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(承前)政治家は「国民を守る」と嘘を言い~7月1日閣議決定の場合(予告編)

 今晩(2015年1月4日)配信した「メルマガ金原No.1960」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。

 

承前)政治家は「国民を守る」と嘘を言い~7月1日閣議決定の場合(予告編)
 
 今日は、大晦日に配信した
「政治家は『国民を守る』と嘘を言い~2012年の大飯原発再稼働を振り返る」の続編です。
 ただし、より正確に言えば「続編の予告編」です。予告編にとどまるのは主として時間の都合によります。
 
 私のメルマガ(ブログ)を以前から読んでくださっている方ならお分かりのことと思いますが、私は言葉にこだわる性癖があります。別の言い方を借りれば、「文は人なり」という格言を導きの灯火として文章の真贋を見分けようと努めているのです。
 
 私が皇后陛下の見識を高く評価するのも、何しろ、お目にかかったりお話したりしたことはないのですから、もっぱら宮内庁サイトに掲載される皇后陛下の文章を読んだ上での判断によるものです。
 
 私がこれまで散々批判してきた自民党「日本国憲法改正草案」(2012年4月27日)や7月1日閣議決定「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」のような団体名義で公表された文章にも、「文は人なり」は妥当すると考えます。この成句の基となったフランスの博物学者ビュホンの原典に遡る能力はとてもありませんが、団体名義の文章であれ、その(団体としての)「人格的傾向」は文章のはしばしに現れざるをえないものだと思います。
 
 私が大晦日に配信した記事のタイトルを、「政治家は『国民を守る』と嘘を言い」と思わず五、七、五で1句詠んでしまったのは、直接には、2012年6月8日、大飯原発3号機、4号機の再稼働(再起動)を宣言した野田佳彦内閣総理大臣基調演説で使われた「国民生活を守る」(5箇所)、「人々の日常の暮らしを守る」(1箇所)を取り上げたものですが、そこでも若干論及したとおり、従来の政府解釈を変更し、集団的自衛権の行使を容認した2014年7月1日の閣議決定にも、同種のフレーズが多用されていることにも注意を喚起しました。
 
 本来であれば、私が構想した続編では、7月1日閣議決定の全文(PDFファイルで8ページ)について、詳しくコメントを付して読み解いていくことになっていたのです。
 例えば、こういう調子です。
 
 
1 前文第1段落 第1文
「我が国は、戦後一貫して日本国憲法の下で平和国家として歩んできた。専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核三原則を守るとの基本方針を堅持しつつ、国民の営々とした努力
により経済大国として栄え、安定して豊かな国民生活を築いてきた。」
(コメント)前提的な戦後体制の総括としてはこんなものかもしれないが、「経済大国として栄え~」以下の文章は、国の行政を担う内閣自らが誇らしげに「経済大国」と自称することが特にそうであるが、日本の伝統的な言語感覚からすれば下品に過ぎる。中国伝来の成句で評すれば「夜郎自大」そのものである。
 
2 前文第1段落 第2文 
「また、我が国は、平和国家としての立場から、国際連合憲章を遵守しながら、国際社会や国際連合を始
めとする国際機関と連携し、それらの活動に積極的に寄与している。」
(コメント)別に間違ったことが書かれている訳ではないが、この前文第1段落を構成するわずか3つの文章の全てに「平和国家」という言葉が使われていることは、通常の文章作法からすると異様である。ここまで「平和国家」を強調するということは、この言葉とは裏腹な意図があると考えるのが至当だろう。
 
3 前文第1段落 第3文
「こうした我が国の平和国家としての歩みは、国際社会において高い評価と尊敬を勝ち得てきており、こ
れをより確固たるものにしなければならない。」
(コメント)「国際社会において高い評価と尊敬を勝ち得てきており」については第1文のコメント参照。「我が国の平和国家としての歩み」については第2文のコメント参照。
 
 ・・・というような調子で書こうと思うと、最後までたどり着くまでにどれだけの時間がかかるか見当がつかず、今日のところは(予告編)にとどめざるを得ません。
 ただし、大晦日に作った川柳(?)とのからみで、「国民を守る(守り抜く)」(あるいは「平和を守る」)というフレーズを含んだ文章だけは抜き書きしておきます。
 
○ 前文第2段落 第4文
「もはや、どの国も一国のみで平和を守ることはできず、国際社会もまた、我が国がその国力にふさわし
い形で一層積極的な役割を果たすことを期待している。」
(コメント)昔から様々な形の国際的な攻守同盟が結ばれてきたという歴史があるが、それらは「一国のみで平和を守ることはでき」ないと考えられたからこそ結ばれたのではなかったのか?という根本的な疑問があり、始めから論理が破綻している。「国際社会もまた~」以下の部分にについては、「国際社会」
の「期待」の具体的中身が示されない以上、勝手な決めつけに過ぎない。
※以下、くどくなるのと時間の都合によりコメントは省略する。
 
○ 前文第3段落 第1文
「政府の最も重要な責務は、我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うするとともに、国民の命を守ことである。」
 
○ 前文第4段落 第3文
「その上で、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜くとともに、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の下、国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に貢献するためには、切れ目のない対応を可能とする国内法制を整備しなければならない。」
 
○ 前文第5段落 第2文
「今般、与党協議の結果に基づき、政府として、以下の基本方針に従って、国民の命と平和な暮らしを守り抜
ために必要な国内法制を速やかに整備することとする。」
 
○ 3、(1) 第1文
「我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを守
り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきた。」
 
○ 3、(1) 第3文
「したがって、従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要がある。」
 
○ 3、(2) 第2文
「一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。」
 
○ 3、(3) 第3文
「我が国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然であるが、それでもなお我が国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要がある。」
 
○ 3、(3) 第4文
「こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。」
 
○ 3、(4) 第3文
「この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれるが、憲法上は、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものである。」
 
○ 3、(5) 第1文
「また、憲法上「武力の行使」が許容されるとしても、それが国民の命と平和な暮らしを守るためのものである以上、民主的統制の確保が求められることは当然である。」
 
○ 4 第3文
「政府として、以上述べた基本方針の下、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする法案の作成作業を開始することとし、十分な検討を行い、準備ができ次第、国会に提出し、国会における御審議を頂くこととする。 」
 
 以上、「守る」が7箇所、「守り抜く」が5箇所、計12箇所も使用されています。この内、自衛権行使の要件を論じている部分では「守る」が、そうではない一般論が述べられているところでは「守り抜く」が使われるという傾向を見てとることができます。
 あたかも、前者は「文責:内閣法制局」、後者は「文責:内閣官房」という刻印代わりではないか?という気がするほどです。
 
 この内、「文責:内閣法制局」(とは書いていませんが)の部分は、論理的な議論が可能かもしれませんが、「守り抜く」は駄目でしょう。「断固として」「守り抜く」という表現からは、「反論は一切受け付けない」というメッセージがあからさまに発散されています。
 となれば、こちらもこう言うのみです。
 「政治家は『国民を守る』と嘘を言い」
 
 大晦日にも書きましたが、国が「国民を守る」などということは当たり前のことです。「国民国家」というのは、そのために形成されてきたのですから、国民を守らない国家など言語矛盾であり、その存立の正当性がはじめから否定されるような国家は「ありえない」でしょう。
 そうである以上、国は本来、ことごとしく「国民を守る」などと言う必要はありません。四の五の言わずに「実行」すれば良いのです。その「実行」のやり方、結果が大方の国民の支持を得るかどうかは場合
によるでしょうが。
 従って、1つの閣議決定の中で「守る」という言葉を12回も使う、とりわけ、「守り抜く」という、冷静であるべき行政文書にあってはほとんど「禁句」と言っても良いような感情的な言葉を5回も繰り返
して使用するなど、前代未聞でしょう。
 もしも、過去の閣議決定の中で「守り抜く」という言葉を5回も使った先例があるというのであれば、是非教えていただきたいものです。そんなものはないはずです(5回どころか、1回でも使用したものが
あれば読んでみたいものです)。
 
 それでは、「断固として」「守り抜く」とされた「国民」自身は、このような言説をどのように受け止
めれば良いのでしょうか?
 使う必要も無い言葉、とりわけ使うべきではない言葉(守り抜く)をこれだけ繰り返し使用する以上、この文章は、「国民を守る」こととは真逆の目的のために作成されたものである可能性が非常に高い、と
考えるしかありません。
 その「目的」とは?
 それは、以上の言語分析からだけでは答えは出せず、別の論考が必要になるでしょう。
 以上が、7月1日「閣議決定」詳注版の予告編でした。
 
(弁護士・金原徹雄のブログから)
2013年10月27日
“原発輸出”についての安倍首相の“なさけない答弁”
2013年10月30日
五日市憲法草案を称えた皇后陛下の“憲法観”
2014年1月14日
「日本傷痍軍人会」最後の式典での天皇陛下「おことば」と安倍首相「祝辞」(付・ETV特集『解散・日本傷痍軍人会』2/1放送予告) ※追記あり
2014年8月15日
“コピペ”でなければ良いというものではない~全国戦没者追悼式での安倍晋三首相の式辞を聴いて
2014年8月18日
続 “コピペ”でなければ良いというものではない~“平和と繁栄”はいかにして築かれたのか
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