2018年9月16日配信(予定)のメルマガ金原No.3272を転載します。
実は、先日、「新宮市立 佐藤春夫記念館だより 第23号(2018.9.1)」をお送りいただいた、その封筒の中に上記企画展のチラシが同封されており、すぐにご紹介しようかと思ったのですが、その前に、大石誠之助を名誉市民に推挙した新宮市議会の議論状況を会議録で確認するのが先決だろうと思い、昨日のブログをまとめたという次第です。
私自身、このチラシに書かれていること以上の情報の持ち合わせはありませんので、まず、チラシの内容を以下に転記します。
(チラシから引用開始)
新宮市名誉市民記念
企画展 大石誠之助とはどんな人?
期間 平成30年10月2日~31年2月24日
佐藤春夫記念館
TEL/FAX 0735-21-1755
公式ホームページ http://www.rifnet.or.jp/~haruokan/
公式Facebook
記念館ブログ「望郷詩人のつぶやき~佐藤春夫記念館だより~」
開館時間:午前9時~午後5時(入館は4時半まで)
休館日:月曜、祝日の翌日、年末年始(12月28日~1月3日)
入館料:一般310円、小中学生150円
平成30年11月10日(土)ギャラリートーク開催
今回の展示の見所を館長が解説します
1日2回開催
①10:30~ ②14:30~
各回定員15名程度・約1時間
事前にお電話等でお申込みください
大石は開業医としても活躍。貧しい人からはお金を取らず親しまれていました。
平成30年1月24日、大石誠之助の新宮市名誉市民授与式が行われました。
協力:新宮高等学校同窓会、「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会
(引用終わり)
なお、チラシには、「佐藤春夫の母校・和歌山県立新宮高等学校の文化祭「彩雲祭」にて、図書館内で同窓会企画のパネル展が先行開催されます。」と案内されていましたが、既に9月7日・8日に「彩雲祭」は開催済みとなっていますので、引用はしませんでした
ところで、「昭和2年(1927年)東京都文京区関口町に建てられ、昭和39年(1964年)春夫が72歳で亡くなるまでを過ごした家」を新宮市の熊野速玉大社境内に移築した佐藤春夫記念館を、私は一度だけ訪れたことがあります。
それは、昨年(2017年)の6月11日、くまの平和ネットワーク主催(「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会後援)による共謀罪に関する講演会の講師としてお招きいただいたのを機に、講演会が始まるまでの時間を利用して、佐藤春夫記念館見学という宿願をようやく果たすことができたのでした(講演会・「共謀罪」って何?こんなにある問題点!(6/11くまの平和ネットワーク)レジュメ紹介/2017年6月11日)。
その際は、短い滞在時間しかとれませんでしたが、館長の辻本雄一先生から直々に館内をご案内いただくことができ、とても有意義な時間を過ごすことができました。
佐藤春夫記念館の正面玄関に立つ私の写真を掲げておきます(辻本館長にシャッターを押していただきました)。
私が、館長の辻本先生に直々ご案内いただくことができたのは、2014年5月31日、和歌山市勤労者総合センターに辻本先生をお招きし、「熊野・新宮の「大逆事件」」と題した講演会をお願いした実行委員会の、私が呼びかけ人の末席を汚していたからなのですが、そもそも、辻本先生においでいただくことになったのは、その年の2月、辻本先生が、かねて様々な機会に発表された論考をまとめられた『熊野・新宮の「大逆事件」前後―大石誠之助の言論とその周辺』(論創社)を刊行されたこともきっかけの一つでした。
ところで、私が企画展「大石誠之助とはどんな人?」を見て、直ちにブログで取り上げようと決意したのは、昨年、佐藤春夫記念館を訪問して大変お世話になったということや、大石誠之助を新宮市名誉市民とした同市の決断に敬意を抱いていたからということはもちろんなのですが、それ以外にも理由があります。
それは、チラシを見た瞬間に、私より9歳年上の、昭和20年に和歌山県で生まれた3人の皆さんのお顔とお名前が脳裏に浮かんだからという理由です。
もうお1人が、企画展チラシに「辻原登著『許されざる者』に見る“大石像”など」とある著名な作家・辻原登さんです。辻原さんは、昭和20年、和歌山県印南町のご出身ですが、中学校は、和歌山市にある和歌山大学教育学部附属中学校に進まれたため、私の中学校の9年先輩ということになります。
最後のお1人が、和歌山県立桐蔭高等学校校長、和歌山市教育長などを歴任された大江嘉之先生で、大江先生も昭和20年生まれです(ご出身は岩出町(当時))。大江先生が、和歌山大学教育学部を卒業後、最初に赴任されたのが同学部附属中学校で、2年生の社会(歴史)を担当されましたので、当時、同校の2年生であった私は、大江先生の最初の教え子の1人ということになります。
それで、大江先生と大石誠之助にどんな関係があるのかというと・・・。私が一度だけ辻原登さんにお目にかかったことがあるというのは、大江先生を囲む教え子の勉強会(だったかな?)のゲストとして辻原登さんが招かれた席にたまたま私も出席し、1990年に芥川賞を受賞された『村の名前』の文庫版(文春文庫)にサインしていたいた本が今でも自宅にありますので、多分、辻原さんが会社を辞めて作家専業になってそれほど間のないころのことだったでしょうか。
これでもまだ大石誠之助とは結びつかない?実は、2009年に毎日新聞社から刊行された辻原登さんの『許されざる者』上・下を読むようにと強く薦めてくださったのが大江先生で、たまたま大江先生がまとめ買いしていた著者サイン入りの本を頒けていただいたのが、今も私の書庫に収まっています(決して押し売りされた訳ではありません)。
『許されざる者』の主人公・槇隆光が大石誠之助を下敷きにして造形されていることは間違いありませんが、同作はいわゆるモデル小説とかノンフィクション・ノベルなどというものではありません。
ここは、作品論を語る場でもなければ、私にその資質もないので、是非作品そのものをお読みくださいと言うにとどめますが、それよりも重要なことは、私が、実在の大石誠之助の存在を知るに至ったのは、この『許されざる者』という小説を入手したことがきっかけだったということです。そこからさらに、「大逆事件」そのものに遡って調べるようになったのですから、「おくて」もよいところで、まことに恥ずかしい話ですが、事実だから仕方がありません。
辻本雄一先生を招いた講演会を企画するきっかけになった映画『100年の谺 大逆事件は生きている』上映会のための実行委員会に参加することにしたのも、思えば『許されざる者』のおかげということになるので(大逆事件と和歌山(予告12/8映画『100年の谺 大逆事件は生きている』上映)/2013年10月16日)、
ここでようやく、大江嘉之、辻原登、辻本雄一という、昭和20年に和歌山県に生をうけた3人の先達に導かれ、私が大石誠之助にたどり着いたという物語の、これがようやくオープニングです。その後の物語は、もちろん今も続いており、昨日と今日のブログも、その物語の一部を構成する挿話です。
なお、この企画展「大石誠之助とはどんな人?」の会場となるのが佐藤春夫記念館なのですから、佐藤春夫と大石誠之助とのつながりについて一言すべきなのでしょうが、11月10日(土)のギャラリートークに申し込み、辻本雄一館長から直接解説を伺うのが一番でしょう。
(引用開始)
愚者の死
千九百十一年一月二十三日
大石誠之助は殺されたり。
げに嚴肅なる多數者の規約を
裏切る者は殺さるべきかな。
死を賭して遊戯を思ひ、
民俗の歷史を知らず、
日本人ならざる者
愚なる者は殺されたり。
「僞より出でし眞實なり」と
絞首臺上の一語その愚を極む。
われの鄕里は紀州新宮。
渠の鄕里もわれの町。
聞く、渠の鄕里にして、わが鄕里なる
紀州新宮の町は恐懼せりと。
うべさかしかる商人(あきうど)の町は歎かん、
——町民は愼めよ。
教師らは國の歴史を更にまた説けよ。
(引用終わり)
(弁護士・金原徹雄のブログから/大逆事件関連)
2013年10月16日
2014年5月10日
2016年2月18日
徳冨健次郎(蘆花)の『天皇陛下に願ひ奉る』と『死刑廃すべし』
2016年2月20日
徳冨健次郎(蘆花)の『天皇陛下に願ひ奉る』と『死刑廃すべし』(簡略版)
2017年4月18日
2018年1月22日
2018年9月15日
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