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6.4憲法審査会での意見表明を振り返り 9.30長谷部恭男氏講演会(和歌山弁護士会)に期待する

 今晩(2016年9月2日)配信した「メルマガ金原No.2557」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
6.4憲法審査会での意見表明を振り返り 9.30長谷部恭男氏講演会(和歌山弁護士会)に期待する

 今月(2016年9月)30日(金)午後6時30分から、和歌山ビッグ愛1F大ホールにおいて、長谷部恭男(はせべ・やすお)教授(早稲田大学大学院法務研究科・憲法学)を講師にお招きした講演会が開催されますので、主催団体(和歌山弁護士会)の一員として、是非多くの方にご参加いただきたいとお願いするのがこの記事の趣旨なのですが、昨日書いた木村草太教授(首都大学東京憲法学)と同様、長谷部教授についても、過去私のメルマガ(ブログ)に何度も取り上げさせていただいていますので、少しは蘊蓄(うんちく)を傾けることもお許しいただきたいと思います。
 
 もっとも、蘊蓄の前に、9月30日の講演会情報をご紹介します。蘊蓄の方を先にすると、なかなか講演会にたどり着かないことが予想されますので、蘊蓄はあと回しにします。
 チラシの文字データを引用します。
 
チラシから引用開始)
憲法講演会
立憲主義と民主主義を回復するために」
 
講師 長谷部恭男教授早稲田大学大学院法務研究科 教授)
講師プロフィール
1995年4月 東京大学大学院法学政治学研究科教授を経て
2014年4月 早稲田大学大学院法務研究科教授、現在に至る
 
2015年6月の衆議院憲法審査会において、与党推薦の長谷部教授が集団的自衛権の行使について、「違憲」との見解を示されたことから、その違憲性について、多くの市民にも関心がもたれるようになりました。
これまでの経過をふまえ、立憲主義とは何か?立憲主義と民主主義を取り戻すために何が必要かなどについて憲法学者としてお話をしていただきます。
 
とき 2016年(平成28年)9月30日(金)
    開場:午後6時10分
    開演:午後6時30分
ところ 和歌山ビッグ愛 大ホール
入場無料
予約不要
 
主催 和歌山弁護士会
共催 日本弁護士連合会
お問い合わせ
〒640-8144 和歌山県和歌山市四番丁5番地(和歌山弁護士会
TEL:073-422-4580
FAX:073-436-5322
(引用終わり)
 
 実にシンプルなチラシですね。書き写すのが楽でいい(?)。
 
 さて、ここからは蘊蓄です。とはいえ、あれもこれもと取り上げている余裕はありませんので、詳しくは末尾にまとめておいた私のブログをご参照いただくとして、ここでは、講演会チラシでも特筆されている、昨年(2015年)6月4日の衆議院憲法審査会に、小林節慶応義塾大学名誉教授、笹田栄司早稲田大学政治経済学術院教授とともに参考人として招かれた長谷部教授(自民党推薦であったことはご本人も知らなかったようです)が、他の2人の参考人とともに、当時審議中であった安保法案を違憲と断じたことを振り返っておきましょう(詳しくは私のブログ「憲法学者の矜恃~衆議院憲法審査会(6/4)における参考人質疑をじっくりと味わいたい」をお読みください)。
 
 もともと、この日の憲法審査会での審議テーマは、憲法保障をめぐる諸問題(「立憲主義、改正の限界及び制定経緯」並びに「違憲立法審査の在り方」)というものであり、3人の参考人も、そういうテーマに沿いながら、各党からの推薦に基づいて決定されたのでしょう。「立憲主義」は、長谷部恭男教授の主要研究テーマでしたから、どの政党が推薦するにせよ、「立憲主義」を議論するための参考人として長谷部教授が招かれるということ自体、ごく自然なことでした。
 以上のとおり、6月4日の憲法審査会では、「わが国の安全保障政策と憲法9条」「安全保障関連法案の合憲性」が討議テーマとなっていた訳ではありません。ありませんが、その前年7月1日の閣議決定「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」に対して、「立憲主義を踏みにじるもの」という批判が国民各層や全国の弁護士会、法学者などの間から澎湃と沸き起こっていたのですから、「立憲主義」をテーマとして憲法学界の碩学3人を参考人として招いておきながら、誰も安保法案に触れた質問をしないなどということは考えられないでしょう。実際、この日2人目の質問者となった民主党中川正春議員から、「率直にここでお話を聞きたいんですけれども、先生方は、今の安保法制、憲法違反だと思われますか。それとも、その中に入っていると思われますか。先生方が裁判官となるんだったら、どのように判断されますか。全員。三人とも。」という質問がなされ、全員から「違憲」との見解を引き出したのでした。
 
 以下に、当日の動画をご紹介するとともに、長谷部教授の発言を会議録から引用してご紹介します。
 長谷部教授は、この日、安保法案について違憲という見解を述べたのですが、同教授がそういう意見をお持ちであることなど、憲法学界内部だけではなく、相当に広く知られたことでした。もちろん、そもそも「長谷部恭男」も「小林節」も、名前を聞いたことすらないという普通の国民にとっては「知られていなかった」でしょうが、少なくとも、安全保障関連法案が違憲だと考え、反対運動に深く関わっているほどの人の多くは知っていたはずです。「知っていたはず」の根拠をいくつか列挙しておきます。
 
〇2014年3月28日、長谷部教授は、日本記者クラブの研究会に招かれて講演し、集団的自衛権行使容認を、立憲主義の観点から鋭く批判しました。

〇2014年4月18日、「今必要なことは、個別の政策に関する賛否以前に、憲法に基づく政治を取り戻すことである。たまさか国会で多数を占める勢力が、手を付けてはならないルール、侵入してはならない領域を明確にすること、その意味での立憲政治の回復である。」と宣言して設立記者会見を開いた「立憲デモクラシーの会」の、長谷部教授は当初からの呼びかけ人でした。
〇2014年5月3日、朝日新聞紙上での杉田敦法政大学教授との対談で、長谷部教授は、集団的自衛権の行使を容認するためには憲法改正が必要との見解を明瞭に述べていました。朝日新聞での杉田教授との対談はその後も行われており、インターネットなどに無縁な人であっても、長谷部教授の見解を知ることはできたと思われます(朝日の読者であれば)。
〇2014年5月18日、長谷部教授を含む12名の識者が結集し、「政府の恣意的な「解釈変更」によって、これまで憲法が禁止してきた集団的自衛権行使を可能にすることは、憲法が統治権力に課している縛りを政府自らが取り外すことに他ならず、立憲主義の破壊に等しい歴史的暴挙と言わざるを得ない。」として国民安保法制懇を結成しました。 
 国民安保法制懇はいくつかの声明を発表しましたが、特に7.1閣議決定を徹底的に批判した2014年9月29日の報告書「集団的自衛権行使を容認する閣議決定の撤回を求める」は重要です。もちろん、11人(この時点では1人退会)が衆智を集めたものでしょうが、憲法学の視点からの指摘については、長谷部教授の見解がかなり反映しているのではないかと推測しています。
 
 昨年6月4日の発言は、安保法案を違憲とした部分のみ注目されましたが、本来、「立憲主義」について話すために国会に赴いたのですし、それなりに原稿も準備して意見陳述されたのですから、長谷部教授の「立憲主義」研究のエッセンスが短い時間で語られており、その部分にこそ注目していただければと思い、会議録をご紹介することとしたのです。
 
衆議院憲法審査会 2015-6-4 フルバージョン(2時間26分)

2分30秒~14分10秒
 「立憲主義」についての長谷部恭男教授による意見陳述
1時間05分~ 中川正春議員による質問
1時間15分~1時間21分 
 中川議員による安保法案についての質問と3人の参考人による「違憲」発言
1時間37分~
 北側一雄議員による質問と長谷部恭男教授による答弁
 
衆議院 憲法審査会 第189回国会 第3号(平成27年6月4日(木曜日))会議録
(抜粋引用開始)
○保岡(興治)会長 この際、参考人各位に一言御挨拶を申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただき、まことにありがとうございます。参考人それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
 本日の議事の順序について申し上げます。
 まず、長谷部参考人、小林参考人、笹田参考人の順に、それぞれ二十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対しお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないこととなっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、まず長谷部参考人、お願いいたします。
○長谷部(恭男)参考人 本日は、このような形で発言の機会を与えていただきまして、本当にありがとうございます。
 本日は、主に立憲主義についてお話を申し上げようと思います。
 立憲主義という言葉は、いろいろな意味で用いられますが、大きく広い意味と狭い意味を区別することができます。
 広い意味の立憲主義、これは、政治権力を何らかの形で制限する考え方、これを広く指して用います。例えば、中世のヨーロッパにも立憲主義があった、そう言われるときには、この意味で立憲主義という言葉が使われております。
 中世のヨーロッパでは、当時の支配的な宗教であり世界観であるキリスト教に基づきまして、何が正しい生き方かがあらゆる人にとって決まっておりました。為政者についても当然、政治権力の正しい行使の仕方が決まっています。そして、それに違反をすれば、教会を破門され、臣下の服従義務は解かれる、そうしたリスクにさらされておりました。
 また、ローマ教皇についても、彼が異端の思想に染まったときは、全クリスチャンの代表から成る公会議によって、あるいはさらに公会議を代表する枢機卿会議によって教皇がその地位を追われる、それもあり得ると考えられておりましたし、実際、コンスタンツの公会議におきましては、教会を分裂させた三人の教皇廃位いたしまして、新たな教皇を選出しております。
 キリスト教という一元的な思想そして世界観に基づいて、政治権力も制限されていたわけです。
 他方、現在、日本を含めた先進諸国で共通に立憲主義として理解されておりますのは、狭い意味の立憲主義です。これは近代立憲主義とも言われ、近代初めのヨーロッパで確立した考え方です。
 当時のヨーロッパは、一方では、宗教改革後の激烈な宗派間の対立を経験し、他方では、大航海時代でもありましたために世界各地で多様な暮らしぶりや考え方に出会った経験から、人にとっての生き方や世界の意味づけ方、これはただ一つには決まっていない、多様な、相互に両立し得ない価値観、世界観があるのだ、そのことを事実として認めざるを得ない状況に置かれておりました。
 宗派間の対立をとってみますと、プロテスタントにしろ、カトリックにしろ、それを信仰する人にとっては、自分にとっての正しい生き方、世界の正しい意味づけ方を教えてくれる大事な、かけがえのないものであります。そうである以上、自分だけではなく、ほかの人も全て信じてしかるべきだと考えるのが人としての自然の傾向でありますが、ただ、その自然の傾向のままに、各自にとっての正しい信仰をほかの人に押しつけよう、押しつけようとしますと、そうすると、ここに深刻な対立が起こります。現在でも、世界の各地におきまして、何が正しい信仰であるか、それがもとになって大変に激しい紛争が起こっていることは、御承知のとおりであります。
 これに対しまして、近代立憲主義は、価値観や世界観は人によってさまざまである、これを正面から認めるべきだ、そういう認識から出発をいたします。多様な価値観、世界観について、いずれがより正しいかを議論しても意味がありません。客観的に比較する物差しがそもそもそこにはないからであります。むしろ、どのような世界観、人生観を持つ人であろうと人間らしい平和な社会生活を送ることができるようにするためには、どのような社会のあり方を基本とすべきか、それをまず考えるべきだということになります。ホッブズ、ロック、ルソー、カントといった近代立憲主義の基礎を築いた政治思想家たちは、いずれも、この問題に回答しようとした人たちであります。
 近代立憲主義は、そうした社会生活の基本的な枠組みといたしまして、公と私とを区分することを提案します。
 私の領域におきましては、各自がそれぞれ、自分が正しいと思う世界観に従って生きる自由が保障されます。志を同じくする仲間や家族と生きる自由も保障されます。
 他方で、社会全体の共通の利益にかかわる公の領域におきましては、各人が抱いている世界観はひとまず脇に置いて、どのような世界観を抱いている人であっても人間らしい社会生活の便宜を享受するためには何が必要なのか、各自がどのようにコストを負担すれば公平な負担と言えるのか、それを落ちついて理性的に話し合い、決定をしていく必要がございます。
 日本国憲法もそうですが、近代立憲主義に立脚する国々の憲法、これは、基本権、憲法上の権利を保障する条項を定めていることが普通です。それらは、一方では、私の領域におきまして、それぞれの人がみずからの信ずる宗教を奉じ、各自が正しいと考えることを表現し、プライバシーの守られる空間でみずからの財産を使いながら生きる自由を保障します。自由な私の領域を確保するためのさまざまな権利が保障されております。
 他方で、報道の自由、取材の自由、結社の自由、参政権等、主に公の領域におきまして、社会全体の利益を効果的に実現するために何が必要か、それを理性的に審議し、決定するために保障されているさまざまな権利もあります。そうした権利に支えられた民主政治の具体のプロセスについて定める統治機構に関する規定ももちろん備えられております。
 こうした近代立憲主義に立脚する憲法、これは、通常の法律に比べますと変更することが難しくなっていること、つまり硬性憲法であることがこれまた通常でございます。今述べました基本的人権を保障する諸条項、民主政治の根幹にかかわる規定、これは、政治の世界におきまして、選挙のたびに起こり得る多数派、少数派の変転や、たまたま政府のトップである政治家の方がどのような考え方をするか、そういったものとは切り離されるべきだから、つまり、その社会の全てのメンバーが中長期的に守っていくべき基本原則だからというのがその理由であります。
 また、憲法の改正が難しくなっている背景には、人間の判断力に関するある種悲観的な見方があると言ってもよろしいでありましょう。人間というのは、とかく感情や短期的な利害にとらわれがちで、そのために、中長期的に見たときには合理的とは言いがたい、自分たちの利益に反する判断を下すことが間々あります。ですから、国の根本原理を変えようというときは、本当にそれが、将来生まれてくる世代も含めまして、我々の利益に本当につながるのか、国民全体を巻き込んで改めて議論し、考えるべきだということになります。それを可能とするために、憲法の改正は難しくなっております。さらに、改正を難しくするだけではなく、国政の実際においても憲法の内容が遵守され具体化されていくよう、多くの国々では違憲審査制度が定められております。
 近代立憲主義の内容とされる基本的人権の保障、そして民主的な政治運営は、時に普遍的な理念、普遍的な価値だと言われることがあります。
 ここで、普遍的というのが、世界の全ての国が大昔から現在に至るまで、全てこの近代立憲主義の理念に沿って運営されてきた、そういう意味であれば、これは正しい言い方ではございません。実際には、現在でさえ、こうした理念にのっとって国政が運営されているとは言いがたい国は少なからずございます。また、日本も、第二次世界大戦の終結に至るまでは、この近代立憲主義に基づく国家とは言いがたい国でありました。
 さらに、民主主義について申しますと、十九世紀に至るまでは、民主主義はマイナスのシンボルではあっても、プラスのイメージで捉えられることはまずなかったと言ってよろしいでありましょう。それでも、現在では、基本的人権の保障や民主的な政治運営は普遍的に受け入れられるべきものとされております。
 ただ、問題は、憲法典の中に基本的人権を保障する条項、民主的な政治制度を定める条項が含まれているか否か、それには限られておりません。これらの条項の前提となる認識、つまり、この世には、人としての正しい生き方、あるいは世界の意味や宇宙の意味について、相互に両立し得ない多様な立場があるということを認め、異なる立場に立つ人々を公平に扱う用意があるか、それこそが、実は普遍的な理念に忠実であるか否かを決していると言うことができます。
 そして、近代立憲主義の理念に忠実であろうとする限り、たとえ憲法改正の手続を経たとしても、この理念に反する憲法の改正を行うことは許されない、つまり改正には限界があるということになります。
 ただ、近代立憲主義の理念に立脚する国々も、各国固有の理念や制度を憲法によって保障していることがあります。日本の場合でいえば、天皇制や徹底した平和主義がこれに当たるでありましょう。こうしたそれぞれの国の固有の理念や制度も、その時々の政治的多数派、少数派の移り変わりによっては動かすべきではないからこそ、憲法に書き込まれているということになります。
 もっとも、これら国によって異なる理念や制度は、普遍的な近代立憲主義の理念と両立し得る範囲内にとどまっている必要があります。つまり、特定の人生観や宇宙観を押しつけるようなことは、近代立憲主義のもとでは、憲法に基づいても認められないということになります。
 憲法を保障するという言葉もいろいろな意味で使われることがございますが、現在の日本で申しますと、価値観や世界観、これは人によってさまざまである、しかし、そうした違いにもかかわらず、お互いの立場に寛容な、人間らしい暮らしのできる公平な社会生活を営もうとする、そうした近代立憲主義の理念を守るということ、そして憲法に書き込まれた日本固有の理念や制度を守り続ける、それが憲法を保障することのまずは出発点だということになるでありましょう。
 まことに雑駁な話でございますが、以上で、立憲主義に関する私の説明を終わらせていただきます。
 どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)
(略) 
 
○中川(正春)委員 率直にここでお話を聞きたいんですけれども、先生方は、今の安保法制、憲法違反だと思われますか。それとも、その中に入っていると思われますか。先生方が裁判官となるんだったら、どのように判断されますか。全員。三人とも。
○長谷部(恭男)参考人 安保法制というのは多岐にわたっておりますので、その全てという話にはなかなかならないんですが、まずは、集団的自衛権の行使が許されるというその点について、私は憲法違反であるというふうに考えております。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつきませんし、法的な安定性を大きく揺るがすものであるというふうに考えております。
 それからもう一つ、外国の軍隊の武力行使との一体化に自衛隊の活動がなるのではないのか、私は、その点については、一体化するおそれが極めて強いというふうに考えております。
 従前の戦闘地域、非戦闘地域の枠組みを用いた、いわばバッファーを置いた、余裕を持ったところで明確な線を引く、その範囲内での自衛隊の活動にとどめておくべきものであるというふうに考えております。
○小林(節)参考人 私も違憲と考えます。憲法九条に違反します。
 九条の一項は、国際紛争を解決する手段としての戦争、これはパリ不戦条約以来の国際法の読み方としては侵略戦争の放棄。ですから、我々は自衛のための何らかの武力行使ができると、ここに留保されています。
 ただし、二項で、軍隊と交戦権が与えられておりませんから、海の外で軍事活動する道具と法的資格が与えられておりません。ですから、自民党政府のもとで一貫して、警察予備隊という第二警察としての自衛隊をつくって、だからこそ、軍隊と違って、腕力について比例原則、軍隊に比例原則なんかありません、軍隊は勝つために何をやってもいいんですから、本来。世界の常識。だから、比例原則で縛られて、警察のごとき振る舞い。だから、攻めてこられたら、我が国のテリトリーと周辺の公海と公空を使って反撃することが許される。例外的に、もとから断たなきゃいけない場合は、理論上、敵基地まで行けるというこの枠組みは、ずっと自民党がつくって守ってきたもので、私はこれは正しいと思っています。
 この九条をそのままにして、海外派兵。集団的自衛権というのは、いろいろな定義がありますが、国際法というのは、まだ法自体が戦国乱世の状態で中心的有権機関なんかないわけですから、世界政府がないわけですから。ですから、それぞれがいろいろ言っているおおよそのところからいけば、少なくとも、仲間の国を助けるために海外に戦争に行く、これが集団的自衛権でないと言う人はいないはずです。これをやろうということですから、これは憲法九条、とりわけ二項違反。
 それから、先ほど長谷部先生がおっしゃった、後方支援という日本の特殊概念で、要するに、戦場に後ろから参戦するだけの話でありまして、前から参戦しないよというだけの話でありまして、そんなふざけたことで言葉の遊びをやらないでほしいと本当に思います。これも恥ずかしいところです。ですから、露骨に、憲法……。
 ただ、今、公明党と法制局が押し返していますよね。でも、あのとおりになったら、何も集団的自衛権という言葉は要らないじゃないですか。個別的自衛権に押し戻したんですかという疑問もあります。
 以上です。
○笹田(栄司)参考人 ちょっと違った角度から申し上げますと、例えば日本の内閣法制局は、自民党政権とともに安保法制をずっとつくってきていたわけです。そして、そのやり方は、非常にガラス細工と言えなくもないですけれども、本当にぎりぎりのところで保ってきているんだなということを考えておりました。
 一方、例えばヨーロッパのコンセイユ・デタのような、日本の法制局の原型となりますが、あそこは、憲法違反だと言っても、時の大統領府なんかが押し切って、ではやるんだということで、極めてクールな対応をとってきて、そこが大きな違いだったと思うんですね。
 ところが、今回、私なんかは、従来の法制局と自民党政権のつくったものがここまでだよなと本当に強く思っておりましたので、お二方の先生がおっしゃいましたように、今の言葉では、定義では踏み越えてしまったということで、やはり違憲の考え方に立っているところでございます。
(略)
○北側(一雄)委員 公明党北側一雄でございます。
 きょうは、先生方、大変貴重な御意見を賜りまして、ありがとうございました。
 先ほどから安保法制に関する御議論が続いておりまして、きょうは私は別の質問をしようと思っておったんですけれども、あそこまで議論されましたので、少し私からもお聞きをさせていただきたいと思うんです。
 先生方にお話しするようなことではないのかもしれませんが、憲法九条には、自衛の措置の限界ということについては明確に書いておりません。憲法九条そのものが極めて世界的には特別な憲法条項になっているわけですが、その憲法九条のもとでどこまで自衛の措置が認められるのかという議論、これは、残念ながら、先生方御承知のとおり、最高裁判所では明確に述べていない中で、これまで政府とそして国会との間の論議の中で形成されてきた、こういう歴史にあるわけです。
(略)
 これについても恐らく先生方はいろいろな御意見、御批判があるかと思いますけれども、そういう中で、あの閣議決定があったということでございます。それを今回、法案に明文化したということでございまして、改めて先生方の御意見を賜れればと思います。三人の先生方からお願いいたします。
○長谷部(恭男)参考人 どうもありがとうございます。
 先生御指摘のとおり、憲法九条を見ただけでは、自衛の限界というのははっきりとわからないわけです。ただ、文言を見た限りでは、たとえ自衛が認められるとしても、極めて極めて限られているに違いないことは、それは大体わかります。
 その上で、内閣法制局を中心として紡ぎ上げてきた解釈があるわけです。解釈というのは何のために存在するかというと、先生御指摘のように、文言を見ただけで、条文を見ただけではわからない、わからない場合に、解釈を通じて意味を確定していくということになります。
 従来の政府の見解というのは、我が国に対する直接の武力攻撃があった場合に、かつ、他にそれに代替する手段がない、必要性があるという場合に、必要な最小限度において武力を行使する、それが自衛のための実力の行使だということを言っていたわけでございまして、これはまことに意味は明確であるというふうに私は考えます。
 ただ、昨年七月一日の閣議決定において示されていた、限定的ながら集団的自衛権行使ができる場合があるのであるという、そういう変更がなされているわけなんですけれども、その結果、一体どこまでの武力の行使が新たに許容されることになったのか、この意味内容が、少なくとも、従来のいろいろな先生方の御議論を伺っている限りでははっきりしていない。
 文言を見ただけではわからないから、それを意味を明確にするために解釈をしているはずなんですが、解釈を変えたために意味はかえって不明確化したのではないかというふうに私は考えております。
 また、先ほどの繰り返しになりますけれども、従来の政府の見解、御指摘の憲法十三条に言及された、その基本的な論理の枠内におさまっているかといえば、私は、おさまっていないと思います。他国への攻撃に対して武力を行使するというのは、これは自衛というよりはむしろ他衛でございまして、そこまでのことを憲法が認めているのか、そういう議論を支えることは、私は、なかなか難しいのではないかというふうに考えているということでございます。
(引用終わり)
 
(参考書籍)
 多くの著書を執筆されている長谷部先生の本の中から1冊だけ、それも10年前に出た新書をご紹介するというのも気が引けるのですが、「立憲主義」とは何か?ということを考えて訳が分からなくなるたびに、私はこの本を読み返すことにしています。

『憲法とは何か』 長谷部恭男 著(岩波新書 新赤版1002)

著者からのメッセージ
憲法はどちらかといえば、なじみのある、好ましいものでしょうか。憲法を通じて人々の暮らしを良くしていきたい、世の中を明るく変えていきたいとお考えの方は、そう感じておられるでしょう。憲法典を改正して、いろいろな権利や責務を書き込むべきだとお考えの方もそう感じておられるのでしょう。
 本書は、憲法というものの危なっかしさ、多くの人々の生活やさらに生命そのものをも引きずり込むその正体について説明しています。長期にわたる深刻な戦争が実は憲法をめぐって行われること、人々の暮らしや命を守るためには、ときにはそれまでの憲法を根底的に変えざるをえないことを説明しています(日本は六〇年前に、東欧諸国も一九八〇年代終わりにそれを経験しました)。憲法がつねにありがたい、明るい未来を与えるものだという夢が、幻想にすぎないかも知れないことを解きあかすのが、本書のねらいです。憲法は危険物です。取扱いには注意が必要です。」
 
(弁護士・金原徹雄のブログから)
2014年4月18日
立憲デモクラシーの会が設立されました!
2014年5月16日
(増補版)日本記者クラブ・研究会の映像で考える“集団的自衛権”(北岡伸一氏、阪田雅裕氏、柳澤協二氏、長谷部恭男氏)
2014年5月30日
12人の怒れる識者(国民安保法制懇)に期待する
2014年10月1日
国民安保法制懇「集団的自衛権行使を容認する閣議決定の撤回を求める」(9/29)を熟読しよう

2015年6月7日
憲法学者の矜恃~衆議院憲法審査会(6/4)における参考人質疑をじっくりと味わいたい

2015年6月11日
その後の長谷部恭男教授(早稲田大学)~TBSラジオと高知新聞インタビューから
2015年6月16日
憲法学者の矜恃~長谷部恭男氏と小林節氏の記者会見を視聴して(6/15)
2015年12月19日
大隈記念大講堂で開かれた「立憲主義・民主主義と平和を考える早稲田大学の集い」(12/17)を視聴する
2016年2月6日
立憲デモクラシーの会・公開シンポジウム「緊急事態条項は必要か」を視聴する

長谷部恭男チラシ