今晩(2014年2月1日)配信した「メルマガ金原No.1624」を転載します。
なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
まず、「死刑制度を考える~死刑廃止のために~」と題し、「憲法の伝道師」として名高い伊藤真弁護士(伊藤塾塾長、日本弁護士連合会憲法委員会副委員長、法学館憲法研究所所長)が約45分間の講演をされ、その後、東海テレビ放送が製作した映画『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』が上映されました。
※「集いのチラシ」
昨年のうちに、和歌山弁護士会が伊藤真さんの日程を確保して講演に来てもらうことになったという情報が耳に入った際、「憲法委員会も頑張ったな」と、てっきり憲法問題の講師として伊藤さんを招くことになったと思い込んだのですが、その後、よくよく聞いてみると、人権擁護委員会が死刑問題で呼んだのだということが分かり、がっかりしたことは事実です。
伊藤さんの講演は、WEB中継やDVDでお馴染みの、歯切れ良く明快な語り口で、しっかりと基本を押さえながら、分かりやすく話を進めていくというスタイルでした。
伊藤さんが使用されたパワーポイントのボードを印刷した資料がレジュメ代わりに参加者に配布され、それが今手元にあるのですが、それを全て書き写すわけにもいきませんので、各ボードのタイトルと、重要なポイントと私が考えた語句の一部をご紹介することによって、講演のだいたいの構成を想像していただくことにします。
(抜粋引用開始)
「死刑制度を考える~死刑廃止のために~」
自己紹介
死刑問題を考える視点
死刑存置の一般的理由
人を殺した者は、自らの生命をもって罪を償うべきである。
被害者・遺族の心情を考えても必要である。
死刑廃止の一般的理由
死刑は一度執行すると、取り返しができない。裁判に誤判の可能性がある以上、死刑は廃止すべきである。
死刑についての調査結果
「どんな場合でも死刑を廃止しようという意見にあなたは賛成ですか、反対ですか」→「2009年 反対85.6%」→質問の仕方に問題がないか?
新聞の見出し
マスコミに流されてしまいがちな社会
2013年の殺人事件数は5年連続で戦後最少を更新して939件だった。
死刑と主な世界の国々
日本国憲法の理念と基本原理
そもそも憲法とは
憲法の必要性
多数意見が常に正しいわけではない
民主主義(アクセル)vs立憲主義(ブレーキ)
憲法と法律
日本国憲法の根本価値
憲法13条
個人の尊重(個人の尊厳)
死刑囚の人権
(死刑制度を認めるということは)応報、犯罪の抑止という目的が死刑囚の人権を上回ると考えることになる。
死刑と適正手続
誤判の危険をなくせないにも拘らず、死刑判決を下すことは適正な手続きといえるか。
死刑と残虐な刑罰
死刑は「人間の尊厳」を傷つける刑罰であり、また、刑罰の目的を超えたものであり、残虐な刑罰といえる。
死刑を執行する側の人権
死刑と憲法9条
9条の改正に反対し、死刑緒存置に賛成するのは矛盾しているのでは?→人間の命を手段に使わないという個人の尊重
最後に 皆さんへの期待
1 明日の自分は今日の自分が創る。
→今を変えれば未来を変えられる。
憲法は、現実を理想に近づけるためにある。
2 今を生きる者としての責任を果たす。
→憲法を知ってしまった者として今できることを。
憲法を使いこなす力をつけること。
主体的に生きることが大切。
3 Festina Lente (ゆっくりいそげ)
(引用終わり)
以上で、伊藤さんの死刑違憲論の大筋はご想像いただけたでしょうか?一番の「肝」は、憲法13条の個人の尊重から導かれる「人の命を何らかの目的達成のための手段としてはならない」という命題です。伊藤さんが、死刑に反対するのも、戦争に反対するのも、この同じ命題から導かれる結論なのだということです(死刑と憲法9条)。
このような主張は、法律家なら誰でも出来るというものではありません。深い思索の積み重ねと、それ相応の覚悟があって初めて言えることだと思います。
講演終了後、多忙な伊藤さんはすぐに帰京の途につかれましたが、会場をあとにするまでの短い合間に、何人もの人に忘れがたい思い出をのこしていかれました。
その1 講演を聴かれたご夫婦から、奥様が伊藤先生の大ファンで、握手させて戴きたいと希望しているのだが、という申し入れがあり、責任者である人権擁護委員会の阪本委員長もとっさにどうしようかと迷ったようでしたが、奥様が抗癌治療をされており、何とか願いをかなえてあげたいというご主人の気持ちが伝わり、とにかく伊藤先生に引き合わせましょうということで楽屋口までご案内し、戻ってこられた伊藤先生に(私から)事情を説明してお願いしたところ、快く了解してくださり、奥様としっかり握手しながら優しい笑顔でことばをかけておられました。ご夫婦は、以前にも伊藤さんの講演を聴いたことがあるようで、その後癌が発見されたということでした。最後に、奥様が伊藤先生と並んだ写真をご主人が撮影されていましたが、奥様の嬉しそうな表情が印象的でした。その日帰宅した後、ご主人から私宛にtwitterで、「治療中の妻も久しぶりの笑顔でした」というダイレクトメッセージが届きました(しばらく前jからフォローし合っていたのです)。それにしても、伊藤さんの笑顔は素敵でした。
その2 上の写真をご覧ください。講演終了後の楽屋でのスナップです。伊藤先生の著書を持参し、著者からサインして貰って大喜びする若手弁護士の図です。
実は、今回の死刑制度を考える集いの講師として、伊藤塾の伊藤真弁護士を是非呼びたいと積極的に提案したのは、彼ら若手の弁護士(人権擁護委員会委員)であったと聞いています。若手の熱意が企画を実現する原動力であったというのは頼もしいですね。
ところで、この写真で伊藤さんが手にしているサインペンは私が持参したものでした。どうやら県民文化会館小ホールの楽屋に忘れてきてしまったようです!
その3 私がサインペンまで持参していたのは、このDVD、伊藤さんが昨年4月末に語りおろし、6月以降、私が和歌山県下の憲法学習会の講師として呼ばれた都度持参し、200枚以上売りまくった「憲法ってなあに?憲法改正ってどういうこと?」に伊藤さんのサインを貰うためでした。
さて、伊藤さんが書かれた文章、読めますか?最初3行目が全然分からなかったのですが、人権擁護委員会の阪本康文委員長が判読してくれたおかげで、ほぼ全体としてこうではないかというところまでたどり着きました。これで正解でしょうか?
「やればできる 必ずできる! これからです。頑張りましょう 伊藤真」
(参考サイト)
以前にもご紹介したことがありましたが、伊藤真さんが新聞労連(中央委員会)で講演した際の文字起こしがWEBサイトで読めます。この講演が行われたのは2005年10月12日、自民党「新憲法草案」(2005年版改憲案)公表の直前で、その概要は大体分かっていたという背景を念頭にお読みください。
(抜粋引用開始)
▽「人はみな同じ」「人はみな違う」が両立
憲法の中では第13条が一番大切です。「すべて国民は、個人として尊重される」と規定されています。国家のために個人があるのではない。個人のために国家があるということです。そして、ここには、「人はみな同じ」「人はみな違う」という一見相反する2つの意味が含まれています。
まず、「人はみな同じ」の方ですが、このことを徹底することは難しい。凶悪犯人の人権を尊重しろと言えるのかと主張されたりします。でも、たとえ凶悪犯人であっても最低限、裁判を受ける権利を保障しなければなりません。人権を守るには忍耐が必要なのです。
例えば、10人の被告人の中に、9人が死刑に値する凶悪犯で、1人だけ無実の人が紛れ込み、だれが無実の人かわからないとします。そのときあなたが裁判官だったら、全員死刑にするか、それとも全員無罪にするか、考えてみてください。
憲法の「個人の尊重」からいったら当然全員無罪で釈放することになります。これを無罪の推定という言葉で言い表します、1人の無実の人を救うためには、9人の凶悪犯人を釈放して社会に受け入れるリスクを負う覚悟が必要だと言うことです。そうでなければ人権を守れということはできません。
もうひとつ、「人はみな違う」の方ですが、人としての価値や権利はみな同じだが、だれひとりとして同じ人間はいないということです。人にはそれぞれ個性があり、それぞれの幸福を追い求めればいいのです。人と違うことは素晴しいことであり、それぞれの生き方に価値があると憲法は認めているのです。
しかし、この社会で人と違うように生きるのは大変なことです。日本人には人と違う生き方をすることが苦手なところがあるのかもしれません。
自民党の新憲法草案には、日本民族の同質性を高めるから居心地がいい、安心で心地よいという発想があります。しかし、この発想では、外の人間に対して排他的で壁が出来ることになります。今の憲法と全く逆の発想です。
はたして個人の尊重を後退させて同質性を高める方がいいのか。しっかり考えないといけません。確かに、一緒につるんでいる方が楽です。しかし、それでは外との交流がなくなります。今の憲法は多様性を認め、外とオープンにする考えに立っています。自民党の新憲法草案には、差別を解消する方向ではなく、新たな差別を生む可能性があるような気がします。
憲法の中では第13条が一番大切です。「すべて国民は、個人として尊重される」と規定されています。国家のために個人があるのではない。個人のために国家があるということです。そして、ここには、「人はみな同じ」「人はみな違う」という一見相反する2つの意味が含まれています。
まず、「人はみな同じ」の方ですが、このことを徹底することは難しい。凶悪犯人の人権を尊重しろと言えるのかと主張されたりします。でも、たとえ凶悪犯人であっても最低限、裁判を受ける権利を保障しなければなりません。人権を守るには忍耐が必要なのです。
例えば、10人の被告人の中に、9人が死刑に値する凶悪犯で、1人だけ無実の人が紛れ込み、だれが無実の人かわからないとします。そのときあなたが裁判官だったら、全員死刑にするか、それとも全員無罪にするか、考えてみてください。
憲法の「個人の尊重」からいったら当然全員無罪で釈放することになります。これを無罪の推定という言葉で言い表します、1人の無実の人を救うためには、9人の凶悪犯人を釈放して社会に受け入れるリスクを負う覚悟が必要だと言うことです。そうでなければ人権を守れということはできません。
もうひとつ、「人はみな違う」の方ですが、人としての価値や権利はみな同じだが、だれひとりとして同じ人間はいないということです。人にはそれぞれ個性があり、それぞれの幸福を追い求めればいいのです。人と違うことは素晴しいことであり、それぞれの生き方に価値があると憲法は認めているのです。
しかし、この社会で人と違うように生きるのは大変なことです。日本人には人と違う生き方をすることが苦手なところがあるのかもしれません。
自民党の新憲法草案には、日本民族の同質性を高めるから居心地がいい、安心で心地よいという発想があります。しかし、この発想では、外の人間に対して排他的で壁が出来ることになります。今の憲法と全く逆の発想です。
はたして個人の尊重を後退させて同質性を高める方がいいのか。しっかり考えないといけません。確かに、一緒につるんでいる方が楽です。しかし、それでは外との交流がなくなります。今の憲法は多様性を認め、外とオープンにする考えに立っています。自民党の新憲法草案には、差別を解消する方向ではなく、新たな差別を生む可能性があるような気がします。
(引用終わり)
(参考「弁護士・金原徹雄のブログ」より)
伊藤真さんの院内集会でのレクチャーが分かりやすい