放送大学和歌山学習センターで久々の面接授業「高野山とその文学」(下西忠高野山大学名誉教授)を受講して
※Facebookから転載します。
【放送大学和歌山学習センターで久々の面接授業「高野山とその文学」(下西忠高野山大学名誉教授)を受講して】
昨日・今日(5/7&8)の2日間、放送大学和歌山学習センターで、実に久しぶりの(コロナ禍発生以後初めての面接授業「高野山とその文学」を受講してきました。
講師は下西忠高野山大学名誉教授であり、私が和歌山学習センターで下西先生の授業を受講するのはたしか4回目となります(前3回のテーマは「御詠歌」「中世説話文学」「中世紀行文学」でした)。
講義の冒頭で下西先生から、今回の放送大学和歌山学習センターでの面接授業を最後に、長年の教員生活にピリオドを打つつもり(つまり、5月8日の面接授業2日目が実質的な最終講義)というお話をうかがいました。講演については、既に引き受けている分はまだ残っているものの、やはり年内には打ち止めにするつもりとか。
高野山大学での正式な最終講義は既に何年か前に実施済みのはずですが、コロナ禍のために制限された(和歌山県外からの受講申込みは断ったそうです)わずか7人の受講生に対する2日間の面接授業が事実上の最終講義となりました。
もちろん、研究活動、執筆活動は続けていかれるのでしょうが、もう面接授業を受講する機会もなくなり、とても寂しい限りです。
私にとって、2017年5月13日・14日の両日、下西先生による「中世の紀行文学(東関紀行)を鑑賞する」の受講をきっかけに、「山部赤人はどこから富士を眺めたのか?~名歌「田子の浦ゆ・・・」を解釈する」という、我ながら気合い十分の「古典文学解釈」に挑んだブログを書けたことが懐かしい思い出です。
昨日・今日の講義の内容を、受講していない方に説明するのは私には荷が重過ぎますので、面接授業の最後で、下西先生が7人の受講者に語りかけられたポイントを、私が書き取った講義メモから抜き出してご紹介します。
・古典文学は、ただ単に昔書かれたというだけではなく、常に「今」に通じるものがあるからこそ「古典」となる。
・今、文学を取り巻く状況はとても厳しいが、文学と共に生活し、文学の素晴らしさを是非体感していただきたい。
・文学を読む際には、出来れば自分なりの「解釈」を試みていただきたい。その際、「解釈は作者と読者による合作」という外山滋比古の言葉をご紹介しておく。是非「良い解釈」を!
上でご紹介した2017年のブログは、下西先生から教えられたことの実践例だったのだな、ということにあらためて気付きました。
あのような「解釈」に挑む機会が今後どれだけあるかは分かりませんが、下西先生の教えを忘れず、文学に接していければと思います。