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あらためて“9条事始め”(再配信)

 今晩(2014年2月24日)配信した「メルマガ金原No.1647」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
あらためて“9条事始め”(再配信)
 
 昨年(2013年)2月9日、和歌山市の「あわたま」というCafeを営むご夫婦の発案にり、毎月「9日」に「憲法9条」を考えようという人が集う「9(ナイン)ギャザリング@あわたま」がスタートしました。
 その第1回目のゲストとしてお話することになったのが私であり、その集いのために書い「あらためて“9条事始め”」を、2013年2月4日から6日まで、3回に分けてメルマガ金原で配信し、ブログにもアップしました。今日は、その3本の記事を1本にまとめて再配信します。
 
 再配信しようと考えたきっかけは、子育て中のお母さんたちが集まった地元の9条のら、憲法連続学習会の第1回講師を依頼されたことでした。
 4月5日に予定されているその学習会のためのレジュメ(台本)として書いた文章は、いお母さんのための憲法9条入門~かけがえのない価値と今、目の前にある危機~」として、一昨日、メルマガ(ブログ)で配信しました。
 もっとも、あまりにも長くなり過ぎたので、本番用のレジュメは書き直すことにしたのでが、それと一見矛盾するようではあるものの、9条入門としては不十分だという思いもあり、学習会に参加される人に事前に読んでいただければと考えて、「あらためて“9条事始め”」の再配信を思いついたのです。
 
 1年ぶりに読み直してみると、不十分な点、分かりにくい点が多々目につきましたが、格的に改訂している時間的余裕はとてもありませんので、そのまま再配信することにしました。
 ただ、「9条事始め」という以上、その後「日本国憲法9条」となった戦争放棄・戦保持・交戦権否認条項が最初に姿を現したマッカーサー・ノート(1946年2月3日)がなぜ登場したのか?という点は、いくら何でももう少し敷衍すべきであったと思います。
 これについては、「憲法9条幣原喜重郎首相発案説」との関連で、平野三郎ノご紹介したメルマガ(ブログ)の記事(“憲法9条 幣原喜重郎発案説”について(その1))をご参照いただくということで、とりあえず責めをふさぎたいと思います。
 ただ一点だけ、マッカーサー・ノート1項が憲法と国民の意思によって制限されることを条件に天皇制を存続させるとしていたことと、2項で戦争放棄等を定めていたこととの間には密接不可分の関係があったことはほぼ確実です(これが通説だろうと思います)。
 つまり、その後成立した日本国憲法第1章「天皇」(国民主権に基づく象徴天皇制)と2章「戦争の放棄」(9条)は、あくまで「二つで一つ」「セット」のものとして構想されたということです。
 

(2013年2月4日、5日、6日の3回に分けて配信した「あらためて“9条事始め”」を、1本にまとめて再配信します)
 
 今週末、2月9日(土)午後7時から、和歌山市浜の宮海水浴場前の「Cafe ざっ屋 あたま」(和歌山市毛見996-2/℡:073-444-2239)において、「9(ナイン)ギャザリング@あわたま」の第1回として、私が「日本国憲法9条」のお話をすることになりました。
 
 「あわたま」さんのブログから抜粋して引用します。
 
(引用開始)
「9(ナイン)ギャザリング@あわたま」
2月9日(土)
START PM19:00
場所 Cafe ざっか屋 あわたま
料金300円(祝島のびわ茶つき)+お気持ち
日本国憲法第2章 戦争の放棄
第九条
(戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認)
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。
 世界に拡げる価値のある日本が誇る平和憲法9条の9に因んで毎月9日にあわたまでは平和に向けての集い「9(ナイン)ギャザリング」を開催します。
 毎回9条について、平和について、戦争について、政治について、などなどいろいろな方のお話を聞いたり、何かに取り組んでみたり、平和を思い、平和の鐘を打ち鳴らすにしたい、そして平和憲法9条の大切さをみなさんで分かち合いたいと考えます。
 第一回目は2011年8月15日OLDTIMEで行われた「PROJECT FUKUSHIMA」にてうちの奥さんと対談していただき、メルマガやブログでも日々、平和に向けての発信をされている和歌山弁護士会、金原徹雄法律事務所の金原徹雄さんをお招きしてお話を聞かせていただきます。
(引用終わり)
 
 私の話はともかくとして、このような企画を立ててくれた「あわたま」の高橋伸明さん・さんご夫婦に心から感謝します。
 
 ということで、そろそろ2月9日の準備をしなければと思っていたところ、高橋さんから絡があり、前半の1時間は、私が9条がどうして出来てきたかという歴史的な経緯などを中心にお話し、後半1時間は、参加者の皆さんで意見交換できればということでした。
 
 実は土曜日(2月2日)からインフルエンザのために自宅静養を余儀なくされていまので、その間の時間を利用して、私がお話するための資料集めをしておこうと思いつた次第です(メルマガの材料にもなる)。
 題して「9条事始め」です。
 
 ・・・とはいえ、あらためて「何故、日本国憲法に“9条”が規定されたのか?」と問れてみると、間単に「こうだ」と答えられるものではないですよね。
 そこで、回りくどいようですが、少し歴史を遡ってみましょう。
 
 1914年から1918年にかけての足かけ5年にわたり、当初ヨーロッパを主戦場としれた第一次世界大戦は、機関銃や航空機、戦車をはじめとする新しい大殺りく兵器の出現や、戦線の全世界への拡大により、開戦当時には予想もしなかった膨大な犠牲者を生み出しました。
 正確な犠牲者数を算出するのは困難ですが、一説には、戦闘員の戦死者が900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と言われています(第二次世界大戦がこれをはるかに上回る規模の犠牲者を出したことは言うまでもありません)。
 
 国際社会において、戦争を「非合法化」する動きが急速に進んだのは、第一次世界大戦以降のことですが、その一つの到達点が、1928年の「不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)です。
 日本も署名した翌年(1929年)に批准しています。
 そんなに長いものではないので(本文は3箇条しかなく、前文の方が長い位です)、以下に本文のみ引用してみましょう。
(引用開始)
第一條 締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス
第二條 締約國ハ相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛爭又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハス平和的手段ニ依ルノ外之カ處理又ハ解決ヲ求メサルコトヲ約ス
第三條 本條約ハ前文ニ掲ケラルル締約國ニ依リ其ノ各自ノ憲法上ノ要件ニ從ヒ批准セラルヘク且各國ノ批准書カ總テ「ワシントン」ニ於テ寄託セラレタル後直ニ締約國間ニ實施セラルヘシ
千九百二十八年八月二十七日巴里ニ於テ作成ス
(引用終わり)
 
 ちなみに、日本(当時は「大日本帝国」ですね)政府は、批准にあたり、「帝國政府ハ千九百二十八年八月二十七日巴里ニ於テ署名セラレタル戰爭抛棄ニ關スル條約第一條中ノ「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」ナル字句ハ帝國憲法ノ條章ヨリ觀テ日本國ニ限リ適用ナキモノト了解スルコトヲ宣言ス」という留保を付していました。
 
 一読されればお分かりのとおり、日本国憲法第9条1項「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」は、まさに不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)を下敷きにした規定であって、日本も批准していた国際条約の内容を、憲法に取り入れたという位置付けの条項です。
 
 大日本帝国憲法明治憲法)には、以下のような条項がありました(帝国陸海軍についての憲法上の規定というのはほぼこれだけでした)。
 
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
 
 1889年に制定された大日本帝国憲法第13条に「戦ヲ宣シ」とある中には、「際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコト」が当然に含まれていたと解されますが、1929年に「戦争抛棄ニ関スル条約」を批准した後は、明治憲法13条の解釈は当然更され、条約の条項と整合性をもったものになっていたはずです。
 
(以下「中編」に続く)
 

 

 さて、1929年に「戦争抛棄ニ関スル条約」を批准した後の日本の歩んだ道といえば、条約が目指した方向とは全く逆向きであったことは言うまでもありません。
 簡単に略年表風に箇条書きしてみましょう。
 
1931年 満州事変
1933年 日本、国際連盟脱退
1937年 盧溝橋事件勃発 日中戦争はじまる
1939年 ノモンハン事件勃発
1940年 日独伊三国軍事同盟締結
1941年 真珠湾攻撃(太平洋戦争開始)
1945年 敗戦
 
 前編で、第一次世界大戦における犠牲者数をご紹介しましたので、第二次世界大戦の犠牲者数も調べてみようとしましたが、これが難しい。
 おそらく、民間人も含めて最も多くの犠牲者を出したのがソ連であり、それに次ぐのが中国であることは間違いなさそうなのですが、その数が実は非常にあいまいなのです。一説にはソ連2000万人、中国1000万人という数字もありますが、正確性は担保のしようがありません。
 これに対し、日本については、全体で約300万人、戦闘員と非戦闘員の犠牲者の比率が約3:1というあたりらしいのですが、これも統計のとりかた次第でかなり異っています。
 
 先日、DVDに録画していた映画『日本国憲法』(ジャン・ユンカーマン監督作品/2005年)を再視聴していたのですが、この様々な国の識者へのインタビューで構成された優れた作品から伝わってくるメッセージは、「憲法9条は、アジアの民衆に対する謝罪と約束ではなかったのか?」ということです。
 
 一例として、この映画に登場した班忠義(ハン・チュンイ)氏(作家・映画監督)が、「中国人なら誰でも知っている『平頂山事件』について、日本人が全く知らないのにいた」という話をされていたことを取り上げてみましょう。
 
 「平頂山事件」と聞いて「どういう事件か」すぐに答えられ日本人がどれだけいるでしょうか?
 正直に申し上げて、私自身、映画『日本国憲法』を観るまで全然知りませんでした。
 どのような事件であったかというと、1932年9月15日、反満抗日ゲリラ(日本側は「匪賊」と呼称していました)による撫順炭鉱襲撃事件が発生し、翌日、撫順守備隊による捜索の結果、平頂山集落で前日の襲撃の際の盗品が発見され(と言われています)、当集落がゲリラと通じていたとの判断の下、40名余の部隊が同集落を包囲してゲリラ掃が行なわれました。その掃討作戦というのは、当時集落にいたほぼ全住民(女性・子供・赤ん坊を含む)を集めて機関銃で掃射し、それでも死ななかった者を銃剣で刺し殺すというもので、死体を一箇所に集めて焼却処分にし、翌日、崖をダイナマイトで爆破することで一気に埋没処理しました。犠牲者数は、3000人説(中国側)、400~800人説(田辺敏雄説)などありますが、虐殺の事実自体を否定する議論はないようです(ウイキペディアの記載を要約)。
 さらに詳しく知りたい方には、この事件に関わる「証言」を集めたサイトがありますのでご参照ください。
 
 どうでしょうか?この事件は、「南京大虐殺」とは異なり、事件があったか無かっかが論争となっているのではなく、せいぜい犠牲者の数の大小が争われている程度であり、その日、平頂山村にいた住民のほぼ全員が(子どもを含めて)組織に日本軍によって虐殺されたこと自体は争いようのない事実なのです。
 
 もしも、日本の一山村が、外国の軍隊によって女性・子ども・老人の区別なく皆殺しにされたとして(わずか80年ほど前にです)、そのことが許せますか?忘れることができますか?
 
 しかし、加害者は、まず意図的に忘れようとします。直接・間接の関与者は戦争犯罪人としての処罰を恐れて。それ以外の者も、良心の呵責にふたをするために。さらに時が過ぎると、忘れるまでもなく、「何も知らない世代」が次々と登場してきます。そして、日本にとって都合の悪いことを言い出す日本人に「中国の手先」というレッテルを貼るのです。
 
 日本政府が、「村山談話」によって、初めて公式にアジア諸国民に謝罪の意を表明したのは、ようやく1995年(平成7年)になってからでしたが、その半世紀近く前、「二度とアジアを侵略しない」という決意を対外的に表明したのが日本国憲9条1項及び2項(とりわけ戦力不保持と交戦権の否認を定めた2項)なのです。
※村山総理大臣談話
 
 以前にもこのメルマガでご紹介しましたが、2007年6月に和歌山で講演された品川正治(しながわ・まさじ)さんが、復員船の中で日本国憲法草案を読んで涙をしながら、以下のように考えたと述懐しておられることも、その傍証の一つとなるでしょう。
(引用開始)
 前文から9条まで読んで、皆泣きました。我々の生き方は、それしかないと思っおったけども、よもや国家が憲法戦争放棄を明確にする、国の交戦権を認めいっていう、そこまで書いてくれたか、これなら生きていける、これなら中国の人たちにも贖罪の気持ちを表せる、亡くなった戦友の魂に対しても、「こういう国になるんだ」っていうことを我々が言えるようになる、そういうのが私自身の憲法、現憲法に接した一番最初の日なんです。
(引用終わり)
 
 「中編」の最後に、「ポツダム宣言」(1945年7月26日)の軍事関連の規定に目を通しておきましょう。これが、戦後作られることになった「憲法」の前提なのですから。
 
(抜粋引用開始)
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコト
ノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且
生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムル
カ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和
的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
(引用終わり)
 
 このポツダム宣言を受諾したことによって、日本はアメリカ軍を主力とする連合国の占領下に入り、そこで日本国憲法が作られた(大日本帝国憲法の「改正」として)のですから、その内容が以上のポツダム宣言の条項に矛盾したものであってはならないことは法理上当然であった訳です。
 
 ポツダム宣言を素直に読めば、日本がとり得る針路は以下のようなものであったと考えられます。
 
1 終戦時に存在した日本の軍隊は完全に武装解除される(9項)。そして、兵員以外の、再軍備を可能ならしめるような産業の維持は許されず(11項)、日本の戦争遂行能力が「破砕」されたことが確証されるまで占領は継続される(7項)。
2 以上の目的が達成され、日本国民の総意に基づく平和的傾向を有し責任あ る政府が樹立されれば占領は終結する(12項)。 
3 占領が終結し、日本が完全に主権を回復したあかつきに再軍備するかどうかは日本国民自らが判断すべきことである(条理上当然)。
 
 これは「後編」で書くべきことかもしれませんが、「押しつけ憲法論」が無意味なのは、サンフランシスコで平和条約が締結され、日本が主権を回復した1951年以降も、日本人が「日本国憲法」を「改正」してこなかったという「事実」自体、「しようと思えばできる再軍備をしない」という明確な国民の「選択」であったということを看過しているからです。
 
(以下「後編」に続く)
 
 いよいよポツダム宣言を受諾することとなった日本は、1945年9月2日、米国戦艦ミズーリ上において、重光葵外務大臣と梅津三治郎参謀総長が降伏文書に署名することにより、連合国による占領の時代が始まります。
 
 その後の憲法をめぐる動きについては、国立国会図書館WEBサイトの中の「日本憲法の誕生」コーナーに豊富な資料が集積されており、ほとんど読みやすいテキストも併記されていますので、非常に有用です。
 
 その中の「概説」は、資料を豊富に引用しながら、極力客観的な叙述を心がけた信頼できる解説ですから、初心者は、まずこれを読むところから始めると良いでしょう。
 
 さらに、「論点」において、
 1 国民主権天皇
 2 戦争放棄
 3 基本的人権の保障
 4 新しい二院制議会
 5 違憲審査制
 6 地方自治
という6項目にわたって解説されており、これも是非ご一読ください。
 
 以下に、「日本国憲法の誕生」掲載資料の中から、現行9条に直接つながる条項を抜き書きしてみましょう。
 それぞれの文書の成り立ちについては、各文書が掲載されたページのトップで解説されていますので、是非ご参照ください(特に、マッカーサー・ノートとGHQ草案)。
 
1945年2月3日 「マッカーサー・ノート」第2項
War as a sovereign right of the nation is abolished.
Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own   security.
It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection.
No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.
国家の主権としての戦争は廃止される。
日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段と
しての戦争も放棄する。
日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に信頼する。
日本が陸海空軍を保有することは、将来ともに許可されることがなく、日本軍に交戦
権が与えられることもない。
 
1945年2月13日 GHQ草案 第8条
War as a sovereign right of nation is abolished. The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.
No army, navy, air force, or other war potential will ever be authorized and
no rights of belligerency will ever be conferred upon the State.
国民ノ一主権トシテノ戦争ハ之ヲ廃止ス他ノ国民トノ紛争解決ノ手段トシテノ武力ノ威嚇又ハ使用ハ永久ニ之ヲ廃棄ス
陸軍、海軍、空軍又ハ其ノ他ノ戦力ハ決シテ許諾セラルルコト無カルヘク又交戦状
態ノ権利ハ決シテ国家ニ授与セラルルコト無カルヘシ
 
1946年6月20日 帝国憲法改正案(第90帝国議会に付議) 第9条
国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めな
い。
 
1946年11月3日 日本国憲法(公布) 第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦
権は、これを認めない。
 
1947年5月3日 日本国憲法 施行
 
 さて、駆け足で憲法9条誕生までの経緯をたどってきましたが、ここで、なぜ9条が生まれたのか?についての簡単なまとめをしておきましょう。もちろん、これは私個人の限られた知識に基づく私見に過ぎません。
 
1 法的には、ポツダム宣言を受諾した瞬間から、宣言の要求と矛盾する大日本帝憲法の条項は効力停止状態となっていたと解さねばならず、早晩、改憲は避けられなかった。
2 改憲の方向性を考える際、現に国内では、1945年10月までにポツダム宣言が要求していた武装解除が完了し、「事実として」軍隊がない状態であった。
3 ポツダム宣言自体、占領終了前の日本の「再軍備」を想定していたとは解しにくい。
4 1946年2月の時点では、その年の5月から始まることになっていた極東国際軍事裁判(東京裁判)に天皇が訴追されるか否かが確定しておらず、オーストラリアなどの強硬国を説得するためにも、日本は将来とも近隣諸国を侵略するおそれがないことを示す必要があった。
5 「中編」で述べたアジア諸国に対する贖罪と謝罪のためということが、表立って明示された訳ではなくとも、多くの国民の潜在的な意思に合致していたと考えられる。 
6 1946年2月3日のマッカーサー・ノート第2項に示された原則の真の提案者が、その10日ほど前の1月24日にマッカーサーを訪ねた幣原喜重郎首相その人であったという説は、後年、マッカーサーや幣原本人がそのように認めている割には、それほど支持者の多い説ではないが(かなりトリッキーな説には違いない)、なかなか捨て難いところがある(この説を発展させれば、GHQ草案作成の端緒となった毎日新聞の松本案スクープも幣原が仕掛けたリークということに繋がりかねず、その「陰謀論」的気配が支持者を増やせない理由かもしれない)。
7 幣原喜重郎も強調しているとおり、原爆が実戦配備されてしまった以上、戦争放棄、軍備撤廃こそが現実政治におけるリアリティをもった選択であった。
 
 1946年11月3日の憲法公布までを振り返り、とりあえずの私見をとりまとめてみました。もちろん、もっと多様な意見がある訳で、1人1人がその中から最も適切と考える意見を自らのものにすれば良いのだと思います。