wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

山部赤人はどこから富士を眺めたのか?~名歌「田子の浦ゆ・・・」を解釈する

 今晩(2017年5月23日)配信した「メルマガ金原No.2821」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
山部赤人はどこから富士を眺めたのか?~名歌「田子の浦ゆ・・・」を解釈する

(旧国歌大観番号 318)
田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
(たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける)

 今日は、万葉集の中でも名高い、山部赤人(やまべのあかひと)による短歌を鑑賞しようと思います。さらに絞って言えば、この歌は、「どこから」富士山を眺めて詠んだ歌なのかについての解釈を書いてみます。
 
 私としても、いつもいつも、共謀罪などの政治問題ばかり考えている訳ではなく、文学に思いを馳せることもあるのです。とはいえ、赤人の有名や歌の解釈など書いてみる気になったについては、れっきとした理由があります。
 私が現役の放送大学学生であることは、何度もこのメルマガ(ブログ)に書いてきたことですが、先週の土日(5月13日・14日)の両日、和歌山学習センターで行われた面接授業「中世の紀行文学を鑑賞する」(講師:下西忠高野山大学教授)を受講してきました。私が下西先生の面接授業を受講するのはこれが2度目で、前回はたしか中世説話文学についての講義であったと思います。今回は、2日かけて、鎌倉時代前期に書かれた「東関紀行」(作者不詳)を読むという興味深い内容にひかれて受講を申し込みました。
 赤人が富士を詠んだ短歌の解釈が問題となったのは、「東関紀行」の駿河のくだりに、次のような文章があるからです。
 
国文大観第七編 日記草子部『東關紀行』(尾上八郎解題、植松安校訂(群書類従に依拠)校註日本文學大系 3(國民圖書株式會社 1925.7.23)による)
(抜粋引用開始/〔 〕内の注は略した)
 田子の浦に打ち出でて、富士の高嶺を見れば、時わかぬ雪なれども、なべて未だ白妙にはあらず。青うして天(そら)によれる姿、繪の山よりもこよなう見ゆ。貞觀十七年冬の頃、白衣(びゃくえ)の美女二人ありて、山の頂に竝び舞ふと、都良香が富士山の記に書きたり。如何なる故にかと覺束なし。
  富士の嶺の風にたゞよふ白雲を天つ少女の袖かとぞ見る
(引用終わり)
 
 「東関紀行」に限りませんが、古典文学においては、先行文学(中国及び本朝の)を踏まえた記述や引用が頻出します。特に、紀行文学においては、通過する名所(歌枕など)を取り上げた有名な作品があれば、先行作品に言及するのは当然ということになります。「東関紀行」の作者が、「田子の浦に打ち出でて、富士の高嶺を見れば」と書いたのは、上記の山部赤人の有名な歌を踏まえたものであることは言うまでもありません。
 もっとも、この作者の念頭に浮かんでいた歌が、万葉集に収録された歌(長歌反歌として書かれた)そのものではなく、8番目の勅撰集「新古今和歌集」(1205年)に収録されるに際して改作された以下のヴァージョン(後に「小倉百人一首」にもこの形で収録)であることは明らかです。
 
(新編国歌大観番号 675)
田子の浦に うち出て見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
(たごのうらに うちいでてみれば しろたえの ふじのたかねに ゆきはふりつつ)  

 原典版万葉集)と改作版(新古今)との比較が本題ではないので、ここでは、末尾の「降りける」が「降りつつ」に変化している(現に今でも降っている、と改作された)ことに注意を喚起するにとどめます。
 
 さて、本題に戻って、今日のテーマ、万葉集の原歌において、詠み手は「どこから」富士山を眺めてこの歌を詠んだかを考えてみます。
 実は、放送大学の面接授業では、受講した学生から二つの説が提示されました。そのうちの一説は私が述べた意見で、「船の上から詠んだ」というものです。そして、別の受講者から、「こちらの方が通説のようだが」ということで紹介されたのが、「田子の浦を通って、より視界の良い所へ行って詠んだ」という説でした。
 そこで早速、持参していた『ベネッセ全訳古語辞典(改訂版)』で調べてみたところ、さすがは「全訳」と名乗るだけあり、万葉集のこの歌についても、以下のような現代語訳(及び解説)が掲載されていました。
 
(引用開始)
たごのうらゆ・・・
田子の浦を通って(視界の開けた所へ)出て(眺めて)見ると、真っ白に、富士山の高い嶺に雪は降り積もっていたのだった。
〇「ゆ」は上代の格助詞で、「・・・を通って」の意味。
(発展)「新古今和歌集」中の歌(→たごのうらに・・・)の原歌。荘厳な情景と、それを発見した瞬間の感動を写実的に描く。
(引用終わり)
 
 実は、この『ベネッセ全訳古語辞典(改訂版)』は、今回の面接授業を受講する準備として(AMAZONマーケットプレイスで)購入したのですが、私が高校時代に使っていた収録語数だけはやたらと多かった古語辞典と比べ、実に行き届いていて使いやすい!と感動しました。あまりに行き届き過ぎているのではないか?と思うほどです。どの古語辞典を購入するかネットで調べた際、おしなべてベネッセ全訳の評判が良かったのも当然と思われました。

 それでは、上記のベネッセの解釈(どうやらこれが「通説」らしいのですが)に納得したかというと、それはまた別の話であって、私は、やはり、歌の詠み手は「田子の浦に漕ぎ出した(帆船かもしれませんが)船の上から富士を眺めている」という解釈(下西忠先生もこちらの解釈をとっておられました)の方が正しい・・・かどうかは分かりませんが、少なくとも「優れている」と思います。
 面接授業の際にも、自分の意見は一応言いましたが、結論を述べただけで、何故そのように解釈すべきと考えたのかという肝心の理由はほとんど説明できず、それが心残りだったので、その後、自宅にあった文献なども参照しながら考えたことをメルマガ(ブログ)に書いてみようと思い立った次第です。

 私の解釈を述べる前に、もう一つ引用しておきたい文章があります。それは、万葉集研究の大家であった伊藤博氏(1925~2003)による『萬葉集釋注』の文庫版(集英社文庫・全10冊)がたまたま自宅にありましたので、伊藤氏の解釈を知りたいと思って読んでみたのですが、その結果は、以下のとおりでした。

 
伊藤博 『萬葉集 釋注二』(集英社文庫) 140頁
(引用開始) 
 新古今の富士は、田子の浦に船を乗り出して見ている。対して、万葉の富士は、田子の浦べりの陸路を歩いて見ている。蒲原・由比・倉沢の海岸が、万葉時代の「田子の浦」であったらしいが、そのあたりは道近くの山に隠れて、富士山の見えにくい所がある。それで、右に述べた道を通って視界の開けた所に出て眺めえたことをうたったのが、「田子の浦ゆうち出でてみれば」であるという(澤潟久孝『万葉古径』一)。陸路を歩いての富士と船中に座しての富士と、これも古代と中世のほほえましい相違と見るべきか。
(引用終わり)
 
 『ベネッセ全訳古語辞典(改訂版)』だけではなく、多分他にも多くの類書が、「田子の浦を通って(視界の開けた所へ)出て(眺めて)見る」と解釈している大本が、どうやら、伊藤博氏の師匠で万葉訓詁学の権威であった澤潟久孝氏の解釈にあるらしいということが分かりました。伊藤博氏も、あえて師の解釈に異を唱えることをせず、淡々と「これも古代と中世のほほえましい相違と見るべきか。」などと述べているだけです。
 
 これから、万葉集の「田子の浦ゆ うち出でて見れば・・・」は、船の上から詠んだ歌だと考える理由を書いてみますが、全くの素人が、澤潟久孝、伊藤博という万葉学の権威による解釈に異を唱えることになりますので、まかり間違って、高校生や大学受験生がこのブログを読むことがあっても、とりあえずは、通説と思われる「田子の浦を通って(視界の開けた所へ)出て」と解釈しておいた方が無難であると、老婆心ながら付け加えておきます。
 
 以上が長い前置きであり、これからが本論ですが、お断りしておかなければならないことがあります。私は、日本文学専攻の学部生でも院生でもありませんので、手持ちの文献や辞典にざっと目を通しただけです。赤人の「田子の浦ゆ・・・」(万葉集318)の解釈についての先行研究の調査という、論文というほど大層なものでなく、ゼミでの発表レベルであっても必須の作業は全くやっていませんし、やる時間もありません。
 従って、今日の記事で記憶にとどめる価値があるのは、
万葉集318「田子の浦ゆ・・・」を読む。
〇新古今675「田子の浦に・・・」を読む。
万葉集318「田子の浦ゆ うち出でて」を「田子の浦を通って(視界の開けた所へ)出て」と解釈するのが通説であることを知る。
までであり(受験生はここまで)、さらに、
〇いかに大家の学説や一般的な古語辞典に掲載された解釈であっても、全て鵜呑みにするのではなく、自分自身であれこれ考えてみることが文学を味わう醍醐味である。
というところまでいけば(少なくとも放送大学の学生ならこの辺のレベルまで来て欲しい)上出来というものです。
 
 それでは、長過ぎる「前置き」はこれ位にして、肝心の「論拠」を書いておきます(先行研究の調査は全くやっていませんが、おそらく多くの先人が同じことを主張していることでしょう)。
 
【論証する命題】
万葉集318「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」(山部赤人)は、田子の浦の海岸から船で(少なくとも)湾内まで出て、船上から富士山を眺めて(少なくとも、そのような設定で)詠んだ歌である。
 
 【論拠】
1 新古今の時代には廃れてしまっていたとおぼしい上代の格助詞「ゆ」について、手持ちの『ベネッセ全訳古語辞典(改訂版)』には、次のような基本的意味を掲載しています。
①(動作の時間的・空間的起点を表し)・・・から。・・・より。
②(動作の経過する地点を表し)・・・を。・・・を通って。(「田子の浦ゆ・・・」を用例として引用)
③以下略
 「田子の浦ゆ」という第一句を解釈するためには、以上の格助詞「ゆ」だけではなく、その前の「田子の浦」の「浦」とは何を指すのかを考えなければなりません。
 ここでも、『ベネッセ全訳古語辞典(改訂版)』の「浦」を読んでみます。
①海・湖などが曲がって陸地に入り込んだ所。入り江。湾。
②海岸。海辺。
 おおざっぱに言えば、①は「海」、②は海に接した「陸地」ということでしょうか。もっとも、①にしても②にしても、海と陸地を一体として「浦」と言うのであって、そのどちらに重点を置くかが用例によって異なるということなのかもしれませんが。
 伊藤博氏が引用する澤潟久孝説は、第一句の「田子の浦」を「田子の浦べりの陸路」と解するようですが、私が考える「船の上から詠んだ」説では、「田子の浦」は、海辺のどこか、船を調達した地点ととらえ、「田子の浦ゆ(から、より)うち出でて」とは、田子の浦べりのどこかから船を仕立てて湾内に漕ぎ出したと考えるのです。私のイメージでは、帆掛け船ではなく、手漕ぎ船なのですが、根拠は・・・ありません。
 
2 以下に、私が、海上の「船の上」(私は沖まで出たとは考えていませんが、沖でも矛盾しません)から詠んだと解する論拠を列挙したいと思います。
(1)「田子の浦ゆ」を「田子の浦を通って」と解する説によると、実際に富士を眺めた地点は、「田子の浦」なのでしょうか?それとも「田子の浦」以外のどこか別の地点なのでしょうか?ベネッセの古語辞典を読んだだけでは、どちらの解釈もあり得るようですが(どちらかというと後者の方?)、仮に後者だとすると、わざわざ歌の第一句に「田子の浦」という地名を持ち出す意味がほとんどありません。駿河の国を旅する人が通るほどの道であれば、富士の見えるところなどいくらでもあるでしょう。もちろん、山陰になって見えない箇所もあれば、はっきりと見える箇所もあるでしょう。しかし、問題は、「どこを通ってきたか」ではなく、「どこから」眺めたかでしょう。田子の浦では眺めが良くなかったので、もっと見晴らしの良いどこか別の場所に移動して富士を眺めたと解釈すると、第一句の「田子の浦」は、それまでに作者が歩いてきた他の地名にいくらでも代替が可能ということになってしまいます。
 これに対して、伊藤博氏が引用する澤潟久孝説では(原典にあたっていないので確言はできませんが)、「万葉の富士は、田子の浦べりの陸路を歩いて見ている。」というのですから、田子の浦の「どこか」から見ていると解しているようであり、これであれば、「田子の浦」でなければならず、先の批判はあたりません。

(2)しかし、「田子の浦べりの陸路」のどこか「視界の開けた所に出て眺めえたことをうたった」のだという澤潟説に、どうも釈然としないのは、第一句「田子の浦ゆ」に引き続く「うち出でて見れば」という第二句から受ける印象と、どうもぴったりこないからでしょう。
 ここでも、『ベネッセ全訳古語辞典(改訂版)』を引いてみます。
[うちいづ](動詞)
①(広い所などに)出る。(姿が)現れる。(用例は「田子の浦ゆ・・・」)
②(軍勢などが)出発する。出陣する。
 また、接頭語「うち」も調べてみました。
[うち](接頭語)(動詞の上について)
①ことばの調子を整えたり、意味を強めたりする。
②ちょっと、ほんの少し、という意味を表す。
 万葉集の「うち出でて」の「うち」は、明らかに①の強調でしょう。
 同じ「田子の浦べりの陸路」を歩いている途中、見晴らしの良くないところから見晴らしの良いところに出ることを「うち出でて」と表現するでしょうか。
 「うち出づ」という言葉からは、もっと決然とした、と言っては言い過ぎかもしれませんが、あらたまった気持ちをもってどこかに「出る」という語感があるような気がするのですが。
 私が、田子の浦のどこかで漁師の漁船でも調達し、湾に出て行って富士を見たのではないかと考えるのは、「うち出でて見れば」という第二句から素直に受けた印象をそのまま述べたものなのです。

(3)もう一つ、私が「船の上」説をとる根拠は、新古今の編者による改作です。上二句は、万葉集の「田子の浦ゆ うち出でて見れば」を、新古今の編者は、「田子の浦に うち出でて見れば」と改作しています。
 これについて、通説は、「新古今の富士は、田子の浦に船を乗り出して見ている。対して、万葉の富士は、田子の浦べりの陸路を歩いて見ている。」と解釈しているようなのです。
 私の書庫にあった『新古今和歌集 上』(久保田淳訳注・角川ソフィア文庫)299頁でも、この改作は「田子の浦に出て眺めると、真白な富士の高嶺に雪は降っているよ」と訳されていました。

 これは、場所を示す助詞「に」とあることから、田子の浦べりのどこかで船に乗りこみ、海(田子の浦)に出た、と解釈するしかないということでしょう。
 この新古今版の解釈に全く異論はないのですが、問題は万葉集原典版の方です。私は、結論として、万葉集も新古今と同じように解釈すべきだと思っています。
 もちろん、語釈としては、万葉集(田子の浦ゆ うち出でて見れば)は、「田子の浦(海岸)を通って」(あるいは「田子の浦(海岸)から」)(田子の浦の湾に船で)出て、「見てみると」と解釈することになりますので、新古今の「田子の浦に うち出でて」と全く同じとはいきませんが、実質的には同じ光景を詠っていると解釈します。
 新古今は、万葉集の第五句「雪は降りける」を「雪は降りつつ」と、今現に雪が降っているという情景に「改作」しており、これは何らかの作歌上の意図をもっての改作と見るべきでしょうが、第1句末尾の「ゆ」を「に」に改めるについて、澤潟久孝説の言うような、実質的な改編を加える意図があったとはどうも思えないのです。
 ただ単に、「ゆ」という格助詞が全く使われなくなっていることから、同じ情景を詠うための代替語として「に」に変更しただけではないのか、というのが私の推測です。
 それに、同じ雪の富士を詠んだ情景歌にしても、雪が降って白く積もっているという末尾を、降り続けていると書き改めた上に、どこから詠んでいるのかという点まで改作したのだとしたら、もはや赤人の作と表示する必要もない位ではないでしょうか。
 先にも書いたとおり、「浦」には、入り江、湾など、「海」の要素に重点を置いて使われる場合と、海岸、海辺など、「陸」の要素に重点を置いて使われる場合の双方があり、万葉集の「ゆ」と新古今の「に」の違いは、そのどちらの意味に重きを置くかの違いに過ぎず、実際の情景は同じだと解釈すべきではないかというのが私の意見です。

(4)以上の二説(「田子の浦ではないどこか別の場所」で詠んだという説は論外としておきます)では、作者がどのような情景を眺めながら第三句以降(真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける)を詠んだのかという前提が変わってきます。
 まず、「田子の浦べりの陸路」のどこか「視界の開けた所に出て眺めえたことをうたった」という説に立つと、作者が眺めているのは富士山だけです。作者の周囲には山も木もあったでしょうが、それは作歌の要素には全くなっていません。
 これに対し、田子の浦べりのどこかから船を仕立てて湾内に漕ぎ出したと考えると、そこから北方を振り返った作者の目に飛び込んでくるのは、遠景の白く雪が降り積もった富士山と、その前面に開ける近景としての田子の浦の風景です。
 「田子の浦べりの陸路」をいくら歩いても、田子の浦の全景を一望のもとに見渡すことはできません。仮に、相当に見晴らしの良い地点に出たとしても、富士山は良く見えるかもしれませんが、田子の浦は、その一部を見られるだけでしょう。仮に、田子の浦の相当部分を見渡せる場所があったとしても、田子の浦と富士山を同時に眺めることは不可能です(方角が全く違います)。
 「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」という一首の歌を読んだ者は、白い富士の情景だけを思い浮かべるのでしょうか。その前景に広がる田子の浦をも一望のもとに眺めながら詠んだものと解釈することによって、初めてこの歌の雄大さが理解できるのではないかと思います。
 ちなみに、このような情景を読み込んだものと解釈すべきだというのは、面接授業の講師、下西忠先生からご教示いただいたことです。

(5)私が「船の上」説をとる論拠は、概ね以上で述べたところに尽きます。以下に述べることは、もしかしたら論拠になるかもしれないという生煮えの素材です。
 先にも少し触れましたが、山部赤人のこの作(万葉集318)は、長歌万葉集317)への反歌として作られたものです。
 その長歌を引用しておきます。
 
(旧国歌大観番号 317)
天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き
駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば
渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず
白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける
語り告げ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
 
伊藤博氏による現代語訳)
天と地の分かれた神代の昔から、神々しく高く貴い駿河の富士の高嶺を、大空はるかに振り仰いで見ると、空を渡る日も隠れ、照る月の光も見えず、白雲も行き滞り、時となくいつも雪は降り積もっている。ああ、まだ見たことのない人に語り聞かせのちのちまでも言い継いでゆこう、この神々しい富士の高嶺のことを。 
伊藤博萬葉集 釋注二』(集英社文庫)138頁

 上記長歌に添えられた反歌が「田子の浦ゆ・・・」なのであり、どう考えても、「船の上」説をとった方が、勇壮な長歌との釣り合いがとれていると思うのですが。
 
3 最後に、本当の蛇足かもしれませんが、私の手許に、江戸時代後期の学者・尾崎雅嘉があらわした小倉百人一首の注釈書『百人一首一夕話(ひとよがたり)』全2冊(岩波文庫黄版)がありましたので、江戸時代の人はどのように解釈していたのか(新古今版の赤人の歌が小倉百人一首にも採られていますので)知るために、該当箇所を引用してみます。
 


「・・・しかればまづ万葉の歌にて解くべし。
 田子の浦ゆとは田子の浦よりといふ事にて、駿河国庵原郡の田籠の浦から向こうへ出て見れば、真白に富士の高き嶺に雪の降りたるが見ゆるといふ事なり。しかるに直して入れられたる今の歌(注:新古今及び百人一首)にて解けば、田子の浦へふと出でて見れば真白なる富士の高き嶺に、また雪が降りつ降りつするといふ心になるなり。」
岩波文庫百人一首一夕話』(上)67頁)
 

 言葉が短か過ぎて判然としないところがありますが、尾崎雅嘉は、万葉原歌を、私が「論外」とした「田子の浦ではないどこか別の場所」で詠んだと解釈しているように読めます。まことに古文の解釈は多様で奥が深いということでしょうか。