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“平和主義と天皇制”~「戦後レジーム」の本質を復習する

 今晩(2014年8月30日)配信した「メルマガ金原No.1833」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
“平和主義と天皇制”~「戦後レジーム」の本質を復習する
 
 今日は去る8月25日に配信した「補遺その2『自衛隊を活かす会』シンポジウムから学ぶ(1)『自衛隊の可能性・国際貢献の現場から』~会場からの発言と質疑応答」の末尾において、簡単に引用するだけにとどまった加藤朗さん(桜美林大学教授)の発言について、あらためて考えたいと思います。
 
 6月7日のシンポジウムの「会場からの発言と質疑応答」における加藤朗さんの最後の発言をもう一度引用します。
 
(引用開始)
加藤 私は柳澤さんと同じ考え方で、現在の安倍政権に対する見方は批判的です。安倍さんがやってきたことは、じつは民主党がずっとやろうとしてきて、できなかったことなんです。国安全保障会議、秘密保全法、そして武器輸出三原則、考えてみたらこれらはすべて民主党がやろうとしてできなかった政策です。それを安倍さんが事実上引き継いだだけなのに、なぜだかわかりませんが安倍さん自身がものすごく前面に出てしまって、逆に周辺諸国のみなら
ずアメリカにもある意味ではけんかを売っているような感じに見えてしかたがありません。
 それともう一つ安倍さんのことで言うと、歴史認識の問題があります。戦後レジームからの脱
却というのが、たぶん安倍さんのめざす最高の目標なのだろうと思います。でも安倍さんが忘れていることが一つあって、戦後レジームというのは、実は天皇制と平和主義なんです。この2つがセットなんです。憲法9条を変えるということは、同時にポツダム宣言を受け入れるときに、我々が連合国にお願いした天皇制護持の要求と密接にリンクしていますから、平和憲法だけを変えるということはできない。改憲問題では天皇制をどうするかということが、暗黙裏に問われていると思うんです。このことが解決しない限り、我々の国家戦略はなかなか合意が得られな
いのではないかと思います。
(引用終わり)
 
 以上の発言の内、今日はその後半、「戦後レジームというのは、実は天皇制と平和主義なんです。この2つがセットなんです」という部分について考えてみたいと思います。
 
 とはいえ、加藤さんが言われるように安倍首相が「忘れている」かどうかはともかくとして、「天皇制と平和主義」の「2つがセット」であることは、日本国憲法制定史を少しでも学んだ者にとっては、自明のことであろうと思います。
 従って、以下は、その「自明のこと」を、主として国立国会図書館が運営するWEBサイト「日本国憲法の誕生」に集められた資料と解説で跡づけながら再確認する作業になるはずであり、これは、加藤朗さんの発言を読んだことをきっかけとする、私自身の「復習」でもあります。

 
※付記 
 加藤朗さんご自身の「平和主義と天皇制」についてのまとまった論考としては、昨年(2013年)8月17日、ブログ「加藤朗の目黒短信」に掲載された「敗北をかみしめて」という文章があります。是非ご一読ください。
 

 同盟国ドイツも1945年5月に降伏し、翌6月には、住民に多大の犠牲を強いた上で沖縄が陥落するなど、敗戦間近となった日本政府に対し、7月26日、連合国の内の主要国、米国、英国、中国の3国による降伏勧告が行われました。それが「ポツダム宣言」です。少し長くなりますが、全文引用してみましょう。好むと好まざるとにかかわらず、結果的に、これが「戦後の出発点」になったのですから。
 
一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ
依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ
支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結
果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル
壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ
四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ
依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決
意スヘキ時期ハ到来セリ
五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ
吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国
並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ
生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ
有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立
セラルヘシ
十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産
業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ
日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向
ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラ
ルヘシ
十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル
同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
 
 「宣言」を逐条的に読んでみると、その内容は以下のとおりです。
 
1項 この宣言が降伏勧告であることがまず明らかにされています。主体は、アメリカ合衆国中華民国グレートブリテン(英帝国)の3カ国です(対日参戦直後、ソ連が加わって最終的には4カ国となります)。
2項 「西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ」というのは、ドイツの降伏により、ヨーロッパ戦線から大量の兵力を日本に振り向けることが出来るとの「威嚇」でしょう。
3項 「「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ」も同じく「威嚇」。実際、「ナチス」崩壊時のドイツ国民(とりわけ女性)が直面した状況は悲惨極まりないものだったと言われています。しかし、それよりも日本人が忘れてならないのは、それに続く「吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ」とある部分であり、これは、ポツダム宣言に先立つこと10日(1945年7月16日)、アメリカ、ニューメキシコ州の砂漠の中の射爆場において、人類史上初の原子爆弾が炸裂したことを踏まえた表現であったということです。日本にも原爆開発計画があったのですから、これだけの表現でも、連合国が原爆を開発したことを示唆したものと日本側が受け止めることも不可能ではなかったのかもしれませんが、結果的に、米国はこれ以上具体的な警告を発することなく、広島と長崎に原爆を投下して無防備な多数の民間人を殺傷したのでした。
4項 「又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカ」とあるのは、抗戦継続派を排除するよう促しているということでしょうか。
5項 6項以下に列挙する日本の降伏を受諾する条件を変更する意思はない(条件交渉には応じない)ということ。
6項 「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」の内の「過誤ヲ犯サシメタル者」が誰かが実は問題なのです(とりわけ「天皇」はその中に含まれるのか?)。
7項 連合国による占領が「右ノ如キ新秩序カ建設セラレ(戦争指導者の権力・勢力の永久的除去)且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテ」継続することを定めています。
8項 降伏後の「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」という基本原則を定め、さらに「カイロ宣言(「1943年12月1日)」の履行を確認しており、同宣言は日本の領土について、「右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ」と規定されていました。
9項 日本国軍隊の完全な武装解除を求めています。ポツダム宣言を受け入れた結果、日本国憲法制定時には、事実として日本に軍隊は存在しなかったのです。
10項 前半では「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ」とされ、戦犯裁判を受け入れることは、降伏のための「条件」であった訳です。なお、後半では、降伏後に日本政府が遵守すべき基本原理が「民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙」の除去、「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重」であることが明示されています。
11項 ここで注目すべきは但書でしょう。「日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス(維持することは許されない)」ということを条件に降伏したのですから、少なくとも12項により占領が終了するまでは、再軍備できるような産業を維持することは禁じられていたということに(一応は)なるのでしょう。
12項 連合国占領軍の撤収時期が「前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルル」までということが明示されています。
13項 締めの「最後通牒」です。
 
 さて、このポツダム宣言を受諾するか否かについて、鈴木貫太郎内閣において紆余曲折があったことはよく知られていますが、とりわけ「国体(天皇制)護持」が最大の問題であったことについては、国立国会図書館日本国憲法の誕生」の中にある以下の説明が要を得ています。その内、まず「米国の方針」の部分を引用します。
 
(引用開始)
1 米国の方針
 日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統
治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されると回答した(「ポツダム宣言受諾に関する交渉記録」)。1945(昭和20)年8月14日の御前会議で、ポツダム宣言受諾が決定され、天皇は、終戦
詔書の中で、「国体ヲ護持シ得」たとした。
 1946(昭和21)年1月、米国政府からマッカーサーに対して「情報」として伝えられた「日本
の統治体制の改革(SWNCC228)」には、憲法改正問題に関する米国政府の方針が直接かつ具体的に示されていた。この文書は、天皇制の廃止またはその民主主義的な改革が奨励されなければならないとし、日本国民が天皇制の維持を決定する場合には、天皇が一切の重要事項につき内閣の助言に基づいて行動すること等の民主主義的な改革を保障する条項が必要であるとしていた。マッカーサーは、その頃までに、占領政策の円滑な実施を図るため、天皇制を存続させることをほぼ決めていた(「マッカーサーアイゼンハワー陸軍参謀
総長宛書簡」)。
(引用終わり)
 
 ポツダム宣言の6項~12項の条件の内、日本の為政者たちが最も気にしていたのは、おそらく6項(軍国主義者の権力・勢力の永久的除去)、そして10項前段(戦争犯罪人の処罰)でしょう。もちろんそれは、国体(天皇制)を維持できるのか、そして昭和天皇個人が戦争犯罪人として処罰されることはないのかということに関わってです。
 そこで、日本政府は、広島、長崎に原爆が投下され、ソ連にが対日参戦に踏み切った後、ようやく以下のとおりの申入を連合国に対して行いました。

ポツダム受諾に関する8月10日付日本国政府申入
(引用開始)
帝国政府ニ於テハ常ニ世界平和ノ促進ヲ冀求シ給ヒ今次戦争ノ継続ニ依リ齎ラサルヘキ惨禍ヨリ人類ヲ免カレシメンカ為速ナル戦闘ノ終結ヲ祈念シ給フ天皇陛下ノ大御心ニ従ヒ数週間前当時中立関係ニ在リタル「ソヴィエト」聯邦政府ニ対シ敵国トノ平和恢復ノ為斡旋ヲ依頼セルカ不幸ニシテ右帝国政府ノ平和招来ニ対スル努力ハ結実ヲ見ス茲ニ於テ帝国政府ハ天皇陛下ノ一般的平和克服ニ対スル御祈念ニ基キ戦争ノ惨禍ヲ出来得ル限リ速ニ終止セシメンコトヲ欲シ左ノ通リ決定セリ
帝国政府ハ一九四五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ米、英、支三国政府首脳者ニ依リ発表セラレ爾後「ソ」聯政府ノ参加ヲ見タル共同宣言ニ挙ケラレタル条件ヲ右宣言ハ 天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス
帝国政府ハ右了解ニシテ誤リナキヲ信シ本件ニ関スル明確ナル意向カ速ニ表示セラレンコ
トヲ切望ス
(引用終わり)
 
 「右宣言ハ 天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」との上記8月10日付申入に対する米国のバーンズ国務長官からの回答(8月11日)中、「shall be subject to」をどう解するかが議論されたりしたものの、最終的に、8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾する通告を行いました。
 
(引用開始)
ポツダム」宣言ノ条項受諾ニ関スル八月十日附帝国政府ノ申入並ニ八月十一日附「バーンズ」米国国務長官発米英蘇支四国政府ノ回答ニ関聯シ帝国政府ハ右四国政府ニ
対シ左ノ通通報スルノ光栄ヲ有ス
一 天皇陛下ニ於カセラレテハ「ポツダム」宣言ノ条項受諾ニ関スル詔書ヲ発布セラレタリ
二 天皇陛下ニ於カセラレテハ其ノ政府及大本営ニ対シ「ポツダム」宣言ノ諸規定ヲ実施
スル為必要トセラルヘキ条項ニ署名スルノ権限ヲ与ヘ且之ヲ保障セラルルノ用意アリ又 陛下ニ於カセラレテハ一切ノ日本国陸、海、空軍官憲及右官憲ノ指揮下ニ在ル一切ノ軍隊ニ対シ戦闘行為ヲ終止シ武器ヲ引渡シ前記条項実施ノ為聯合国最高司令官ノ要求
スルコトアルヘキ命令ヲ発スルコトヲ命セラルルノ用意アリ
(引用終わり)
 
 上記通告に「天皇陛下ニ於カセラレテハ「ポツダム」宣言ノ条項受諾ニ関スル詔書ヲ発布セラレタリ」とあるのがあの有名な「終戦の詔書」です。これで分かるとおり、昭和天皇自身が吹き込んだ録音が全国民に向けて放送されたのは8月15日のことですが、詔書の発布自体は8月14日付です。少し長くなりますが、全文を引用してみましょう。
 
(引用開始)
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠
良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措
カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ心霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ
応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国
臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負イ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕
ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫
レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発
揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
(引用終わり)
 
 この終戦の詔書における「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ」には様々な解釈があり得るところですが、私の印象としては、この「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」というという部分は、それにすぐ引き続いて述べられた「若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム」という、抗戦継続派による暴発をいましめる文章をより説得的にするためにその直前に置かれたという感じを受けます。
 
 さて、このようにして、ポツダム宣言受諾の意思を明らかにした日本政府は、同年9月2日、東京湾上の米海軍戦艦ミズーリ号上において降伏文書に正式に調印し(署名したのは、東久邇宮内閣の外務大臣重光葵参謀総長梅津美治郎の両名でした)占領軍による間接統治が始まりました(事実上その前から連合国軍は進駐していましたが)。
 
(引用開始)
下名ハ茲ニ合衆国、中華民国及「グレート、ブリテン」国ノ政府ノ首班ガ千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ発シ後ニ「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦ガ参加シタル宣言ノ条項ヲ日本国天皇、日本国政府及日本帝国大本営ノ命ニ依リ且之ニ代リ受諾ス
右四国ハ以下之ヲ聯合国ト称ス
下名ハ茲ニ日本帝国大本営並ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国
ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ聯合国ニ対スル無条件降伏ヲ布告ス
下名ハ茲ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国臣民ニ対シ敵対行為ヲ直ニ終止スルコト、一切ノ船舶、航空機並ニ軍用及非軍用財産ヲ保存シ之ガ毀損ヲ防止スルコト及聯合国最高令官又ハ其ノ指示ニ基キ日本国政府ノ諸機関ノ課スベキ一切ノ要求ニ応ズルコトヲ命ズ
下名ハ茲ニ日本帝国大本営ガ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ
支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ガ無条件
ニ降伏スベキ旨ノ命令ヲ直ニ発スルコトヲ命ズ
下名ハ茲ニ一切ノ官庁、陸軍及海軍ノ職員ニ対シ聯合国最高司令官ガ本降伏実施ノ為
適当ナリト認メテ自ラ発シ又ハ其ノ委任ニ基キ発セシムル一切ノ布告、命令及指示ヲ遵守シ且之ヲ施行スルコトヲ命ジ並ニ右職員ガ聯合国最高司令官ニ依リ又ハ其ノ委任ニ基キ特
ニ任務ヲ解カレザル限リ各自ノ地位ニ留リ且引続キ各自ノ非戦闘的任務ヲ行フコトヲ命ズ
下名ハ茲ニ「ポツダム」宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト並ニ右宣言ヲ実施スル為聯合国
最高司令官又ハ其ノ他特定ノ聯合国代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ発シ且
斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本国政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス
下名ハ茲ニ日本帝国政府及日本帝国大本営ニ対シ現ニ日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ聯
合国俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所
ヘノ即時輪送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ズ
天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執
ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス
(引用終わり)
 
 以上のとおり、降伏文書は、「下命ハ」で始まる7項目と最後の1項目からなります。「下命」というのは、普通には「命令を下す」という意味ですが、ここでは、「大日本帝国天皇陛下及日本国政府ノ命」を受けた重光葵外務大臣と、「日本帝国大本営ノ命」を受けた梅津美治郎参謀総長の両名という意味でしょう。降伏文書で定められた8項目の内容は以下のとおり。
 
1項 ポツダム宣言の受諾
2項 日本軍の連合国に対する無条件降伏の布告
3項 敵対行為の終止、財産の毀損防止、連合国最高司令官の要求に応ずることを命令
4項 日本軍の指揮官に対しその支配下にある軍隊に無条件降伏を命ずべきことを命令
5項 全公務員に対し連合国最高司令官が発する直接・間接の布告・命令等を遵守すべきことを命じるとともに、解任されない限りはその地位に留まり、引き続き非戦闘的任務を行うことを命令
6項 ポツダム宣言各条項の誠実な履行並びに同宣言実施のための連合国最高司令官の要求に応じて必要な命令等を発することの約束(いわゆる「ポツダム命令」)
7項 全ての連合国俘虜・被抑留者の解放
8項 占領体制下においては、「国家統治ノ権限」が、連合国最高司令官の制限の下に置かれるとの原則を明示

 天皇制との関連で言えば、この最後の8項が重要です。ポツダム宣言12項「前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ」及び日本政府の8月10日付申入れに対するバーンズ米国務長官回答「天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定される」ということが、天皇制の帰趨に関する連合国の終始一貫した原則であり続けた訳です。

 もっとも、この原則とは別の「変数」として、ポツダム宣言10項、降伏文書6項等にも明示された「一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ」の対象として、昭和天皇が訴追されるのではないかということが、日本政府関係者の最大の懸念事項でした。
 
 ここで、先に紹介した「日本国憲法の誕生/論点/1 国民主権天皇制」が言及している「1946(昭和21)年1月、米国政府からマッカーサーに対して『情報』として伝えられた『日本の統治体制の改革(SWNCC228)』」の、特に天皇関連の重要部分を読んでおきましょう。
 
(抜粋引用開始)
結論
(a) 最高司令官は、日本政府当局に対し、日本の統治体制が次のような一般的な目的を
達成するように改革さるべきことについて、注意を喚起しなければならない。
7. 日本国民が、その自由意思を表明しうる方法で、憲法改正または憲法を起草し、採択
すること
(b) 日本における最終的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思によって決定さる
べきものであるが、天皇制を現在の形態で維持することは、前述の一般的な目的に合致し
ないと考えられる。
(c) 日本国民が天皇制は維持されるべきでないと決定したときは、憲法上この制度〔の弊
害〕に対する安全装置を設ける必要がないことは明らかだが、〔その場合にも〕最高司令官は、日本政府に対し、憲法が上記(a)に列記された目的に合致し、かつ次のような規定を含
むものに改正されるべきことについて、注意を喚起しなければならない。
1. 国民を代表する立法府の承認した立法措置-憲法改正を含む-に関しては、政府の
他のいかなる機関も、暫定的拒否権を有するにすぎないとすること、また立法府は財政上の措置に関し、専見を有するものとすること
2. 国務大臣ないし閣僚は、いかなる場合にも文民でなければならないものとすること
3. 立法府は、その欲するときに会議を開きうるものとすること
(d) 日本人が、天皇制を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれを改革すること
を、奨励支持しなければならない。しかし、日本人が天皇制を維持すると決定したときは、最司令官は、日本政府当局に対し、前記の(a)および(c)で列挙したもののほか、次に掲げる
安全装置が必要なことについても、注意を喚起しなければならない。
1. 国民を代表する立法府の助言と同意に基づいて選任される国務大臣が、立法府に対し
連帯して責任を負う内閣を構成すること
2. 内閣は、国民を代表する立法府の信任を失ったときは、辞職するか選挙民に訴えるかの
いずれかをとらなければならないこと
3. 天皇は、一切の重要事項につき、内閣の助言にもとづいてのみ行動するものとすること
4. 天皇は、憲法第1章中の第11条、第12条、第13条および第14条に規定されている
ような、軍事に関する権能を、すべて剥奪されること
5. 内閣は、天皇に助言を与え、天皇を補佐するものとすること
6. 一切の皇室収入は、国庫に繰り入れられ、皇室費は、毎年の予算の中で、立法府によ
って承認されるべきものとすること
問題点に対する考察
11 わが政府は、日本人が、天皇制を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれ
を改革することを、奨励支持したいと願うのであるが、天皇制維持の問題は、日本人自身の決定に委ねられなければなるまい。天皇制が維持されたときも、上に勧告した改革中数多くのもの、例えば、予算に関するすべての権限を国民を代表する立法府に与えることにより、政府が国民に対し直接責任を負うことを定めた規定、およびいかなる場合にも国務大臣ないし閣僚に就任しうるのは文民に限るとの要件を定めた規定などが、天皇制のもつ権力と影響力とを、著しく弱めることになろう。その上さらに、日本における〔軍と民の〕「二重政治」の復活を阻止し、かつまた国家主義軍国主義的団体が太平洋における将来の安全を脅かすために天皇を用いることを阻止するための安全装置が、設けられなければならない。これらの安全装置には、(1) 天皇は、一切の重要事項につき、内閣の助言にもとづいてのみ行動するものとすること、(2) 天皇は、憲法第1章中の第11条、第12条、第13条および第14条に規定されているような、軍事に関する権能をすべて剥奪されること、(3) 内閣は、天皇に助言を与え、天皇を補佐するものとすること、(4) 一切の皇室収入は国庫に繰り入れられ、皇室費は、毎年の予算の中で、立法府によって承認さるべきものとすること、な
どの諸規定が含まれなければならない。
(引用終わり)
 
 ここで、「日本国憲法の誕生/論点/1 国民主権天皇制」の内、「日本側の検討」状況を要約した部分を引用します。
 
(引用開始)
2 日本側の検討
 憲法問題調査委員会(松本委員会)は、松本烝治の「憲法改正四原則」に示される
ように、当初から、天皇が統治権を総覧するという明治憲法の基本原則を変更する意思はなかった。ただし、松本委員会の中にも天皇制を廃止し、米国型の大統領制を採用すべきだとする大胆な意見もあった(野村淳治「憲法改正に関する意見書」)。しかし、それは、委員会審議には影響を与えず、委員会が作成した大幅改正と小改正の2案は、いずれも天皇の地位に根本的な変更を加える内容とはならなかった(「憲法改正要綱(甲案)」、「憲
法改正案」(乙案))。
 一方、政党・民間が作成した憲法改正案の中には、国民主権の確立、天皇制の廃止
・変更を打ち出したものがあった。共産党案は、人民主権天皇制の廃止、人民共和国の建設を目指すものであった(日本共産党「新憲法構成の骨子」、「日本人民共和国憲法草案」)。社会党案は、主権は天皇を含めた国民共同体としての国家にあるとし、統治権を議会と天皇に分割して天皇制を維持するものであった(日本社会党憲法改正要綱」)。また、憲法研究会案は、国民主権を明記した上で、天皇の権限を国家的儀礼に限定し、今日の象徴天皇制の一つのモデルともなる構想を示していた(憲法研究会「憲法
案要綱」)。
(引用終わり)
 
 以上が、1946(昭和21)年1月までの天皇制をめぐるおおまかな(米国と日本における)状況です。
 そして、同年2月3日に至り、加藤朗さんが言う「戦後レジームというのは、実は天皇制と平和主義なんです」という帰結をもたらす決定的に重要な文書が示されます。しかも、当初は公表されることなく、GHQ民政局のごく一部のスタッフにのみ示された文書でした。
 
(引用開始)

The Emperor is at the head of the State.
天皇国家元首の地位にある。
His succession is dynastic.
皇位世襲される。
His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and
responsible to the basic will of the people as provided therein.
天皇の職務と権限は、憲法に基づいて行使され、憲法の定めるところにより、国民の基本
的意思に対して責任を負う。
II
War as a sovereign right of the nation is abolished.
国家の主権としての戦争は廃止される。
Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for
preserving its own security.
日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての
戦争も放棄する。
It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense
and its protection.
日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に信頼する。
No Japanese army, navy, or air force will ever be authorized and no rights of
belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.
日本が陸海空軍を保有することは、将来ともに許可されることがなく、日本軍に交戦権
与えられることもない。
III
The feudal system of Japan will cease.
日本の封建制度は廃止される。
No rights of peerage except those of the Imperial Family will extend beyond the
limits of those now existent.
華族の権利は、皇族を除き、現在生存する一代以上に及ばない。
No patent of nobility will from this time forth embody within itself any national or
civic power of government.
華族の特権は、今後、国または地方のいかなる政治的権力も包含するものではない。
Pattern budget after British system.
予算は英国の制度を手本とする。
(引用終わり)
 
 ここで、天皇制をしばらく離れ、憲法改正問題についてのこの頃の動向を要約した「日本国憲法の誕生」の概説に目を通しておきましょう。
 
(引用開始)
極東委員会の設置とアメリカ政府の対応
 1945(昭和20)年12月16日からモスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、極東委員会
(FEC)を設置することが合意された。その結果、対日占領管理方式が大幅に変更され、同委員会が活動を始める翌年2月26日から、憲法改正に関するGHQの権限は、一定の制約
のもとに置かれることが明らかになった。
 1946(昭和21)年1月7日、米国の対外政策の決定機関である国務・陸・海軍3省調整
委員会(SWNCC)は「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)を承認し、マッカーサーに「情報」として伝え、憲法改正についての示唆を行った。
GHQ草案の作成
 2月1日、憲法問題調査委員会の試案が毎日新聞にスクープされ、「あまりに保守的、現
状維持的なものに過ぎない」との批判を受けた。このスクープをきっかけに、ホイットニーGHQ民政局長は、マッカーサーに対して、極東委員会憲法改正の政策決定をする前ならば憲法改正に関するGHQの権限に制約がないと進言し、GHQによる憲法草案の起草へと動き出
した。
 2月3日、マッカーサーは、憲法改正の必須要件(マッカーサー三原則)をホイットニーに示し
た。翌4日、民政局(GS)内に作業班が設置され、GHQ草案(マッカーサー草案)の起草作
業が開始された。
 GHQは、起草作業を急ぐ一方で、日本政府に対して政府案の提出を要求、2月8日、憲
法問題調査委員会の松本烝治委員長より、「憲法改正要綱」「憲法改正案ノ大要ノ説明」
等がGHQに提出された。
GHQ草案の受け入れと日本政府案の作成
 2月13日、外務大臣官邸において、ホイットニーから松本国務大臣吉田茂外務大臣らに
対し、さきに提出された要綱を拒否することが伝えられ、その場で、GHQ草案が手渡された。後日、松本は、「憲法改正案説明補充」を提出するなどして抵抗したが、GHQの同意は得
られなかった。
 そこで、日本政府は、2月22日の閣議において、GHQ草案に沿う憲法改正の方針を決め、
2月27日、法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長が中心となって日本政府案の作成に着手した。3月2日、試案(3月2日案)ができ上がり、3月4日午前、松本と佐藤は、GHQに赴いて提出し、同日夕方から、確定案作成のため民政局員と佐藤との間で徹夜の協議
に入り、5日午後、すべての作業を終了した。
 日本政府は、この確定案(3月5日案)を要綱化し、3月6日、「憲法改正草案要綱」として
発表した。その後、ひらがな口語体での条文化が進められ、4月17日、「憲法改正草案」とし
て公表された。
憲法改正問題をめぐるマッカーサー極東委員会の対立 
 3月6日の「憲法改正草案要綱」発表とこれに対するマッカーサーの支持声明は、米国政府
にとって寝耳に水であった。同要綱は、「日本政府案」として発表されたものだが、GHQが深く関与したことが明白であったため、日本の憲法改正に関する権限を有する極東委員会を強く刺激することとなった。マッカーサー極東委員会の板挟みとなった国務省は、憲法はその施行
前に極東委員会に提出されると弁明せざるをえなかった。 
 極東委員会マッカーサーに対し、「日本国民が憲法草案について考える時間がほとんどな
い」という理由で、4月10日に予定された総選挙の延期を求め、さらに憲法改正問題について協議するためGHQから係官を派遣するよう要請した。しかしマッカーサーはこれらの要求を拒否
し、極東委員会の介入を極力排除しようとした。
(引用終わり)
 
(引用開始)
 日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関。FECは、Far Eastern Commissionの略称。1945年12月にモスクワで開かれた米・英・ソ3国外相会議で極東諮問委員会(FEAC)に代わり、日本の占領管理に関する機関として設置が決定。本部はワシントンに置かれた。委員会は、13か国(米国・英国・中国・ソ連・フランス・インド・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニ
ュージーランド・フィリピン、1949年11月からビルマパキスタンが加わる)の代表で構成された。
 委員会が決定した政策は、米国政府を通じて、連合国最高司令官に指令として伝達され
た。委員会の決定については、米・英・中・ソの4か国に拒否権が与えられていたが、緊急を要する問題については、アメリカ政府に、委員会の決定を待たずに指令を発する権限が与えられていた(中間指令権)。ただし、日本の憲政機構、管理制度の根本的変更および日本政府
全体の変更については、必ず委員会の事前の決定を必要とした。
 極東委員会は、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効とともに消滅した。
(引用終わり)
 
 以上が、2月3日「マッカーサーノート」から、3月6日「憲法改正草案要綱」発表までの流れです。
 なお、詳細については、「日本国憲法の誕生」に豊富な基礎資料がテキスト化されて集積されていますので、ご参照ください。
 
 資料をじっくりと読みながらの「復習」に思わぬ時間がかかってしまいました。
 「ポツダム宣言」にしても、「終戦の詔書」にしても、「降伏文書」にしても、日本の「戦後体制(安倍首相は「レジーム」というフランス語由来の言葉を愛用していましたが)」の出発点であり、日本国民として「一度も読んだことがない」ではすまない重要文書です。ここまで付き合って読んでくださった方がどれだけいるか分かりませんが、読んだだけの価値はあると思いますよ。
 
 さて、「戦後体制」の総仕上げが日本国憲法の制定であったことは言うまでもありません。
 ここまでたどってきたのですから、「日本国憲法の誕生」の「帝国議会における審議」の部分も読んでおきましょう。
 
(引用開始)
枢密院への諮詢 
 1946(昭和21)年4月17日、「憲法改正草案」は、枢密院に諮詢された。しかし、4月22日
に幣原内閣が総辞職し、5月22日に吉田内閣が成立したため、先例にしたがって草案はいったん撤回され、5月27日にそれまでの審査結果に基づく修正を加えて再び諮詢されることとなった。6月8日、「憲法改正草案」は、枢密院本会議において美濃部達吉顧問官をのぞく賛成
多数で可決された。
総選挙と衆議院における審議
 1946年4月10日、女性の選挙権を認めた新選挙法のもとで衆議院総選挙が実施され、5
月16日、第90回帝国議会が召集された。開会日の前日には、金森徳次郎憲法担当の国
務大臣に任命された。
 6月20日、「帝国憲法改正案」は、明治憲法第73条の規定により勅書をもって議会に提出
された。6月25日、衆議院本会議に上程、6月28日、芦田均を委員長とする帝国憲法改正
案委員会に付託された。
 委員会での審議は7月1日から開始され、7月23日には修正案作成のため小委員会が設け
られた。小委員会は、7月25日から8月20日まで非公開のもと懇談会形式で進められた。8月20日、小委員会は各派共同により、第9条第2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を追加する、いわゆる「芦田修正」などを含む修正案を作成した。翌21日、共同修正案は
委員会に報告され、修正案どおり可決された。
 8月24日には、衆議院本会議において賛成421票、反対8票という圧倒的多数で可決され、
同日貴族院に送られた。
貴族院における審議と憲法の公布 
 「帝国憲法改正案」は、8月26日の貴族院本会議に上程され、8月30日に安倍能成を委
員長とする帝国憲法改正案特別委員会に付託された。特別委員会は9月2日から審議に入
り、9月28日には修正のための小委員会を設置することを決定した。
 小委員会は、いわゆる「文民条項」 の挿入などGHQ側からの要請に基づく修正を含む4項
目を修正した。10月3日、修正案は特別委員会に報告され、小委員会の修正どおり可決された。修正された「帝国憲法改正案」は、10月6日、貴族院本会議において賛成多数で可決された。改正案は同日衆議院に回付され、翌7日、衆議院本会議において圧倒的多数で
可決された。 
 その後「帝国憲法改正案」は、10月12日に枢密院に再諮詢され、2回の審査のあと、10月
29日に2名の欠席者をのぞき全会一致で可決された。「帝国憲法改正案」は天皇の裁可を経
て、11月3日に「日本国憲法」として公布された。
憲法改正問題に対する極東委員会の関与 
 衆議院における「帝国憲法改正案」の審議開始にあたりマッカーサーは、6月21日、「審議の
ための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であると声明した。これら議会における憲法改正審議の3原則は、極東委員会が5月13日に決定した「新憲法採択の諸原則」と同一のものであった。このことは、マッカーサーが極東
委員会の要求をある程度受け入れたことを意味した。
 衆議院で委員会審議が始まったばかりの7月2日、極東委員会は、新しい憲法が従うべき基
準として、「日本の新憲法についての基本原則」を決定した。その内容は、先に米国政府が作成した「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)を基礎とするものであった。その後GHQは、極東委員会の意向に沿う形で改正案の修正を日本政府に働きかけ、その結果、主権在民、普
通選挙制度、文民条項などが明文化されるに至った。
(引用終わり)
 
 その日本国憲法の第1章と第2章が、部分的な修正はもちろんありますが、マッカーサーノートの1項と2項にそれぞれ対応していることは言うまでもありません。以下に、日本国憲法の第1章・第2章(第1条~第9条)を引用します。
 
   第一章 天皇
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の
存する日本国民の総意に基く。
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これ
を継承する。
第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、そ
の責任を負ふ。
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有し
ない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
第五条 皇室典範 の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関
する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使
の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九 外国の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。
第八条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国
会の議決に基かなければならない。
   第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる
戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれ
を放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、
これを認めない。  
 
 さて、ようやく日本国憲法というゴールにたどりついたものの、まだ解明されていないことがありましたね。
 天皇制については、様々な政治的思惑の海をかいくぐぐりながら、制憲議会となった第90回帝国議会において、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思」(ポツダム宣言12項)に基づいて、いわゆる「象徴天皇制」として存続することが選択されることになりました。はたしてこの内容で「国体」が護持されたと言えるのか否かという一種の神学論争が制憲議会における議論の中心の1つであったのですが、そのことに触れる余裕はありません。

 残された問題というのは、憲法9条、そしてそのベースとなったマッカーサーノート2項がなぜ出現したのかという「謎」です。
 
 先に引用した米国政府の「日本の統治体制の改革(SWNCC〔国務・陸軍・海軍三省調整委員会〕)」(1946年1月)においても、「連合国は、前記の規定に従い、かつ日本の非軍国主義化のための綜合政策の一環として、日本の基本法が、その政府が実際に国民に対し責任を負うこと、また政府の文官部門は軍部に優越することを規定するよう、改正さるべきことを主張しうる権限を完全に与えられている」など、軍隊の存在を前提とする記述が散見し、戦争や軍備の永久的放棄を想定していたとは考えられません。
 マッカーサーノートの1項と3項が、概ねこの「日本の統治体制の改革」で示された基本原則に沿ったものであることは明らかですが、同ノート2項は、「日本の統治体制の改革」に「反している」訳ではないものの、「想定外」の内容であったと考えられます。
 
 ここで、冒頭でご紹介した加藤朗さんの「憲法9条を変えるということは、同時にポツダム宣言を受け入れるときに、我々が連合国にお願いした天皇制護持の要求と密接にリンクしていますから、平和憲法だけを変えるということはできない」という指摘を想起しましょう。
 先に引用したとおり、「2月13日、外務大臣官邸において、ホイットニーから松本国務大臣吉田茂外務大臣らに対し、さきに提出された要綱を拒否することが伝えられ、その場で、GHQ草案が手渡された」のですが、その草案の内容にさぞ驚いたであろう日本政府(以下に述べるとおり、幣原喜重郎首相が驚いたかどうかについては説が分かれますが)も、2月22日の閣議で最終的に受け入れを決めるのですが、様々な考慮要素のうち、最も重視されたのが「天皇制及び昭和天皇を守るためには受け入れやむなし」という判断だったであろうということは、ポツダム宣言受諾に際しての8月10日付申入以来の日本政府の基本的立場を踏まえれば、ほぼ間違いのないことだと思います。
 
 以上で、「天皇制と平和主義」についての、私なりの「復習」はほぼ終了ですが、最後に、過去にも何度か書いたことのある「憲法9条 幣原喜重郎発案説」について一言しておきます。
 1945年10月9日から1946年5月22日まで内閣総理大臣の地位にあった幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)は、老練な元外交官として、マッカーサーとも通訳を交えずに会談できる語学力を備えた人でしたが、その語学力が、「憲法9条 幣原喜重郎発案説」を生む重要な要素の1つとなりました。
 幣原首相は、1946年1月24日、マッカーサー連合国最高司令官のもとを訪問します。肺炎に罹患した幣原のためにGHQペニシリンを融通してくれたことに対する御礼というのが訪問の名目でしたが、それだけの儀礼的挨拶のために、通訳も交えず3時間も会談するはずがありませんので、ちょうどその会談の10日後に示された、後に「マッカーサーノート」として知られることになる3原則について、2人で協議したのではないか?という推測を生むことになりました。
 何しろ同席者のない2人だけの会談ですから、議事録や会談メモなどあるはずはありませんが、後に出版されたマッカーサーの回想録や、幣原からの聞き書きなどには、この仮説を裏付ける記述があったりしますので、定説にはなりきれないものの、そこそこ支持者のある有力説ではないかと思います。

 私自身は、「憲法9条 マッカーサー・幣原合作説」にかなり傾いているのですが、それはともかく、幣原喜重郎が急逝する10日余り前(1951年2月下旬)に、側近であった平野三郎氏(元衆議院議員)が憲法制定の経緯について詳しく聞き取った平野ノートの一部をご紹介します。この記録の正確性は正直検証のしようがなく、ICレコーダーやカセットテープなどなかった1951(昭和26)年に、約2時間の聞き取り結果をここまで詳細に再現できるのだろうか、という疑問がない訳ではないものの、普段から幣原の謦咳に接する機会の多かった平野氏だからこそ、幣原がここまで本音を語った可能性もあり、重要な文書であることは間違いないと思います。
 以下には、「天皇制と平和主義」というテーマに直接関連する後半部分を引用します。
 
(抜粋引用開始)
問 よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。もっとも草案は勧告という形で日本に本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。
 
答 そのことは此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の春から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言い出すようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つに密接にからみ合っていた。実に重大な段階であった。
 幸いマッカーサー天皇制を維持する気持ちをもっていた。本国からもその線の命令があり、
アメリカの肚は決まっていた。所がアメリカにとって厄介な問題があった。それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備したら大変である。戦争中の日本軍の行動はあまりにも彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。日本人は天皇のためなら平気で死んでいく。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の評決ではアメリカは孤立する恐れがあった。この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた
訳である。
 豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしてい
る訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である豪州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤
立させることができる。
 この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。も
っとも天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇は本来の昔に戻った
ものであり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。 
 この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口
にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情とし
てそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。
 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に
重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君にさえも打ち明けることのできないことである。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二一年の一月二四日である。その日僕は元帥と二人きりで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。
 
問 元帥は簡単に承知されたのですか。
 
答 マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚いていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。
 元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの侵略に対する将来の考慮と、共産主義者に対
する影響の二点であった。それについて僕は言った。 
 日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメ
リカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じも
のになったらだれが世界の運命を切り拓くか。
 好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。来るべき戦争の終
着駅は破滅的悲劇でしかないからである。その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現もまた空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たしうる位置にある。歴史の偶然は日本に世界史的任務を受けもつ機会を与えたのである。貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史の偶然を今こそ利用する秋である。そして日本をして
自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか。
 また日本の戦争放棄共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際ありうる。しかし
より大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。未来を約束するものは、たえず新しい思想に向って創造発展していく道だけである。共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかのごとく考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史のかなたに埋没してしまうだろう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。それと同様に共産主義イデオロギーもいずれ全く変貌してしまうだろう。いずれにせよ、ほんとうの
敵はロシアでも共産主義でもない。
 このことはやがてロシア人も気付くだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのであ
る。世界の共通の敵は戦争それ自体である。
 
問 天皇陛下はどのように考えておかれるのですか。
 
答 僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案をもって天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。僕は元帥と会うときはいつも二人きりだったが、陛下の時は吉田君にも立ち会ってもらった。しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、といわれた。この英断で閣議も納まった。終戦の御前会議の時も陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。もしあのとき天皇権力に固執されたらどうなっていたか。恐らく今日天皇はなかったであろう。日本人の常識として天皇戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。それを外してくれたのは元帥であった。だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。天皇己を捨てて国民を救おうとされたのであったが、それによって天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。
 正直に言って憲法天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言
え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、
結果において僕は満足している。
 なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も僕が断ったように、この
いきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。
(引用終わり)