しかし、若い世代はその経験がないのであるから、今の平和で自由、平等、人権が保障された社会が当たり前になっているからではありませんか。しかし、そのこと自体、今の日本国憲法の恩恵ではありませんか。憲法第97条に、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は過去幾多の試練に耐え、現在及び将来の国民に対し侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と規定しているのであります。まさに大石誠之助先生方先覚者の自由獲得の努力と犠牲のおかげで現代の我々が享受しているのであります。ゆえにその遺徳に報い、これを後世に伝えていくことが我々世代の使命であると決心しているところであります。
 ところで大石誠之助の名誉市民推挙について、社会主義者であったと思想的な違和感を持って反対意見を主張する人がいます。このことについてですが、私は子供のころ、父親がこの大石誠之助の名誉回復の先覚者と言われる元新宮市立図書館長の濱畑栄造先生が経営していた会社の従業員であった関係で、中学生のころから濱畑先生の漢文塾に通っていましたので、そのころから大石誠之助の話を聞かされていたのであります。と同時に漢文の授業で孔子孟子などの思想を習っていたのであります。そういうわけで私は、四十数年前に昭和50年、市議会議員に立候補したとき、政治理念を孟子の説く、仁義をバックボーンにしたのであります。孟子は、政治の根本は仁義、すなわち博愛と正義である。真の国家発展の道は仁義によるべきであると、武力による政治を排撃し、戦争をいさめ、民のごときはすなわち恒産なくんばよりて恒心なしと庶民生活の安定と人権尊重を政治の基本とし、また惻隠、羞悪、辞譲、是非すなわち仁義礼智の四端を広め、充実させることこそが国を豊かにし、平和に治めることができると説いているのであります。このことからも、社会主義者であると一口に言いますが、人それぞれ概念が違うのであります。孟子は、恒産なくんばよりて恒心なし、すなわち貧困にあえいでいる庶民に道徳心を守れと言っても無理である。正しい心をなくした庶民が悪事を働くようになるのは当然である。悪事を働いたからといって捕らえる前に貧困をなくすことが政治を行う者の責任であると、国を治めるには、まず庶民生活の安定が大切であると説いているのであります。
 実に大石誠之助の生き方、活動は、この孟子の教えを体現、実践していたのであって、言うところの君子、すなわちすぐれた教養と高い徳を備えた立派な人物であったと思うわけであります。この大石誠之助を名誉市民に推挙することは、国民、市民が日本の近代史、熊野地方の近代史に関心を持ち、研究が活発になり、専制政治軍国主義の怖さ、比較して現代の平和、自由、平等、人権尊重社会の価値などについて再確認し、感謝するとともに、決して過去の不幸な時代に逆戻りさせない覚悟を醸成するための契機となり、教育、文化の振興についてもはかり知れない意義があると考えるのであります。また、人権擁護都市を宣言している私たち新宮市は、名実ともに人権を最もたっとぶまちであり、市民であることの誇りを内外に発信できると信じるところであります。本案が満場一致で採択されることを切に祈念し、賛成意見といたします。
 以上。
 
○議長(屋敷満雄君) 
 反対討論はありませんか。
 7番、福田議員。
 
◆7番(福田讓君) 
 私は、本議案に対して絶対反対の立場から討論を行います。
 我が国の地方自治体は、市民から選挙によって選良される市長と市議会議員が間接民主主義の最重要性を認識し、その信念のもとに市の発展と市民の福祉向上に努めることが責務であります。それゆえに二元代表制と称されるところであります。市長は、治世者として市政を担当する責務を負い、市議会は、市長の政治を監視し、市長に対して提言と提案を行い、予算等を議決する議決権を持っております。さらに地方自治法第112条に基づき、議員の議案提出権があります。
 今般の議会初日に議員が6名の賛同議員を得て、新宮市名誉市民条例の一部を改正する条例案を発案し、討論の結果、賛成12名、反対3名で可決されました。内容は、名誉市民条例第3条第1項にある、市長が名誉市民を推挙し、議会の同意を得て決定することができる現行条例に、第2項として名誉市民の決定に関し、議会の議員は2人以上の賛成議員があるときは、あらかじめ議会の同意を得て市長に名誉市民の候補者を推挙できるものであります。すなわち議会の決定は全会一致か多数決原理に基づく民主主義決定の合議体であります。今般の議案提出は、名誉市民条例の一部改正の可決に伴う議員からの大石誠之助先生を名誉市民に推挙するものであります。
 7年前にも大逆事件の犠牲者を顕彰する会の方々から、大石誠之助先生を名誉市民に推挙していただきたいとの請願書が提出され、当時の議会において僅差で否決されました。さらに2人以上の賛成議員が名誉市民を議会に推挙し、議会の同意を得て市長が決定するという条例改正案も僅差で否決されました。
 本定例会で議会制民主主義、多数決に基づいて可決された名誉市民条例の一部改正の第3条第3項では、市長は、議会において推挙された者が名誉市民として適当と認めたときは、第1項の規定にかかわらず決定することができるというものであり、名誉市民の最終決定権限は市長に委ねるものであります。
 本議案の趣旨は、大石誠之助先生を名誉市民に推挙するものでありますが、果たして大石誠之助先生の生い立ちから亡くなられるまでの経歴をどれだけの市民が熟知されているでしょうか。私が推察するところ、さらに市民の方々に大石誠之助先生の人物像をお尋ねしても、ほとんどの方々は認識されていないのが現状であります。名誉市民の原点とは、その人物が広く市民に知れ渡り、市民の誰もが納得し、市政の発展と社会福祉の向上、産業の発展・振興、学術・文化・スポーツの興隆に貢献され、さらに市民が郷土の誇りとかつ尊敬に値すると認められる人物でなければならないと考えております。
 大石誠之助先生は、新宮市でも特に裕福な家庭で育ち、学問にも優秀で、明治17年に大阪の小野医師の書生として住み込み、その後、同志社英学校、東京の神田共立学校で英語を学び、明治23年アメリカ合衆国に渡り、オレゴン州立医学部へ入学され、明治26年オレゴン州ポートランドで医院を開業いたしました。その後、カナダのモントリオール大学で外科を修得され、コロンビア州スティーブストンに移り、開業いたしましたが、家庭の都合で明治28年新宮市に帰郷されました。明治29年、仲之町でドクトルおおいしという看板を掲げ開業をいたしました。アメリカ帰りの新しい医術が光っている上に、患者にはいたって物優しく、貧しい人々に対しても極めて気安く診察され、さらには診察料も薬代も積極的には請求しないというので庶民の間ではたちまち有名となり、一種の信仰的存在となりました。明治32年シンガポールに渡り、植民地病院にてマラリア病を研究し、さらに伝染病学研究のためにインドのボンベイ大学に留学をされました。このインドで見聞したカースト制度が大石誠之助先生に差別について深く考えさせるきっかけとなり、社会主義へ近づかせることとなりました。翌年、病気のために新宮市に帰郷し、船町で再び病院を開業されました。このころより地方新聞に文芸作品及び社会主義的評論を投稿するようになりました。
 その後、明治37年平民新聞のシンパとなり投稿を始め、反戦論を主張するようになりました。さらには非戦論を牟婁新報などに寄稿するとともに、社会主義を標榜する堺利彦幸徳秋水らと交流し、資金援助をするに至っております。明治43年大逆事件が発覚。共同謀議の罪で大石誠之助先生も起訴され、明治44年に処刑されました。若干43歳でこの世を去りました。大石誠之助先生を語るとき、時は幕末の時代から明治の社会へと変革する文明開化の波とヨーロッパ列強国と戦うために富国強兵、尊王攘夷の向かっていた時代であります。幾多の国難を乗り越えるとき、吉田松陰高杉晋作伊藤博文山縣有朋などを生み、その結果、明治天皇を頂点とする当時の近代国家が誕生いたしました。おくれてからの近代化のため、強引な政治を進めたことに反発する社会主義運動や反戦運動が活発化し、その渦中にあった社会主義思想を標榜する幸徳秋水らが企てたとする明治天皇暗殺未遂事件が俗に言う大逆事件であります。
 大石誠之助先生は、大逆事件の首謀者とされる幸徳秋水とは、たとえ主義思想が同じであったとしても、また資金を援助していたとしても、天皇暗殺という画策、すなわち時の政府が社会主義者や博愛・反戦論者を弾圧するための政策であったとも考えられております。まして医者であり人命を守っていくことが責務である人物がそのような考えを持つすべもなく、捏造されたことも現代においては報告をされております。
 私は、先生は謀議に加担するようなはずがないと思っております。しかしながら、時の時代の運命とはいえ、当時の検察によって起訴され、わずか1カ月の裁判によって有罪判決が確定し、処刑されました。現在の憲法下では、地裁、高裁、最高裁三審制度のもとでの裁判によって時間をかけ、慎重に審理されますが、明治憲法下での判決は、大石誠之助先生が歩んできた医者としての博愛精神を打ち消されるむごいものであり、まことに残念至極であり無念であったと思われます。大石誠之助先生が生誕されてから100年の年月が流れました。昭和34年に再審請求を行いましたが、却下されました。たとえ明治時代の旧憲法とはいえ、当時の刑法で起訴され、有罪判決が下されたことも現行憲法においても判決は覆っていないことも認識しなければなりません。
 大石誠之助先生が博愛主義の信念のもと、医者として貧しい人には診察代や薬代も請求せず、文学者としても優秀であり、持って生まれた反骨精神は、新宮人としての誇りであると思っております。しかし、戦後多くの研究者によって大逆事件の解明が進む中において、大石誠之助先生らは、冤罪事件の犠牲者になったことが明らかになりつつあります。
 しかしながら、国家による名誉回復はできておりません。すなわち有罪判決のままで現在に至っております。このような現況の中で何ゆえ名誉市民に推挙されようとするのか、私には理解に苦しむところであります。大石誠之助先生を名誉市民に推挙して新宮市民が郷土の誇りと尊敬に値すると認めていただけるでしょうか。大石誠之助先生を真に名誉市民として推挙するためには、日本を震撼させた大逆事件が時の明治政府が社会主義者反戦論者たちを弾圧するための冤罪とするならば、無実を勝ち取るために国家の誤った認識をただす以外に道はないと思います。大石誠之助先生を名誉市民に推挙して、この問題の決着を図ろうとするのは、余りにも安易な手法ではないのでしょうか。
 私は新宮人であるとともに市民に選ばれた議員であります。新宮市の名誉と市民の名誉を守る義務があります。日本は法治国家であり、たとえ明治憲法下の裁判による有罪判決であっても、現在の憲法下において再審を請求してもなおかつ有罪判決が覆ることができないならば、裁判の決定を遵守することが当然であります。すなわち大石誠之助先生を名誉市民に推挙する議案には、市議会議員としての矜持に基づき、断じて賛成することはできません。
 以上で反対討論を終わります。
 
○議長(屋敷満雄君) 
 討論を終わります。
 これより、本案について起立により採決いたします。
 念のため、申し上げます。
 採決に際し、着席された議員は本案に反対とみなします。
 本案に賛成の方の起立を求めます。
     (賛成者起立)
 
○議長(屋敷満雄君) 
 起立多数であります。
 よって、議員発案第2号は、これを同意することに決定いたしました。
 
※付記
 上記審議において発言した議員の所属政党・会派を参考までに付記しておきます。
上田勝之議員(提案者) 無所属/浜木綿クラブ
辻本宏議員(反対) 無所属
松畑玄議員(賛成) 無所属/浜木綿クラブ
北村奈七海議員(反対) 無所属
杉原弘規議員(賛成) 日本共産党
大石元則議員(反対) 無所属/政友クラブ
大西強議員(賛成) 無所属/きょうけん会
福田讓議員(反対) 無所属/政友クラブ
(引用終わり)
 
(参考条文)
新宮市名誉市民条例(平成17年10月1日条例第4号)
改正 平成29年12月7日条例第22号
 (目的)
第1条 この条例は、新宮市における市政の振興、社会福祉の向上、産業の振興、学術・文化又はスポーツの興隆に貢献してその事績が卓絶し、功労が特に顕著な者に対しその栄誉をたたえ、功績を表彰することを目的とする。
 (称号)
第2条 市民又は市と特別に縁故の深い者で、前条に掲げる事項に該当し、市民が郷土の誇りとし、かつ、尊敬に値すると認めるものには、新宮市名誉市民(以下「名誉市民」という。)の称号を贈る。
2 前項の名誉市民の称号は、故人に対しても追贈することができる。
 (名誉市民の決定等)
第3条 名誉市民は、市長が議会の同意を得て決定し、その事績を公表し、表彰状及び記念品を贈呈して表彰する。
2 名誉市民の決定に関し、議会の議員は2人以上の賛成議員があるときは、あらかじめ議会の同意を得て、市長に名誉市民の候補者を推挙することができるものとする。
3 前項の場合において、市長は当該推挙された者が名誉市民として適当と認めたときは、第1項の規定にかかわらず、これを決定することができる。
(第4条~第6条及び附則は省略)
※第3条2項及び3項は、議員発案第1号として、2017年12月定例会(12月5日)で改正(追加)されたものであり、この新規定に基づいて、大石誠之助を名誉市民に推挙する件(議員発案第2号)が可決されるに至ったのでした。 
 
(参考サイト)
新宮市ホームページ 新宮市の名誉市民
大石 誠之助
【おおいし せいのすけ】(1867~1911) 慶応3年、新宮市に生まれる。渡米して医療を学び、新宮市に医院を開業。人権思想や平和思想の基礎を築き、甥の西村伊作等に対して大きな影響を与えた。
平等に医療を。「ドクトルさん」
 渡米して医療を学び、新宮市に医院を開業した大石誠之助は、熊野地方に多い伝染病や脚気などをインドに渡って研究したほか、貧しい人からは診察料を取らず、「ドクトルさん」と称えられ感謝されました。「太平洋食堂」や「中央堂」といったレストランを開業し、西洋料理の普及や調理法の発案を行うなど、西洋的で合理的生活などの普及にも尽力しました。「情歌(都都逸)」の世界においても、禄亭永升として宗匠の地位まで上り詰め、その普及にも活躍したほか、中央や地方の新聞、雑誌に当時の社会問題などに関するエッセイを投稿し、現在にも通じる先駆けの作品として評価されています。さらに、「新聞雑誌縦覧所」を設け、青年たちに弁論と思想の交流の場を提供しました。中央の文化人を招へいし、講演会などを開き、市民の啓蒙に努めました。 
 戦後の研究では、明らかに冤罪事件とされる所謂「大逆事件」に連座され、四十三歳の若さで非業の死を遂げたが、平和・博愛・自由・人権を訴えた大石誠之助の思想啓蒙活動は、現在にも通じる先覚的な取り組みであり、明治期に、熊野地方において人権思想や平和思想の基礎を築いたといえます。
 その思想と行動は、名誉市民として名を連ねる甥の西村伊作のほか、佐藤春夫中上健次などに対しても大きな影響を与え、新宮市における質の高い文化土壌の創生に貢献しました。
 
和歌山県教育委員会 ふるさと教育副読本「わかやま発見」 
第2編 わかやまの歴史
第4章 近代和歌山の発展 
牟婁新報』と大逆事件
(引用開始)
大逆事件と大石誠之助らの悲劇
 社会主義思想が田辺で最も盛んであったのが,荒畑寒村(あらはたかんそん)らが活躍した1905~06年で,新宮で最も盛んになったのは1908年のことです。幸徳秋水がこの年の夏,新宮に大石をたずねています。大石は困っている人からは治療費をもらわないなど,「ドクトル(毒取る)さん」と親しまれていました。若者にも共感をよせていた大石の人柄をしたって,社会主義に関心をもつ青年たちが,大石のまわりに集まり,さかんに論議しあいました。
 1910年,長野県で弾を持っている者が見つかり,天皇の暗殺を企てたとして,全国で社会主義者の逮捕がつづきました。その中心者は,幸徳秋水ということにされました。世に大逆事件とよばれた事件ですが,このとき,大石を中心とする「紀州グループ」の人々6名も次々にとらえられていきました。そして,大石と成石平四郎(なるいしへいしろう)の2人が死刑,成石勘三郎(なるいしかんざぶろう)・高木顕明(たかぎけんみょう)らが無期懲役に処せられました。高木顕明は,新宮の浄泉寺(じょうせんじ)の住職で,貧困などで苦しんでいる人々の相談相手としてやさしく手をさしのべていました。そうしたことから,たくさんの人々からしたわれていました。また,成石勘三郎と平四郎の兄弟は請川(うけがわ)(田辺市)で将来を期待されていた青年たちでした。
 この事件をきっかけに,日本では,特に社会主義者のとりしまりがたいへん厳しくなりました。第二次世界大戦後,大逆事件にかかわる資料が次々と発見されてこの事件の真相が明らかにされ,大石らは,全くの無実であったことがわかりました。
(引用終わり)
 
(弁護士・金原徹雄のブログから/大逆事件関連)
2013年10月16日
大逆事件と和歌山(予告12/8映画『100年の谺 大逆事件は生きている』上映)
2014年5月10日
大逆事件原発憲法どれも大事だが(5月31日 和歌山市では)
2016年2月18日
徳冨健次郎(蘆花)の『天皇陛下に願ひ奉る』と『死刑廃すべし』
2016年2月20日
徳冨健次郎(蘆花)の『天皇陛下に願ひ奉る』と『死刑廃すべし』(簡略版)
2017年4月18日
声明「許せない「共謀罪」」~「「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会」が引き継ぐ「志」
2018年1月22日
新宮市、大石誠之助(大逆事件犠牲者)を名誉市民に~市民の矜恃をかけた決定に敬意を表する