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「知ること」は「行うこと」~『20年後のあなたへ~東日本大震災避難ママ体験手記集~』をあらためてお薦めします

 今晩(2014年12月18日)配信した「メルマガ金原No.1943」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
「知ること」は「行うこと」~『20年後のあなたへ~東日本大震災避難ママ体験手記集~』をあらためてお薦めします

 東北や関東から関西に避難してこられた避難ママの自助団体、その名も「避難ママのお茶べり会」については、このメルマガや「弁護士・金原徹雄のブログ」、あるいは第2ブログ「あしたの朝 目がさめたら」で何度かご紹介してきました。
 
2013年3月1日
 
 とりわけ、私にとって、昨年の8月31日、大阪弁護士会館で開かれた近畿弁護士会連合会シンポ「区域外避難者は今 放射能汚染に安全の境はありますか」の会場で購入し、大阪から和歌山への帰りの電車の中で読んだ『20年後のあなたへ 東日本大震災避難ママ体験手記集』は衝撃的でした。
 特に、読みながら涙が止まらなかったAさん(福島県から息子さんを連れて大阪に避難)の手記の一部は私のブログでもご紹介しましたが、そのAさんとは、今年の9月6日に開かれた近弁連シンポ「広域避難者の安定した住宅保障はどうあるべきか」(於:大阪弁護士会館)の会場で、原発賠償関西訴訟代表の森松さんから紹介していただき、初めてお会いすることができました。
 
 Aさんの手記を読んで私がブログに書いた部分を再掲してみます。
 
(引用開始)
 一々内容をご紹介する訳にもいきませんが、一つだけどうしても書いておきたいエピソードがあります。
 それは、福島県から避難された方の手記の中に書かれていたことです。
 Aさんは、福島第一原発から65㎞ほどのところにあった自宅が地震で損壊して住めなくなり、原発から約40㎞にあった自分の実家に1歳の息子を連れて避難していたのですが、実家のある町で40歳未満の全町民に安定ヨウ素剤が配布されることになったものの、自分と息子は既にその町の住民ではないため、配布対象とはならず、せめて息子の分だけでも何とか配布して欲しいとお願いし、いろいろなところに電話で要請したりしたもののどうしても息子のために入手してあげることができなかったというのです。
 Aさんは手記に書いています。
 
「幼い息子が被曝するかもしれないという状況の中で薬をもらえないのは、親としては本当に辛かった、としか言いようがありません。被曝していく息子を目の前に、何もしてやれない悔しさ・・悲しさ・・憤り。今でもその時の光景が鮮明によみがえってきて、夜中にうなされたり寝付けなかったりすることがあります。私は親なのに我が子を守ってやることができなかった、という不甲斐なさが今でも頭から離れません」
 
 本来、万一原発事故が起こった際の対処基準を作るというのであれば、このAさんのような思いを全ての母親に二度とさせてはならない、ということが教訓になっていなければならないはずですが、実際にはどうなのでしょうか?
(引用終わり)
 
 今年の9月にお会いした時、私がAさんに確認したのは、Aさんの実家のある町というのは三春町(みはるまち)ですか?ということでした。手記の中でAさんが「(避難していた実家のある町で)四〇才未満の全町民に安定ヨウ素剤が配布されることになりました」と書かれており、3.11直後に安定ヨウ素剤を組織的に40歳未満の全町民に配布して服用を勧めたのは、私の知る限り、三春町だけだったからです。Aさんの答えはやはり私の想像通りでした。
 福島県内の全市町村の中で、唯一県の指示を待たず、町独自の判断で町民への安定ヨウ素剤の配布に踏み切った三春町の決断は多くの人から賞賛され、私も高く評価してブログでご紹介したりしたものでした。その評価自体は今でも変わりませんが、その陰で、Aさんのような思いをせざるを得なかった母親がいたということを忘れてはならないと思います。
 
 ところで、昨年のブログで私がご紹介したのは、Aさんの手記の中でも特に安定ヨウ素剤に関わる部分だけでしたが、実はもう1つ、非常に重要な体験(これもAさんにとっては痛恨事だったと思います)が語られています。
 今日は、その部分をご紹介したいと思います。
 
 どうしても1歳になったばかりの息子のために安定ヨウ素剤を入手してやることができなかったAさんは、「少しでも遠くへ逃げるしかないだろうと判断し」、地震のためにとても住めるような状態ではなくなっていた自宅に再び戻ることを決断します。
 
「自宅は原発から65キロほどの距離だったので、40キロの実家よりは少しは放射線量が低いだろうと思い自宅へ向かいました。しかしその時の素人の考えを、後々後悔することになってしまいました。
 数日経って分かったことですが、40キロの実家より65キロ離れた自宅の方が数倍も放射線量が高かったのです。当時私たちは何の情報も無かったので、より線量の高い方へ逃げてしまいました。
 どこへ避難すれば安全だったのか、少しは被曝を避けられたのか、誰も教えてはくれませんでした。それどころか、国や県はスピーディーの情報を持ち合わせていながら、私たちには何も公表せず隠してきたのです」(略)
「人が作り出した原発によって、さらには人の手でその被害を拡大させたこと、私は国や東電を何度も何度も恨みました。と同時に、私はこれまでこれほどたくさんの原発をかかえる国に住みながら、原発放射能に関心を持たぬまま生きてきたことや知識の無さにこのとき初めて気付き後悔しました。
 どんなに後悔してももう遅い、被曝してしまったものは無かったことにはなりません。時間を戻すこともできませんん」 

 国の避難指示により、浜通りから北西の飯舘村(いいたてむら)方面に避難したため、余計に多量の被曝を余儀なくされた多くの住民がいたことが知られていますが、そのような組織的避難だけではなく、当時福島やその周辺では、おそらく多くのAさん親子のような人々が、何の情報も得られずにさまよっていたことでしょう。
 安定ヨウ素剤も得られず、少しでも息子を被曝から守りたい一心で行動したAさんに、「実家でじっとしていれば良かったのに」などと言える人がいるでしょうか?もしもそんなことを言う者がいるとしたら、「あなたに心はないのか?」と問わざるを得ません。
 
 私たちが、避難者の方からその体験を伺ったり、手記を読んだりすることがなぜ重要なのでしょうか?
 原発震災に直面した被災者の体験は、それぞれが独自のものであり、1つとして同じものはありません。だからこそ、1人1人の体験が語られることが尊いのです。
 私たちが、勇気をもって自らの体験を語ってくれた方々の声に耳を傾け、その体験を知ることが出来れば、自分がその立場に置かれたらどうしただろうかと考えるでしょう。そうすれば、「避難」や「支援」を、誰か他人のこと、誰かが何とかしてくれることではなく、「自分のこと」として考えることができるはずです。「自分のこと」であれば、自分が「何をなすべきか」を考えない訳にはいかないでしょう。
 私は陽明学の研究者でもなければ信奉者でもないので、儒教の教えとは関係ありませんが、「知ること」と「行うこと」は分離できない表裏の関係にあるという考えは正しいのではないかと思っています。
 自分が何をなすべきかを考えるための始めの一歩として、「知ること」「知ろうとすること」はとても重要なのです。
 
 Aさんの手記を含むこの手記集は、今でも「避難ママのお茶べり会」ホームページの中の申込フォームから購入することができるようです。
 未読の方には是非購入の上お読みいただきたいと思います。そして出来れば、自分が読むだけではなく、周りの人たちにもお薦めいただければと思います。
 私が推奨する理由は以上に述べたとおりです。
 
「20年後のあなたへ 東日本大震災避難ママ体験手記集」
2013年3月11日 初版発行
発行 避難ママのお茶べり会
定価 500円(税込)
〈送料〉
1~4部 100円(メール便
5~8部 180円(メール便
9~12部 370円(レターパック
13部以上はお問い合わせください。
 
「20年後のあなたへ」お申し込みフォーム

 最後に、「避難ママのお茶べり会」の最新の活動内容は、公式ホームページの中から入れるブログを読むとよく分かります。
 
(弁護士・金原徹雄のブログから)
2013年1月6日(同年2月13日に再配信)
2013年1月6日(同年2月13日に再配信)
2014年4月30日