wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

ポリスケ市は全市避難を決めた~チェルノブイリ事故から4年後に

今晩(2014年8月21日)配信した「メルマガ金原No.1824」を転載します。

なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
ポリスケ市は全市避難を決めた~チェルノブイリ事故から4年後に
 
 ウクライナといえば、ロシアと隣接する東部地域を中心として政情不安に陥り、国際的な安
全保障上の重大な懸念地域となっており、外務省の「海外安全ホームページ」にも、以下のような「渡航情報(危険情報)」が掲載されています。
 
 
●クリミア自治共和国およびセバストーポリ:「渡航の延期をお勧めします。」(滞在中の方は事情が許す限り早期の退避を検討してください。)(継続)
ドネツク州,ルハンスク州:「渡航の延期をお勧めします。」(引き上げ)
●ハルキフ州:「渡航の是非を検討してください。」(継続)
●上記地域を除く全土:「十分注意してください。」(継続)
 
 そのウクライナは、今年(2014年)で28年目を迎えたチェルノブイリの国でもあります。
 OurPlanet-TVでは、ウクライナでの現地取材を敢行し、映像報告『チェルノブイリ・28年
目の子どもたち』を完成させ、そのDVD(1枚2000円)を普及して自主上映することを呼びかけています(28年目の今年4月から)。
 
映像報告『チェルノブイリ・28年目の子どもたち』
(引用開始)
今年3月で、福島第一原発事故から3年を迎えた。しかし現在も年間20ミリシーベルト
避難基準に設定したまま、住民の早期帰還策が進められている。また除染以外の被ばく防護策や健康調査は極めて限定的だ。
そんな中、OurPlanetTVではチェルノブイリ事故後28年経つウクライナへ足を運び、子ども
たちの健康状態や学校生活などを取材した。汚染地域の子どもや住民の罹患率が今も上昇する中、医師、教師たちの懸命な努力が続けられている。日本はここから何を学べるか。子どもを取り巻く学校や教育関係者、医療従事者、保護者たちの取組みや思いを取材した。
(引用終わり)
 
DVD「チェルノブイリ・28年目の子どもたち」購入ページ
(引用開始)
チェルノブイリ原発事故から28年経った現在のウクライナを取材した「チェルノブイリ?28年目
の子どもたち」。学校や医療機関でどのように健康診断を行い、保養につなげているのか?日本にとって、参考になる取組みや日々の暮らし、行政や専門家の声をまとめています。
OurPlanetTVでは、多くの人にご覧いただけるようDVDを販売しています。「上映権つき」で
すので、地域やグループで上映会を開催するなど、自由にご活用ください。報告講演のご依頼は、別途、ご相談に応じます。
(引用終わり)
 
 OurPlanet-TVでは、今回のウクライナ取材の成果として、上記の映像報告『チェルノブイリ・28年目の子どもたち』以外に、2本の作品を公開しています。
 
2014年8月12日アップ
チェルノブイリ「28年目の甲状腺がんウクライナ報告番外編
(抜粋引用開始)
チェルノブイリ事故後、ウクライナ国内において、甲状腺の診断や治療に関して指導的な立
場にを果たしてきた「ウクライナ国立代謝問題研究所」。事故当時0~18歳だった子どもの治療のほとんどがここで行われてきた。昨年11月に取材した際のビデオ報告を配信する。
(引用終わり)
 
2014年8月17日アップ
チェルノブイリ・5年目の移住者?除染から移住に転じた町
(抜粋引用開始)
チェルノブイリ原発事故から3年が経過した1989年。ソ連共産党の機関紙プラウダは、政府
によって隠ぺいされていた汚染地図を報道した。汚染ははるか100キロ以上にも及び、避難していなかった30キロ圏外の汚染地域には激震が走った。ウクライナ報告第3弾は、チェルノブイリ原発から55キロのポリスケ市に住んでいたハルバラさんご家族のインタビューを配信する。
(引用終わり)
 
 他の2本も非常に示唆に富む内容で、今後の日本の将来を展望する上で、チェルノブイリから学ぶことはまだまだいくらでもある、ということに気づかされますが、私はとりわけ、最後の「チェルノブイリ・5年目の移住者~除染から移住に転じた町」を興味深く視聴しました。
 この「除染から移住に転じた町」というのは、キエフ州にあったポリスケ市という町なのですが、
OurPlanet-TVでも紹介されていましたが、この今や「消滅した」町がたどった運命を叙述したキエフ州ポリスケ市の終焉」(ボロディーミル・ティーヒー著、今中哲二訳)という論考が、京大原子炉実験所・原子力安全研究グループのホームページに掲載されているのです(日本語初出は「「技術と人間」2005 年6月号)。
 
 ボロディーミル・ティーヒー氏の論考の一部を抜粋してご紹介してみます。
 
(抜粋引用開始)
 ポリスケ市は、チェルノブイリ原発から南西に55㎞、ウシ川に沿って位置し、地質学的には
ウクライナ・ポレシエに属している。この地域は古くからの文化で知られている。(1934年以前はハブネと呼ばれていた)ポリスケの名が最初に出てくるのは1425年の古文書である。
 ポリスケ市は、チェルノブイリから南西方向に延びた汚染ゾーンの中にあり、セシウム137に
よる土壌汚染密度は1平方㎞当り15~40キュリーである。私の知り合いで、1986年の事故直後に30㎞圏避難範囲の決定に深く関わっていた科学者によると、ポリスケ市も避難すべきであった。しかし、除染活動などのため、様々な兵站機能に利用できるインフラを備えた町がどうしても必要であり、ポリスケ市は避難範囲から除外された。それどころか、1986年4月27日から5月5日にかけて、プリピャチ市その他の村々から2万8000人の避難民がポリスケにやってきた。
(略)
 1986年また1987年~1989年にかけて汚染地域の多くの村々が避難した際にもポリ
スケ市の避難は実施されなかった。その替わり、大規模な除染活動が実施された。家々の屋根や壁を取り替え、汚染道路のアスファルトを敷き替え、広場や校庭には新しいアスファルトが敷きつめられた。こうした作業には予備役として徴兵された30~40歳の男性が従事し、人々は彼らを「パルチザン」と呼んでいた。こうした「除染作業」も、生活環境を安全にするには不十分であることが分かった。
 1988年の秋、私がポリスケ市の一軒一軒を回りながらセシウム137による庭先の土壌
汚染を測定していたとき、郡執行委員会の議長に測定結果を説明する機会があった。測定結果は明らかに基準を上回っていたが、議長は、「ここは我々の土地である、我々はここで生まれ、育ち、ここに留まる」と述べた。彼の信念が郷土愛か、危険の過小評価か、命令への忠実さか、また誰かの受け売りか、何に由来しているかは私には分からなかった。おそらくは、ソ連最高会議メンバーという彼の立場が大事だったのだろう。その立場は、権威そのものであり、大衆のことなどにまどわされなかったのだろう。
 何百万ルーブルという大金が社会基盤の整備に投入された。新たな病院やアパートが建
設され、天然ガスの供給パイプが整備され、個人住宅にガスオーブンが設置された。また、老若男女に「クリーン」地域での夏のバケーションが無料で提供された。これらのことは、1986年から1991年の間に国家が行った対策リストの一部にすぎない。
 農業分野では、ポリスケ市周辺での農産物生産や缶詰加工の継続に向けて(ときには増
産に向けて)真剣な努力が注がれた。今から振り返ればなんだか奇妙だが、汚染された野イチゴ、キノコ、乳製品、野菜などをせっせと缶詰に加工していたのである。牛乳や肉の生産、野菜畑や亜麻畑での作業、木材の生産のため、人々は畑や森の中で働いた。つまり、放射能のチリを吸い込みながら働いたのだった。
(略)
 1989年12月14日ウクライナ共和国閣僚会議は、14歳以下の子供がいる家族は望
めば移住が許可される、という決定を採択した。その2カ月後の1990年2月には、子供や妊婦のいる家族はポリスケから強制的に移住させることを決定した。しかし、当然のことながらこの移住決定を直ちに実行に移すための家やアパートはなかった。そして最後に、1990年8月23日の閣僚会議決定により、町全体が強制移住の対象となった。1991年7月23日の閣僚会議決定で再度、ポリスケは86カ所のウクライナでの強制移住居住区のひとつにリストアップされた。
(略)
(引用終わり)
 
 OurPlanet-TVが取材したハルバラさん一家の証言にもあるとおり、ポリスケ市の住民を
同市から移住させぬため、徹底した除染、雇用や住居での優遇策などがとられたものの、それでも汚染低減に効果がなかったことを隠し通すことができず、チェルノブイリ事故から約4年4か月が経過した1990年に至り、町全体が強制移住の対象となったという事実はまことに示唆的です。また、チェルノブイリからポリスケ市までの距離が約55㎞であったというのも、福島の実情を踏まえれば これもまた非常に示唆的な数字です。
 チェルノブイリから学ぶべき多くの事柄の中には、この「除染の失敗」ということも、当然含
まれてしかるべきだと思われます。
 

(付録)
東電に入ろう(倒電に廃炉)』 
原曲『自衛隊に入ろう』 原曲の原曲『I wan't to go to Andorra』)
歌詞:ヒポポ大王(多分) 演奏:ポポフォークゲリラ(多分)
※私が書いた「今さらながらの替え歌『東電に入ろう(倒電に廃炉)』のご紹介」をご参照ください。