半藤一利氏が「立憲フォーラム」勉強会で「押しつけ憲法論」徹底批判(“憲法9条 幣原喜重郎発案説”について(番外編))
今晩(2013年6月7日)配信した「メルマガ金原No.1380」を転載します。
なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
「週刊文春」、「文藝春秋」編集長、同社専務取締役などを歴任し、作家、随筆家として活躍されている半藤一利(はんどうかずとし)さんは、その経歴から推測されるような「保守派の論客」という面もありながら、「改憲論」に対しては極めて批判的です。
同書の「プロローグ」は「『三月十日』の章」と題されています。1945年3月10日未明から始まった米軍による東京大空襲は、東京市街地東部を焼き払い、10万人以上の死者・行方不明者を出すという大惨劇となりました。
当時、半藤一利少年は、14歳10か月で旧制中学校の2年生でしたが、一緒に暮らしていた父とも離ればなれになり(母と弟妹は疎開していた)、猛火に追われて川岸までたどり着いたものの、次々と火に焼かれて川に身を投じる人々を見ながら何とか川にこぎ出す船に乗せてもらい(一度は川に転落して溺れそうになるなどしながら)九死に一生を得た、その体験が生々しく綴られています。
多感な少年が経験したこの地獄図絵が、半藤さんのその後の思想のバックボーンになったであろうことは想像に難くありません。
IWJによる内容説明を引用します。
(引用開始)
「押し付け憲法だから改憲、という論を聞くが、憲法9条は日本人が作った」―。2013年6月5日、参議院議員会館で開かれた「第4回立憲フォーラム勉強会」に講師として登壇した作家・半藤一利氏はこのように話し、当時の幣原喜重郎首相が、GHQ最高司令官であるダグラス・マッカーサー氏と会談した際に、憲法9条案を進んで提案したと説明した。
曰く、幣原氏とマッカーサー氏の会談は通訳を介さずに行われ、録音なども残っていないため、証拠はない。しかし、マッカーサー氏は、「幣原が提案した」と語っており、幣原は、「自分が作った」と語っていないものの、否定はしていない。
幣原氏が9条案を持ちだした背景には、1928年(昭和3年)8月27日フランス・パリで、日本を含む当時の列強諸国15カ国間で締結された「不戦条約」がある、と半藤氏は語る。不戦条約は、第一条において、国際紛争解決のための戦争の否定と国家の政策の手段としての戦争の放棄を宣言しており、調印に関わった幣原氏は、同条項の影響を強く受けていたというのだ。「もう一度この精神を取り戻す」。幣原氏のこの提案に、マッカーサー氏は感動し、同意したという。
新憲法制定に向けた議論を行う「衆議院憲法改正案小委員会」では、当時、憲法担当大臣だった金森徳次郎議員が1365回もの答弁に応じ、新憲法に関する議論は何重にも重ねられた。半藤氏は、登壇中、「決して憲法は押し付けでなく、戦後、新しく選ばれた議員による討議を経て、やっと作られたものだ。こうした事実をみろ、と言いたい」と、「押し付け憲法論者」に対し、何度も釘を差した。
(引用終わり)
上記説明文にもあるとおり、『日本国憲法の二〇〇日』を書かれた当時、半藤さんは、「憲法9条 マッカーサー発案説」をとっておられました(同書の十五「『戦争放棄』の章」/昨日配信した「“憲法9条 幣原喜重郎発案説”について(その1)」参照)。
しかし、その後、「幣原喜重郎発案説」に立場を変えられたことが分かります。
なお、「立憲フォーラム」勉強会第1回~第3回については、メルマガ金原No.1369「小林節教授の『立憲フォーラム』勉強会での講演」でご紹介しましたが、その小林教授による講演の模様も既に有料会員限定となっておりますので、この半藤さんの講演映像が無料で視聴できる期間も長くないでしょうから、出来るだけ早めに視聴されるよにお勧めします。