今晩(2013年11月28日)配信した「メルマガ金原No.1557」を転載します。
なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
「レファレンス」掲載論文で学ぶ「集団的自衛権 政府公権解釈の変遷」
とりわけ、「平和主義」との関連ということでいえば、安保法制懇(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)が、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を容認する(併せて国連憲章上の集団安全保障措置への参加も容認する)ようにと提言する「報告書」の提出も近いと言われており、次期通常国会への閣法としての提出が予想されている「国家安全保障基本法案」の、とりあえずは「上程阻止」の機運の盛り上げも急務と言わねばなりません。
私としては、新聞各紙の論調が、特定秘密保護法案への対応において、
「読売・産経」VS「読売・産経」以外の全ての主要紙
思えば、当初、内閣法制局や連立与党公明党への配慮から、議員提案での国会上程となるのではと言われていた「国家安全保障基本法案」が、内閣提出(閣法)で、と言われるように変化してきたのは、国会審議での答弁者が議員だけでは心許なかったのかは別として、内閣法制局や公明党も「なめられた」ものだと言わざるを得ません。
これが、かつて2人まで身内が自衛隊に奉職していた1人の国民としての偽らざる願いです。
とはいえ、我々の運動は、「情」も非常に大事ではありますが、「理」もまた重要です。
集団的自衛権の問題を法的に検討するためには、これまで政府によって示されてきた公権解釈の変遷、何が変わってきて、何が変わらなかったのか、変わらなかった部分は「なぜ変わらなかったのか(変えられなかったのか)」を十分に理解する必要があります。
これが、集団的自衛権行使を絶対に認めさせないための私たちの「法的基盤」だからです。
もっとも、これは、憲法9条を「従来の政府の公権解釈」のとおりに解釈しなければならないということを言っているのではありません。そうではなく、法規範の範囲内で可能な解釈によって行政実務を運営するという「法治主義」の原則が今まさに踏みにじられようとしている時、「それは許せない」という広範な国民各層の「良識」に訴えるための「基盤」として、「従来の政府の公権解釈」を正しく理解する必要があると言っているのです。
そして、そのための恰好の論文が、国立国会図書館が発行する「レファレンス」平成23年11月号に掲載され、WEBサイトからダウンロードすることができるようになっています。PDFファイルで18頁ありますが、要領よく、集団的自衛権
に関する政府解釈の変遷がまとめられています。
政治議会課憲法室 鈴木尊紘
安保法制懇を使って安倍内閣がやろうとしていることは、これまで積み重ねられてきた「法的基盤」を掘り崩して「再構築」しようということなのですが、彼らには、「法的」「再構築」をしようとする意思もなければ能力もなく、ただ単に「国
際安全保障環境の変化」なる空虚な言説を題目や念仏のように(と言っては法華経信者や浄土系諸宗派の信者が気を悪くするでしょうが)唱えるだけであって、これを煎じ詰めれば、先ほども書いたとおり、「法治主義」の否定ということに尽きます。
集団的自衛権については、民主党が党内分裂を起こしそうだとか、国連の集団安全保障措置への参加はかねてからの小沢一郎氏の持論だとか、特定秘密保護法案に比べても、一層困難な国会状況が待ち受けていますが、どん
なことがあっても、最低限、従来の政府解釈の一線は守らなければならないと思います。何度も書きますが、この一線を超えるか否かということは、日本が「法治国家」にとどまるのか、それとも「独裁国家」に転じるのかの運命の分岐点です。
どうしても日本をナチスドイツや北朝鮮のような国にしたい勢力と闘わねばならないと決意した人を、どれだけ急速に仲間に迎え入れられるかどうかが、ここしばらくの最重要課題だろうと思います。
(付録)
3日連続ですが以下の曲をお届けします。
『HK & Les Saltimbanks "On lâche rien" (Japanese subtitles)』
(「オン・ラシャ・リアン(あきらめないぞ!)」