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山本武氏の「陣中日記」で読む“戦争体験”

 今晩(2013年12月22日)配信した「メルマガ金原No.1581」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
山本武氏の「陣中日記」で読む“戦争体験”
 
 以前にもこのメルマガ(ブログ)で書いたことがありましたが、1932年9月に中国遼寧省の一村落の住民を日本軍が虐殺した「平頂山事件」(最も少なめに見積もる日本人研究者の説でも犠牲者は400人~800人)について知っている日本人がどれだけいるでしょうか?
 
弁護士・金原徹雄のブログ 2013年2月5日
 
 「語り継ぐ戦争体験」の重要性が強調される時、それは主として「被害体験」であり、なかなか「加害体験」に接することができず、まれに勇気をもって「加害体験」を語る人が出てきても、誹謗中傷にさらされるという光景を私たちは見続けてきました。
 なぜ「加害体験」が語られないのか?について、「南京事件-日中戦争 小さな資料集 ゆうのページ」の中に、「なぜ『証言』しないのか-『加害証言』を拒む土壌-」というページがありますので、ご一読をお勧めします。
 
 それでも、貴重な「加害体験」の証言がない訳ではなく、少し努力すれば、インターネット環境で読むことのできるものも少なくありません。
 先日ご紹介した作家・火野葦平が戦地から父に送った手紙も(公開を意図したものではありませんでしたが)その一例です。
 
弁護士・金原徹雄のブログ 2013年12月7日 
 
 また、戦地に赴いた「当事者」の没後、その「加害体験」が国民の「共有財産」となるか否かにつては、遺族の「決断」の有無が大きく影響します。
 今年、松江市教育委員会が(在特会の圧力に屈しての措置かは不明ながら)、市内の小中学校での漫画『はだしのゲン』の閲覧制限や貸出中止を指示して大問題となったのを機に、亡父が中国戦線で撮影した多くの写真をインターネットで公開することとした方のサイトをご紹介したこともありました。
 
弁護士・金原徹雄のブログ 2013年8月24日
 
 今日ご紹介しようと思うのは、中国戦線における「加害証言」としては既に著名なものの一つであったにもかかわらず、私自身、最近までその存在を知らなかった「山本武氏による証言」です。
 私がこの「証言」の存在を知ったのは、朝日新聞デジタルに掲載された以下の記事を読んだことによります。
 
朝日新聞デジタル 2013年12月10日
(抜粋引用開始)
 太平洋戦争の始まりから72年の8日、平和のつどい(県母親大会連絡会主催)が福井市で開かれた。福井大名誉教授の山本富士夫さん(73)と鯖江議の山本敏雄さん(64)の兄弟が「父親の戦争体験から見えてくるもの」と題して講演し、不戦を誓った。
 2人の父武さんは1937年、中国大陸の戦線へ送られた。部隊の仲間が次々と殺されていくのを目にして憎しみにとらわれ、一般の女性や子どもまで殺害してしまう。所属した鯖江の中隊194人のうち、2年後に帰国できたのは10人だったという。富士夫さんは「父は虫1匹殺せない小心者だったのに、戦歴を重ねるうちに『悪魔』へと変わっていった。だから戦争は絶対悪です」と語った。
 武さんは84年、70歳で亡くなった。敏雄さんは戦後、武さんが孫をおんぶしながら「こんなかわいい子もみんな殺してしまった」とつぶやくのを聞いたことがある。中隊長命で中国の子どもを突き殺した過去に苦しみ続けていたという。
(引用終わり)
 
 ちなみに、福井県母親大会連絡会主催の「平和のつどい」と聞くだけで気を回す人がいるかもしれないので、鯖江市議会のホームページ(会派名簿)を調べてみたところ、山本敏雄さんは、第2会派の「清風会」所属であり、公明党共産党でもありませんでした。
 
 また、今年の8月には、中日新聞も、山本武さんの「証言」についての記事を掲載していました。
 
中日新聞 2013年8月20日
(抜粋引用開始)
 武さんは一九一三年に鯖江市で生まれ、農業に従事していた。日中戦争が始まった三七年に中国へ送られ二年後に帰国。太平洋戦争では四四年から一年間、八丈島で従軍。敵の陣容を探る「斥候」や突撃隊を務め、砲弾が飛び交う中で克明に日記を記していた。
 日記には、従軍のつらさ、戦友が亡くなる悲惨さ、捕虜や市民を虐殺した場面も。南京への行軍中に捕虜数人を捕らえた後はこうつづった。「内地に居た頃は、蛇一匹殺すもいやいやであったのが、同じ人間の敗残兵をば、銃剣で突き、棒でなぐり、石で頭を割って叩(たた)き殺し、戦友の敵を討ったと、胸のすくやうな思ひ。大した悪者になったと言ふものだ」(三七年十二月十一日)。
 「良民と言へとも、女も子供も片端から突き殺す。残酷の極みなり。一度に五十人、六十人、可愛いい娘、無邪気な子供、泣き叫び手を合わせる」(三八年五月二十日)。
 武さんは復員後も農業を営みながら、家族に「戦争だけは二度とするな」と言い続けた。六十五歳から手記をまとめ、その最中は、虐殺した大人や赤ちゃんの悲鳴が脳裏によみがえり、涙を流して眠れぬ日々を過ごしたという。
 武さんが七十歳で永眠した翌一九八五年、山本さんら兄弟五人は父の手記を『一兵士の従軍記録』として自費出版し、反響を呼んだ。
 山本さんは、改憲を掲げる安倍首相に危機感を抱き、今春から憲法を考える県内の集会への参加を再開。陣中日記を公表しながら父の思いを語り続けている。「イデオロギーでも反戦思想でもない。人を殺す苦しさを孫、子に味わわせたくないという父の『厭戦』の思いを伝えたい」との願いからだ。(略)
(引用終わり)
 
 上記中日新聞の記事にあるように、山本武さんは克明な「陣中日記」をつけており、幸いにも、これを日本に持ち帰ることが出来(あわや没収されそうになったそうですが)、これを基にして手記を執筆しました。ただし、手記を公刊することまでは考えていなかったようです。元上官への手紙に、以下のように記されていました。「近年健康も完全でなく、年齢も古希に近くなりましたので、冬期農閑を利用して日記を基にして一兵卒としての戦争体験を全罫紙四百枚程に纏めてみました。これは私の子供や孫達に読ませるつもりで記したもので、勿論印刷刊行する気はなく、出来れば息子に頼んで数部だけコピーしてみようかと考えています

 武氏の死後、この手記を託された子らとして、公刊することとしたご遺族
の「決断」には感謝の他ありません。
 ちなみに、自費出版された『一兵士の従軍記録』自体は、現在では入手困難であろうと思いますが、「南京事件日中戦争 小さな資料集 ゆうのページ」に一部が抜粋して引用されています。
 
南京事件日中戦争 小さな資料集 ゆうのページ」より
 
 また、2000年にはNHKのテレビ番組「太平洋戦争と日本人」シリーズでも取り上げられ、その番組内容を整理してWEB上にアップした人がいます。
 
Musashino Rest Gallerly より 「戦争を語り継ぐ」
 
 なお、『一兵士の従軍記録』は、山本武氏が、自らの体験を「子供や孫達に読ませるつもりで」晩年に執筆した回想録であり、その価値にはもちろん高いものがありますが、その執筆の基礎となったのは、武氏自身が戦地で克明に記録していた「陣中日記」であり、史料的価値は、もちろんこの「陣中日記」の方がはるかに高く貴重なものと言わねばなりません。
 しかも、昭和12年(1937年)から13年にかけての中国での「陣中日記」5冊(一部記録のない期間もある)は、隼田嘉彦(はやた・よしひこ)氏による厳密な校訂を経て、1996年に福井大学教育学部紀要(Ⅲ社会科学)に2回に分けて掲載され、現在ではPDFファイルとして公開されており、誰でも読むことができます。
 
隼田嘉彦 「山本武の『陣中日記』 上」 (福井大学教育学部紀要 第Ⅲ部 社会科学 第51号 1996年)
隼田嘉彦 「山本武の『陣中日記』 中」 (福井大学教育学部紀要 第Ⅲ部 社会科学 第52号 1996年)
 
※なお、「山本武の『陣中日記』 下」福井大学教育学部紀要 第Ⅲ部 社会科学 第53号 1997年)には、初めて入隊した当時の日記と再招集されて八丈島守備隊に派遣されていた時の日記が掲載されています。
 
 中日新聞に引用されていた昭和13年(1938年)5月20日の項は、上記「中」の27ページに掲載されています。
 これはいわゆる「徐州戦」と称された戦役の一部です。
 同日(5月20日)の記載を全て書き出すと以下のとおりです。
 
(引用開始)
午前八時頃僅か三時間の睡眠にて出発、山を越えて当方に向ふ。途中部落に火を放ち、敵の拠点となるを防ぐ。更に、中隊長命により、良民と言へとも、女も子供も片端から突き殺す。惨酷の極みなり。一度に五十人、六十人、可愛いゝ娘、無邪気な子供、泣き叫び手を合せる。此んなに無惨なやり方は生れて始めてだ。あゝ戦争はいやだ。支那兵ならいざ知らず、罪ない婦女子を殺す、全く見るに忍びず。此んな事をやり乍ら約六里前進、午後五時頃津浦線に出る。
楡所に至り次の戦を準備す。田中伍長以下八名の斥候、敗残兵を捕へ来る。此れこそはうんと徹底的にやっつけるべきと、むしろ惨酷すぎる程な殺し方をしてやる。川去の牧野君も来て、火を付けて苦しめてやる。胸がすくやうだ。
晩寝ようとする頃出発準備、師団司令部の警戒のため再び逆戻り、とうとう
夜明けの午前四時まで歩き続けて、疲れ切って休む。
(引用終わり)
 
 この部分は、山本武氏が「子供や孫達に読ませる」ために書いた手記には結局含まれませんでした。そのことを、私たちがとやかく言う資格はないでしょう。とにかく、この「陣中日記」をそのまま公開することに同意されたご遺族に敬意を表するだけです。

 それにしても、「罪ない婦女子を殺す」ことはさすがに「見るに忍びず」「あゝ
戦争はいやだ」と書いた筆者が、それにすぐ続けて、捕虜を「惨酷すぎる程な殺し方」をして「胸がすくやうだ」と書いている事実にこそ注目したいと思います。
 紀要「上」の冒頭に記載された「武の略歴」(3~4ページ)によれば、山本武氏は、農家の長男として生まれ、尋常高等小学校を優秀な成績で卒業した後、県立福井農林学校に進学し、同校も全校2番の成績で卒業し、その後、父とともに農業に従事するかたわら青年会で活躍したとあり、将来は地元農村を中心となって担うことが期待されていた人材であったことが優に推測されます。
 そのような、真面目で優秀な、そしておそらくは心優しい秀才だったであろう青年が、下士官(伍長、その後軍曹)として出征した戦地において、どのような変貌を遂げざるを得なかったかにこそ、私たちは注目する必要があります。
 
 「被害体験」に比べ、「加害体験」を知る機会が少ないと冒頭に書きました。それはそのとおりなのですが、努力すれば、今日ご紹介した「山本武氏証言」のような貴重な記録を読むことも可能であり、それを公開されたご本人、あるいはご遺族の意思を無にせぬためにも、それを広く国民的共有財産とする努力が求められているのだと思います。