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放送予告・ETV特集「写真は小さな声である~ユージン・スミスの水俣~」(2018年11月10日)

 2018年11月5日配信(予定)のメルマガ金原No.3322を転載します。
 
放送予告・ETV特集「写真は小さな声である~ユージン・スミス水俣~」(2018年11月10日)
 
 写真集『水俣(MINAMATA)』で知られるアメリカの著名な報道写真家、故ウィリアム・ユージン・スミス氏(William Eugene Smith、1918年12月30日~1978年10月15日)を、俳優のジョニー・デップ(Johnny Depp)が演じることになり、来年の1月には日本で撮影が始まると報じられたのはごく最近のことでした。
 
シネマトゥデイ 2018年10月24日 15時11分
ジョニー・デップ水俣病を扱った新作で実在の写真家に!日本でも撮影
(引用開始)
 米俳優ジョニー・デップが、水俣病の問題を扱った新作『ミナマタ(原題) / Minamata』で、実在の写真家ウィリアム・ユージン・スミスさん役に挑戦するとDeadlineなどが報じた。
 本作はウィリアムさんと妻アイリーン・美緒子・スミスさんが共同で執筆した同名著書「ミナマタ(原題) / Minamata」を基に、ハンウェイ・フィルムズが手掛けて映画化する予定。監督は『最低で最高のサリー』で製作総指揮を務めたアンドリュー・レヴィタスで、デヴィッド・K・ケスラーが脚色する。
 第2次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島で活動した写真家ウィリアム・ユージン・スミスさんが、1970年代にライフ誌の編集長ラルフ・グレイヴスの依頼でチッソが引き起こした水俣病の取材をし、その実態を暴いた経緯を描く。
 2019年1月から日本で撮影に入り、その後セルビアで撮影することになっている。(細木信宏/Nobuhiro Hosoki)
(引用終わり)
 
 同趣旨の日本語によるニュースのソースは、上記記事でも触れられているDeadlineによる以下の記事です。
 
Johnny Depp To Star As Photojournalist W. Eugene Smith In Thriller ‘Minamata’, HanWay To Launch Sales – AFM
by Andreas Wiseman  October 23, 2018 8:18am
 
 日本独自の取材による報道として、朝日新聞デジタルの記事を引用しておきましょう。
 
朝日新聞デジタル 2018年10月31日09時00分
水俣病伝えた米国人、ジョニー・デップさん映画で演じる
(引用開始)
 「公害の原点」といわれる水俣病を世界に伝えた著名な米国人写真家の故ユージン・スミスさん(1918~78)を、俳優のジョニー・デップさんが演じる映画制作の計画が進んでいる。米映画関係者が熊本県水俣市を訪れ、水俣病患者らに制作の意向を伝えた。
 スミスさんは第2次世界大戦中、従軍カメラマンとして沖縄などの戦地を踏み、71年から3年間、妻のアイリーン・美緒子・スミスさん(68)と水俣に滞在。母に抱かれて入浴する胎児性水俣病患者の上村智子さん(77年に21歳で死去)らの撮影に共同で取り組み、集大成の写真集「MINAMATA」で世界に衝撃を与えた。今年はスミスさん生誕100年にあたる。
 アイリーンさんや米映画制作会社の関係者が9月に水俣市を訪れ、智子さんの父好男さん(84)や、胎児性患者の坂本しのぶさん(62)らと面会。坂本さんは「本当のことを伝えてほしい」などと伝えた。
 年明け以降、国内外で撮影が本格化し、水俣の風景も盛り込まれる見通し。アイリーンさんは「ジョニー・デップさんの演技力で、ユージンのユーモアあふれる人格とジャーナリズムへの熱意を世界に知らせ、水俣の今と世界中の公害と闘う人々に光を当ててもらいたい」と話している。(奥正光)
(引用終わり)
 
  シネマトゥデイ朝日新聞も、抜粋引用にとどめようと考えたのですが、カットするところが見つけられませんでした。
 
 映画館で映画を定期的に観るという習慣をなくして相当経つ私は、ジョニー・デップ主演作のうち、映画館で観たのは『チャーリーとチョコレート工場』(ティム・バートン監督/2005年)1本だけという有り様ではありますが、これらのニュースに接し、「『MINAMATA』が優れた作品として完成して欲しい、是非映画館で観たい」と思ったものでした。
 そのような気持ちの幾分かは、私自身まだかけ違ってお目にかかったことはないものの、アイリーン・美緒子・スミスさんのお名前が、京都の「グリーン・アクション」代表としてお馴染みであったことによります。
 「グリーン・アクション」のホームページを覗いてみると、私のブログでも開催情報をお伝えした「核のゴミ捨て場「中間貯蔵」はいらない!10・28 関西集会」で採択されたアピールが掲載されていました。
 アイリーンさんの現在の活動(の一端)を知っていただくために、本ブログ末尾にこのアピール全文を転載しておきます。
 
 さて、前置きが長くなり過ぎました(私のブログではよくあることですが)。
 今度のETV特集で、そのユージン・スミスさんを取り上げた番組「写真は小さな声である~ユージン・スミス水俣~」が放送されるのです。
 これは絶対に見逃せません。1人でも多くの方に録画・視聴をお勧めしたく、今日のブログでご紹介することにしたものです。
 
NHK・Eテレ
本放送 2018年11月10日(土)午後11時00分~12時00分
再放送 2018年11月15日(木)午前0時00分~1時00分(14日深夜)
ETV特集「写真は小さな声である~ユージン・スミス水俣~」
(番組案内から引用開始)
写真集「水俣」で知られるユージン・スミス。今年生誕100年を迎えた彼のプリントや撮影時の録音が公開された。水俣に住み込み、患者さんの姿を世界に伝えた素顔に迫る。
公害の原点・水俣を世界に伝えたアメリカの写真家ユージン・スミス。その膨大なプリントや取材時の録音テープが公開された。従軍カメラマンとして太平洋戦争の激戦地を撮影した彼は、沖縄で負傷。戦後、近代化の影で切り捨てられようとした弱者に目を向けていく。妻・アイリーンと水俣に住み込み、患者さんに向き合い続けた日々。初公開の資料や患者さんらの証言から、悩みながら水俣を撮り続けたユージン・スミスの素顔に迫る。
(引用終わり)
 
 以上にご紹介した映画化に関わる報道やETV特集の番組案内には記載されていませんが、ユージン・スミスさんと水俣に関しては、以下のような痛ましい事件もあったそうです。Wikipediaから引用します。
(抜粋引用開始)
1972年1月、千葉県市原市五井にあるチッソの工場を訪問した際に、交渉に来た患者や新聞記者たち約20名が会社側の雇った暴力団に取り囲まれ、暴行を受ける事件が発生する。スミスもカメラを壊された上、脊椎を折られ片目失明の重傷を負う。この事件でスミスは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。その後『ライフ』1972年6月2日号に「排水管からたれながされる死」を発表した。
(引用終わり)
 
 Wikipediaでも引用されていますが、水俣に住み込んでいたスミス夫婦のアシスタントを買って出ていた高校生で、後にフォト・ジャーナリストとなった森枝卓士さんのインタビューが、その当時の現地の状況を彷彿とされてくれます。
 
MANMO.TV 5934号 2017.03.31
インタビュー 森枝卓士
(抜粋引用開始)
問:水俣病というと、公害の原点ともいわれる大変な社会問題でした
もちろんそこに住んでいたのだし、いくら能天気だといっても高校生だったのだから、それがどんなことかはわかっていた。ただ僕はあまりにも水俣という土地になじんでいたから、そのことよりもただ偉いカメラマンが、あのすばらしい写真を撮ったカメラマンがやってくるという、そのことだけで興奮していたと思う。だから、やってきたばかりのアイリーンに街で声をかけた。
問:ユージン・スミス水俣病患者の姿を撮って社会告発するということだったのでしょうか?
公害病」という言い方をするけど、要するに水俣は環境問題の原点であるわけです。そういうことから、さまざまな社会問題をテーマに写真を撮っていたユージンの目に留まったのではないでしょうか。
でも、水俣の人間の側からすると、水俣というのはそのチッソのおかげでみんなが食べていたような町だったんですよ。いくつもの企業があってその中のひとつというわけではなかった。チッソただそれだけ。
僕の父も母もチッソで働いていたし、そのおかげで自分たちがかなわなかった夢だった、東京の大学に僕と弟、妹の3人の子供を送り卒業させた。だから、複雑な感情があったわけですね。
問:それで、あの冒頭のアイリーンさんの文章につながるわけですね?
僕は父に隠れてこそこそと彼らのところに通ってました。家から高校までは電車で行くんだけれど、帰りは電車には乗らずにバスに乗り彼らの住むところに寄るというぐあいだった。
ユージンが住んでいたのは水俣病患者がもっとも多かった地域。何度も通ってアルバイトのようなことをしているうちに、彼らのやろうとしていることを身近で見ているうちに社会に対する問題意識も徐々にもつようになっていったと思う。
新聞もずいぶん熱心に読むようになり、英語しかしゃべれないユージンと直接話したいと英語の勉強もがんばるようになった。
問:でも隠れて通わなければならなかった
前にも言ったように、水俣は「チッソ城下町」のようなところだから。その上、父親はその社員でバリバリの保守系だったから。
僕がそもそも一番最初にユージンと会ったのは、その父親が参加していた保守派の集会で、しかも初めて会ったというのに、ユージンのカメラバッグを持っていっぱしの助手のような顔をしていた。
このときの父親のショックはそれは想像を絶するものだったろうね。家に帰ったら寝込んでいたもの。僕を怒鳴りつけた父親のあまりの剣幕にただただうなだれて従ったふりをしていたが、これからはわからないように彼らに会いにいこうと決心していた。
(引用終わり)
 
 また、アイリーン・美緒子・スミスさんに対する興味深いインタビューもありました。
 
Ko-e magagine online July 2009
Aileen Mioko Smith Text & Interview: Ian Priestley
(抜粋引用開始)
IP. その暴行事件で生活に何か影響はありましたか?
AMS. その事件以来、私たちの生活は一変しました。それ以前にも彼はたくさんの傷を負っていました。太平洋戦争中に3回の飛行機事故を経験し、チッソでの暴行事件以前に30回以上も手術を受けていましたから、もともと辛い状態ではあったわけです。そして彼はアルコールに依存していました。酒の力で痛みを忘れようとしていました。そしてチッソの暴行事件による大怪我で私たちの取材活動はますます難しくなってしまいました。
ユージンは手を上げるという動作をすると時々気を失いそうになっていました。そんなときは私が彼を脇の方へ引っ張って行って私が代わりに写真を撮りました。またあるときは、ちょっと手を上げただけでも失神しそうになるというので口でシャッターを切ろうとしていたこともありました。
彼はひどい頭痛にも悩まされていました。水俣では古い借家に住んでいて暖房には薪を焚いていました。薪を割るのに使う斧があったのですが、ある日彼は「斧を持ってきてこの頭をかち割ってくれ」と言ったくらい辛かったようです。
(引用終わり)     
 
 ETV特集「写真は小さな声である~ユージン・スミス水俣~」を視るための予習としては盛り沢山過ぎたでしょうか。あまり、先入観を持たずに虚心に番組に向き合いたいという方には、余計な情報だったかもしれません。
 それでも、故ユージン・スミスさんや水俣について、多くのことを学ぶ契機となればと思って調べてみました。
 
(参考資料 核のゴミ捨て場「中間貯蔵」はいらない!10・28 関西集会アピール
(引用開始)
 原発の使用済燃料の行方が、いまや差し迫って大きな問題になっている。運びこむべき六ケ所再処理工場の受入貯蔵プールが満杯になっているためである。それに加えて新たに、福島事故以後に進行している老朽原発廃炉が、電力会社にとってきわめて深刻な状況をつくりだしている。
 美浜1・2号の廃炉に伴って、そこの使用済燃料プールも廃止になり、3号炉のプールに移すと現状でもあふれてしまう。同様に、大飯1・2号から3・4号に移すと、そこはおよそ満杯に近くなる。にもかかわらず関電は、無謀にも、大飯3・4号の運転を再開し、美浜3号も運転再開しようとしている。
 大飯3・4号の運転再開を容認するにあたって福井県知事は、使用済燃料を県外に移送するよう要求した。関西電力は、県外の中間貯蔵の計画地点を今年中に公表すると約束し、これを条件として、福井県知事は大飯3・4号の運転再開を昨年11月に容認した。
 その期限までに2か月を残すばかりとなった本日、私たちは関西集会に集い、使用済燃料という名の核のゴミの実情を直視した。
 和歌山県白浜町では「核のゴミはいらん日置川の会」が7月29日に結成され、他の2地区でも、8月に同趣旨の白浜の会が結成された。和歌山県、関西、生協関係の運動団体からも白浜町に反対の申入れがなされてきた。これらを受けて白浜町長は9月町議会冒頭で、それまでの姿勢を転換し、関電から申入れがあっても協議には応じないとの意思をついに初めて表明した。
 青森県むつ市は関電からは受け入れない方針であることを、私たちは9月13日に直接出向いて確認した。兵庫県北部など関電管内のどこも受け入れる意思はないことを、アンケートなどで確認している。
 他方、福井県高浜町長とおおい町長は8月末に相次いで、敷地内乾式貯蔵も選択肢としてあり得ると表明した。9月の福井県議会でも、若狭地域選出議員が知事の県外搬出方針を槍玉にあげている。これらは県外立地の困難を見越し、事実上、関電を援護するものである。ただし、両町とも今のところ、知事の県外立地方針を認め、関電の計画を注視する姿勢であることは10月の申入れ時に確認した。
 本日私たちは白浜町からの報告を聞き、反対組織の立ち上げに踏み切った思いを受け止めた。「ゆたかな海・山・川を子どもや孫たちに残そう、日置川に核のゴミはいりません」がそのスローガンである。
 その思いは、原発立地点の高浜町おおい町の人たちにも共通ではないだろうか。白浜に許されない施設は、やはり高浜やおおいにも許されるべきではない。
 実際、ひとたび貯蔵施設がつくられれば、そこは永久的な核のゴミ捨て場とならざるを得ない。以前に50年の貯蔵期間終了後に運ぶ予定であった第二再処理工場は、現在は事実上消滅している。六ヶ所再処理工場も、寿命が40年なので、そのころには幻と化している。
 中間貯蔵施設も敷地内乾式貯蔵施設も、原発を延命させ、ますます多くの使用済燃料というゴミをつくるための施設である。原発核燃料サイクルの矛盾はいまや誰の目にも明らかである。全国各地の運動は連携を強め、使用済燃料の新たな貯蔵施設の計画に反対しよう。
 福井県外の計画地点の公表ができないよう監視を強めよう。敷地内乾式貯蔵施設も永久的な核のゴミ捨て場となることを、地域の人たちに広く知らせて行こう。
 大飯3・4号の稼働に関する知事の承認は、年末に約束違反となれば事実上無効となる。大飯3・4号を止め、さらに高浜3・4号、高浜1・2号、美浜3号を止めていこう。
  2018 年10月28日 核のゴミ捨て場「中間貯蔵」はいらない!関西集会 参加者一同
(引用終わり)