wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(志田陽子著)を読む~入院読書日記(2)

 2019年4月30日配信(予定)のメルマガ金原.No.3415を転載します。
 
『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(志田陽子著)を読む~入院読書日記(2)
 
 「平成」最後の1日となった今日4月30日、平成元年(1989年)4月に司法研修所を修了し、弁護士登録した私にとって、いささかの感慨がない訳ではありません。とはいえ、それは、平成の30年を振り返ることが、同時に自分の弁護士生活30年を振り返ることになるという偶然の事情によることに過ぎず、それ以上の深い思い入れがある訳ではありません。
 
 ということで、10連休の途中とはいえ、急な法律相談に応じるために事務所に出て来たのを好い機会として、かねてから「書かなければ」と思いながら、なかなか手が着けられていなかった本稿にとりかかることにしました。
 本稿を「書いてみたいと思っています。」と予告したのは、以下のブログにおいてでした。
 
2019年3月23日
 
 今年の1月から3月にかけて、左肺の自然気胸によって、
  2019年1月26日~1月30日
  2019年2月15日~2月19日(再発)
  2019年2月28日~3月5日(手術)
と3回の入院を繰り返し、その2回目と3回目の入院時に読んだ3冊の憲法関連の本の読後感をシリーズで「書いてみたい」と広言してしまったのでした。
 2回目の入院時に読んだ『いま 日本国憲法は 原点からの検証(第6版)』(小林武・石埼学編)については早々と書き上げたものの、3回目の入院のときに読んだ『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(志田陽子著)と『日本国憲法』(長谷部恭男解説/岩波文庫)とは、なかなか書き始められませんでした。
 これが、「ブログ毎日更新」を続けていたときなら、何も考えず(?)思いついたことから書き始め、何とかそれなりに書いてしまえたはずなのですが、「毎日更新」のノルマを放擲した途端に「筆が重くなる」症状に見舞われました。このようになるということはある程度予想できたことであり、そうであればこそ、6年もの間、無理を押して「毎日更新」を続けてきたのでした。
 とはいえ、これ以上引き延ばしていると、読んだ内容を忘れてしまいかねませんので、自分の問題関心に引き寄せて、特に教えられた部分を紹介するという方針で書いてみることにしました。「入院読書日記(1)」に続き、本文は常体で執筆することにします。
 

入院読書日記(2)
 
『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』
志田陽子 著
大月書店
2018年10月15日 第1刷発行
定価 1,700円+税
 
 武蔵野美術大学で教鞭をとる志田陽子教授が2018年10月に刊行された単著である。
 通常、その著書の狙いや構成は、「目次」に端的にあらわれているはずであるから、本書でもまず「目次」をご紹介しよう。
 詳細「目次」は、版元のホームページに掲載されているので、それをご参照いただくこととして、以下には大項目のみ抜きだしておく。
 
目次
はじめに
第1章 表現者の足跡――なぜ「表現の自由」か
1 「表現の自由」の足跡
2 なぜ「表現の自由」か
第2章 一人ひとりの人格権と「表現の自由
1 「表現の自由」と人格権
3 プライバシーの権利
4 肖像権
5 差別表現・ヘイトスピーチと人格権
第3章 民主主義と「表現の自由
1 民主主義と「表現の自由」と「知る権利」
2 民主主義における表現の「自由」
3 民主主義の空間と「政治的中立」
第4章 共存社会と「表現の自由
1 「生きるということ」を支える「表現の自由
2 多文化社会――マイノリティ性との共存
3 経済社会と「表現の自由
第5章 文化芸術と「表現の自由
1 法からの自由としての文化芸術の自由
2 文化芸術支援と「表現の自由
3 文化芸術と政治と「表現の自由
あとがき
主要参考文献
 
 本書は、日本国憲法21条1項によって「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と定められ、基本的人権の中でも特に「優越的地位」が承認されている「表現の自由」について、その基本的な意義、他人の人格権と「表現の自由」の行使との調整、民主主義、共存社会を根底から支え、文化芸術の発展のために不可欠な「表現の自由」をめぐる諸問題について、具体的な事例や映画等の創作例なども豊富に交えながら、広い視野からの解説を心掛けた概説書である。
 読者は、本書を通読することにより、「表現の自由」をめぐる様々な事象を知るとともに、それらの事象相互間の関係、そして「表現の自由」が果たす役割についての全体像を把握することができるだろう。
 
 もっとも、上記は、理想的な読者を想定した感想であって、誰でも通読するだけでそのような理解に達することができるとは思われない。そういう私自身、本書に書かれた全てのピースを、「表現の自由白地図の上の最も適切な場所にはめ込むことが出来るかどうか、はなはだ心許ない。
 とはいえ、およそ「表現の自由」と全く無縁な生活を送っているのでない限り(無縁な人などいるのかということはさておき)、自ら関心をいだく問題についての言及を、きっと本書の中から見出すことが出来ると思う。そのような箇所を見つければ、その問題についての理解を一層深めつつ、その周辺に関心を広げていくという次の段階に移行し、このようにして、やがて「表現の自由白地図の空白が徐々に埋められていく、本書は、そのような作業(学習)の好個の導き手であると思われる。
 
 ここで一例を挙げよう。本書を読みながら、私が「そうか」と思わず膝を打った(実際に打った訳ではないが)箇所がある。
 それは、本書111頁以下で論じられている
  第3章 民主主義と「表現の自由
  3 民主主義の空間と「政治的中立」
及び関連する201頁以下の
  第5章  文化芸術と「表現の自由
  3 文化芸術と政治と「表現の自由
の部分(特に後者の末尾)である。
 本書は、「とくに民主主義にとっては「集会の自由」が大きな意味を持つが、この自由を確保するためには、集会の場所を確保することが必要になる。こうしたニーズに応えるため、自治体が運営する公の施設がある。」という前提を示した上で、「ここ数年、市民の自発的な集会や催事に対して、地方自治体による公共施設の貸し出し拒否や、後援拒否が多く見られるようになった。」(111頁)という近時の現象を指摘する。
 実際、私自身が関わっている団体についても、「拒否」とまではいかなかったが、その一歩手前の段階までいった事例があり(この時は類似案件についての仮処分事件の調査までやった)、似たような経験を持っている団体も多いのではないかと推察する。そのような方々には、是非とも本書を買い求めて勉強されることをお薦めしたい。
 
 さて、少し先走り過ぎたが、この問題についての本書の解説を読んでみよう。
 
 本書は、まず「公の施設」についての地方自治法244条の規定を引用する。
 
 (公の施設)
第二百四十四条 普通地方公共団体は、住民の福祉を増進する目的をもつてその利用に供するための施設(これを公の施設という。)を設けるものとする。
2 普通地方公共団体(次条第三項に規定する指定管理者を含む。次項において同じ。)は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。
3 普通地方公共団体は、住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない。
 
 そして、「正当な理由」(地方自治法244条2項)の有無をめぐって争われた泉佐野市民会館事件最高裁判決(1995年3月7日最高裁判所第三小法廷判決)が示した、自治体が施設利用を拒否できる場合の要件を紹介する(112頁)。
※判決の該当判示箇所を引用する(本書では要約が掲げられているが、以下には判決原文から引用する)。
集会の用に供される公共施設の管理者は、当該公共施設の種類に応じ、また、その規模、構造、設備等を勘案し、公共施設としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきであって、これらの点からみて利用を不相当とする事由が認められないにもかかわらずその利用を拒否し得るのは、利用の希望が競合する場合のほかは、施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合に限られるものというべきであり、このような場合には、その危険を回避し、防止するために、その施設における集会の開催が必要かつ合理的な範囲で制限を受けることがあるといわなければならない。そして、右の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである。」 
 
 その上で、本書は、「しかし近年、こうした判決が参照されなくなり、「正当な理由」の捉え方がそれぞれの現場で緩んできているのではないか、という心配がある。たとえば、ある自治体の「まつり出店拒否」の事例では、「政治的・宗教的な意味合いのあるもの」の参加を認めない旨の募集要項が市報に掲載されていた(2016年「国分寺まつり」の事例)。この募集要項に基づいて、3つの団体が参加を認められなかったことについて、東京弁護士会は「表現の自由」が侵害されていると認定している。前述のように、こうした傾向が全国で見られることが報道されている。」(114頁)と、現状が紹介される。
東京弁護士会は、人権救済申立事件として受理して調査を行い、2016年8月17日付で、国分寺市長及び国分寺まつり実行委員会に対し、人権侵害を認定した上で、「要望書」を執行した。
 ちなみに、出店を拒否された3団体は、「国分寺9条の会」、「ちょっと待って原発の会」、「Bye-Bye原発国分寺の会」であった。
 
 そして、以上の「国分寺まつり」の事例もそうであるが、「近年、地方自治体による公共施設の貸し出し拒否や後援拒否などが増えている。その多くが、「政治的中立を保つ」との理由によっている。」(116頁)として、九条俳句公民館だより不掲載事件を詳しく紹介している(117頁)。
 その中で、一審さいたま地裁判決(2017年10月13日)が判示した以下の部分(本書でも引用)は特に重要だと思う。
 
本件俳句(金原注:五月雨に 「九条守れ」の 女性デモ)が,憲法9条集団的自衛権の行使を許容していると解釈すべきでないとの立場を表明したものであるとすると,本件俳句を本件たよりに掲載することにより,三橋公民館は,上記立場に反対する立場の者からクレームを受ける可能性があることを否定することはできないが,前提事実(3)エのとおり,本件俳句を本件たよりに掲載する場合,別紙俳句目録1記載のように,本件句会の名称及び作者名が明示されることになっていることからすれば,三橋公民館が,本件俳句と同じ立場にあるとみられることは考え難いから,これを掲載することが,直ちに三橋公民館の中立性や公平性・公正性を害するということはできない。
 むしろ,行政が,中立性や公平性・公正性を確保する目的が,国民の行政に対する信頼を確保することにあるとすれば,本件俳句を本件たよりに掲載しないことにより,三橋公民館が,憲法9条は,集団的自衛権の行使を許容するものと解釈すべきとの立場に与しているとして,上記立場と反対の立場の者との関係で,行政に対する信頼を失うことになるという問題が生じるが,認定事実(4)で認定した本件俳句の不掲載までの経緯によれば,三橋公民館が,本件俳句を本件たよりに掲載しないこととするに当たって,三橋公民館及び桜木公民館の職員ら(C,D及びE)は,この点について何ら検討していないものと認められる(以下、略)。
 
 地方自治体が守るべき「政治的中立性」の本質とは何か?という論点を十分正しく理解することができれば(私たちにしても、行政側にしてもであるが)、近時全国で頻発している同種事例についての対処が大いに改善に向かうのではないか、と期待される。
 それでは、いよいよ私が「思わず膝を打った」本書の該当箇所を引用しよう(207頁)。
 
(引用開始)
 公的空間における表現の政治性が問題となった場合には、「政治的中立性」の原則の本来の意味を確認する必要がある。ここで要求される「政治的中立性」は、会場を使用する市民の側に要求されるものではなく、行政職員の側に要求される原則で、職員が政治活動の主体となって公の施設をこれに利用してはならない、といういことが基本である。また、職員が特定の政治的見解に基づいて会場使用の申請を受け付けたり受け付けなかったりすることも、同じ効果を生んでしまうため、あってはならない。
(引用終わり)
 
 どうだろう、先に引用したさいたま地裁判決と上記志田教授の簡にして要を得た解説を併せ読めば、「公の施設」の利用をめぐる「政治的中立性」とは何か?が、実にすっきりと腑に落ちるのではないだろうか。
 もちろん、このような立場に立つ以上、自分の身近な「公の施設」で、改憲派原発推進派による「集会」が行われることは当然容認しなければならず、さらに進んで、自らと反対の意見を持つ者とのオープンな関係を持つに足るだけの力を自らに蓄える必要があることにも思い至るだろう。その点についての志田教授の解説を引用して本稿を終えることとしたい。
 このように、常日頃関心を有しているテーマを手がかりとして、本書の各所を読み込んでいけば(私も111頁から207頁まで参照しつつ本稿を書き上げた)、「表現の自由」についての理解を深め、実践に役立てていくことがきっと出来るだろう。
 多くの方にご一読をお薦めしたい。
 
(「民主主義の基礎体力としての「表現の自由」」115~116頁から引用開始)
 《政治に無関心であれば公共の場所を使わせてもらえる》というルールは、民主主義の担い手として必要な基礎体力を人々から奪う結果につながっていないだろうか。それは明日の社会を弱らせることにならないだろうか。
(中略)
 民主主義の中に生きる市民であれば、議論が起きることは歓迎して良いことで、「公の施設」は本来そのためにある。政治的議論が起きることが危惧感の対象になるということは、民主主義を支える文化が共有されていないということではないだろうか。この問題を克服するためには、私たちがオープンな対話に耐えられる力を身に付け、それを認め合う文化をつくることも大切だろう。そうして討論のリテラシー(公共的対話の作法)こそ、教育によって培ってほしい事柄だが、学校教育のほかにも社会教育や自由な集会がその受け皿の役割を果たす。公共施設とくに公民館は、民主主義の基礎体力づくりのために重要な役割を果たすことが期待されているのである。
(引用終わり)
 

(弁護士・金原徹雄のブログから/志田陽子さん関連)
2016年8月21日
2017年6月9日
2018年7月11日
2018年12月20日
2019年1月20日
20190430160045_00001