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“立憲主義”を理解していない首相が連発する“法の支配”とは?

 

 今晩(2014年6月7日)配信した「メルマガ金原No.1750」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
立憲主義”を理解していない首相が連発する“法の支配”とは?

 何よりも、私たちには共通の「言語」があります。それは、自由と民主主義であり、基本的人権であり、そして、法の支配であります。こうした基本的な価値観を共有しながら、世界の進むべき道を議論する。これが、G7サミットです。
 先月は、 ここブリュッセルにあるNATO本部で、そして、先週はシンガポールで、私は、
「法の支配」の重要性を、世界に向けて訴えました。航行の自由、航空の自由こそが、自由貿易の発展、世界経済の発展のために、最も重要な前提であります。「いかなる主張も、国際法に基づかなければならない。その実現のために力を用いてはならず、平和的に解決しなければならない。」
 
 以上は、去る(2014年)6月5日にベルギーブリュッセルで行われた安倍晋三首相による内外記者会見での冒頭発言の一部です。
 
 「法の支配」という元来は英米法に由来する概念は多義的であり、簡単に定義することは困難ですが、私が司法試験の受験生時代の後半(受験生時代が結構長かった)に読んだ伊藤正己氏の『憲法』(弘文堂/昭和57年3月刊)から一部引用してみましょう。今の学界でも、そう理解が異なっていることはないと思います。
 
(引用開始/上掲書60~62頁)
 しかし、第10章(金原注:日本国憲法第10章 最高法規 第97条~第99条のこと)の諸規定は、単なる憲法形式的効力の優位ということ以上の意味をもち、そこには、日本国憲法の基本的な考え方があらわれていると解される。
(略)
 この一見して脈絡のないかにみえる3ヵ条をおさめる第10章は、全体として、国家の権力も恣意的に行使することが許されず、憲法に従って行われるべきことを要求する「法の支配」(Rule of Law)の原則が日本国憲法の指導理念であることを示している。
(略)
 「法の支配」は、イギリスの憲法史のうちに展開し、イギリス的特色を残しながら近代国家の統治原理となったものであるが、それを解明した代表的学者であるダイシイ(Dicey)によれば、それは3つの意味をもつとされる。
 すなわち、第一に、正式の法が専断的権力に対し絶対的に優越し、政府が特権、さらに広い裁量権をもつことを排除し、国民は通常の法違反に対してのみ処罰されること、第二に、あらゆる階級が通常裁判所の運用する通常法にひとしく服従すること、第三に、憲法規範は、裁判所が定めかつ強行する個人の権利の結果であり、個人の権利が憲法を根拠として生まれるものではないこと、がそれである。
(略)
 20世紀にはいると、イギリスにおいても、ダイシイの理論に対して批判が強くなっている。その法的論理の不備や福祉国家政策の推進などによる行政権の伸張の実情との乖離がその批判の主な点んである。しかし、国家権力への猜疑心、通常法と通常裁判所への信頼という伝統はなお生きているし、イギリス憲法秩序を支える基本的理念として浸透している。そして、そこにひそむ核心である「国王といえども神と法との下にある」という古典的表現のうちに示される考え方は、大陸的な「法治国家」主義を含みつつ、それをこえた意味をもつものとして、現在の自由国家群の憲法に影響を与えているものである。この考え方は、実定的な憲法制度として多様な形であらわれるが、国家の支配の及びえない個人の権利(とくに人身の自由や表現の自由のような自由民主体制のもとでの基本的自由が重視される)の保障、法の定める内容や手続の適正なことの要求(アメリカ的表現を用いるときには「適正手続」(due process of law)の要求であり、アメリカでは、しばしば「適正手続」と「法の支配」が同一視される)、および通常の司法裁判所に高い評価を与え、これによって権力の恣意性を抑止することの三点は、「法の支配」の具体化とみてよいであろう。
(引用終わり) 
 
 なにしろ、「総理、憲法というのはどういう性格のものだとお考えでしょうか」と尋ねられて、「法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、今まさに憲法というのは、日本という国の形、そして理想と未来を語るものではないか、このように思います」(第186階国会(常会)における衆議院予算委員会(2014年2月3日)での畑浩治委員(生活の党)からの質問に対する安倍晋三首相答弁より)と述べ、あまつさえ、「ほど来、法制局長官の答弁を求めていますが、最高の責任者は私です。私が責任者であって、政府の答弁に対しても私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるのは、法制局長官ではないんです、私なんですよ。だからこそ、私は今こうやって答弁をしているわけであります」(同国会における衆議院予算委員会(2014年2月12日)での大串博志委員(民主党)からの質問に対する安倍晋三首相答弁より)と発言して恥じない、恐ろしく「無教養」な人間が、外国に出かけて行って「法の支配」についての無知ぶりをさらけ出してきても、今さら驚く日本人はいないと思いますが、それにしても一言くらい言いたくもなりますよね。
 
 安倍首相が「法の支配」を強調するのは何も「サミット」だからということではなく、外国に出かけるとなぜか使いたがるようなのですね。あるいは、スピーチライターを務める外務省の役人が皮肉をこめて「法の支配」を連発しているのかもしれませんが(そんなことないか?)。
 この点については、憲法学者浦部法穂(うらべ・のりほ)さんが、法学館憲法研究所サイトに連載している「憲法時評」に「『集団的自衛権』の次は・・・」(2014年5月12日)に、実にまっとうな批判を書かれていますので、該当箇所を引用します(もっとも、この論考の主眼は引用箇所の後に書かれた部分なので、そちらも是非読んでください)。
 
(引用開始)
 「集団的自衛権」の行使を認めること、また、それを内閣による「解釈変更」で行うことには、各種世論調査でも反対意見のほうが多いし、5月3日には多くの新聞が、安倍政権によるこうした憲法破壊を批判する論説を掲載した。安倍首相は、そうした国民多数の意見をまったく顧みることなく、自分の考えだけで突っ走ろうとしている。「自由と民主主義、法の支配という価値を共有する国」との連携を強化する、というのは、最近の安倍氏の「口癖」であり、あちこちの外遊先で決まって強調していることであるが、やっていることは、それとは真逆である。情報隠しと教育統制・マスコミ支配で国民の思想・言論の自由を奪い、国民の意思など「どこ吹く風」で「民意」無視の政治を平気で押し進める。そして、「法の支配」の最も重要な内容である憲法による権力統制を、自分たちで勝手に都合のいいように憲法を「解釈」することで骨抜きにしようとしているのである。自由も民主主義も法の支配も、全部否定しているのが、安倍氏であり安倍政権なのである。安倍氏が「自由、民主主義、法の支配」を言うとき、彼の念頭にあるのは、それらの価値に重きを置かない中国や北朝鮮(最近では、とくに中国)であることは、容易にうかがわれる。でも、安倍氏は、自分のやっていることが日本を中国や北朝鮮のような国にしようとすることだ、とは気づいていない。安倍政権の暴走をこのまま許してしまえば、日本は確実に、「自由と民主主義、法の支配という価値を共有する国」ではなくなるだろう。
(引用終わり)
 
 ブリュッセルでの安倍首相「法の支配」発言が、冒頭引用部分の前半だけであれば、浦部先生の「憲法時評」の引用だけで、完璧に私の考えを代弁してくださっているということで終わりなのですが、後半が少し気になります。つまり、以下の部分です。
 
 先月は、 ここブリュッセルにあるNATO本部で、そして、先週はシンガポールで、私は、「法の支配」の重要性を、世界に向けて訴えました。航行の自由、航空の自由こそが、自由貿易の発展、世界経済の発展のために、最も重要な前提であります。「いかなる主張も、国際法に基づかなければならない。その実現のために力を用いてはならず、平和的に解決しなければならない。」
 
 普通、一般に理解されている「法の支配」というのは、先に引用した伊藤正己氏の教科書で説明されたような概念であり、安倍首相発言の前半部分で、「自由」「民主主義」「基本的人権」という諸価値と併置されている「法の支配」は、この意味での「法の支配」でしょう。
 ところが、後半部分で「法の支配」という用語がどのような文脈で使われているかといえば、要するに「確立した国際法は全ての国家が遵守すべき」であるとして、「航行の自由」「航空の自由」を列挙しているのですが、これって前半とは意味内容が全然違うでしょう?
 たしかに、国際法における「法の支配」という概念を使用することが全くない訳ではないようなのですが、そもそも「国際法は法か?」という疑問についての説明が冒頭の章に置かれた国際法の教科書もあるくらいであり、従来からの国内法的な「法の支配」と対置できるほど熟した概念とはとても思えません。
 
 先般のブリュッセルサミットにおける「首脳宣言」の冒頭で言及されている「法の支配」も、どう考えても、従来的な「法の支配」でしょう。
 
(引用開始)
 我々は,自由及び民主主義の価値並びにその普遍性,そして平和と安全を促進することに深く関与している。我々は,永続的な成長及び安定の基礎として,人権と法の支配の尊重を含む,開かれた経済,開かれた社会及び開かれた政府を信じる。
 We are profoundly committed to the values of freedom and democracy, and their universality and to fostering peace and security. We believe in open economies, open societies and open governments, including respect for human rights and the rule of law, as the basis for lasting growth and stability. 
(引用終わり)
 
 まあ、だからどうなんだ?と問われれば、「安倍首相には、異なった文脈で『法の支配』という概念を使い分けているというような自覚は全くないのだろうな」というだけのことなのですが。
 そもそも、「立憲主義」についての理解があのレベルの人に、「法の支配」についての十分な理解を求める方がどうかしている訳ですが。
 外遊した際の安倍首相の演説草稿を誰が書いているのか知りませんが、国内的にも対外的にも、これ以上「恥ずかしい」原稿を書かないようにお願いしたいですね。