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wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

開催予告10/15和歌山市9条センター秋の憲法学習会~久保田弘信氏(フォトジャーナリスト)講演会「ISの出現と難民問題」@プラザホープ

憲法 講演
 今晩(2016年9月28日)配信した「メルマガ金原No.2583」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
開催予告10/15和歌山市9条センター秋の憲法学習会~久保田弘信氏(フォトジャーナリスト)講演会「ISの出現と難民問題」@プラザホープ

 今晩は弁護士会の用事で、明日、明後日は講演会への参加で、それぞれ帰宅が遅くなり、しかもメルマガ(ブログ)のストック(書き溜め)もないというピンチを迎え、意地でも「毎日配信」を続けようとすれば、自ずから使える手は限られてきます。
 ということで、その第一弾は「行事案内」です。
 
 和歌山市9条センター(憲法9条を守る和歌山市共同センター)の深谷登さんから、昨晩、メールでお知らせがあった秋の憲法学習会をご紹介します。
 和歌山市9条センターは、例年だいたい10月半ばころに、「秋の憲法学習会」を開催します。私も深谷さんから「10月15日(土)に会場を押さえた」と聞いていましたので、自分のスケジュール帳に予定を書き込んでいたのですが、その後、講師が決まったという話が全く聞こえてこず、かえって、有力候補として折衝した政治思想史、ジェンダー論を専攻する関西地方の某大学教授からは、日程が合わないため、残念ながらお断りするという丁重な返事があったというような噂が耳に届くだけでした。
 その後、別の団体の企画に相乗りする形で開催することになったようだという話をちらっと聞いていたところに、昨夜のお知らせがあったという次第です。
 以下に、チラシの文字情報を転記します(チラシには会場は「プラザホープ」としか書かれていませんが、確認したところ、「4階ホール」ということでした)。
 
(チラシから引用開始)
戦争する国づくりを許さない!
県教研プレ集会 ・ 市9条センター 秋の憲法学習会
 職員組合などが12月初めに開催する「教育研究集会」の事前集会の記念講演を、市9条センター「秋の憲法学習会」の場として参加させて頂くことになりました。多くのみなさんの参加を呼びかけます。
●演題
『ISの出現と難民問題。
  世界はどうなっている。
   われわれ日本人にできることは?』
●講師 久保田 弘信
(フォトジャーナリスト)
講師紹介
 岐阜県大垣市出身。大学で物理学を学ぶが、スタジオでのアルバイトをきっかけにカメラマンの道へ。9.11事件の以前からアフガニスタンを取材。アメリカによる攻撃後、多くのジャーナリストが首都カブールに向かう中、タリバンの本拠地カンダハルを取材。パキスタンに流出する難民を取材。その時の難民の子どもたちの素顔を捉えた個展を多数開催。2003年3月のイラク戦争では攻撃されるバグダッドから戦火の様子を日本のテレビ局にレポートした。
●日時 2016年10月15日(土)14:00~開会(13:30~受付開始)
●場所 和歌山県勤労福祉会館プラザホープ4階ホール
       和歌山市北出島1丁目5番47号
憲法9条を守る和歌山市共同センター
連絡先:和歌山市湊通り丁南1丁目1-3 和歌山地区労内 TEL:073-436-3578

(引用終わり)
 
 「アフガニスタン」「シリア」「ジャーナリスト」と言えば、和歌山では西谷文和さんのお話を伺う機会が多いということにすぐ思い至りますが、取材者によって、しばしば取材して詳しい地域も当然異なるでしょうし、取材時に接触する現地の人たちの層も異なるはずなので、新たな物の見方を学べる貴重な機会になるのではという予感がします。
 なお最後に、久保田弘信さんの公式WEBサイトと公式ブログをご紹介しておきます。
 
 
(付記その1/俵義文氏講演会(9/29))
2016年9月29日(木)18:00~19:20(プラザホープ2F多目的室)
 憲法改悪阻止和歌山県各界連絡会議(073-432-6355 高校会館内)
 憲法九条を守るわかやま県民の会(073-436-3520 県地評内)
 
(付記その2/長谷部恭男氏講演会(9/30)) 
2016年9月30日(金)18:30~(和歌山ビッグ愛1F大ホール)
憲法講演会「立憲主義と民主主義を回復するために」
講師 長谷部恭男氏(早稲田大学大学院法務研究科教授)

主催 和歌山弁護士会
共催 日本弁護士連合会
入場無料・予約不要
連絡先 073-422-4580(和歌山弁護士会) 

市9条センター16年秋の学習会 

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(全)

文学 文化
 今晩(2016年9月27日)配信した「メルマガ金原No.2582」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(全)

 2016年5月22日から25日までの間、「メルマガ金原」に3回に分けて掲載し、ただちに「弁護士・金原徹雄のブログ」と「wakaben6888のブログ」に転載した「西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』」は、西郷さんが、ドジョウスクイという切り口から自らの半生を振り返った自分史であると同時に、「ドジョウスクイは平和の踊り」という信念が実現される世界を目指して努力を続けるのだという決意表明でもありました。
 ところで、メルマガ掲載版をブログに転載するに当たり、細かな校正漏れを修正したりしていましたので、「弁護士・金原徹雄のブログ」版を底本とし、あらためて『ドジョウスクイ半生記』全編をまとめてご紹介することとしました。とりあえず、私が編集・校訂を担当した版としてはこれが確定稿となります。
 既に3回分載版で『ドジョウスクイ半生記』を読んでおられる方々にも、これを機にもう一度新たな気持ちで全編を味読していただければと思います。
 なお、3回分載時に私が書いた(リード文)は、まとめて本文の後ろに掲載しました。
 

                               ドジョウスクイ半生記
   
                                       西 郷   章 
 
はじめに
 私がドジョウスクイを覚えたのは、父親(西郷市松)の影響によるものでした(以下、ドジョウスクイにまつわる話ですから父親のことはオヤジと書かせていただきます)。私は終戦直後の昭和21年生まれです。私が物心つく頃の我が家の生計は、オヤジの遠洋漁業の雇われ船員としての収入によって支えられていました。遠洋漁業は「突き棒船」という臼杵市(うすきし/大分県)独自のカジキマグロを追う大変珍しい原始的な漁獲法ですので、歴史的な経緯も含めてあとで紹介したいと思います。
IMG_0002(1974年か5年 弟の結婚式での市ちゃん最後の踊り) オヤジがどこでドジョウスクイを覚えたのか、軍隊の時に覚えたのか、あるいは戦後漁師に復職してから覚えたのか知りませんが、軍隊では下関か門司だったか、大砲部隊の鬼軍曹の教官として恐れられ、軍国主義思想で凝り固まったクソまじめな人間だったオヤジが、なんであんな面白い踊りが踊れるのか、私は子供心にも不思議に思えてなりませんでした。 そして、私がドジョウスクイを覚えようと決めたのは、29歳で結婚をして、三男が中学校に入る1~2年前の48歳の頃でした。オヤジから見覚えた踊りは面白いのですが、あくまでもローカル的で、親しい仲間内ではよく踊っていても、どうしても品格に欠けますので、どこでも踊れるというわけにはいきません。私は、きちんとした踊りを覚えたいと思い、わざわざドジョウスクイの本場の安来市(やすぎし/島根県)観光課に問い合わせてみました。すると宇田川さんという名人の踊りのビデオテープや、安来節の道具一式5万円を紹介してくれたのです。それ以来、私のドジョウスクイは、どこでも安心して踊れるものとなり、様々な場所で踊ることになりました。ここでは、その中の思い出深い2~3の踊りとその背景についてご紹介したいと思います。
(金原注)写真は、1975年頃、息子(西郷章さんの弟さん)の結婚式でドジョウスクイを踊る西郷市松さん。西郷章さんが、お父さんの踊る姿を見たのはこれが最後だったとか。
 
一時代に繁栄した「突き棒船」とは
 ドジョウスクイを踊った特徴的な場面を紹介する前に、前置きしました「突き棒船」と当時の私の家庭事情についての話をしたいと思います。
 突き棒船は、「突きんぼ船」とか「突き船」とも言われ、海面に浮上するカジキを手投げモリ(樫の木で作った丸棒で、長さ5メートルくらいの先端に3本の矢じりのついたもの)で仕留める勇壮な漁法で、原始的漁獲法と言われていました。船の先端(棚)に構える突き方(矢じりをカジキに突き刺す者で一番方と二番方が構えていたと思います)や、マストの上でカジキを見つけて機関長や突き方に合図をする者が中心となり操業します。この漁法の由来は、明治3~4年の頃から大分県豊後水道一帯で、私の部落の板知屋(いたちや)などが中心となって始められたもので、その頃は当然エンジンなどはなく、櫓櫂(ろかい)や帆立てが動力源でした。その後、臼杵市・中津浦の板井五三郎がカジキマグロを樫棒の先につけたモリで突く「突きん棒」漁法を編み出し、やがて明治末期から大正初期にかけて帆船による突きん棒漁業が発達します。大正10年頃からは、動力源が内燃機関(焼き玉エンジン)に代わったために操業範囲も飛躍的に広範になり、夏から春にかけて長崎県沿岸から朝鮮近海まで出漁し、春からは豊後水道で操業しました。昭和10年頃からは、宮崎県油津沖合から北海道・三陸沖合までの漁場に出漁し、さらに広範囲に出かけるようになりましたが、第2次世界大戦でいったん壊滅してしまいました。 その後は、戦後復興とともに漁船は大型化し、乗組員も一船が十数人規模になり、私が中学に入る頃最盛期を迎え、30トン~50トン級の船が私の部落を中心に60隻くらいに増えました。しかし、北陸あたりの仕掛け網による大型大量漁獲法が取り入れられるようになると、原始的な突き棒船は急速に自然消滅へと追いやられ、昭和52年にはついに全滅してしまいました。

先を見越して運搬船に乗ったオヤジ
 オヤジは、私が中学生の頃(突き船の最盛期の頃)には既に先を見越して突き船から降りて、義兄弟の持つ貨物船で生計を立てるようになり、その船も幾年もしない間に降りて、自分で運搬船を持つようになりました。けれども、貧乏人が借金をして持てる船は、中古の木造船が関の山でした。仕事も決して楽ではなく、積み荷は四国の多度津などから西大分へ土管を運ぶ仕事で、その土管の積み降ろしは、私も中学の夏休みや冬休みの時に経験しましたが、1本1本手渡し作業による過酷なものでした。しかし、会社のように命令されて仕事をする訳ではなく、1本1本の手作業をやればやるほど必ず自分の利益になるのがせめてもの救いでした。
 この家業のために、臼杵の水産高校を出て、北九州の若築建設(現・東証1部上場)に就職していた5つ上の兄貴が呼び戻され、また私より4つ下の名古屋のグンゼで働いていた三男も呼び戻され、やがて四男もという具合に、私を除いては男の子は3人とも船乗り稼業で生計を立てるようになりました。子供たちが、いやいやながらも割にすんなりと親の意思に従ったのは、家父長制の名残によって、子供というものは親の言うことに従うものだという育て方に影響された点が多分にあったと思います。私だけが会社勤めをしたのは、船に酔いやすいという体質的な弱点があったからかもしれませんが、男の子は1人くらいは陸(おか)働きをさせておかないと、船乗りの身に何かあった時に家が行き詰まってしまうからという、これも親の意思が多少なりとも働いていたようなことをオヤジに聞いたように記憶しています。
 運搬船の事業もだんだんと軌道に乗ってくると、もう少し儲かる取引先として大阪まで足を延ばすようになりました。大阪からの積み荷は、チリ紙やトイレットペーパーなどの原料となる雑誌やボロ紙でした。それを大分の製紙会社に納入するために、西大分港の荷役場まで運ぶのです。西大分港の思い出は、まだ土管しか運んでいなかった中学生の頃のことしか覚えていませんが、冬休みの時に手伝いに行って、夕方仕事が終わると寒い町中に行き、そこで入った銭湯が暖かくて気持ちが良かったこと、また、ご褒美にジャンバーを買ってもらったのはいいが、生地がビニールのようなものでできているために、ひどく蒸れて、さすがの着るもののない私でも不快な思いをしたことが思い出されます。また、その後の大阪の荷役場は、大正区の川沿いにあり、当時、私は和歌山の住金(現・新日鉄住金)に入社して間もない頃でしたので、時々は船着き場まで親兄弟に会いに行きました。今でも大正区の川沿いが懐かしいのはそのためです。

大黒様・恵比寿さんになったオヤジ
 しかし、長年の運搬船事業も止めるかどうかの転機が訪れてきました。船の痛みもひどくなり、新しい船を買うにも相当な借金をしなければならず、それで採算がとれるのか、など考えた後に廃業することになりました。
 ところがその時に、思いもよらぬ福の神が舞い込んできたのです。船は処分しなければなりませんが、解体料こそ取られても古すぎる船自体は三文の値打ちもありません。だが、時はバブルの絶頂期で、関西空港建設のために海上の埋立てが盛んにおこなわれており、埋立てには多くの船が必要でした。船には権利があり、船を持つためにはその船の大きさ相応の権利を買わなければなりません。オヤジの船には権利という価値があったのです。その当時、ゴルフの会員権に法外な値段が付いたように、オヤジの船も貧乏人にとっては驚くほどの値段が付いたのです。かつて村一番の貧乏人と言われてもおかしくなかった両親は、たちまち金持ちになり、まさに大黒さんが舞い込んだような身分になりました。
 母親は、生前にその当時のことを振り返って「儲けた金には毎月利子だけでも相当額付いててきた」と言っていました。その余裕から、私が帰省すると必ず、少額でも小遣いをくれており、それは私が50歳近くになるまで続いたと思います。私は「いい年をして小遣いをもらうなどは恥ずかしいから止めてくれ」と言いながら貰っていたのを憶えています。
 オヤジは、船を売る何年か前から家業は子供たちに任せ、自分は隠居しながら小型漁船で好きな魚釣りをしていましたが、思わぬ金を手にしたことで、その一部を使い、村で一番速い船を新造しました。その漁師としての姿は、誰よりも遅く出漁し、だれよりも早く帰港して、誰よりも多くアジを釣る、アジ釣りの名人「市ちゃん」として釣り仲間に頼られる存在でした。私は、人一倍アジを釣るその秘訣をオヤジに聞いたところ、「どんなエサにアジが良く食いつくかエサのことをいつも考え研究している」と教えられましたので、私の生活にもこれを応用して、「人と仲良くしたり、人に好かれるには良いエサを撒くことが肝心だ」と考えてこれを実行するようになりました。そのおかげで、思想信条の違いは別としても、少なくとも人様にはあまり嫌われることはなかったのではないかと思っています。
IMG_0003(1995~6年 市ちゃんの船に乗る孫たち) さて、オヤジの釣った魚は網カゴの生けすに入れられて市場にもって行くまで生かされます。ある時、私は生けすにあるアジ、イカ、イサギ、サバ、タイを刺身にしてもらって食べ比べたことがありますが、その中で一番うまかったのはサバでした。サバは、関サバ(臼杵湾を出た半島の近海で捕れるサバ)も他のところで捕れるものも美味しさはあまり変わらないとオヤジは言っていました。
 子や孫が遊びに来れば、生の魚をどっさりと食わせてくれ、喜ばれるオヤジは正に大漁の神さん、恵比寿さんのような存在でした。その親父も、とっくに亡くなり、母親も金に不自由することなく老人センターなどを利用して、天寿を全うしました。その後、兄弟たちは別々に雇われ船員としての船乗り生活を経て、今では皆んな良い年になり、年金生活者として暮らしています。
 私は家業を手伝った訳ではありませんから、大黒様(金を儲けたオヤジ)の恩恵は少ししかありませんでしたが、その分、恵比寿様(魚釣り名人のオヤジ)の釣った魚は帰省した時には存分に食べさせてもらい、「ドジョスクイ」と「魚を釣るにはいいエサ」の秘伝を教わり、今もそれを実践していますので、これはいい財産をもらったと思っています。
(金原注)写真は、1995年頃、西郷市松さん自慢の“快速船”に乗って喜ぶお孫さんたち。
 
初めての中国でドジョウスクイを踊る
 私たち夫婦は3人の、それぞれが3つ違いの男の子に恵まれました。一番下の子が3歳の時、満蒙開拓団の一員として満州に渡っていた義父の長女で、敗戦の混乱の中、生き別れて残留孤児となった妻の姉の身元がようやく分かり、和歌山在住の姉の家族ともども総勢10名で再会のために中国に行くことになりました。中国の行き先は東北部の瀋陽市(旧・満州奉天市)です。上海から国内線で北京を経由して東北行きの飛行機に乗り換えるのですが、北京市内はこの頃(1985年)から道路も整備され、3~4車線の車道の他に同じような幅の自転車道と歩道が建設されていました。そして、初めての中国訪問ですから、名所見物も兼ねて、魯迅の活躍した場所や、最後の女帝の別荘や紫金城、万里の長城なども見物しながら瀋陽へと向かいました。瀋陽の姉の家につきますと、まず義父に代わり、私から、中国の養父に対し、長年我が子同然に可愛がり、育ててくれたご恩へのお礼と感謝の言葉を述べ、姉と再会することになりました。しかし、物心つく頃に親子は離散しましたから、言葉は通じません。あまり言葉を交わすことなく、互いの手を握りしめて姉は涙を流し、顔を見つめ合っているだけですが、義父は離散した当時に思いをはせていたことでしょう。
 離散した当時、和歌山県御坊市から娘を連れて先妻とともに満蒙開拓団員として入植した義父は広い土地を与えられたそうです。しかし、義父の遺品の中には、最下級の兵隊の位が書かれた身分票がありましたから、実際は満鉄沿線の警備を兼ねた食糧生産兵の役割をさせられていたのかもしれません。開拓団は入植した当初から軍のために苦しい生活を強いら、そして敗戦間際には、鍬(くわ)しか持ったことのない手に銃を持たされ、戦場と化した田畑、荒野を逃げ回ったのです。その後は、お定まりのソ連軍の捕虜となり、夫婦・親子はチリジリとになります。捕虜のシベリアでの生活は過酷なもので、1日に何百グラムのパンしか配給されずに飢えと寒さに耐えきれずに死んでいくものも多くいたそうです(その当時はソ連も食糧危機で自国民にすら十分に食料を供給できなかったと聞く)。そのような過酷な受難を生き抜いた義父は、4年前後の捕虜生活から解放されて運よく帰国できたのです。ついでに付け加えますと、義父が生前、私たちと一緒に暮らした和歌山では、近所に同じ境遇(ソ連の捕虜)を生き抜いてきたクニちゃんというオジサンがいて、2人は意気投合して、昼間からでもよく酒を飲んでいました。その義父は真冬でも素足の生活が平気でした。
 さて、中国の姉さんと再会した私たちは、3日ほど近くの公団住宅に泊まることになりました。そして、その間は親戚筋の料理の得意な人が食事を作ってくれました。日本とは当然生活習慣の違う中国のサラリ-マンの集合住宅での生活は、まず給水制限があり、朝の数時間と昼休み時間と夕食時しか水道が使えません。中国の家庭は夫婦共働きが普通で、仕事場での昼休みは2時間あるため、自宅に帰って昼食をとり、昼寝をするのだそうです。私たちが訪れた時期は真夏で、瀋陽は湿度が高く、私たちが「風呂に入りたい」と言うと、住宅街の一角にある小さな風呂場に案内され、洋式の狭い風呂で水浴びをする程度の入浴しかできませんでした。何も知らない私たちは、湿度が高く気持ちが悪いので、毎日風呂を使いましたが、現地の人たちは、何万人住んでいるかわからない広い団地での風呂は共用で数も少なく、市民はみな毎日風呂に入る習慣はなかったのではないかと後で気が付きました。
 瀋陽では、姉や義兄弟、親戚とようやく打ち解けた頃には、お別れをしなければなりませんでした。姉さん夫婦とその子供たちが北京空港まで同伴してくれました。そして、北京空港での別れの宴席で、私は初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになったのです。道具は食卓にあるお皿だけです。それを持つと義父が♪やすき~めいぶつ~♪と歌いだし、その歌に合わせてゆっくりと皿を両手にもってドジョウを救う真似をして踊るのです。そして時折、♪アラ、エッサッサ~♪の掛け声の時には皿を頭の上に乗せる格好で片足を上げて1回転するのです。こんな、たわいない踊りでしたが、中国の兄弟は大喜びでした。少し大げさですが、私はこの経験から、ドジョウスクイは世界でも通用すると実感しました。しかし、いまだに世界の檜(ひのき)舞台で踊ったことは一度もありません。
 さて、すっかり気を良くした私は、茅台酒(マオタイ酒)を飲みすぎて前後不覚となり、いつ飛行機に乗ったのやらわかりません。気が付くと機内は騒然としており、飛行機はよく揺れているのです。そして、その揺れは羽田空港近くまで続いたと思います。しかし最後に無事に着陸した時には、乗客は一斉に拍手を交わして喜び合いました。なぜそんなに感情的になったかと言いますと、この頃は丁度、御巣鷹山日本航空機墜落事故があって1週間もしない時でしたから、激しい揺れで御巣鷹山事故を連想し、恐怖心がわき、パニック寸前のさわぎになったのだと思います。私は、今まで飛行機には10回くらいしか乗っていませんが、揺れたからといって大騒ぎしたのは、後にも先にもこの時だけです。
 そのような出来事からしばらくして、中国の姉さんは夫婦で帰国し、その子供たち(2人の娘さん)も日本で一緒に住むようになり、それから 早くも30年近くが経ちました。姉さんたちは、和歌山の私たちの近くで貧しいながらも幸せに暮らしており、上の娘さん(私の妻の姪)夫婦は、中華料理店で細々と身を立てて暮らしています。
(金原注)西郷さんの奥様の姪御さん夫婦が営んでおられる中華料理店には、西郷さんに連れられて私も何度かおじゃましましたが、とても美味しい料理がリーズナブルな値段で食べられる大衆的なお店でした。
 
少年野球のコーチ、そしていつもヘルメットをかぶっていたH君
IMG_0004(1992年 少年野球最後(6年生)の二男) 中国に家族全員で出かけた2年後の1987年には、二男が小学校2年生となり、少年野球のお世話になるようになりました。それまでにも、妻は長男の頃からPTA(楠見地区では「育友会」と称していました)活動に非常に熱心でしたので、その付き合いの関係で、同じ楠見小学校のグランドを借りて行われている少年野球に誘われたのでしょう。そこへ私までもが駆り出されたのです。私は臼杵での少年時代、中学校から商業高校3年生まで、田舎野球ではありますが、一応6年間野球をやっていましたので、少年野球のコーチなら何とか務まるのではないかと思い、しぶしぶと承諾しました。ところが、実際にやりだすと責任感も出てきて熱心に関わるようになってしまいました。その頃、私は住友金属和歌山製鉄所の職工として3交代勤務でしたから、いつも練習などに出られるわけではありませんでしたが、極力出るように努めました。その時にコーチとして仲良くしていただいたIさんとUさんも、和歌山市内の化学工場に勤めており、私と同じように3交代をしながらコーチとしてお世話をされていました。少年野球の練習は平日もありますので、日中勤務のサラリーマンよりも、かえって3交代勤務の者の方が時間的に融通が利くのです。その点では、清掃事業に勤める職員も午後3時頃には勤務が終わりますので、指導するには時間的にも都合よく、彼らと私たちが主になって運営されました。
 少年野球は、自分の子供のために家族が総出で試合の応援をします。もちろん、私の家族もそうでしたが、一緒にコーチを務めていたIさんには、私の三男と同じ年くらいのH君という息子さんがおり、H君は応援の時、いつもヘルメットをかぶってグランドに来るので、余程野球が好きなのかな?と最初は思っていました。しかし、付き合っていくうちにそうではないことが分かりました。H君がいつもヘルメットをかぶってグランドに来るのは、頭にボールが当たったら困るからです。H君は、物心つく頃から脳腫瘍があることが分かり、それを治療するために頭蓋骨に穴を開けなければならず、そこを保護するための防具としてヘルメットをかぶっていたのです。
IMG_0006(1992年 少年野球の家族と瀬戸大橋巡りの旅館で) 私の家族はIとYさんに特に親しくしていただき、いよいよ少年野球も卒業する頃の秋に、3家族で瀬戸大橋の見物を兼ねて四国への一泊旅行に出かけたのです。その夜の食事の時に、私はあらかじめ用意していた小さなザルを持ち、タオルをかぶり、旅館の寝間着姿のまま、子供たちの前でドジョウスクイを踊ったのです。すると子供たちは大喜びです。もちろんH君も喜んでくれました。そのH君も、中学3年生の時にはかなくこの世を去ってしまいました。今でも、あの時に自己流ながらドジョウスクイを踊って子供たちが喜んでくれたことを思う時、ふとH君のはかない人生を想像してしまいます。
(金原注)1枚目の写真は、1992年、少年野球最後の年(小学校6年生)の西郷さんの息子さん(二男)。
 2枚目は、同じ年、少年野球の3家族が瀬戸大橋巡りの一泊旅行をした際の旅館でドジョウスクイを踊る西郷章さん。

正調・安来節を覚えた中学PTA役員の頃
 安来節には2つの踊りがあります。1つは「女踊り」で、緩やかなテンポで♪出雲~名物~荷物にゃならぬ~♪と歌われ、踊り自体も上品さこそ感じても面白いものではありません。それに比べて「男踊り」は、♪オヤジ~どこ行く~裏の小川に~ドジョ取りに~♪と早いテンポで歌われ、踊りもそれに合わせてリズミカルに腰を振ります。私がこれまで自己流で踊っていた踊りは、「女踊り」の歌に合わせたものでした。そして、ローカルで踊られる一般的な昔からの踊りは、この「女踊り」の歌に合わせて、男が面白おかしく踊るものでした。それに比べて、本場の面白い安来節として覚えようとしたのが、テンポの速い「男踊り」だったのです。
 さて、小学校では少年野球とともに、妻の勧めで早くから育友会(PTA)のコーラス部に入っていました。男性が少ないために一度顔を出すとなかなかやめることができません。小学校育友会のコーラス部に参加する一方で、少年野球でお世話になった二男が中学2年生になる頃には、中学校のPTAの役員も掛け持ちするようになりました。正調・安来節を覚えたのはその頃ではなかったかと思います。ところが、二男と入れ替えに3つ違いの三男が中学に入ると、中学校育友会(PTA)の会長を務める羽目になったのです。楠見中学校は、楠見、楠見西、楠見東の3つの小学校区からなり、中学の育友会長はそれぞれの小学校が輪番制で受け持たねばならないため、会長に一番ふさわしいからとか、なりたいからといってなれるものではありません。たまたま順番が楠見小学校にまわってきて、その条件の中で、それまで2年間、他の役員を務めてきた私が会長にされてしまったのです。そして、会長になったこの頃に、ドジョスクイ(正調・安来節)を初めて育友会の宴会の席などで1~2回は披露したのではないかと思いますが、はっきりと覚えていません。
 私はその後、計3年間楠見中学校の会長を務め、最後の3年目には、和歌山市小中PTA連合会長にされてしまいました。市の会長になりますと、和歌山市は自動的に4人いる県PTА連合会副会長のポストが付いてきます。やはりドジョスクイで一番華やいだのはこの頃でした。宴会の時は必ず引っ張り出され、ある時には和歌山市教育長と一緒に踊ったこともありました。当時の市の教育長は坂口さんという方で、色々芸達者な方でしたが、その中の一つにドジョウスクイがありました。自己流ながらドジョウスクイの名人との評判があり、私はぶっつけ本番で2人踊りをやったのですが、ストーリーなどはなく、めいめいが勝手に踊るのです。ところが坂口さんは、本場安来市で踊った時に、そこの名人から「あなたは胴が長いからドジョウスクイにはピッタリです」と言われただけあって、その巧みな腰つきには唖然とさせられました。この2人踊りが評判となり、瞬く間に5名の女性の役員さんが弟子になってしまったのです。しかも嬉しいことに、皆さんドジョウスクイにはぴったりの美貌ぞろいで私も大満足でした。
IMG_0005(1997年 和歌山市PTA連合会最後の懇親会) いよいよ私のPTA活動も終わろうという時、年に1回の全国大会の開催地が大分県に決まったのです。順番からすれば熊本県のはずでしたが、あろうことか、に熊本県の幹部役員が会費を着服したことが発覚して、急きょ大分県に変わったのです。大分県は私の故郷ですから、こんな運のいいことはありません。何しろ、和歌山という遠いところに18歳で職工として就職し、その地で県PTAの副会長までさせていただき、その最後の年に、一生に一度回ってくるかどうかわからない故郷・大分県で全国大会が行われるわけですから。しかも、幸運はそれだけではありません。その時期、臼杵市の教育長は、私の中学時代に野球部の監督であった村上先生が就任していたため、あらかじめ村上先生に、「和歌山から20名ほどのPTAの役員が臼杵見物をしたいので、名所を紹介していただけないか」とお願いしたところ、快く引き受けてくださり、村上先生直々に、大友宗麟の城下町や、臼杵の石仏などを案内していただくことができました。この時ほど、誇らしく、大船に乗った気持ちになったことはありませんでした。そしてその晩は、ドジョウスクイで皆さんに臼杵の情緒を楽しんでいただいたことは言うまでもありません。ちなみに、この年の日本PTA全国協議会の会長は、なんと臼杵市にある高野山ゆかりの寺・興山寺住職の岡部観栄さん(奥さんは和歌山高野山の人)だったのですから、これも驚きです。かくして、PTA役員を務めた時代は、私のささやかな現場作業員人生の中で、ドジョウスクイのおかげで一番華やいだ頃であったと言えます。
 しかし、楽しかったPTA時代の思い出を語るときに忘れてならないのは、陰で私を支え続けてくださった楠見中学校の当時の校長、坂本晃清(こうせい)先生です。坂本先生は、那智勝浦町の出身で、和歌山大学在学中は、休みになると勝浦に帰り、漁船に乗って近海漁のアルバイトをして学費を稼ぐといった苦学の人で、誠実で温厚な人柄である上に、責任感が強く、部落問題にも良く理解を示し、育友会活動も熱心に指導してくださいました。そのため、私も思い切ってPTA会長の役職を務めることが出来、意気投合した活動の中で義兄弟のような気持すら持ちました。その坂本先生も、停年退職をして何年もしないうちに、それまでの生真面目な性格の心労がたたったのか、早くに亡くなってしまわれました。私は今、原発反対の仲間とともに、毎週金曜日の夕方、関西電力和歌山支店前に立つようになって4年以上になりますが、当初からの仲間に貴志公一さんがおられます。貴志さんと一緒に行動する中で、坂本先生が貴志さんと和歌山大学学芸学部(現教育学部)時代の同期生であることを知りました。その貴志さんからもまた、坂本先生と同様に筋の一本通った頼もしい先輩として、いろいろと教えを受け、楽しく付き合わせていただいていているところです。
(金原注)写真は、1997年、和歌山市小中PTA連合会最後の懇親会で(ちなみに、西郷さんの相方は坂口教育長ではなく、本物の女性だそうです)。
 
カルタ取り「小倉百人一首」の名人、甥の西郷直樹君のこと
 私は5人兄弟の二男で、兄弟の子供たち(甥と姪)が合計13人います。その中で、1人ズバ抜けた頭脳の持ち主がいました。西郷直樹君といって、私より4つ下の弟の子供です。弟夫婦には2人の男の子がおり、大分の公団住宅で生活をしていました。そして、子供たちは、カルタの優れた指導力を持った先生に恵まれて、小学校の頃からカルタに打ち込んでいました。兄の拓也君が小学生の頃からカルタ競技を始めると、弟の直樹君もまだ幼稚園の頃からお母さんとともにそれを熱心に見ていました。そして、すぐさま自分でも競技をするようになりました。その腕前たるや、拓也君は小学生の部、中学生の部で日本一になりました。重い病気をしたこともあり、また学業に専念するために競技を断念しました。弟の直樹君も兄と同じように小学生の部、中学生の部と日本一になり、カルタ界では「西郷兄弟」と言われるようになったそうです。そして高校生の部でも日本一になり、早稲田大学に進学後も大学で日本一になり、カルタ大会では最高峰の名人戦に出場したのです。初挑戦となった1999年の名人戦(五回戦勝負)、二連敗の後に三連勝する大逆転勝利で、ついに史上最年少名人の座に上り詰めたのです。その後、5期連続で名人戦に勝利し、永世(えんせ)名人となり、その後も勝ち続けて連続記録や在位記録などのカルタ会のすべての記録を塗り替えました。
 ここで競技カルタについて説明したいと思います。詳しくはネットで、「百人一首入門」等を検索していただけばわかりますが、ここでは、私が10回以上競技場で観戦した知識なども基にしながら紹介したいと思います。競技カルタは、全数100枚のうちの「取り札」は無作為に50枚を抜き取り、対戦者双方の前に25枚ずつ置きます。そして読み札は100枚あり、読み方は、一回戦ごとに100枚全部を読みます。そして、読み方が最初の一言、二言と読んだときに相手より早く取る技を競うものです。、上の句の一言、二言、場合によっては3つも4つも同じ上の句で始まるものもありますから、競技者は、間違いなく相手より早く取らなければなりません、そこに幾つものルールがあって50枚のうちに先に多くとった方が一回戦の勝ちとなり、普通一試合で三戦を先に取った方が勝者となります。
 カルタ競技のことを知らない人は、十二一重(ひとえ)の着物を着たお姫様が楽しそうに笑いながら遊びに興じている姿を連想するでしょうが、実際は格闘技のようなもので、それは、瞬発力、暗記力、集中力、持続力のすべての体力や気力を必要とします。直樹君の瞬発力について、昔「夕陽のガンマン」か「荒野のガンマン」か忘れましたが、西部劇がはやった頃に、拳銃をホルダーから抜いて引き金を引くまでの時間が、0.3秒とかいう早業が人気になったことがありました。それと同じように、カルタを取る速さも、読み方が上の句を言おうとすると、すでに手が動き、カルタを払いのけるまでの速さが0・3秒なのです。また暗記力は、50枚の取り札を何分間かで暗記したのちに、それを裏返しにして、読み方が読む札を余程の間違いがない限りは、ほぼ50枚全部を当てる暗記力を持っています。集中力のためには試合時間中(場合によっては朝から晩まで)食事は抜いて水しか口にしません。直樹君はそのようなすべての力を駆使して前人未踏の記録を達成することになったのです。
 話をドジョウスクイに戻しますと、直樹君は、早稲田大学時代のカルタ仲間の女性と縁ができ、結婚をすることになりましたが、その東京での結婚披露宴で、私はドジョウスクイを踊ってお祝いしたことがあります。
IMG_0007(2001年 新春大会で3年連続名人(22歳)の頃の直樹君) そうして、彼の記録はその後も止まることを知らず、あまりの強さから、2012年に14年連続優勝したのを機に、自ら名人戦への出場を辞退して身を引きました。私は最後の1~2回は応援に行けなかったものの、それまではほとんど毎年、新年早々、名人戦とクイーン戦が行われる琵琶湖のほとりの近江神宮に応援に駆け付け、彼の偉才を目の当たりにしていました。もし辞めずに続けているなら、恐らく体力的にも技能的にもあと10年くらいは勝ち続けたかもしれません。
 記録を出し続けたその過程では、100年に1度出るか出ないかの偉才の出現を記念して、近江神宮の正門に向かって左横には西郷直樹と名前が刻まれた植樹がなされています。その樹木も今は相当大きくなっているのではないでしょうか。そして今は、忙しい仕事の合間を縫って、母校の早稲田大学での後進の指導や、自分の住む静岡県の子供たちの育成指導にも励んでいると聞きました。
(金原注)写真は、2001年の新春大会で3期連続名人となった22歳の西郷直樹さん。

ドジョウスクイを踊れる幸せ
IMG_0008(2010年 住金職場忘年会) 私は、職工時代には合理化などに反対したため、会社からはあまり好かれていなかったかもしれません。しかし、職場の中では、ドジョウスクイを踊ったり、アコーデオン伴奏をしたおかげで、多くの同僚には好意をもって接してもらうことができたと思っています。
 2000年頃の年の瀬も迫る夕方に、同じ会社で働いていた(職場は全然違います)同期入社のM君がやつれた格好で訪ねてきて、「寒い、今は普通の生活ができていない。」と言ってきたので、自分の着古した防寒着などを与え、ご飯を食べさせて、とりあえず一泊させてあげることにしました。しかし、その日は、泊まりがけの忘年会でしたので、妻に後のことを頼んで宴会場へ行くと、得意なドジョウスクイを踊ってみんなで忘年会を楽しみました。そして、次の日に自宅に帰ると、M君は自分の一別以来の人生を語りながら、「この冬をしのぐのに釜ヶ崎に臨時の宿泊所があり、そこは1万4千円払えば一冬越せるだけ泊まらせてもらえるから金を貸して欲しい。」と言うので、言われるままに金を貸してあげることにしました。すると、「この恩は決して忘れない。金は必ず返しに来ます。」と言って立ち去りました。私は、彼の言うことをほとんど信用していませんでしたから、金は落としたものとしてあきらめました。しかしその時、彼は本当にそう思っていたのか、その後、忘れた頃に手紙が来て、中身をみると熱心な文章で、お礼と必ず約束を守るようなことが書かれていました。しかし、次に彼から電話があったのは、それから1年ほど経った夏の夜中の2時頃のことでした。「今、京都のある駐在所で保護されているので、身元引受人になって欲しい。」との連絡でした。さすがに明日仕事があるのに、夜中の2時に起こされた私は、「いい加減にしてくれ、私は知らない。」と言って電話を切りました。彼はその後どうしているのか、生きているのかどうかも分かりませんが、それきり何も言ってこなくなりました。高校を卒業して九州から集団就職さながらこの地に来て、合理化の波にのまれ、要領を得ずしてあのような人生を送らねばならなかったのは決して彼が悪いわけではなく、私自身にも一つ間違えば起こり得る、誰にでも起こり得る過酷な運命と隣り合わせに生きていることを知らなければならないと思いました。
(金原注)写真は、2010年ころ、職場(住友金属)の忘年会で踊る西郷章さん。

その場その時で臨機応変に踊る
 ドジョウスクイを踊る場所は、その時々により全部違います。ですから、踊る直前にその場を見定めて、あそこではこう踊る、ここはこうすると、あらかじめ自分で計算しておかなければなりません。といっても、踊り自体は基本の動作を4~5回程踊るだけですからきわめて単純です。出来るだけお客さんの近くで、与えられたスペースを計算して踊りの順序を間違えなければ、ほぼうまくいったと言えるでしょう。狭すぎるところ、広すぎるところと色々経験しましましたが、一つ変わった場所で踊ったことをご紹介しましょう。市民運動の仲間で、和歌山の隣りの市で市会議員をやっているОさんの選挙の時でした。
Оさんは、ずいぶん前まではある民間労組の組合長をしており、その時によく歌った『頑張ろう』という歌を出陣式で歌いたいということで、私がアコーデオンで伴奏をすることになったのですが、それだけではなく、事務所の前で私にドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれたのです。なぜドジョウスクイなのかとОさんに聞きましたところ、「ドジョウをスクウ=票をスクウで縁起がいいからです。」との答えが返ってきました。それにしても、私はドジョウスクイをお座敷で踊ったことは何回もありますが、お土敷(砂利の上)で踊るのは初めてです。お座敷ですら、真剣に踊れば、知らないうちに必ず向う脛(すね)のあたりが赤くむくれてしまうのに、石ころだらけの土の上でまともに踊るとどうなるか、経験的、直感的に身の危険を察知しました。そのおかげで、危ないところでは手加減をして怪我をすることなく踊り終えることができたのです。
 そして、その後に嬉しいことがありました。私の踊りを見ていた前の後援会長の奥さんと1週間ぶりに会った時、奥さんは、亡くなられたご主人の仏前で、私の踊りのことを「いいものを見せてもらった」と報告しましたと言ってくれたのです。一見場違いに思えるところでも、そんなに喜んでもらえる人がいたことに、どこで踊っても決して無駄ではないと自信を持ちました。
 その市会議員のОさんから2016年の8月下旬に電話があり、「私の住むI市では、10月初旬に市長選がある。現職は5期20年務めており、これ以上市長をやらせることは市政のマンネリ化に拍車をかけ、市民にとって決して好ましいことではなく、市民の方を向いた政治をするため、また無投票当選を防ぐためにも私が市長選に立候補するからよろしく頼む。」と言ってきました。Оさんが市長選に立候補するのは今回で2度目であり、先日事務所開きに行ってきました。ところが最近になって、「出陣式の時に元気の出る歌なら何でもいいからアコーデオンを引いてくれないか。」という依頼のメールが届きましたので、快く了承したものの、今年の3月、郡山市で開かれた「3.11反原発福島行動’16」で弾いて以来全く触っていなかったので、9月25日の出陣式に向けて慌てて練習をしているところです。今回の出陣式では、「三百六十五歩のマーチ」を歌ってもらおうと思っていますが、残念ながらドジョウスクイはお呼びがかかりませんでした。

福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して
 3・11福島第一原発事故があり、それから1年が過ぎた頃から、今は亡き親友の寺井拓也さんの努力により、福島の被災者の皆さんとの交流が生まれました。そして、そのような関係の中から、「3.11反原発福島行動’14」の会場でドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれることになり、大きな会場で踊ったことのない私は、そのリハーサルも兼ねて、福島(会場は郡山市)での集会の2日前に和歌山城西の丸広場で開催されたイベント(フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション)に出させてもらいました。和歌山では、その後も、“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”という大きなイベントなどでドジョウスクイを踊る機会をいただいたりしています。
飯舘村民仮設住宅を慰問して ところで、2014年3月の反原発福島行動に参加することになった私は、「被災者の皆さんが避難をされている仮設住宅に慰問に行きたい」と現地の友人にお願いしたところ、その希望がかない、アコーデオンとドジョウスクイの道具一式を持参して飯館村の高齢者の皆さんが暮らしておられる仮設住宅を訪問することになりました。その時、目的地に向かうタクシーの中で、運転手さんが話されたことが印象的でした。「ドジョウスクイですか。福島はドジョウがたくさん取れるところです。1時間もしないうちにバケツ一杯も取れます。今でもたくさん取れます。しかし、それを食べることはできません。」ということでした。慰問先の仮設住宅の皆さんは、よく笑ってくれました。しかし、大成功かに見えた慰問でしたが、1つだけ気がかりなことがありました。それは、最後に『故郷(ふるさと)』という歌をみんなで歌ってもらった時のことです。歌詞の3番♪こころざしを果たして~いつの日にか帰らん~♪の歌詞に差しかかりますと、皆さんの声が聞こえなくなったのです。それで私は、「もう一度大きな声で歌いましょう。」と合図をしながら歌ったのですが、なぜあの時に声が途切れたのか、その理由を案内の人に聞きました。するとその人は、「飯館村の人たちは、東電や国が情報を隠して知らせなかったために避難するのが遅れてしまい、その後も毎年もうすぐ帰れると行政に騙され続け、帰れないことを体で知ってしまったのです。だから3番は歌えないのです」と言ったのです。その話を聞いた時には本当にショックを受けました。その後も、希望をなくしたお年寄りは、帰れない故郷のことを思いながら次々に亡くなっていきます。そして政府や行政は、「安心、安全、大丈夫だ。」と言いながら飯館村にも帰還政策を推し進めていますが、この人たちのことを思うときに本当に切ない気持ちになります。
 私はこの10月で古希(満70歳)を迎える年になりました。しかし、世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。
(金原注)写真は、2014年3月、福島県伊達市仮設住宅飯舘村の方が避難)を慰問してドジョウスクイを踊る西郷章さん。
 なお、今のところ私が西郷さんのドジョウスクイを生で見た最後の機会となっているのが“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”です。その写真レポートを私のブログに書いており、西郷さんのステージ(この年は土の上)姿の写真も掲載していますのでご参照ください(写真レポートで振り返る“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”)。
 
天国の親友に捧げたドジョウスクイ
 私は、2015年の暮れから2016年の春にかけて2人の親友を相次いでなくしました。一人は、若いときの職場の同僚で、千葉から和歌山の住友金属に入社した友人でした。彼は、近い将来茨城県の鹿島工場が操業した時に、即戦力となる技術を身につけるために和歌山工場に来たのでした。おとなしい性格の彼とは良く気が合い、私のアパートで一杯飲んだり、お互いの故郷のことなどを語り合い、親しく付き合っていました。
 やがて、彼も鹿島転勤の時が来て、故郷の銚子に帰って行きましたが、それから幾年もしないうちに結婚の知らせがありました。その後、千葉から鹿島まで通っていた彼は、製鉄所の仕事を辞め、近くの個人企業に勤めるようになり、給料は減ったものの家庭は平凡ながら幸せに暮らしていたようです。それから数十年の時を経ても、私たちは、ずっと年賀状だけは自分の近況を書き添えて届け合っていました。そして、2016年の春先に奥さんから「実は主人が昨年末に肺がんが転移して亡くなりました」という手紙が届いたのです。私は、「近いうちにお悔やみに伺います」と約束をして、5月の妻が連休の時に2人で軽自動車に乗って、銚子の犬吠埼(いぬぼうさき)近くのお墓にお参りしてきました。お墓は彼の家のすぐ近くにあり、奥さんは毎日墓参りをしているものの、「それでも急に寂しくなりました」と言っていました。銚子は、私の先祖が遠洋漁業で世話になった特別の思い入れのある土地ですから、そのことのお礼の気持ちも含めて、彼のもとを訪ねることができたことに安堵感を覚えました。
 また、千葉の友人の墓参りに行く前の今年の4月半ば、和歌山では、市民運動仲間から、「田辺の寺井拓也さんが亡くなり、なきがらは病院へ献体するので、それに間に合うようにお悔やみに行きます」という知らせを受け、私も田辺へと駆け付け、少し細くなった彼の安らかな寝顔に接することができました。寺井さんもまた、直腸癌が肺に転移して半年もしないうちに亡くなったのです。
龍神村にて(寺井拓也さん、小笠原厚子さんと) 寺井さんと私は同じ昭和21年生まれですが、寺井さんは早生まれで学年は1つ上ということもあり、年は同じでも能力には大差があり、頼もしい寺井さんの市民運動での活躍に、私はいつも指導される方でした。その私たちが急速に親しくなったのは、2006年から2007年頃で、全国では憲法9条が危ないということで、多くの9条の会が発足した時期でした。その頃以降、私が紀南にゆかりの大逆事件の歴史を調べたり、「さようなら原発1千万署名」を進める上で、寺井さんから貴重な助言を得ることができましたし、9条を守る市民運動でも活発に交流するようになりました。そうした中、特に2人が意気投合して行動を共にするようになったのは、3.11福島第一原発事故から2年半を経た2013年9月に敢行した大間~福島の反原発交流ツァーにおいて、大間(あさこはうす)の小笠原厚子さんや、福島共同診療所の椎名千恵子さんたちと親交を結んだ頃からでした。そのような関係は、寺井さんが亡くなる前年まで続きました。特に2014年の福島訪問の際には、一度は仮設住宅に暮らす避難者の方を慰問したいという私の願いがかない、飯館村の避難者の皆さんが暮らす伊達市仮設住宅にドジョウスクイの道具とアコーデオンを持ち込んで慰問することができました。それらの行動の折に触れ、寺井さんは、「人生60年だ。あとの人生は儲けものだ。」と言われました。そして、70歳まで生きた寺井さんは、その言葉を行動で示すように、儲けた10年間の人生を、人々の平和と幸せのために、市民活動家として一直線に駆け抜けた純粋な人でした。また、謙虚で一本筋の通った寺井さんが無教会派の敬虔なるクリスチャンであることを、亡くなった翌月、「偲ぶ会」が行われる少し前に知りました。寺井さんは、クリスチャンとして明治の日露戦争主戦論に抗して非戦論を唱えた内村鑑三の教えを若い頃から人知れず実践していたのです。そして、私はといえば、中年を迎えてから、内村鑑三とともに万朝報(よろずちょうほう)で非戦論の論陣を張った堺利彦社会主義者)の影響を受けました。万朝報を去った2人の非戦論者がそれぞれの道を歩み、内村と堺の非戦論の影響を受けた私たちが、こうして出会えたのも、偶然にして必然であったのだと思いました。
 2016年5月28日に、寺井さんの地元、和歌山県田辺市の「ララ・ロカレ」で行われた「寺井拓也さんを偲ぶ会」では、私にとって生涯無二の親友であった寺井さんに天国から観てもらうためにドジョウスクイを精一杯踊りました。私は、今後も寺井さんに教わった「儲けた人生」を余すことなく使って、人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたいと思います。
(金原注)写真は、2014年4月、和歌山県田辺市龍神村にて。向かって右から、寺井拓也さん、小笠原厚子さん(あさこはうす)、西郷章さん。
                                         おわり
 

(3回分載時のリード文)
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(前編)
 はじめに
 一時代に繁栄した「突き棒船」とは
 先を見越して運搬船に乗ったオヤジ
 大黒様・恵比寿さんになったオヤジ
 初めての中国でドジョウスクイを踊る
(リード文)「毎週金曜日の夕方6時から7時までの1時間、雨の日も、風の日も、雪の日も(―和歌山はあまり雪は降りませんが)、関西電力和歌山支店前の路上で、静かに脱原発をアピールする人々の姿を見ることができます。そして、よほどのことがない限り、その中には必ず西郷章さんの姿があります。
 また、「憲法を生かす会 和歌山」として、来る10月22日(土)には、和歌山市中央コミセンのキャパ200名の会場で「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」と題した講演会(講師は何と私!)を主催したり(開催予告10/22「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」(講師:金原徹雄弁護士)@和歌山市中央コミセン/2016年9月4日)、11月12日(土)には、ソプラノ歌手・前田佳世さんの和歌山市での初めてのコンサートを企画したりと、少しもじっとしていられない(?)活躍ぶりです。
 その活動ぶりについては、西郷さんご自身のFacebookで活発に発信しておられますが、西郷さんがFacebookを始められるまでの間は、しばしば「メルマガ金原」に寄稿していただいていました。それが、だいたい2011年から2012年にかけての時期だったでしょうか。その頃の西郷さんの文章は、その後、私の最初のブログ(wakaben6888のブログ)に転載しています(巻末にリンクしておきます)。
 その後、西郷さんはすぐさまFacebookに習熟し(動画投稿もお手のもの)、普段の情報発信はもっぱらFacebookを通じて行っておられます。
 けれども、2013年以降も、ほぼ年に1本の割合で、気合いの入った長文の原稿を執筆して「メルマガ金原」(及びブログにも転載)に寄稿してくださっています。以下のとおり。

2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる

※追悼特集の一部として西郷さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』を掲載。
 
 「ほぼ年に1本の割合で」と書きましたが、今年に入ってから執筆意欲が非常に高まったのか、かねて西郷さんから「書きたいと思っています」と予告されていた『ドジョウスクイ半生記』が遂に完成し、今年3本目の原稿として掲載できる運びとなりました。
 西郷さんの得意芸である「ドジョウスクイ」については、西郷さん自身が書かれた上記「3.11反原発福島行動’14」参加記を読んだり、また、折にふれて和歌山のイベントでドジョウスクイを披露された様子を直接見たり、私がレポートした文章を読まれた方も少なくないかもしれません。
 その見本(?)として、「3.11反原発福島行動’14」の2日前の3月9日、和歌山城西の丸広場で開かれた「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」に出演された西郷章さんのステージ写真を掲載した私のブログをご紹介しておきます(「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」を開催しました)。
 けれども、これからご紹介する『ドジョウスクイ半生記』は、西郷さんがまずドジョウスクイを見習ったお父さんの話から始まり、競技カルタの天才と謳われた甥御さんや、満蒙開拓団の一員として満州に渡った奥様のお父様、そして中国残留孤児として取り残され、その後家族との再会を果たして帰国された奥様のお姉様やその家族のお話、さらに、最近の親友との別れまで、ドジョウスクイを通じて自分と周囲の人々との交流を振り返る本格的な自伝となっており、いままで以上に読み応えがあります。それに応じて分量もかなりのものとなりましたので、前編・中編・後編の3回分載とさせていただくことにしました。
 前編の今回は、大分県臼杵(うすき)市で漁師として働き、その後、家族で海運業を営んだお父様を中心としたお話と、西郷さんが住友金属和歌山製鉄所で働くようになってから結婚された奥様のお父様や、中国に残されたお姉様のお話が中心で、そこにドジョウスクイのお話も散りばめられています。何しろ、奥様のお姉様と会うために中国を訪問した際の北京空港での別れの宴席で、「初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになった」というのですから。」
 
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)
 少年野球のコーチ、そしていつもヘルメットをかぶっていたH君
 正調・安来節を覚えた中学PTA役員の頃
 カルタ取り「小倉百人一首」の名人、甥の西郷直樹君のこと
(リード文)「西郷章さんの大作『ドジョウスクイ半生記』の中編をお届けします。3人の息子さんにめぐまれた西郷さんは、PTA活動に熱心であった奥様の影響もあり、少年野球チームのコーチ、PTAコーラスへの参加、さらにPTAの役員(和歌山市小中PTA連合会会長、和歌山県PTA連合会副会長まで)を務めながら、様々な場でドジョウスクイを披露していくことになります。
 さらに、ドジョウスクイとの関連はあまりないものの、競技かるたの世界で不世出の天才と謳われる永世名人(社団法人全日本かるた協会認定)西郷直樹さんが、西郷さんの甥(弟さんの息子)であることが明かされます。ちなみに、Wikipediaにも「西郷直樹」という項目がありました。
 少年野球を通じて交流のあった少年(H君)にドジョウスクイを見てもらえた思い出など、印象深いエピソードにもご注目ください。」
 
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)
 ドジョウスクイを踊れる幸せ
 その場その時で臨機応変に踊る
 福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して
 天国の親友に捧げたドジョウスクイ
(リード文)「西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)をお届けします。いよいよ最終編となる今回は、今まで以上に「ドジョウスクイと人生」が語られています。
 実は、西郷さんから最初にお届けいただいた『ドジョウスクイ半生記』の原稿には、「ドジョウスクイは平和の踊り」という小見出しのついたパートがありました。非常に魅力的なキャッチフレーズではあったのですが、本文の内容と符合しておらず、まことに「惜しい」と思いながら、別の小見出しに変更しました。
 私自身、西郷さんによるドジョウスクイの実演を拝見したのは全部で3回、会場は全て和歌山城西の丸広場でした。
 2014年3月9日 「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」
 2014年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”
 2015年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”
西郷章さん(ハッピーバースデイ憲法2014) 本来、お座敷芸として発展したドジョウスクイを踊るのにふさわしい会場とはとても言えない広いところで、それでも西郷さんが果敢に踊られたのは、「世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。」(本稿「福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して」より)という決意があったからでしょう。
 本稿が、今年の5月、「寺井拓也さんを偲ぶ会」での、平和・人権・脱原発に尽力して先立った亡き親友に捧げるドジョウスクイで締めくくられたのも、まことに感慨深いものがあります。
 私も、微力ながら、西郷さんとともに「人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたい」という思いや切なるものがありますし、本稿を最後まで読んでくださった多くの方も同じ思いを共有してくださるものと信じます。
(金原注)写真は、2014年の憲法記念日和歌山城西の丸広場の特設ステージでドジョウスクイを踊る西郷章さん(“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”にて/撮影:金原)。ドジョウスクイの写真にしては「凜々し過ぎる」かもしれませんが、西郷さんの平和にかける熱い思いの表れでしょう(もしかしたら、痛風の痛みをこらえていたからかもしれませんが)。
 

(「メルマガ金原」から後日「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)

2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します

2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)

2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)

2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』
 
(「メルマガ金原」から即日「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる

※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。


第192回国会(臨時会)開会の日に「異様な光景」を見た~今後の「改憲論議」に注目!

憲法 政治
 今晩(2016年9月26日)配信した「メルマガ金原No.2581」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
第192回国会(臨時会)開会の日に「異様な光景」を見た~今後の「改憲論議」に注目!

 本日(2016年9月26日)、第192回国会(臨時会)が召集されました。会期は11月30日までの66日間です。
 報道等では「臨時国会」と言い習わされていますが、憲法上、国会法上は「臨時会」という用語が使用されています。
 ちなみに、「第192回」というのは、日本国憲法の施行(1947年5月3日)以降に召集された19
2回目の国会(常会、臨時会または特別会)という意味です。
※注「国会会期一覧」衆議院ホームページより)

 なお、雑学風に説明を加えれば、「召集」というのは、「召し集める」(目上の者からの呼び出し・お召し)という語意から、同じような意味で使われる「招集」との使い分けが難しいのですが、国会「召集」については、「招集」では明らかに間違いです。
 典拠は、日本国憲法7条2号の「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。(略)二 国会を召集すること。」です。
 さらに、この規定の淵源は、大日本帝国憲法7条「天皇帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス」にまで遡ります。
 つまり、国会が活動能力を付与されるためには、第三者たる天皇による「召集」という(内閣の助言と
承認に基づく)「国事行為」が必要とされているのです。もちろん、「召集」というような行為を必要とせず、国会が自立的に活動できるようにしようと思えばできますが、そのためには憲法改正が必要です。
 雑学ついでに、地方議会はどうなっているかと言えば、「普通地方公共団体の議会は、普通地方公共団体の長がこれを招集する。」(地方自治法101条)とあり、「召集」ではなく、「招集」という用語が使用されています。
 NHKの放送では、「召集」は「日本の国会、旧日本軍に限定」して使用し、その他の場合には(例えば、米国が予備役を「招集」するというような)「招集」を使うという方針ということですが(NHK放送文化研究所「放送現場の疑問・視聴者の疑問」)、「召集」を使用するのは、いずれも天皇が「召す」
場合であり、さすがにこれを「招集」と言い換えるのははばかられるということかもしれません。
 
 会期は、とりあえず11月30日までと定められましたが、国会法12条は、「1項 国会の会期は、両議院一致の議決で、これを延長することができる。/2項 会期の延長は、常会にあつては一回、特別会及び臨時会にあつては二回を超えてはならない。」とありますので、もちろん会期延長の可能性もあります。
 
 ところで、秋の臨時会(春の臨時会というのはまずないですね。1月に召集するのを「常例」とする常会の会期が150日と法定されていますから)といえば、昨年、安倍内閣が、「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」(日本国憲法53条)という明文の規定に違反して、臨時会の召集を決定しなかったことが思い出されます。
※注 弁護士・金原徹雄のブログ「憲法53条後段に基づく臨時会召集要求と国会の先例について」(2015年10月21日)を参照願います。
 
 さて、私が長々とした前置きを書き連ねながら、臨時会召集の話題を取り上げたのは、先の参院選の結果、衆参両院で改憲に前向きな政治勢力が2/3以上の多数を占めるという事態が現実のものとなって以降、初めて召集された国会であり、そこで改憲論議がどのように進められようとしているのか、重大な関心を持たざるを得ないからです。
 さらに、個人的な事情を付け加えると、10月6日(木)にクローズの学習会で、また、10月22日
(土)には公開講演会(午後2時~/和歌山市・中央コミセン/主催:憲法を生かす会 和歌山)で、改憲の動向を主要なテーマとした講演の講師を務めなければならず、レジュメを書くためにも、安倍晋三首相の「所信表明演説」の内容や、両院の憲法審査会の状況をフォローしなければならないという差し迫った必要もあるからです(「施政方針演説」は常会冒頭で行われる首相の演説を指し、臨時会や特別会冒頭での首相の演説は「所信表明演説」と称するのが普通)。
 
 ということで、首相官邸ホームページに掲載された安倍首相の所信表明演説の原稿全文を読破しました。上記のような必要に迫られなければ、とても読む気になるような文章ではないですけどね。
 なお、首相が原稿を良好ならぬ滑舌で読み上げる動画の視聴は省略しようと思っていたのですが、たまたま朝日新聞デジタルで以下の記事を読み、該当箇所だけは確認のために視聴しました。
 
朝日新聞デジタル 2016年9月26日17時21分
首相の呼びかけで自民議員が起立・拍手 衆院議長は注意

(抜粋引用開始)
 安倍晋三首相が26日の衆院本会議で行った所信表明演説で、領土や領海、領空の警備に当たっている海上保安庁、警察、自衛隊をたたえた際、安倍氏に促された自民党の議員たちが一斉に立ち上がって手をたたき続けたため、約10秒間、演説が中断した。大島理森議長は「ご着席下さい」と議員らを注意した

 安倍氏は演説で「現場では夜を徹し、今この瞬間も海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が任務に当たっている」と強調。「今この場所から、心からの敬意を表そうではありませんか」と呼びかけた。これに自民
議員らが呼応して起立。安倍首相も壇上で拍手をした。
(引用終わり)
 
 政府インターネットテレビの中継では、26分以降でこの「異様な光景」(小沢一郎氏談)が見られます。この光景を見て「異様」と思わない人たちが自民党に投票しているのでしょうか。日本の「北朝鮮化」の勢いは止まりませんね。
 
 さて、肝心の所信表明演説ですが、「憲法改正」について触れたのは、末尾の以下の箇所です。
 
憲法はどうあるべきか。日本が、これから、どういう国を目指すのか。それを決めるのは政府ではありません。国民です。そして、その案を国民に提示するのは、私たち国会議員の責任であります。与野党立場を超え、憲法審査会での議論を深めていこうではありませんか。
 決して思考停止に陥ってはなりません。互いに知恵を出し合い、共に「未来」への橋を架けようではありませんか。」
 
 論評の対象とするにしては短か過ぎますが、それでも、文句をつけようと思えばつけられます。例えば、所信表明演説というのは内閣の代表者として行うものであって、与党の代表者として行うものではないのですから、「与野党の立場を超え、憲法審査会での議論を深め」ようという呼びかけは本来筋違いであり、憲法99条の「憲法尊重擁護義務」に抵触する恐れもなしとしません。
 また、「思考停止」というのは、「改憲反対」の立場を暗に指すとも解釈でき、国民のうちに多数存在
する「護憲派」に対するあからさまな侮辱であり、挑発であるという読み方もできます。
 
 さて、議論の主要な舞台は、両院に設置された憲法審査会となります。当面、その審議の動向には注意を怠らないようにしなければなりませんので、それぞれのホームページにリンクしておきます。是非皆さんも注目してください。
 


(付録)
Bob Dylan ライセンス・トゥ・キル の替え歌』 日本語詞・演奏:中川五郎
  

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)

文学 文化
 今晩(2016年9月25日)配信した「メルマガ金原No.2580」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)

 西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)をお届けします。いよいよ最終編となる今回は、今まで以上に「ドジョウスクイと人生」が語られています。
 実は、西郷さんから最初にお届けいただいた『ドジョウスクイ半生記』の原稿には、「ドジョウスクイは平和の踊り」という小見出しのついたパートがありました。非常に魅力的なキャッチフレーズではあったのですが、本文の内容と符合しておらず、まことに「惜しい」と思いながら、別の小見出しに変更しました。
 私自身、西郷さんによるドジョウスクイの実演を拝見したのは全部で3回、会場は全て和歌山城西の丸広場でした。
2014年3月9日 「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」
2014年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”
2015年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”
西郷章さん(ハッピーバースデイ憲法2014) 本来、お座敷芸として発展したドジョウスクイを踊るのにふさわしい会場とはとても言えない広いところで、それでも西郷さんが果敢に踊られたのは、「世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。」(本稿「福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して」より)という決意があったからでしょう。
 本稿が、今年の5月、「寺井拓也さんを偲ぶ会」での、平和・人権・脱原発に尽力して先立った亡き親友に捧げるドジョウスクイで締めくくられたのも、まことに感慨深いものがあります。
 私も、微力ながら、西郷さんとともに「人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたい」という思いや切なるものがありますし、本稿を最後まで読んでくださった多くの方も同じ思いを共有してくださるものと信じます。
(金原注)写真は、2014年の憲法記念日和歌山城西の丸広場の特設ステージでドジョウスクイを踊る西郷章さん(“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”にて/撮影:金原)。ドジョウスクイの写真にしては「凜々し過ぎる」かもしれませんが、西郷さんの平和にかける熱い思いの表れでしょう(もしかしたら、痛風の痛みをこらえていたからかもしれませんが)。


(中編)からの続き
 
         ドジョウスクイ半生記(後編)
            
                                     西 郷   章 
 
ドジョウスクイを踊れる幸せ
 私は、職工時代には合理化などに反対したため、会社からはあまり好かれていなかったかもしれません。しかし、職場の中では、ドジョウスクイを踊ったり、アコーデオン伴奏をしたおかげで、多くの同僚には好意をもって接してもらうことができたと思っています。
IMG_0008(2010年 住金職場忘年会) 2000年頃の年の瀬も迫る夕方に、同じ会社で働いていた(職場は全然違います)同期入社のM君がやつれた格好で訪ねてきて、「寒い、今は普通の生活ができていない。」と言ってきたので、自分の着古した防寒着などを与え、ご飯を食べさせて、とりあえず一泊させてあげることにしました。しかし、その日は、泊まりがけの忘年会でしたので、妻に後のことを頼んで宴会場へ行くと、得意なドジョウスクイを踊ってみんなで忘年会を楽しみました。そして、次の日に自宅に帰ると、M君は自分の一別以来の人生を語りながら、「この冬をしのぐのに釜ヶ崎に臨時の宿泊所があり、そこは1万4千円払えば一冬越せるだけ泊まらせてもらえるから金を貸して欲しい。」と言うので、言われるままに金を貸してあげることにしました。すると、「この恩は決して忘れない。金は必ず返しに来ます。」と言って立ち去りました。私は、彼の言うことをほとんど信用していませんでしたから、金は落としたものとしてあきらめました。しかしその時、彼は本当にそう思っていたのか、その後、忘れた頃に手紙が来て、中身をみると熱心な文章で、お礼と必ず約束を守るようなことが書かれていました。しかし、次に彼から電話があったのは、それから1年ほど経った夏の夜中の2時頃のことでした。「今、京都のある駐在所で保護されているので、身元引受人になって欲しい。」との連絡でした。さすがに明日仕事があるのに、夜中の2時に起こされた私は、「いい加減にしてくれ、私は知らない。」と言って電話を切りました。彼はその後どうしているのか、生きているのかどうかも分かりませんが、それきり何も言ってこなくなりました。高校を卒業して九州から集団就職さながらこの地に来て、合理化の波にのまれ、要領を得ずしてあのような人生を送らねばならなかったのは決して彼が悪いわけではなく、私自身にも一つ間違えば起こり得る、誰にでも起こり得る過酷な運命と隣り合わせに生きていることを知らなければならないと思いました。
(金原注)写真は、2010年ころ、職場(住友金属)の忘年会で踊る西郷章さん。

その場その時で臨機応変に踊る
 ドジョウスクイを踊る場所は、その時々により全部違います。ですから、踊る直前にその場を見定めて、あそこではこう踊る、ここはこうすると、あらかじめ自分で計算しておかなければなりません。といっても、踊り自体は基本の動作を4~5回程踊るだけですからきわめて単純です。出来るだけお客さんの近くで、与えられたスペースを計算して踊りの順序を間違えなければ、ほぼうまくいったと言えるでしょう。狭すぎるところ、広すぎるところと色々経験しましましたが、一つ変わった場所で踊ったことをご紹介しましょう。市民運動の仲間で、和歌山の隣りの市で市会議員をやっているОさんの選挙の時でした。
Оさんは、ずいぶん前まではある民間労組の組合長をしており、その時によく歌った『頑張ろう』という歌を出陣式で歌いたいということで、私がアコーデオンで伴奏をすることになったのですが、それだけではなく、事務所の前で私にドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれたのです。なぜドジョウスクイなのかとОさんに聞きましたところ、「ドジョウをスクウ=票をスクウで縁起がいいからです。」との答えが返ってきました。それにしても、私はドジョウスクイをお座敷で踊ったことは何回もありますが、お土敷(砂利の上)で踊るのは初めてです。お座敷ですら、真剣に踊れば、知らないうちに必ず向う脛(すね)のあたりが赤くむくれてしまうのに、石ころだらけの土の上でまともに踊るとどうなるか、経験的、直感的に身の危険を察知しました。そのおかげで、危ないところでは手加減をして怪我をすることなく踊り終えることができたのです。
 そして、その後に嬉しいことがありました。私の踊りを見ていた前の後援会長の奥さんと1週間ぶりに会った時、奥さんは、亡くなられたご主人の仏前で、私の踊りのことを「いいものを見せてもらった」と報告しましたと言ってくれたのです。一見場違いに思えるところでも、そんなに喜んでもらえる人がいたことに、どこで踊っても決して無駄ではないと自信を持ちました。
 その市会議員のОさんから2016年の8月下旬に電話があり、「私の住むI市では、10月初旬に市長選がある。現職は5期20年務めており、これ以上市長をやらせることは市政のマンネリ化に拍車をかけ、市民にとって決して好ましいことではなく、市民の方を向いた政治をするため、また無投票当選を防ぐためにも私が市長選に立候補するからよろしく頼む。」と言ってきました。Оさんが市長選に立候補するのは今回で2度目であり、先日事務所開きに行ってきました。ところが最近になって、「出陣式の時に元気の出る歌なら何でもいいからアコーデオンを引いてくれないか。」という依頼のメールが届きましたので、快く了承したものの、今年の3月、郡山市で開かれた「3.11反原発福島行動’16」で弾いて以来全く触っていなかったので、9月25日の出陣式に向けて慌てて練習をしているところです。今回の出陣式では、「三百六十五歩のマーチ」を歌ってもらおうと思っていますが、残念ながらドジョウスクイはお呼びがかかりませんでした。
 
福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して
 3・11福島第一原発事故があり、それから1年が過ぎた頃から、今は亡き親友の寺井拓也さんの努力により、福島の被災者の皆さんとの交流が生まれました。そして、そのような関係の中から、「3.11反原発福島行動’14」の会場でドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれることになり、大きな会場で踊ったことのない私は、そのリハーサルも兼ねて、福島(会場は郡山市)での集会の2日前に和歌山城西の丸広場で開催されたイベント(フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション)に出させてもらいました。和歌山では、その後も、“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”という大きなイベントなどでドジョウスクイを踊る機会をいただいたりしています。
飯舘村民仮設住宅を慰問して ところで、2014年3月の反原発福島行動に参加することになった私は、「被災者の皆さんが避難をされている仮設住宅に慰問に行きたい」と現地の友人にお願いしたところ、その希望がかない、アコーデオンとドジョウスクイの道具一式を持参して飯館村の高齢者の皆さんが暮らしておられる仮設住宅を訪問することになりました。その時、目的地に向かうタクシーの中で、運転手さんが話されたことが印象的でした。「ドジョウスクイですか。福島はドジョウがたくさん取れるところです。1時間もしないうちにバケツ一杯も取れます。今でもたくさん取れます。しかし、それを食べることはできません。」ということでした。慰問先の仮設住宅の皆さんは、よく笑ってくれました。しかし、大成功かに見えた慰問でしたが、1つだけ気がかりなことがありました。それは、最後に『故郷(ふるさと)』という歌をみんなで歌ってもらった時のことです。歌詞の3番♪こころざしを果たして~いつの日にか帰らん~♪の歌詞に差しかかりますと、皆さんの声が聞こえなくなったのです。それで私は、「もう一度大きな声で歌いましょう。」と合図をしながら歌ったのですが、なぜあの時に声が途切れたのか、その理由を案内の人に聞きました。するとその人は、「飯館村の人たちは、東電や国が情報を隠して知らせなかったために避難するのが遅れてしまい、その後も毎年もうすぐ帰れると行政に騙され続け、帰れないことを体で知ってしまったのです。だから3番は歌えないのです」と言ったのです。その話を聞いた時には本当にショックを受けました。その後も、希望をなくしたお年寄りは、帰れない故郷のことを思いながら次々に亡くなっていきます。そして政府や行政は、「安心、安全、大丈夫だ。」と言いながら飯館村にも帰還政策を推し進めていますが、この人たちのことを思うときに本当に切ない気持ちになります。
 私はこの10月で古希(満70歳)を迎える年になりました。しかし、世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。
(金原注)写真は、2014年3月、福島県伊達市仮設住宅飯舘村の方が避難)を慰問してドジョウスクイを踊る西郷章さん。
 なお、今のところ私が西郷さんのドジョウスクイを生で見た最後の機会となっているのが“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”です。その写真レポートを私のブログに書いており、西郷さんのステージ(この年は土の上)姿の写真も掲載していますのでご参照ください(写真レポートで振り返る“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”)。
 
天国の親友に捧げたドジョウスクイ
 私は、2015年の暮れから2016年の春にかけて2人の親友を相次いでなくしました。一人は、若いときの職場の同僚で、千葉から和歌山の住友金属に入社した友人でした。彼は、近い将来茨城県の鹿島工場が操業した時に、即戦力となる技術を身につけるために和歌山工場に来たのでした。おとなしい性格の彼とは良く気が合い、私のアパートで一杯飲んだり、お互いの故郷のことなどを語り合い、親しく付き合っていました。
 やがて、彼も鹿島転勤の時が来て、故郷の銚子に帰って行きましたが、それから幾年もしないうちに結婚の知らせがありました。その後、千葉から鹿島まで通っていた彼は、製鉄所の仕事を辞め、近くの個人企業に勤めるようになり、給料は減ったものの家庭は平凡ながら幸せに暮らしていたようです。それから数十年の時を経ても、私たちは、ずっと年賀状だけは自分の近況を書き添えて届け合っていました。そして、2016年の春先に奥さんから「実は主人が昨年末に肺がんが転移して亡くなりました」という手紙が届いたのです。私は、「近いうちにお悔やみに伺います」と約束をして、5月の妻が連休の時に2人で軽自動車に乗って、銚子の犬吠埼(いぬぼうさき)近くのお墓にお参りしてきました。お墓は彼の家のすぐ近くにあり、奥さんは毎日墓参りをしているものの、「それでも急に寂しくなりました」と言っていました。銚子は、私の先祖が遠洋漁業で世話になった特別の思い入れのある土地ですから、そのことのお礼の気持ちも含めて、彼のもとを訪ねることができたことに安堵感を覚えました。
 また、千葉の友人の墓参りに行く前の今年の4月半ば、和歌山では、市民運動仲間から、「田辺の寺井拓也さんが亡くなり、なきがらは病院へ献体するので、それに間に合うようにお悔やみに行きます」という知らせを受け、私も田辺へと駆け付け、少し細くなった彼の安らかな寝顔に接することができました。寺井さんもまた、直腸癌が肺に転移して半年もしないうちに亡くなったのです。
龍神村にて(寺井拓也さん、小笠原厚子さんと) 寺井さんと私は同じ昭和21年生まれですが、寺井さんは早生まれで学年は1つ上ということもあり、年は同じでも能力には大差があり、頼もしい寺井さんの市民運動での活躍に、私はいつも指導される方でした。その私たちが急速に親しくなったのは、2006年から2007年頃で、全国では憲法9条が危ないということで、多くの9条の会が発足した時期でした。その頃以降、私が紀南にゆかりの大逆事件の歴史を調べたり、「さようなら原発1千万署名」を進める上で、寺井さんから貴重な助言を得ることができましたし、9条を守る市民運動でも活発に交流するようになりました。そうした中、特に2人が意気投合して行動を共にするようになったのは、3.11福島第一原発事故から2年半を経た2013年9月に敢行した大間~福島の反原発交流ツァーにおいて、大間(あさこはうす)の小笠原厚子さんや、福島共同診療所の椎名千恵子さんたちと親交を結んだ頃からでした。そのような関係は、寺井さんが亡くなる前年まで続きました。特に2014年の福島訪問の際には、一度は仮設住宅に暮らす避難者の方を慰問したいという私の願いがかない、飯館村の避難者の皆さんが暮らす伊達市仮設住宅にドジョウスクイの道具とアコーデオンを持ち込んで慰問することができました。それらの行動の折に触れ、寺井さんは、「人生60年だ。あとの人生は儲けものだ。」と言われました。そして、70歳まで生きた寺井さんは、その言葉を行動で示すように、儲けた10年間の人生を、人々の平和と幸せのために、市民活動家として一直線に駆け抜けた純粋な人でした。また、謙虚で一本筋の通った寺井さんが無教会派の敬虔なるクリスチャンであることを、亡くなった翌月、「偲ぶ会」が行われる少し前に知りました。寺井さんは、クリスチャンとして明治の日露戦争主戦論に抗して非戦論を唱えた内村鑑三の教えを若い頃から人知れず実践していたのです。そして、私はといえば、中年を迎えてから、内村鑑三とともに万朝報(よろずちょうほう)で非戦論の論陣を張った堺利彦社会主義者)の影響を受けました。万朝報を去った2人の非戦論者がそれぞれの道を歩み、内村と堺の非戦論の影響を受けた私たちが、こうして出会えたのも、偶然にして必然であったのだと思いました。
 2016年5月28日に、寺井さんの地元、和歌山県田辺市の「ララ・ロカレ」で行われた「寺井拓也さんを偲ぶ会」では、私にとって生涯無二の親友であった寺井さんに天国から観てもらうためにドジョウスクイを精一杯踊りました。私は、今後も寺井さんに教わった「儲けた人生」を余すことなく使って、人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたいと思います。
(金原注)写真は、2014年4月、和歌山県田辺市龍神村にて。向かって右から、寺井拓也さん、小笠原厚子さん(あさこはうす)、西郷章さん。
                                            おわり
 

(「メルマガ金原」から後日「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)
2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)
2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)
2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』
 
(「メルマガ金原」から即日「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる
※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。
2016年9月22日
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(前編)
2016年9月23日
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)

映画『レジスタンスなう』制作協力感謝試写会(9/22@京都市)での川口真由美さんの歌声を聴いて元気を貰う

映画 音楽
 今晩(2016年9月24日)配信した「メルマガ金原No.2579」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
映画『レジスタンスなう』制作協力感謝試写会(9/22@京都市)での川口真由美さんの歌声を聴いて元気を貰う

 ドキュメンタリー映画『レジスタンスなう!』といっても、観た人はほとんどいないはずです。一昨日(9月22日)、京都市の「ひと・まち交流館京都」2F大会議室で「制作協力感謝試写会」が開かれたばかりですし、ネット検索しても、映画製作委員会の公式サイトも、映画自体の予告編も見当たりませんから。
 実は、上記「制作協力感謝試写会」における監督の原田圭輔氏による挨拶や、この映画の中心を担って出演している(と推測される)シンガーソングライターの川口真由美さんによる挨拶と演奏が、IWJ京都によって中継され、その動画アーカイブが視聴できることに気がつき、私も初めてこのような映画が作られたことを知ったのです。
 何しろ、予告編すら観ていないのですから、映画の評価を云々することは全く不可能ですが、私としては、こういう映画が作られたということ自体、心にとどめるべきという直感が働き、今日のメルマガ(ブログ)に取り上げることにしたものです。
 
 まず、一昨日の「『レジスタンスなう』制作協力感謝試写会」のFacebookイベントページから、この映画の成り立ちや概要を説明した部分を引用してみます。

(引用開始)
レジスタンスなう】
「この歌は届きますか?」
 2014年夏、沖縄・辺野古を訪ねたシンガーソングライター川口真由美は、その美しい自然、基地建設反対を貫き座り込む人々の深い心に出会い感動。以来、ほぼ毎月辺野古を訪ね、人々を歌で励まし「絆」を深めてきた。―
 その中で、辺野古の基地建設反対運動のリーダー・山城博治さんとの出会いは彼女にとっての大きな転機だった。
 2014年12月、京都府経ヶ岬(きょうがみさき)で地元住民の反対を押し切り新たな米軍のXバンドレーダー基地が建設された。防衛相は安心安全を謳うが、住民たちは十分な説明もないままに標的にされるかもしれない恐怖や見えない電磁波の影響などに怯えながら暮らしている。抗いながら立ち向かう人々がいる。
 この映画は川口真由美と彼女を取り巻く彼ら彼女らの平和への想い、叫び、歌声に焦点をあて「レジスタンスなう!」とまさに今権力に立ち向かっている人々の姿を映し出す事で、沖縄辺野古基地問題、また、世間にあまり知られていない京丹後Xバンドレーダー基地問題を浮き彫りにする。
 さらに、彼女達の等身大の日常を生き生きと描くことで、平和への運動が特別な事ではなく、この国に住むすべての人々に平等に与えられた権利であり、自分たちの生活に密接する大きな問題であることを視聴者に問う。この映画の製作・上映運動が、全国の平和を求めて闘う人々の連帯の輪を広め、強くすることを願って―
長編ドキュメンタリー映画(70分)
原田圭輔初監督作品
レジスタンスなう』(『炎の歌姫』改題)
(引用終わり)
 
 そういえば、IWJは、【京丹後「Xバンドレーダー」配備問題】について、継続して追跡取材を積み重ねていましたからね。今回の「『レジスタンスなう』制作協力感謝試写会」中継も、その流れの一環なのかもしれません。
 以下に、IWJの中継動画アーカイブをご紹介します。
 
「レジスタンスなう!」制作協力感謝試写会における原田圭輔監督挨拶、川口真由美氏(シンガソングライター)挨拶・演奏 2016.9.22
2分~ 「レジスタンスなう!」映画製作実行委員会代表挨拶 大湾宗則氏
7分~ 監督挨拶 原田圭輔氏
(試写会/これは中継されません、もちろん)
14分~49分 挨拶・演奏 川口真由美氏(シンガソングライター)
 18分~『美しき五月のパリ』
 23分~『悲しみから生まれた平和への道』(オリジナル)
 28分~『ケサラ』
 33分~『安里屋ユンタ
 39分~『戦争は絶対にしない』(?オリジナル)
 45分~『翼をください
 
 5曲目の曲名は正直「聞き取れた」という自信がありません。ちなみに、2曲目については、YouTubeに『悲しみから生まれた平和の道』と表記された録画がアップされたりしていますが、どう考えても『平和への道』の方が適切だろうと思います(私は作者ではありませんが)。
 YouTubeには、川口真由美さんの様々な演奏がアップされていますが、ここでは2つだけご紹介します。
 1つは、2014年8月22日の夜、キャンプ・シュワブゲート前での「ナイトライブ」です。
 
キャンプ・シュワブゲート前ナイトライブ(一部手話あり) (2014年8月22日 沖縄県名護市辺野古)(12分47秒)

 
冒頭~ 翼をください
 3分57秒~ ケサラ
 7分30秒~ 故郷
 9分34秒~ 美童しまうた
 
 最後にもう1曲。フランスの抵抗歌として名高い『オラシャヤーン』の日本語版(というのがあったんだ!)を川口真由美さんが歌っています。これはいいですね。
 
オラシャヤーン! 日本語歌詞 On lache rien, version japonaise/ 歌:川口真由美
 

 第1部が映画『レジスタンスなう』上映、第2部が川口真由美さんコンサートという企画、どこか考えてみませんか?
 

(付録)
『HK & Les Saltimbanks "On lâche rien" (Japanese subtitles) あきらめないぞ』
 

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)

文学 文化
 今晩(2016年9月23日)配信した「メルマガ金原No.2578」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)

 西郷章さんの大作『ドジョウスクイ半生記』の中編をお届けします。3人の息子さんにめぐまれた西郷さんは、PTA活動に熱心であった奥様の影響もあり、少年野球チームのコーチ、PTAコーラスへの参加、さらにPTAの役員(和歌山市小中PTA連合会会長、和歌山県PTA連合会副会長まで)を務めながら、様々な場でドジョウスクイを披露していくことになります。
 さらに、ドジョウスクイとの関連はあまりないものの、競技かるたの世界で不世出の天才と謳われる永世名人(社団法人全日本かるた協会認定)西郷直樹さんが、西郷さんの甥(弟さんの息子)であることが明かされます。ちなみに、Wikipediaにも「西郷直樹」という項目がありました。
 少年野球を通じて交流のあった少年(H君)にドジョウスクイを見てもらえた思い出など、印象深いエピソードにもご注目ください。
 

(前編)からの続き
 
                 ドジョウスクイ半生記(中編)
            
                                                             西 郷   章 
 
少年野球のコーチ、そしていつもヘルメットをかぶっていたH君
IMG_0004(1992年 少年野球最後(6年生)の二男) 中国に家族全員で出かけた2年後の1987年には、二男が小学校2年生となり、少年野球のお世話になるようになりました。それまでにも、妻は長男の頃からPTA(楠見地区では「育友会」と称していました)活動に非常に熱心でしたので、その付き合いの関係で、同じ楠見小学校のグランドを借りて行われている少年野球に誘われたのでしょう。そこへ私までもが駆り出されたのです。私は臼杵での少年時代、中学校から商業高校3年生まで、田舎野球ではありますが、一応6年間野球をやっていましたので、少年野球のコーチなら何とか務まるのではないかと思い、しぶしぶと承諾しました。ところが、実際にやりだすと責任感も出てきて熱心に関わるようになってしまいました。その頃、私は住友金属和歌山製鉄所の職工として3交代勤務でしたから、いつも練習などに出られるわけではありませんでしたが、極力出るように努めました。その時にコーチとして仲良くしていただいたIさんとUさんも、和歌山市内の化学工場に勤めており、私と同じように3交代をしながらコーチとしてお世話をされていました。少年野球の練習は平日もありますので、日中勤務のサラリーマンよりも、かえって3交代勤務の者の方が時間的に融通が利くのです。その点では、清掃事業に勤める職員も午後3時頃には勤務が終わりますので、指導するには時間的にも都合よく、彼らと私たちが主になって運営されました。
 少年野球は、自分の子供のために家族が総出で試合の応援をします。もちろん、私の家族もそうでしたが、一緒にコーチを務めていたIさんには、私の三男と同じ年くらいのH君という息子さんがおり、H君は応援の時、いつもヘルメットをかぶってグランドに来るので、余程野球が好きなのかな?と最初は思っていました。しかし、付き合っていくうちにそうではないことが分かりました。H君がいつもヘルメットをかぶってグランドに来るのは、頭にボールが当たったら困るからです。H君は、物心つく頃から脳腫瘍があることが分かり、それを治療するために頭蓋骨に穴を開けなければならず、そこを保護するための防具としてヘルメットをかぶっていたのです。
IMG_0006(1992年 少年野球の家族と瀬戸大橋巡りの旅館で) 私の家族はIとYさんに特に親しくしていただき、いよいよ少年野球も卒業する頃の秋に、3家族で瀬戸大橋の見物を兼ねて四国への一泊旅行に出かけたのです。その夜の食事の時に、私はあらかじめ用意していた小さなザルを持ち、タオルをかぶり、旅館の寝間着姿のまま、子供たちの前でドジョウスクイを踊ったのです。すると子供たちは大喜びです。もちろんH君も喜んでくれました。そのH君も、中学3年生の時にはかなくこの世を去ってしまいました。今でも、あの時に自己流ながらドジョウスクイを踊って子供たちが喜んでくれたことを思う時、ふとH君のはかない人生を想像してしまいます。
(金原注)1枚目の写真は、1992年、少年野球最後の年(小学校6年生)の西郷さんの息子さん(二男)。
 2枚目は、同じ年、少年野球の3家族が瀬戸大橋巡りの一泊旅行をした際の旅館でドジョウスクイを踊る西郷章さん。
 
正調・安来節を覚えた中学PTA役員の頃
 安来節には2つの踊りがあります。1つは「女踊り」で、緩やかなテンポで♪出雲~名物~荷物にゃならぬ~♪と歌われ、踊り自体も上品さこそ感じても面白いものではありません。それに比べて「男踊り」は、♪オヤジ~どこ行く~裏の小川に~ドジョ取りに~♪と早いテンポで歌われ、踊りもそれに合わせてリズミカルに腰を振ります。私がこれまで自己流で踊っていた踊りは、「女踊り」の歌に合わせたものでした。そして、ローカルで踊られる一般的な昔からの踊りは、この「女踊り」の歌に合わせて、男が面白おかしく踊るものでした。それに比べて、本場の面白い安来節として覚えようとしたのが、テンポの速い「男踊り」だったのです。
 さて、小学校では少年野球とともに、妻の勧めで早くから育友会(PTA)のコーラス部に入っていました。男性が少ないために一度顔を出すとなかなかやめることができません。小学校育友会のコーラス部に参加する一方で、少年野球でお世話になった二男が中学2年生になる頃には、中学校のPTAの役員も掛け持ちするようになりました。正調・安来節を覚えたのはその頃ではなかったかと思います。ところが、二男と入れ替えに3つ違いの三男が中学に入ると、中学校育友会(PTA)の会長を務める羽目になったのです。楠見中学校は、楠見、楠見西、楠見東の3つの小学校区からなり、中学の育友会長はそれぞれの小学校が輪番制で受け持たねばならないため、会長に一番ふさわしいからとか、なりたいからといってなれるものではありません。たまたま順番が楠見小学校にまわってきて、その条件の中で、それまで2年間、他の役員を務めてきた私が会長にされてしまったのです。そして、会長になったこの頃に、ドジョスクイ(正調・安来節)を初めて育友会の宴会の席などで1~2回は披露したのではないかと思いますが、はっきりと覚えていません。
 私はその後、計3年間楠見中学校の会長を務め、最後の3年目には、和歌山市小中PTA連合会長にされてしまいました。市の会長になりますと、和歌山市は自動的に4人いる県PTА連合会副会長のポストが付いてきます。やはりドジョスクイで一番華やいだのはこの頃でした。宴会の時は必ず引っ張り出され、ある時には和歌山市教育長と一緒に踊ったこともありました。当時の市の教育長は坂口さんという方で、色々芸達者な方でしたが、その中の一つにドジョウスクイがありました。自己流ながらドジョウスクイの名人との評判があり、私はぶっつけ本番で2人踊りをやったのですが、ストーリーなどはなく、めいめいが勝手に踊るのです。ところが坂口さんは、本場安来市で踊った時に、そこの名人から「あなたは胴が長いからドジョウスクイにはピッタリです」と言われただけあって、その巧みな腰つきには唖然とさせられました。この2人踊りが評判となり、瞬く間に5名の女性の役員さんが弟子になってしまったのです。しかも嬉しいことに、皆さんドジョウスクイにはぴったりの美貌ぞろいで私も大満足でした。
IMG_0005(1997年 和歌山市PTA連合会最後の懇親会) いよいよ私のPTA活動も終わろうという時、年に1回の全国大会の開催地が大分県に決まったのです。順番からすれば熊本県のはずでしたが、あろうことか、に熊本県の幹部役員が会費を着服したことが発覚して、急きょ大分県に変わったのです。大分県は私の故郷ですから、こんな運のいいことはありません。何しろ、和歌山という遠いところに18歳で職工として就職し、その地で県PTAの副会長までさせていただき、その最後の年に、一生に一度回ってくるかどうかわからない故郷・大分県で全国大会が行われるわけですから。しかも、幸運はそれだけではありません。その時期、臼杵市の教育長は、私の中学時代に野球部の監督であった村上先生が就任していたため、あらかじめ村上先生に、「和歌山から20名ほどのPTAの役員が臼杵見物をしたいので、名所を紹介していただけないか」とお願いしたところ、快く引き受けてくださり、村上先生直々に、大友宗麟の城下町や、臼杵の石仏などを案内していただくことができました。この時ほど、誇らしく、大船に乗った気持ちになったことはありませんでした。そしてその晩は、ドジョウスクイで皆さんに臼杵の情緒を楽しんでいただいたことは言うまでもありません。ちなみに、この年の日本PTA全国協議会の会長は、なんと臼杵市にある高野山ゆかりの寺・興山寺住職の岡部観栄さん(奥さんは和歌山高野山の人)だったのですから、これも驚きです。かくして、PTA役員を務めた時代は、私のささやかな現場作業員人生の中で、ドジョウスクイのおかげで一番華やいだ頃であったと言えます。
 しかし、楽しかったPTA時代の思い出を語るときに忘れてならないのは、陰で私を支え続けてくださった楠見中学校の当時の校長、坂本晃清(こうせい)先生です。坂本先生は、那智勝浦町の出身で、和歌山大学在学中は、休みになると勝浦に帰り、漁船に乗って近海漁のアルバイトをして学費を稼ぐといった苦学の人で、誠実で温厚な人柄である上に、責任感が強く、部落問題にも良く理解を示し、育友会活動も熱心に指導してくださいました。そのため、私も思い切ってPTA会長の役職を務めることが出来、意気投合した活動の中で義兄弟のような気持すら持ちました。その坂本先生も、停年退職をして何年もしないうちに、それまでの生真面目な性格の心労がたたったのか、早くに亡くなってしまわれました。私は今、原発反対の仲間とともに、毎週金曜日の夕方、関西電力和歌山支店前に立つようになって4年以上になりますが、当初からの仲間に貴志公一さんがおられます。貴志さんと一緒に行動する中で、坂本先生が貴志さんと和歌山大学学芸学部(現教育学部)時代の同期生であることを知りました。その貴志さんからもまた、坂本先生と同様に筋の一本通った頼もしい先輩として、いろいろと教えを受け、楽しく付き合わせていただいていているところです。
(金原注)写真は、1997年、和歌山市小中PTA連合会最後の懇親会で(ちなみに、西郷さんの相方は坂口教育長ではなく、本物の女性だそうです)。
 
カルタ取り「小倉百人一首」の名人、甥の西郷直樹君のこと
 私は5人兄弟の二男で、兄弟の子供たち(甥と姪)が合計13人います。その中で、1人ズバ抜けた頭脳の持ち主がいました。西郷直樹君といって、私より4つ下の弟の子供です。弟夫婦には2人の男の子がおり、大分の公団住宅で生活をしていました。そして、子供たちは、カルタの優れた指導力を持った先生に恵まれて、小学校の頃からカルタに打ち込んでいました。兄の拓也君が小学生の頃からカルタ競技を始めると、弟の直樹君もまだ幼稚園の頃からお母さんとともにそれを熱心に見ていました。そして、すぐさま自分でも競技をするようになりました。その腕前たるや、拓也君は小学生の部、中学生の部で日本一になりました。重い病気をしたこともあり、また学業に専念するために競技を断念しました。弟の直樹君も兄と同じように小学生の部、中学生の部と日本一になり、カルタ界では「西郷兄弟」と言われるようになったそうです。そして高校生の部でも日本一になり、早稲田大学に進学後も大学で日本一になり、カルタ大会では最高峰の名人戦に出場したのです。初挑戦となった1999年の名人戦(五回戦勝負)、二連敗の後に三連勝する大逆転勝利で、ついに史上最年少名人の座に上り詰めたのです。その後、5期連続で名人戦に勝利し、永世(えんせ)名人となり、その後も勝ち続けて連続記録や在位記録などのカルタ会のすべての記録を塗り替えました。
 ここで競技カルタについて説明したいと思います。詳しくはネットで、「百人一首入門」等を検索していただけばわかりますが、ここでは、私が10回以上競技場で観戦した知識なども基にしながら紹介したいと思います。競技カルタは、全数100枚のうちの「取り札」は無作為に50枚を抜き取り、対戦者双方の前に25枚ずつ置きます。そして読み札は100枚あり、読み方は、一回戦ごとに100枚全部を読みます。そして、読み方が最初の一言、二言と読んだときに相手より早く取る技を競うものです。、上の句の一言、二言、場合によっては3つも4つも同じ上の句で始まるものもありますから、競技者は、間違いなく相手より早く取らなければなりません、そこに幾つものルールがあって50枚のうちに先に多くとった方が一回戦の勝ちとなり、普通一試合で三戦を先に取った方が勝者となります。
 カルタ競技のことを知らない人は、十二一重(ひとえ)の着物を着たお姫様が楽しそうに笑いながら遊びに興じている姿を連想するでしょうが、実際は格闘技のようなもので、それは、瞬発力、暗記力、集中力、持続力のすべての体力や気力を必要とします。直樹君の瞬発力について、昔「夕陽のガンマン」か「荒野のガンマン」か忘れましたが、西部劇がはやった頃に、拳銃をホルダーから抜いて引き金を引くまでの時間が、0.3秒とかいう早業が人気になったことがありました。それと同じように、カルタを取る速さも、読み方が上の句を言おうとすると、すでに手が動き、カルタを払いのけるまでの速さが0・3秒なのです。また暗記力は、50枚の取り札を何分間かで暗記したのちに、それを裏返しにして、読み方が読む札を余程の間違いがない限りは、ほぼ50枚全部を当てる暗記力を持っています。集中力のためには試合時間中(場合によっては朝から晩まで)食事は抜いて水しか口にしません。直樹君はそのようなすべての力を駆使して前人未踏の記録を達成することになったのです。
 話をドジョウスクイに戻しますと、直樹君は、早稲田大学時代のカルタ仲間の女性と縁ができ、結婚をすることになりましたが、その東京での結婚披露宴で、私はドジョウスクイを踊ってお祝いしたことがあります。
IMG_0007(2001年 新春大会で3年連続名人(22歳)の頃の直樹君) そうして、彼の記録はその後も止まることを知らず、あまりの強さから、2012年に14年連続優勝したのを機に、自ら名人戦への出場を辞退して身を引きました。私は最後の1~2回は応援に行けなかったものの、それまではほとんど毎年、新年早々、名人戦とクイーン戦が行われる琵琶湖のほとりの近江神宮に応援に駆け付け、彼の偉才を目の当たりにしていました。もし辞めずに続けているなら、恐らく体力的にも技能的にもあと10年くらいは勝ち続けたかもしれません。
 記録を出し続けたその過程では、100年に1度出るか出ないかの偉才の出現を記念して、近江神宮の正門に向かって左横には西郷直樹と名前が刻まれた植樹がなされています。その樹木も今は相当大きくなっているのではないでしょうか。そして今は、忙しい仕事の合間を縫って、母校の早稲田大学での後進の指導や、自分の住む静岡県の子供たちの育成指導にも励んでいると聞きました。
(金原注)写真は、2001年の新春大会で3期連続名人となった22歳の西郷直樹さん。
                                                                                          (後編に続く)
 

(「メルマガ金原」から後日「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)
2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)
2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)
2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』
 
(「メルマガ金原」から即日「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる
※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。
2016年9月22日

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(前編)

文化 文学
 今晩(2016年9月22日)配信した「メルマガ金原No.2577」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(前編)

 毎週金曜日の夕方6時から7時までの1時間、雨の日も、風の日も、雪の日も(―和歌山はあまり雪は降りませんが)、関西電力和歌山支店前の路上で、静かに脱原発をアピールする人々の姿を見ることができます。そして、よほどのことがない限り、その中には必ず西郷章さんの姿があります。
 また、「憲法を生かす会 和歌山」として、来る10月22日(土)には、和歌山市中央コミセンのキャパ200名の会場で「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」と題した講演会(講師は何と私!)を主催したり(開催予告10/22「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」(講師:金原徹雄弁護士)@和歌山市中央コミセン/2016年9月4日)、11月12日(土)には、ソプラノ歌手・前田佳世さんの和歌山市での初めてのコンサートを企画したりと、少しもじっとしていられない(?)活躍ぶりです。
 その活動ぶりについては、西郷さんご自身のFacebookで活発に発信しておられますが、西郷さんがFacebookを始められるまでの間は、しばしば「メルマガ金原」に寄稿していただいていました。それが、だいたい2011年から2012年にかけての時期だったでしょうか。その頃の西郷さんの文章は、その後、私の最初のブログ(wakaben6888のブログ)に転載しています(巻末にリンクしておきます)。
 その後、西郷さんはすぐさまFacebookに習熟し(動画投稿もお手のもの)、普段の情報発信はもっぱらFacebookを通じて行っておられます。
 けれども、2013年以降も、ほぼ年に1本の割合で、気合いの入った長文の原稿を執筆して「メルマガ金原」(及びブログにも転載)に寄稿してくださっています。以下のとおり。
 
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる
※追悼特集の一部として西郷さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』を掲載。
 
 「ほぼ年に1本の割合で」と書きましたが、今年に入ってから執筆意欲が非常に高まったのか、かねて西郷さんから「書きたいと思っています」と予告されていた『ドジョウスクイ半生記』が遂に完成し、今年3本目の原稿として掲載できる運びとなりました。
 
 西郷さんの得意芸である「ドジョウスクイ」については、西郷さん自身が書かれた上記「3.11反原発福島行動’14」参加記を読んだり、また、折にふれて和歌山のイベントでドジョウスクイを披露された様子を直接見たり、私がレポートした文章を読まれた方も少なくないかもしれません。
 その見本(?)として、「3.11反原発福島行動’14」の2日前の3月9日、和歌山城西の丸広場で開かれた「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」に出演された西郷章さんのステージ写真を掲載した私のブログをご紹介しておきます(「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」を開催しました)。
 
 けれども、これからご紹介する『ドジョウスクイ半生記』は、西郷さんがまずドジョウスクイを見習ったお父さんの話から始まり、競技カルタの天才と謳われた甥御さんや、満蒙開拓団の一員として満州に渡った奥様のお父様、そして中国残留孤児として取り残され、その後家族との再会を果たして帰国された奥様のお姉様やその家族のお話、さらに、最近の親友との別れまで、ドジョウスクイを通じて自分と周囲の人々との交流を振り返る本格的な自伝となっており、いままで以上に読み応えがあります。それに応じて分量もかなりのものとなりましたので、前編・中編・後編の3回分載とさせていただくことにしました。
  
 前編の今回は、大分県臼杵(うすき)市で漁師として働き、その後、家族で海運業を営んだお父様を中心としたお話と、西郷さんが住友金属和歌山製鉄所で働くようになってから結婚された奥様のお父様や、中国に残されたお姉様のお話が中心で、そこにドジョウスクイのお話も散りばめられています。何しろ、奥様のお姉様と会うために中国を訪問した際の北京空港での別れの宴席で、「初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになった」というのですから。
 

        ドジョウスクイ半生記(前編)
   
                                   西 郷   章 
 
はじめに
 私がドジョウスクイを覚えたのは、父親(西郷市松)の影響によるものでした(以下、ドジョウスクイにまつわる話ですから父親のことはオヤジと書かせていただきます)。私は終戦直後の昭和21年生まれです。私が物心つく頃の我が家の生計は、オヤジの遠洋漁業の雇われ船員としての収入によって支えられていました。遠洋漁業は「突き棒船」という臼杵市(うすきし/大分県)独自のカジキマグロを追う大変珍しい原始的な漁獲法ですので、歴史的な経緯も含めてあとで紹介したいと思います。
IMG_0002(1974年か5年 弟の結婚式での市ちゃん最後の踊り) オヤジがどこでドジョウスクイを覚えたのか、軍隊の時に覚えたのか、あるいは戦後漁師に復職してから覚えたのか知りませんが、軍隊では下関か門司だったか、大砲部隊の鬼軍曹の教官として恐れられ、軍国主義思想で凝り固まったクソまじめな人間だったオヤジが、なんであんな面白い踊りが踊れるのか、私は子供心にも不思議に思えてなりませんでした。 そして、私がドジョウスクイを覚えようと決めたのは、29歳で結婚をして、三男が中学校に入る1~2年前の48歳のころでした。オヤジから見覚えた踊りは面白いのですが、あくまでもローカル的で、親しい仲間内ではよく踊っていても、どうしても品格に欠けますので、どこでも踊れるというわけにはいきません。私は、きちんとした踊りを覚えたいと思い、わざわざドジョスクイの本場の安来市(やすぎし/島根県)観光課に問い合わせてみました。すると宇田川さんという名人の踊りのビデオテープや、安来節の道具一式5万円を紹介してくれたのです。それ以来、私のドジョウスクイは、どこでも安心して踊れるものとなり、様々な場所で踊ることになりました。ここでは、その中の思い出深い2~3の踊りとその背景についてご紹介したいと思います。
(金原注)写真は、1975年ころ、息子(西郷章さんの弟さん)の結婚式でドジョウスクイを踊る西郷市松さん。西郷章さんが、お父さんの踊る姿を見たのはこれが最後だったとか。
 
一時代に繁栄した「突き棒船」とは
 ドジョウスクイを踊った特徴的な場面を紹介する前に、前置きしました「突き棒船」と当時の私の家庭事情についての話をしたいと思います。
 突き棒船は、「突きんぼ船」とか「突き船」とも言われ、海面に浮上するカジキを手投げモリ(樫の木で作った丸棒で、長さ5メートルくらいの先端に3本の矢じりのついたもの)で仕留める勇壮な漁法で、原始的漁獲法と言われていました。船の先端(棚)に構える突き方(矢じりをカジキに突き刺す者で一番方と二番方が構えていたと思います)や、マストの上でカジキを見つけて機関長や突き方に合図をする者が中心となり操業します。この漁法の由来は、明治3~4年のころから大分県豊後水道一帯で、私の部落の板知屋(いたちや)などが中心となって始められたもので、その頃は当然エンジンなどはなく、櫓櫂(ろかい)や帆立てが動力源でした。その後、臼杵市・中津浦の板井五三郎がカジキマグロを樫棒の先につけたモリで突く「突きん棒」漁法を編み出し、やがて明治末期から大正初期にかけて帆船による突きん棒漁業が発達します。大正10年ころからは、動力源が内燃機関(焼き玉エンジン)に代わったために操業範囲も飛躍的に広範になり、夏から春にかけて長崎県沿岸から朝鮮近海まで出漁し、春からは豊後水道で操業しました。昭和10年ころからは、宮崎県油津沖合から北海道・三陸沖合までの漁場に出漁し、さらに広範囲に出かけるようになりましたが、第2次世界大戦でいったん壊滅してしまいました。 その後は、戦後復興とともに漁船は大型化し、乗組員も一船が十数人規模になり、私が中学に入るころ最盛期を迎え、30トン~50トン級の船が私の部落を中心に60隻くらいに増えました。しかし、北陸あたりの仕掛け網による大型大量漁獲法が取り入れられるようになると、原始的な突き棒船は急速に自然消滅へと追いやられ、昭和52年にはついに全滅してしまいました。
 
先を見越して運搬船に乗ったオヤジ
 オヤジは、私が中学生のころ(突き船の最盛期のころ)には既に先を見越して突き船から降りて、義兄弟の持つ貨物船で生計を立てるようになり、その船も幾年もしない間に降りて、自分で運搬船を持つようになりました。けれども、貧乏人が借金をして持てる船は、中古の木造船が関の山でした。仕事も決して楽ではなく、積み荷は四国の多度津などから西大分へ土管を運ぶ仕事で、その土管の積み降ろしは、私も中学の夏休みや冬休みの時に経験しましたが、1本1本手渡し作業による過酷なものでした。しかし、会社のように命令されて仕事をする訳ではなく、1本1本の手作業をやればやるほど必ず自分の利益になるのがせめてもの救いでした。
 この家業のために、臼杵の水産高校を出て、北九州の若築建設(現・東証1部上場)に就職していた5つ上の兄貴が呼び戻され、また私より4つ下の名古屋のグンゼで働いていた三男も呼び戻され、やがて四男もという具合に、私を除いては男の子は3人とも船乗り稼業で生計を立てるようになりました。子供たちが、いやいやながらも割にすんなりと親の意思に従ったのは、家父長制の名残によって、子供というものは親の言うことに従うものだという育て方に影響された点が多分にあったと思います。私だけが会社勤めをしたのは、船に酔いやすいという体質的な弱点があったからかもしれませんが、男の子は1人くらいは陸(おか)働きをさせておかないと、船乗りの身に何かあった時に家が行き詰まってしまうからという、これも親の意思が多少なりとも働いていたようなことをオヤジに聞いたように記憶しています。
 運搬船の事業もだんだんと軌道に乗ってくると、もう少し儲かる取引先として大阪まで足を延ばすようになりました。大阪からの積み荷は、チリ紙やトイレットペーパーなどの原料となる雑誌やボロ紙でした。それを大分の製紙会社に納入するために、西大分港の荷役場まで運ぶのです。西大分港の思い出は、まだ土管しか運んでいなかった中学生のころのことしか覚えていませんが、冬休みの時に手伝いに行って、夕方仕事が終わると寒い町中に行き、そこで入った銭湯が暖かくて気持ちが良かったこと、また、ご褒美にジャンバーを買ってもらったのはいいが、生地がビニールのようなものでできているために、ひどく蒸れて、さすがの着るもののない私でも不快な思いをしたことが思い出されます。また、その後の大阪の荷役場は、大正区の川沿いにあり、当時、私は和歌山の住金(現・新日鉄住金)に入社して間もないころでしたので、時々は船着き場まで親兄弟に会いに行きました。今でも大正区の川沿いが懐かしいのはそのためです。
 
大黒様・恵比寿さんになったオヤジ
 しかし、長年の運搬船事業も止めるかどうかの転機が訪れてきました。船の痛みもひどくなり、新しい船を買うにも相当な借金をしなければならず、それで採算がとれるのか、など考えた後に廃業することになりました。
 ところがその時に、思いもよらぬ福の神が舞い込んできたのです。船は処分しなければなりませんが、解体料こそ取られても古すぎる船自体は三文の値打ちもありません。だが、時はバブルの絶頂期で、関西空港建設のために海上の埋立てが盛んにおこなわれており、埋立てには多くの船が必要でした。船には権利があり、船を持つためにはその船の大きさ相応の権利を買わなければなりません。オヤジの船には権利という価値があったのです。その当時、ゴルフの会員権に法外な値段が付いたように、オヤジの船も貧乏人にとっては驚くほどの値段が付いたのです。かつて村一番の貧乏人と言われてもおかしくなかった両親は、たちまち金持ちになり、まさに大黒さんが舞い込んだような身分になりました。
 母親は、生前にその当時のことを振り返って「儲けた金には毎月利子だけでも相当額付いててきた」と言っていました。その余裕から、私が帰省すると必ず、少額でも小遣いをくれており、それは私が50歳近くになるまで続いたと思います。私は「いい年をして小遣いをもらうなどは恥ずかしいから止めてくれ」と言いながら貰っていたのを憶えています。
 オヤジは、船を売る何年か前から家業は子供たちに任せ、自分は隠居しながら小型漁船で好きな魚釣りをしていましたが、思わぬ金を手にしたことで、その一部を使い、村で一番速い船を新造しました。その漁師としての姿は、誰よりも遅く出漁し、だれよりも早く帰港して、誰よりも多くアジを釣る、アジ釣りの名人「市ちゃん」として釣り仲間に頼られる存在でした。私は、人一倍アジを釣るその秘訣をオヤジに聞いたところ、「どんなエサにアジが良く食いつくかエサのことをいつも考え研究している」と教えられましたので、私の生活にもこれを応用して、「人と仲良くしたり、人に好かれるには良いエサを撒くことが肝心だ」と考えてこれを実行するようになりました。そのおかげで、思想信条の違いは別としても、少なくとも人様にはあまり嫌われることはなかったのではないかと思っています。
IMG_0003(1995~6年 市ちゃんの船に乗る孫たち) さて、オヤジの釣った魚は網カゴの生けすに入れられて市場にもって行くまで生かされます。ある時、私は生けすにあるアジ、イカ、イサギ、サバ、タイを刺身にしてもらって食べ比べたことがありますが、その中で一番うまかったのはサバでした。サバは、関サバ(臼杵湾を出た半島の近海で捕れるサバ)も他のところで捕れるものも美味しさはあまり変わらないとオヤジは言っていました。
 子や孫が遊びに来れば、生の魚をどっさりと食わせてくれ、喜ばれるオヤジは正に大漁の神さん、恵比寿さんのような存在でした。その親父も、とっくに亡くなり、母親も金に不自由することなく老人センターなどを利用して、天寿を全うしました。その後、兄弟たちは別々に雇われ船員としての船乗り生活を経て、今では皆んな良い年になり、年金生活者として暮らしています。
 私は家業を手伝った訳ではありませんから、大黒様(金を儲けたオヤジ)の恩恵は少ししかありませんでしたが、その分、恵比寿様(魚釣り名人のオヤジ)の釣った魚は帰省した時には存分に食べさせてもらい、「ドジョウスクイ」と「魚を釣るにはいいエサ」の秘伝を教わり、今もそれを実践していますので、これはいい財産をもらったと思っています。
(金原注)写真は、1995年ころ、西郷市松さん自慢の“快速船”に乗って喜ぶお孫さんたち。
 
初めての中国でドジョウスクイを踊る
 私たち夫婦は3人の、それぞれが3つ違いの男の子に恵まれました。一番下の子が3歳の時、満蒙開拓団の一員として満州に渡っていた義父の長女で、敗戦の混乱の中、生き別れて残留孤児となった妻の姉の身元がようやく分かり、和歌山在住の姉の家族ともども総勢10名で再会のために中国に行くことになりました。中国の行き先は東北部の瀋陽市(旧・満州奉天市)です。上海から国内線で北京を経由して東北行きの飛行機に乗り換えるのですが、北京市内はこのころ(1985年)から道路も整備され、3~4車線の車道の他に同じような幅の自転車道と歩道が建設されていました。そして、初めての中国訪問ですから、名所見物も兼ねて、魯迅の活躍した場所や、最後の女帝の別荘や紫金城、万里の長城なども見物しながら瀋陽へと向かいました。瀋陽の姉の家につきますと、まず義父に代わり、私から、中国の養父に対し、長年我が子同然に可愛がり、育ててくれたご恩へのお礼と感謝の言葉を述べ、姉と再会することになりました。しかし、物心つく頃に親子は離散しましたから、言葉は通じません。あまり言葉を交わすことなく、互いの手を握りしめて姉は涙を流し、顔を見つめ合っているだけですが、義父は離散した当時に思いをはせていたことでしょう。
 離散した当時、和歌山県御坊市から娘を連れて先妻とともに満蒙開拓団員として入植した義父は広い土地を与えられたそうです。しかし、義父の遺品の中には、最下級の兵隊の位が書かれた身分票がありましたから、実際は満鉄沿線の警備を兼ねた食糧生産兵の役割をさせられていたのかもしれません。開拓団は入植した当初から軍のために苦しい生活を強いら、そして敗戦間際には、鍬(くわ)しか持ったことのない手に銃を持たされ、戦場と化した田畑、荒野を逃げ回ったのです。その後は、お定まりのソ連軍の捕虜となり、夫婦・親子はチリジリとになります。捕虜のシベリアでの生活は過酷なもので、1日に何百グラムのパンしか配給されずに飢えと寒さに耐えきれずに死んでいくものも多くいたそうです(その当時はソ連も食糧危機で自国民にすら十分に食料を供給できなかったと聞く)。そのような過酷な受難を生き抜いた義父は、4年前後の捕虜生活から解放されて運よく帰国できたのです。ついでに付け加えますと、義父が生前、私たちと一緒に暮らした和歌山では、近所に同じ境遇(ソ連の捕虜)を生き抜いてきたクニちゃんというオジサンがいて、2人は意気投合して、昼間からでもよく酒を飲んでいました。その義父は真冬でも素足の生活が平気でした。
 さて、中国の姉さんと再会した私たちは、3日ほど近くの公団住宅に泊まることになりました。そして、その間は親戚筋の料理の得意な人が食事を作ってくれました。日本とは当然生活習慣の違う中国のサラリ-マンの集合住宅での生活は、まず給水制限があり、朝の数時間と昼休み時間と夕食時しか水道が使えません、中国の家庭は夫婦共働きが普通で、仕事場での昼休みは2時間あるため、自宅に帰って昼食をとり、昼寝をするのだそうです。私たちが訪れた時期は真夏で、瀋陽は湿度が高く、私たちが「風呂に入りたい」と言うと、住宅街の一角にある小さな風呂場に案内され、洋式の狭い風呂で水浴びをする程度の入浴しかできませんでした。何も知らない私たちは、湿度が高く気持ちが悪いので、毎日風呂を使いましたが、現地の人たちは、何万人住んでいるかわからない広い団地での風呂は共用で数も少なく、市民はみな毎日風呂に入る習慣はなかったのではないかと後で気が付きました。
 瀋陽では、姉や義兄弟、親戚とようやく打ち解けたころには、お別れをしなければなりませんでした。姉さん夫婦とその子供たちが北京空港まで同伴してくれました。そして、北京空港での別れの宴席で、私は初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになったのです。道具は食卓にあるお皿だけです。それを持つと義父が♪やすき~めいぶつ~♪と歌いだし、その歌に合わせてゆっくりと皿を両手にもってドジョウを救う真似をして踊るのです。そして時折、♪アラ、エッサッサ~♪の掛け声の時には皿を頭の上に乗せる格好で片足を上げて1回転するのです。こんな、たわいない踊りでしたが、中国の兄弟は大喜びでした。少し大げさですが、私はこの経験から、ドジョウスクイは世界でも通用すると実感しました。しかし、いまだに世界の檜(ひのき)舞台で踊ったことは一度もありません。
 さて、すっかり気を良くした私は、茅台酒(マオタイ酒)を飲みすぎて前後不覚となり、いつ飛行機に乗ったのやらわかりません。気が付くと機内は騒然としており、飛行機はよく揺れているのです。そして、その揺れは羽田空港近くまで続いたと思います。しかし最後に無事に着陸した時には、乗客は一斉に拍手を交わして喜び合いました。なぜそんなに感情的になったかと言いますと、この頃は丁度、御巣鷹山日本航空機墜落事故があって1週間もしない時でしたから、激しい揺れで御巣鷹山事故を連想し、恐怖心がわき、パニック寸前のさわぎになったのだと思います。私は、今まで飛行機には10回くらいしか乗っていませんが、揺れたからといって大騒ぎしたのは、後にも先にもこの時だけです。
 そのような出来事からしばらくして、中国の姉さんは夫婦で帰国し、その子供たち(2人の娘さん)も日本で一緒に住むようになり、それから 早くも30年近くが経ちました。姉さんたちは、和歌山の私たちの近くで貧しいながらも幸せに暮らしており、上の娘さん(私の妻の姪)夫婦は、中華料理店で細々と身を立てて暮らしています。
※(金原注)西郷さんの奥様の姪御さん夫婦が営んでおられる中華料理店には、西郷さんに連れられて私も何度かおじゃましましたが、とても美味しい料理がリーズナブルな値段で食べられる大衆的なお店でした。
                                        (中編に続く)
 

(「メルマガ金原」から「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)
2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)

2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)
2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)
2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』

(「メルマガ金原」から「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる

※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。

岡野八代教授(同志社大学大学院グローバルスタディーズ研究科)の講演動画を3本ご紹介します

政治 講演
 今晩(2016年9月21日)配信した「メルマガ金原No.2576」を配信します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
岡野八代教授(同志社大学大学院グローバルスタディーズ研究科)の講演動画を3本ご紹介します

 数年前までは、講演会の企画をする際にまず参考としたのは、新書、選書などを含めた単行本、それから論壇誌などに掲載された論考、新聞への寄稿やコメントといったところだったのではないでしょうか(TVで有名な人は講演料が高すぎて考慮外?)。
 私も、青年法律家協会和歌山支部の会員として、「来年の憲法記念講演会を誰にお願いしようか?」という議論を毎年行っていましたし、憲法9条を守る和歌山弁護士の会の事務局長時代(2006年~2012年)にも、いくつかの企画に関与しましたから、その経験から言うのですが、3.11の頃を境に、講師候補者の名前をあげていく上で参考とする媒体が、紙から動画に大きく推移したように思います。
 ちょうどその頃から、URTREAMによる中継が普及し、YouTubeへの長時間動画のアップが可能となり、講演動画のインターネット環境への掲載を了解する講師が増えたのでした。
 こうして、「一度是非和歌山にお招きしたい」と考える講師候補者をリストアップする作業に私が関わ
る場合、インターネットでの講演動画を視聴できる方に偏りがちになることは否めず、これはこれで問題なのですけどね。
 
 というような前置きになったのは、今日ご紹介しようという岡野八代(オカノヤヨ)教授(同志社大学大学院グローバルスタディーズ研究科)が、まだ直接講演を伺ったことのない方の中で、近く和歌山に講師として招いてくれる団体がないだろうかと期待しているお1人だからなのです。
 ちなみに、岡野教授は、立憲デモクラシーの会の呼びかけ人の1人として、立憲デモクラシー講座の第12回「女性と政治と憲法と」を担当され、私のメルマガ(ブログ)でもご紹介しています(立憲デモク
ラシー講座第11回(6/3石田英敬東京大学教授)と第12回(6/10岡野八代同志社大学大学院教授)のご紹介/2016年6月16日)。
 
 今日は、必ずしも和歌山で講演会を企画する人のための参考資料にしようというだけではなく、民主主義についてもっと深く学びたいという方のためにもと思い、岡野八代教授による講演動画を3本まとめてご紹介することにしました。私自身、これから時間を作って何とか見たいという段階ですが、個人的に一番興を惹かれているのは、2本目の動画、今年の5月26日にシアターセブンで開かれた 市民社会フォーラム第180回学習会「戦争と民主主義を考える-個人の尊厳を守る政治のために」です。皆さんはいかがでしょうか?
 
 なお、講演動画のご紹介の前に、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科の公式サイトに掲載された「プロフィール」と「学生へのメッセージ」を引用しておきます。
 
(引用開始)
プロフィール
 わたしは、三重県松阪市で生まれ育ちました。松阪牛で有名なわたしの故郷は、大学進学を機に離れ
てみてようやく、歴史的に作られた複雑な差別構造をもった市なのだと気づきました。それ以来、差別やアイデンティティの問題に関心をもち、歴史的・理論的にこれらの問題を考えるために、哲学ではなく、政治思想を専門に選びました。内向的な思索ではなく、世界とのかかわりの中で、差別やアイデンティテ
ィの問題を考えたかったからです。
 その後、博士課程に進学するさい、カナダに留学し、政治思想においてフェミニスト理論がいかに大きな貢献を果たしているのかを目の当たりにしました。差別やアイデンティティの問題に、ジェンダー構造・秩序は大きな影響を与えています。また、社会全体の隠された支柱こそが、ジェンダー構造です。みなさんの関心から、こうした問題を一緒に考えていけることを楽しみにしています。
学生へのメッセージ
 わたしの学生時代には、大学院での研究にくわえ、友人たちとのお喋りのなかから、多くの先人たちの著作やことば、そして彼女たちの経験について学びました。そうした言葉は、いまなおわたしの心にしっ
かりと刻まれています。たとえば、わたしの研究対象の一人である、ユダヤ系ドイツ人女性で、戦後合衆国で活躍したハンナ・アーレントの次の言葉は、いまなおわたしの研究生活にとって大切にしている言葉です。
人間の創造とともに、「始まり」の原理が世界の中にもちこまれたのである。これは、もちろん、自由の原理が創造されたのは人間が創造されたときであり、その前ではないということをいいかえたにすぎないハンナ・アーレント『人間の条件』177頁]。
 大学院での研究は、これまで考えたこともなかったほどに、みなさんの心と世界を広げてくれるはずです。予測不可能なことが生じるところに、研究の楽しさや可能性が秘められています。現実の社会とは違い、理念や思想の世界に触れることで、わたしたちは、真の意味で自由で平等となりえます。そして自由な心をもつことで、わたしたちは時間や空間の境界を超えることもできます。本研究科で学ぶみなさんとともに、そうした自由を実現し、感じられるようになりたいと思っています。
 わたしの専門は西洋政治思想ですが、ただ単に著名な哲学者の言葉について思索をめぐらせるだけでなく、日本社会で現在生じている問題、たとえば、第二次世界大戦下における「性奴隷制度」・従軍「慰安婦」問題や、男女間の社会的地位における格差などについても論じています。みなさんも専門的研究を通
じて、より広い世界へとぜひはばたいてください。
(引用終わり)
 
20150221 UPLAN 岡野八代「憲法九条から考える 非暴力・反暴力の思想について」(2時間49分)

※岡野教授の講演は23分~2時間07分。その後は、質疑応答を含めた対談。
「人類の歴史を振り返ると、とくに私が専門とする政治思想史の観点から人類の歴史を振り返ると、そこには暴力が吹き荒れる荒野が広がっているように見えます。とくに20世紀は「戦争と革命の時代」とも呼ばれるように、これまで経験したことのない大量の殺人が「国家」の名の下に遂行されました。非暴力─わたしはむしろ、反暴力のほうが相応しいと考えております─の思想とは、こうした人類の無残な歴史を反省するなかで生まれてきたと同時に、弱く無力でありながら、他者に依存しなければ生きていけない人びと(=多くは子どもたち)に寄り添ってきた経験からも紡がれてきたと考えられます。そうした歴史を踏まえれば、現行の政治は、大きな変革を迫られることになるでしょう。講演では、そもそも暴力、暴力に抵抗する営みと政治との関係を思想史的に考えながら、皆さんと新しい政治の在り処について考えてみたいと思います。」
 
岡野八代教授講演「戦争と民主主義を考える-個人の尊厳を守る政治のために」(1時間40分)

講師:岡野八代教授(同志社大学大学院グローバルスタディーズ研究科)
日時:2016年5月26日18時半~
場所:シアターセブン(大阪)
市民社会フォーラム第180回学習会
「歴史を振り返れば、古代アテネは「兵士の共同体」、フランス革命は「国民軍」を生んだ。だからこそ、
「戦後」民主主義は、人権と反戦平和という新しい規範によって立ち上げられようとした。
 「民主主義」社会の前提となる「個人の尊厳」と「戦争」は相容れない。だからこそ、「民主主義」国
家と「戦争」もまた相容れない。
 西洋政治思想史を専門とする岡野八代さんに、日本の立憲主義・平和主義・民主主義の回復の課題にも触れながら、お話しいただきます。」
 
戦争法強行採決1年を考える兵庫集会 ―講演 岡野八代・同志社大学教授「この国に民主主義を実現するために」、真喜志好一氏「沖縄は戦争法の具体化と闘う」 2016.9.19
日時:2016年9月19日(月)13:30~16:30
場所:兵庫県私学会館大ホール(兵庫県神戸市)
「■呼びかけ文■集会後三宮までのデモ行進をおこないます。
 2015年9月19日、憲法違反を指摘する大多数の憲法学者の声と国会内外で行われたデモや民意を無視して、
安全保障関連法(戦争法)が強行採決されました。それから1年。参議院選挙で議員の構成を変えて法律の廃止を実現するには至っていませんが、各種世論調査でも反対意見が今なお過半数を超えています。さらに政府自民党は、立憲主義を根底から覆す憲法改定に突き進もうとしており、戦争法廃止・改憲阻止を求
める取り組みが今、求められています。
 本集会では、学者と沖縄の市民に講演していただき、今後の取り組みの参考にします。
岡野八代さんは政治思想・フェミニズム思想が専門。立憲主義とは何か?西洋政治思想から説き起こし、
日本におけるその可能性と、自民党改憲草案がいかにそれを壊すものかを語っていただきます。
 真喜志好一さんは「沖縄はもうだまされない」(2000年)の著作で知られた市民活動家。
高江の問題の背景にあるSACO合意の問題点を沖縄で一貫して主張されてきました。8月に訪米し、平和のた
めの退役軍人の会総会で高江の取り組みに連帯する決議をあげた報告もしていただきます。
 アベ政治を許さない市民デモKOBEからも、今後の市民ネットワークの在り方について提案し、アピールや
会場の意見で豊富化したいと考えています。皆さん、ぜひご参加ください。」

俵義文さんの講演動画「安倍政権と一体の極右組織「日本会議」の全貌」(9/19 NHK問題を考える会(兵庫))のご紹介

講演 政治
 今晩(2016年9月20日)配信した「メルマガ金原No.2575」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
俵義文さんの講演動画「安倍政権と一体の極右組織「日本会議」の全貌」(9/19 NHK問題を考える会(兵庫))のご紹介

 私は、9月29日(木)午後6時から、和歌山市のプラザホープ2F多目的室で開催される俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21事務局長)を講師とした学習会「日本会議のすべて~安倍政権を支える草の根「改憲」のうごき~」をご案内するにあたり、俵さんの著書『日本会議の全貌 知られざる巨大組織の実態』(花伝社)を含め、目に付く「日本会議」本を6冊ご紹介しました(開催予告9/29憲法学習会(講師:俵義文氏)「日本会議のすべて~安倍政権を支える草の根「改憲」のうごき~」/2016年8月23日)。
 けれども、その後も「日本会議」本の出版は続いているようですね。とりあえず、気がついたものを挙げておきます。
 
2016年8月29日発売
『日本会議の人脈』(三才ムックvol.899):

「にわかに世間の耳目を集めている「日本会議」。マスコミの多くは、安倍政権を陰で操る謎の組織といった捉え方をし、その影響力の大きさを強調するが、その実像とはどのようなものなのか――。本書では日本会議と主要関連団体、政治家、宗教人、文化人100人にスポットを当て、その全体像を浮かび上がらせ
た。」
●主な内容
[巻頭]
政治目標、関連組織、成り立ちから読み解く「日本会議」の実像
国内の出来事との比較でみる「日本会議」の活動の履歴
日本会議の研究』著者・菅野完氏に聞く~「日本会議」とはどんな組織なのか?
日本会議」と注目の10人ピックアップ
[第1章]日本会議と主要関連団体の人々
[第2章]日本会議と政治家たち
[第3章]日本会議と宗教人たち
 
 『日本会議の人脈』は、誰かの著書という訳ではなく、いわゆるムックですね。ということで低く見るという訳ではなく、「ムックまで出るようになればブームも一過性のものとは言いにくい」という感想を持ったりしています。
 
 このような「ブーム」に対する日本会議側からの反応もご紹介しておきましょう。
 一つは、日本会議広報部が9月9日付で公表した公式の「反論」です。
 
日本会議に関する最近の一連の報道について
―日本会議報道における虚偽・誤解・偏見に関する反論―
日本会議広報部(平成28年9月9日)

(抜粋引用開始)
 最近、日本会議に関する新聞・週刊誌の報道や、書籍等の出版がにわかに活気づいている。しかし、残念ながらこれらの報道や出版物には、日本会議の運動の歴史的な経緯や一次資料を踏まえることなく安易
陰謀論に陥ったり、一面的な批評に止まっていたりするものが少なくない。
 私達の運動は、戦後見失われようとしてきた伝統文化を守り、日本を取り巻く厳しい国際環境の変化の
中で、自立した対等な独立国家としての矜持を持った国づくりを目指した国民運動を推進してきた。
 特に、近年の北朝鮮による拉致事件工作船の活動、核・ミサイル開発、中国による南シナ海尖閣諸島周辺での勢力拡張や威嚇、米国の内向きの姿勢は、国民の間の危機意識を高めていると考えられる。日本会議への共感や支持の拡大は、このような国民意識の変化に後押しされている点と無関係ではないだろ
う。
 ここでは、私たちの活動を子細にご紹介する機会はないが、昨今の報道・出版の虚偽、誤解、偏見など
につき簡単に反論を加えておきたい。
(引用終わり)
 
 もう一つ、こちらは日本会議の地方組織、というのでしょうか、「日本会議広島」と表記されたホームページに(ブログ版からの転載のようですが)以下のような記事が掲載されていました。
 
「安倍政権を完全支配する日本会議」 FRIDAY、朝日新聞が日本会議をPRしてくれました
(抜粋引用開始)
★8月12日 「講談社さん、ありがとう」 
私たち日本会議が会員拡大を目指す中で、一番困っていることは何か?
それは何をさておき、知名度がないことなのです。
ところが、ここにきて、各種メディアが日本会議を取り上げてくれるおかげで、
知名度急上昇中!!
たとえば、徹底した安倍批判で有名な日刊ゲンダイを発行している講談社
が、発売中のフライデーで日本会議を取り上げてくださっています
私たちが頼んでもいないのに、記事で取り上げて下さったお蔭で、
事務所にもチラホラとフライデーに出ている日本会議さんですか
多くの自民党国会議員が所属している日本会議さんですか
との電話が入っており、中には、
入会を検討したいので、資料を送ってもらえますか
と話してくださる方まで!!
私たちに批判的な記事を書きながら、
実は応援してくださってる結果になってるのです!!
何よりも、一番の懸案であった、知名度アップアップ
に貢献してくださるなんて!!
講談社さん、ありがとう!!
何と言っても、記事見出しが嬉しいですよね!!
安倍政権を完全支配する「日本会議」ですって!! ラブラブ!
せっかくですので、講談社さんが私たち日本会議をどのように宣伝してくださっているのか、引用してみ
ましょう!!
(引用終わり)
注:FRIDAYが掲載した「安倍政権を完全支配する『日本会議』の正体 根底から暴く!」はインターネット版で今でも読めます。

 以上は、この長い記事のほんの冒頭だけの引用です。私は「面白い」と思ってこれを引用している訳ではないですよ。
 私が日本会議の方と直接お話する機会があったのは、あとにも先にも、昨年9月12日、和歌山県田辺市で開催された「安保法案だよ全員集合!」というイベントに、私が法案反対派の1人として出演した際、法案賛成派として登壇された日本会議紀南支部支部長の大倉勝行さんと同事務局次長の山本浩さんとご一緒した時だけなのですが、その際、紀南支部のお2人から受けた印象と、上記「日本会議広島」の(誰が書いたのか知りませんが)のホームページにアップされた文体から推測される人柄とのあまりの違いに驚きを禁じ得ないからです。大倉さんが、「日本会議広島」の上記文章を読まれたらどう思われるでしょうか?
 どんな組織にも、いろんな人がいるのだなあ、というごく当たり前のことが、日本会議にもあてはまるのでしょうね。 
 
 さて、日本会議について再び取り上げたのは、和歌山での講演が9日後に迫ってきた俵義文さんが、昨日(9月19日)、「NHK問題を考える会(兵庫)」の招きにより、神戸市で講演されたのですが、IWJ兵庫によって撮影された講演動画のアーカイブが公開されており、全編視聴できますのでご紹介しようと思ったことによります。
 
 
 なお、「NHKにも魔の手」の部分は、俵さんではなく、元NHK経営委員の小林みどりさん(国立音楽大学名誉教授)がスピーチされていますので(1時間28分~1時間46分)、そちらも是非ご覧ください。
 
 最後に、9月29日の和歌山市での俵さんの講演会の開催概要をチラシから転記しておきます。
 
(引用開始)
憲法学習会
日本会議のすべて
~安倍政権を支える草の根「改憲」のうごき~
講師 俵 義文 氏(子どもと教科書全国ネット21 事務局長)
と き 2016年9月29日(木)18:00~19:20
ところ 和歌山勤労福祉会館プラザホープ2F多目的室
    (当初、会場を高校会館とご案内しましたが、変更致しました)
主催 
 憲法改悪阻止和歌山県各界連絡会議
  (高校会館内)073-432-6355
 憲法九条を守るわかやま県民の会
  (県地評内)073-436-3520
*当日は、19:30から憲法会議2016年度総会を同じ会場で開催いたします。

(引用終わり)
 
(弁護士・金原徹雄のブログから)
2015年9月12日
「安保法案だよ全員集合!」(9/12@田辺市)で話すつもりだったこと ※動画追加あり

※東条雅之さんが撮影してくださった動画(2時間02分)も是非ご覧になってください。
 
 

辺野古訴訟判決(9/16福岡高裁那覇支部)の「判決要旨」をじっくりと読む

司法 政治
 今晩(2016年9月19日)配信した「メルマガ金原No.2574」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
辺野古訴訟判決(9/16福岡高裁那覇支部)の「判決要旨」をじっくりと読む

福岡高等裁判所那覇支部 平成28年(行ケ)第3号
地方自治法第251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件
原告 国土交通大臣 石 井 啓 一
被告 沖縄県知事 翁 長 雄 志
 
 9月16日に福岡高裁那覇支部で判決が言い渡された上記事件について、とりあえず昨日は「判決骨子」(PDFファイルで2ページ)をご紹介するとともに、「判決文(全文)」(同358ページ)及び「判決要旨」(同13ページ)にリンクしておきました。
 掲載されているのは、沖縄県公式ホームページの中の「知事公室辺野古新基地建設問題対策課」というコーナーです。
 
 
 今日は、昨日時間の都合で紹介できなかった「判決要旨」全文をご紹介します。テキスト情報が埋め込まれていないPDFファイルから、文字情報を読み取る高性能のソフトウェアもあるやに聞いていますが、あいにく私にはその便宜がないため、以下のような作業で「判決要旨」の本文を定めました。
 まず、「沖縄タイムス+プラス」に掲載されている「判決(要旨)」をコピーして文書作成ソフトに貼り付けました。次に沖縄県ホームページに掲載されている「判決要旨」(全13ページ/県が裁判所から入手したものでしょう)を印刷しました。その上で、文書作成画面に貼り付けた「沖縄タイムス+プラス」の「判決(要旨)」と「判決要旨」とを読み比べ、相違している箇所は全て「判決要旨」に従って訂正するという作業を行いました。
 慣れてくれば、沖縄タイムスがこう書いているところは、多分原文ではこうだろうと予測できるようになってきましたから、だいたいは訂正できたと思いますが、きっと見落としている箇所もあるでしょう。従って、昨日書きましたように、「判決要旨」を引用しようとする方は、最終的にはPDFファイルと読み比べて、間違いないかどうかを確認するようにしてください。
 しかし、沖縄タイムスには独自の用語法の内規があるのでしょうし、「読点(、)」を追加して読みやすくなっていたりはするのですが、法令の条文を引用している箇所まで「及び」を「および」に直したりするのは、いくら何でもやり過ぎではないかと思いましたけどね。
 もっとも、沖縄タイムスがそういう「おせっかいな(?)」修正をしててくれたおかげで、「判決要旨」を復元するために、否応なく、じっくりと読まざるを得ませんでしたから、感謝しなければならないかもしれません。
 
 以下に、まず「判決要旨」全文を引用します。
 その上で、判決要旨を理解する上で必須となる法律の条文を引用します。
 最後に、今年の3月4日、福岡高裁那覇支部で行われた代執行訴訟についての国(国土交通大臣)と県(沖縄県知事)との和解関連文書(和解勧告文及び和解条項)を引用します。
 少なくとも、この訴訟に関与してこなかった法律家が、判決について何らかの意見を述べるためには、
前提的作業として以上の資料に目を通すことが最低限必要だろうと思い、集めてみることにしたものです。
 付言すると、今年の3月に成立した和解協議を主導した裁判長は、今回の判決を言い渡した裁判長と同一人物(多見谷寿郎裁判官)です。
 
 それで、私の意見は?
 私は、公有水面埋立法地方自治法を専門に勉強したことはありません。わずかに、和歌山市と隣接の海南市との間で、新たな埋立地(その後、「マリーナシティ」として知られるようになる)の境界をめぐって争論が発生し、地方自治法に基づく境界確定訴訟に発展した際、海南市弁護団の末席に名を連ね、訴訟要件論のパートを担当したという程度であり、最近の地方自治法の改正などは、詳しくフォローしていませんから、この辺については、専門家の教示を得たいと思っています。
 けれども、今日、「判決要旨」の本文を確定するために、普通の人よりも(?)じっくりと要旨を熟読
した上での感想は、「これって裁判官が書くべきことか?」(既に何人もの識者が指摘されているようで
すが)という箇所の多さにめまいがしそうだったということです(特に「3 「本件承認処分の第1号要件欠如の有無」について」など)。
 あと、法律論として、私が特に注意を引かれたのは、「8 「知事が本件指示に従わないことは違法と言えるか」について (2)不作為の違法の意義について」における、「国地方係争処理委員会の本件指示の適法性について判断せずに協議すべきであるとの決定を尊重して、国の関与の取消訴訟を提起しなかったものであり、被告の不作為が違法とはならない」という被告の主張を裁判所が排斥した箇所ですね。この部分の文章が、他の箇所に比べて、「言い訳がましい」という印象を受けたのですが、皆さんはどうでしょう?
 
 それでは、じっくりと「判決要旨」及び関連資料をお読みください。
 

平成28年(行ケ)第3号 地方自治法第251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件
                      判  決  要  旨
 
第1 事案の概要
 本件は、国(沖縄防衛局)が、普天間飛行場代替施設(本件新施設等)を辺野古沿岸域に建設するため、平成25年12月27日、被告の前任者である沖縄県知事から公有水面埋立ての承認(本件承認処分)を受けていたところ、被告が、平成27年10月13日、承認処分の取消し(本件取消処分)をしたため、原告は、本件取消処分は、公有水面埋立法(以下「法」という。)に反して違法なものであるとして、地方自治法245条の7第1項に基づき、本件取消処分の取消しを求める是正の指示(本件指示)をしたものの、被告が、本件指示に基づいて本件取消処分を取り消さない上、法定の期間内に是正の指示の取消訴訟(同法251条の5)をも提起しないことから、同法251条の7に基づき、被告に対し、同不作為の違法の確認を求めた事案である。
 
第2 当裁判所の判断
1 取消権の発生要件(審理対象)およびその判断方法について

 行政処分に対し、原処分庁が職権で行ういわゆる自庁取消しが認められる根拠は法律による行政の原理ないし法治主義に求められるから、その要件は原処分が違法であることであり、原処分に要件裁量権が認められる場合には、原処分の裁量権の行使が逸脱・濫用にわたり違法であると認められることを要する。したがって、この点が本件の審理対象である。被告は、本件取消処分においてした本件承認処分に違法があるとの判断に要件裁量権がある」と主張するが、そうだとすると、裁量がないものとして判断しても、法的、客観的に適法である原処分に対する被告の再審査の判断が、裁量の範囲内においてであるがこれを誤って違法と判断したものであるとしても有効に取り消せるという不条理を招くことになるなど採用できない。
 また、被告は、地方自治権・自治体裁量権を根拠に司法審査が制限される旨主張するが、地方分権推進法並びに地方自治法平成11年及び24年改正は、国と地方の利害が対立し法解釈に関する意見が異なる場合に、それぞれが独立の機関として対立が続けば、行政が服すべき法的適合性原則に反する状態が解消できず、国地方の関係が不安定化し、ひいては地方分権の流れが逆流し国の権限を強化すべきであるとの動きが起こることを懸念して、その解決方法を設け、そこでも透明で割り切れたシステムにするという観点から、国の関与の手続を明確に規定し、その手続の中で解決がつかない場合は、第三者であることから中立的で公平な判断が期待でき、かつ透明で安定した手続を有する裁判所に判断させることとしたものである。したがって、裁判所としては、是正の要求や指示がされ地方公共団体がそれに従わないことから地方自治法所定の訴えが提起された場合は、所定の手続に沿って速やかに中立的で公平な審理・判断をすべき責務を負わされているのであり、それを全うすることこそが地方自治法改正の趣旨にかなうゆえんである。また、不作為の違法確認訴訟は、その制度検討過程において、地方公共団体が不作為の違法を確認する判決を受けてもそれに従わないのではないか、そうなれば制度が無意味になるというだけでなく、裁判所の権威まで失墜させることになり、ひいては日本の国全体に大きなダメージを与えてしまうとの懸念が表明されるほどマイルドな訴訟形態であることなどからしても、被告の主張は理由がない。

2 「第1号要件審査の対象に国防・外交上の事項が含まれるか」について
 第1号要件は当該埋立ての必要性および公共性の高さを埋立てに伴う種々の環境変化と比較するものであるから、埋立てに係る事業の性質や内容を審査することは不可欠であり、そのことは、それが国防・外交に関わるものであっても何ら変わりはないので、知事の審査権は国防・外交に係る事項に及ぶものと解するのが相当である。
 ただし、国防・外交に関する事項は本来地方公共団体が所管する事項ではなく、地域の利益に関わる限りにおいて審査権限を有するにすぎない。そして、地方公共団体には、国防・外交に関する事項を国全体の安全や国としての国際社会における地位がいかにあるべきかという面から判断する権限も判断しうる組織体制も責任を負いうる立場も有しない。それにもかかわらず、本来知事に審査権限を付与した趣旨とは異なり、地域特有の利害ではない米軍基地の必要性が乏しい、また住民の総意であるとして40都道府県全ての知事が埋立承認を拒否した場合、国防・外交に本来的権限と責任を負うべき立場にある国の不合理とはいえない判断が覆されてしまい、国の本来的事務について地方公共団体の判断が国の判断に優越することにもなりかねない。これは、地方自治法が定める国と地方の役割分担の原則にも沿わない不都合な事態である。よって、国の説明する国防・外交上の必要性について、具体的な点において不合理であると認められない限りは、被告はその判断を尊重すべきである。

3 「本件承認処分の第1号要件欠如の有無」について
(1)
第1号要件は、埋立て自体及び埋立地の用途が国土利用上の観点からして適正かつ合理的なものであることを要するとする趣旨と解され、承認権者がこれに該当するか否かを判断するに当たっては、国土利用上の観点からの当該埋立ての必要性および公共性の高さと、当該埋立て自体および埋立て後の土地利用が周囲の自然環境ないし生活環境に及ぼす影響などと比較衡量した上で、地域の実情などを踏まえ、総合的に判断することになり、これら様々な一般公益の取捨選択あるいは軽重の判断は高度の政策的判断に属するとともに、専門技術的な判断も含まれるから、承認権者である都道府県知事には広範な裁量が認められると解される。
 本件承認処分の第1号要件の審査が違法となるのは、その基礎とされた重要な事実に誤認があること等により、重要な事実の基礎を欠くこととなる場合、又は、事実にする評価が明らかに合理性を欠くこと、判断の過程において考慮すべき事情を考慮しないこと等によりその内容が社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合に限り、裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用したものとして違法となる。
(2)ア 沖縄の地理的優位性について
 沖縄と潜在的紛争地域とされる朝鮮半島台湾海峡との距離は、ソウルまでが約1260キロ㎞であり、船舶での移動時間が約34時間、オスプレイの固定翼モードの速度時速230マイル(368㎞)で約3.5時間となり、台北までが約630㎞であり、船舶での移動時間が約17時間、オスプレイで約2時間となること、他方、北朝鮮が保有する弾道ミサイルのうち、ノドンの射程外となるのはわが国では沖縄などごく一部であること、南西諸島は、わが国の海上輸送交通路に沿う位置にあり、沖縄本島はその中央にあること、これに対し、グアムからは、ソウルまでが約3220㎞、台北までが約2760㎞、沖縄までおよそ2200㎞であること等に照らして、沖縄に地理的優位性が認められるとの原告の説明は不合理ではない。
イ 海兵隊の一体的運用について
 被告は、普天間飛行場に配備された航空機部隊は強襲揚陸艦に搭載されて艦船からの輸送および強襲揚陸に対する支援を行うことを任務とし、揚陸艦の母港は長崎県佐世保基地であるから、沖縄から海兵隊が展開するには佐世保基地から回航した揚陸艦が沖縄に到着するのを待たなければならないとして、沖縄から海兵隊航空基地を移設しても海兵隊の機動力・即応力が失われることはない旨指摘するが、在沖縄米軍の中でも海兵隊は武力紛争から自然災害まで種々の緊急事態に迅速に対応する初動対応部隊として他の軍種が果たせない重要な役割を持っており、強襲揚陸作戦ばかりでなく、海上阻止行動、対テロ作戦や安定化作戦、平時における人道支援・災害救助、敵地における偵察・監視、人質の奪還等の特殊作戦や危機発生時の民間人救出活動も任務としていること、これらの場合には在沖縄海兵隊独自の活動として強襲揚陸艦とは別に行うことも想定していることからすると、被告の上記指摘はその前提において海兵隊の持つ一部の任務に該当しうるに過ぎず、その余の重要な任務については、海兵隊航空基地を沖縄本島から移設すれば海兵隊の機動力・即応力が失われることになるから採用することができない。
ウ 普天間飛行場の返還と本件新施設等との関係について
 本件新施設等は普天間飛行場の半分以下の面積であり、その設置予定地はキャンプ・シュワブの米軍使用区域内であることからすると、全体としては沖縄の負担は軽減される。
 また、平成8年に日米間でされた普天間飛行場の返還合意は沖縄県内の米軍施設および区域内に新たにヘリポートを建設することが前提とされており、これが満たされなければ、返還合意自体が履行されない関係にあり、かつ、普天間飛行場が返還されることとなるまでは本件新施設等が米軍基地として使用されるわけではないから前者と後者は二者択一の関係にあること、その間に上記合意に基づく本件新施設等による一部機能の代替以外の方法で普天間飛行場が返還される可能性、即ち、前記のとおり、一体的運用が必要とされる以上、海兵隊全体が沖縄に駐留する必要性が失われるか、本島近辺に他の代替地を確保する必要性があるところ、その可能性があるとは考えにくく、本件新施設等が設置されなければ、普天間飛行場が返還されない蓋然性が有意に認められる。そうなると、計画されている普天間飛行場跡地利用による沖縄県全体の振興や多大な経済的効果も得られない。他方、仮に将来海兵隊全体が沖縄に駐留する必要がなくなるとすれば、そのときは、本件新施設等もキャンプ・シュワブも必要がなくなり、返還されることになるはずである。
エ 普天間飛行場による騒音被害や危険性の原因と対策について
 被告は普天間飛行場による騒音被害や危険性は、平成8年及び平成24年に日米安全保障協議委員会で合意された航空機騒音規制措置という日米両国間の地位協定に関わる合意事項が遵守されていないことにより深刻化しているのであるから、これを遵守させることによりそれを防止できると主張する。しかし、同規制措置は、全て「できる限り」とか「運用上必要な場合を除き」などの限定が付されており、そもそもこれが遵守されていないとの確認は困難であるから、被告の主張はその前提を欠いている。しかも、規制措置の内容を見てもそれによって普天間飛行場による騒音被害や危険性が軽減できる程度は小さく、これらは周囲を住宅密集地に囲まれた普天間飛行場海兵隊の航空部隊が駐留すること自体によって発生していることが明らかであるから、普天間飛行場から海兵隊の航空部隊が他に移転すること以外に除去する方法はない。
 以上要するに、①普天間飛行場の騒音被害や危険性、これによる地域振興の阻害は深刻な状況であり、普天間飛行場の閉鎖という方法で改善される必要がある。しかし、②海兵隊の航空部隊を地上部隊から切り離して県外に移転することはできないと認められる。③在沖縄全海兵隊を県外に移転することができないという国の判断は戦後70年の経過や現在の世界、地域情勢から合理性があり尊重すべきである。④そうすると県内に普天間飛行場の代替施設が必要である。⑤その候補として本件新施設等が挙げられるが、他に県内の移転先は見当たらない。よって、⑥普天間飛行場の被害を除去するには本件新施設等を建設する以外にはない。言い換えると本件新施設等の建設をやめるには普天間飛行場による被害を継続するしかない。
(3)結論
 以上によれば、本件埋立事業の必要性(普天間飛行場の危険性の除去)が極めて高く、それに伴う環境悪化等の不利益を考慮したとしても第1号要件該当性を肯定できるとする判断が不合理なものであると認めることはできない。
 
4 「第2号要件審査に埋立地の竣工後の利用形態を含むのか及び本件承認処分の第2号要件欠如の有無」について
(1)
第2号要件は、埋立地の竣工後の利用形態ではなく、埋立行為そのものに随伴して必要となる環境保全措置等を審査するものと解するのが相当である。
(2)第2号要件の審査は、専門技術的知見を尊重して行う都道府県知事の合理的な判断に委ねられているといえる。このような都道府県知事の判断の適否を裁判所が審査するに当たっては、当該判断に不合理な点があるか否かという観点から行うべきであり、具体的には、現在の環境技術水準に照らし、①審査において用いられた具体的審査基準に不合理な点があるか、②本件埋立出願が当該具体的審査基準に適合するとした前知事の審査過程に看過しがたい過誤、欠落があるか否かを審査し、上記具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは、本件埋立出願が上記具体的審査基準に適合するとした前知事の審査の過程に看過しがたい過誤、欠落がある場合には、前知事の判断に不合理な点があるとして、本件承認処分は違法であると解すべきである。
 環境保全対策のための調査、予測および評価の方法について、同等程度の成果が得られるなら効率的な手法で行うべきことは、そうでなければ長期間事業目的を達成できないこと、多額の費用が国民の負担に帰することからも明らかである。このようなことからすると、第2号要件の審査時点では、現在の知見をもとに実行可能な範囲において環境の現況及び環境への影響を的確に把握した上で、これに対する措置が適正に講じられることで足り、上記不確実性に対応するには、承認後に引き続き事後調査や環境監視調査を行い、その場その時の状況に応じて専門家の助言・指導に基づいて柔軟に対策を講じることはむしろ合理的である。
 以上のような点等に照らすと、本件審査基準に不合理な点があるといえず、かつ、本件埋立出願が本件審査基準に適合するとした前知事の判断に不合理な点があるといえない。

5 「本件承認処分が法4条1項1号および同項2号の要件が欠如している場合に取消制限の法理の適用によって本件取消処分は違法と言えるか」について
(1)
「瑕疵のある処分をしてしまったことにより生じた法律関係や事実状態を保護する必要があるとの
法的安定性の確保が取消制限の根拠であり、加えて、授益的処分の取消しは、申請者の既得権や信頼を保護するという観点も加わり、これを取り消すべき公益上の必要があること、それを取り消すことによる不利益とを比較して前者が明らかに優越していることが必要であると解される。
 公有水面の埋立事業は多大な費用と労力を要し、様々な法律・利害関係が積み重なっていく性質を有し、法も一旦した法4条の免許を取り消し得る場合を詐欺の手段を以て埋立免許を受けたときと定めるなど、取消権の行使を制限する趣旨の規定を設けていること等からすると、公有水面の埋立承認処分に対する取消権行使は法的安定性の確保のためより制限されるべきものと解される。
(2)本件承認処分に瑕疵があるとしても、その瑕疵の性質は、裁量の範囲内の不当であり、すなわち、考慮すべき事情をいずれも考慮した上で、その利害調整において優劣の判断を誤ったというにすぎないものである。その不当性も事情評価の軽度な誤りであって、瑕疵の存否が一見して明らかなものではないから、その意味では瑕疵のある処分が存続することにより、取消権の根拠である法律による行政の原理が損なわれる程度は小さい。
 取り消すことによる不利益は、日米間の信頼関係の破壊、国際社会からの信頼喪失、本件埋立事業に費やした経費、第三者への影響がある。
 他方、取り消すべき公益上の必要としては、自然海浜を保護する必要等があげられるが、他方、本件埋立事業を行う必要性(普天間飛行場の危険性の除去)自体は肯定できるので、前者が後者に程度において勝ったというにすぎず、その分取り消すべき公益上の必要が減殺される。
 被告は、本件取消処分をしないことによって、沖縄県の自治が侵害され、更に、沖縄県民の民意に反し、地域振興開発の阻害要因を作出する旨主張する。しかし、本件埋立事業による普天間飛行場の移転は沖縄県の基地負担軽減に資するものであり、そうである以上本件新施設等の建設に反対する民意には沿わないとしても、普天間飛行場その他の基地負担の軽減を求める民意に反するとは言えない。また、本件埋立事業によって設置される予定の本件新施設等は、普天間飛行場の施設の半分以下の面積であって、その設置予定地はキャンプ・シュワブの米軍使用水域内であることからすれば、本件埋立事業が被告の主張する地域振興開発の阻害要因とは言えない。
(3)結論
 そうすると、そもそも取り消すべき公益上の必要が取り消すことによる不利益に比べて明らかに優越し
ているとまでは認められず、本件承認処分の取消しは許されない。
 
6 「法令の規定に違反する場合」(地方自治法245条の7第1項)の意義および原告が行える是正の指示(同条項)の範囲」について
(1)「法令の規定に違反する場合」(地方自治法245条の7第1項)の意義について
 被告は、その違法が全国的な統一性、広域的な調整等の必要という観点から、看過しがたいことが明らかである場合をいうと主張するが、その根拠とする「一定の行政目的を実現するため」とは、是正の指示(同法245条1号へ)とは異なる、地方自治法が、国に対し、できる限り地方公共団体に対して行うことのないよう求めているいわゆる非定型的関与に関する規定である。被告の主張は、地方自治法上是正の指示とは明確に区別してその利用を制限すべきものとされた非定型的関与の規定を、是正の指示にも適用すべきであるという失当なものであることが明白である。
(2)原告が行える是正の指示の範囲について
 被告は、原告の所掌事務である「国土の総合的かつ体系的な利用、開発及び保全」(国土交通省設置法3条1項)の範囲に限られ、かつ、法の目的の範囲内に限られるところ、本件指示理由は、国土交通大臣の所掌している事務でなく、かつ、法の目的ではない、外交および防衛であるので、本件指示は国土交通大臣の権限を逸脱するとして、違法である旨主張する。しかし、そもそも、是正の要求の要件が「各大臣は、その担任する事務に関し、都道府県の自治事務の処理が法令の規定に違反していると認めるとき」(地方自治法245条の5第1項)と規定しているのに対比して、是正の指示の要件は、「各大臣は、その所管する法律又はこれに基づく政令に係る都道府県の法定受託事務の処理が法令の規定に違反していると認めるとき」(同法245条の7第1項)と定めている。これは、法定受託事務に関する是正の指示については自治事務に関する是正の要求よりも広く、都道府県が処理する法定受託事務に係る法令を所管する大臣であることだけが要件とされており、自らの担任する事務に関わるか否かに関係なく、法定受託事務の処理が違法であれば、是正の指示の発動が許される趣旨と解される。よって、この点において被告の主張に理由がないことは明らかである。

7 「本件新施設等建設の法律上の根拠および自治権の侵害の有無」について
(1)本件新施設等建設の法律上の根拠について
 本件新施設等は、日米安全保障条約および日米地位協定に基づくものであり、憲法41条に違反するとはいえず、さらに、本件新施設等が設置されるのはキャンプ・シュワブの使用水域内に本件埋立事業によって作り出される本件埋立地であって、その規模は、普天間飛行場の施設の半分以下の面積であり、かつ、普天間飛行場が返還されることに照らせば、本件新施設等建設が自治権侵害として憲法92条に反するとはいえない。
(2)自治権の侵害の有無について
 地方自治法および法により許容される限度の国の関与が当然に憲法92条に違反するとは言えないところ、本件指示が地方自治法および法により許容され、本件新施設等についての沖縄の地理的必然性がないとはいえないことに加え、本件新施設等が設置されるのはキャンプ・シュワブの使用水域内に本件埋立事業によって作り出される本件埋立地であって、その規模は、普天間飛行場の施設の半分以下の面積であり、かつ、普天間飛行場が返還されることに照らせば、沖縄県自治権制限・米軍による環境破壊や事件事故等によって本件指示が憲法92条に違反するとはいえない。
 
8 「知事が本件指示に従わないことは違法と言えるか」について
(1)相当の期間の経過について

 法定受託事務に関する是正の指示がなされた場合は、地方公共団体はそれに従う法的義務を負い、それに係る措置を講じるのに必要と認められる期間、すなわち、相当の期間を経過した後は、それをしない不作為は違法となる。地方公共団体からする審査申出期間、審査期間および出訴期間は国の提訴を制限する期間である。相当期間がいつまでであるかについて、本件では、従前の代執行訴訟と主たる争点が共通することになることに鑑みると、遅くとも本件指示についての国地方係争処理委員会の決定が通知された時点では、是正の指示の適法性を検討するのに要する期間は経過したというべきであり、その後に本件取消決定を取り消す措置を行うのに要する期間は長くとも1週間程度と認められるから、本件訴えが提起された時点では相当期間を経過していることは明らかであり、被告が本件指示に従わないことは不作為の違法に当たると言える。
(2)不作為の違法の意義について
 被告は、地方公共団体の長に国地方係争処理委員会への審査申出やその後の訴え提起の途が開かれているにもかかわらず、それぞれ相応の一定期間を経過してもそうした対応をしないなどの一連の経過に照らし、地方公共団体の長の対応に故意または看過しがたい瑕疵のあることが認められて初めて不作為の違法が認定できると解すべきであると指摘する。しかし、平成24年改正で提訴対象を是正の要求・指示に限定する一方、国地方係争処理委員会への申立てを前置しなかったのは、重要案件につき、いずれが正しいにせよ、国と地方公共団体の対立により、違法状態が長く続くことは好ましくなく、迅速に処理すべきとされたこと等に照らし、国地方係争処理委員会の手続を経ても、是正の指示が撤回されるなど被告の不作為が違法である状態が解消されなかった以上、被告において、前記のとおり、最終的な解決手段として用意された訴え提起を行うことにより、自らの違法状態を解消することが地方自治法の趣旨に沿うものである。
 さらに、被告は、国地方係争処理委員会の本件指示の適法性について判断せずに協議すべきであるとの決定を尊重して、国の関与の取消訴訟を提起しなかったものであり、被告の不作為が違法とはならないと主張する。しかし、本件指示の適法性について判断しなかったことについては、国地方係争処理委員会は行政内部における地方公共団体のための簡易迅速な救済手続でありその勧告にも拘束力が認められていないことから、是正の指示の適法性を判断しても、双方共にそれに従う意思がないのであれば、それを判断しても紛争を解決できない立場である。また、国や地方公共団体に対し訴訟によらずに協議により解決するよう求める決定をする権限はなく、もちろん国や地方公共団体にそれに従う義務もない。代執行訴訟での和解では国地方係争処理委員会の決定が被告に有利であろうと不利であろうと被告において本件指示の取消訴訟を提起し、両者間の協議はこれと並行して行うものとされたところ、国地方係争処理委員会の決定は和解において具体的には想定しない内容であったとはいえ、元々和解において決定内容には意味がないものとしており、実際の決定内容も少なくとも是正の指示の効力が維持されるというものに他ならないのであるから、被告は本件指示の取消訴訟を提起すべきであったのであり、それをしないために国が提起することとなった本件訴訟にも同和解の効力が及び、協議はこれと並行して行うべきものと解するのが相当である。なお、同和解は代執行訴訟において被告が不作為の違法確認訴訟の確定判決に従うと表明したことが前提とされているところ、被告は本件においてもその確定判決に従う旨を述べており、被告にも国にも錯誤はなく、同和解は有効に成立した。
 本件のようにそれ自体極めて重大な案件であり、しかも、国にとって防衛・外交上、県にとって、歴史的経緯を含めた基地問題という双方の意見が真っ向から対立して一歩も引かない問題に対しては、互譲の精神により双方にとって多少なりともましな解決策を合意することが本来は対等・協力の関係という地方自治法の精神から望ましいとは考えるが、被告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、前の和解成立から約5カ月が経過してもその糸口すら見出せない現状にあると認められるから、その可能性を肯定することは困難である。そうすると、前記のとおり、平成11年及び平成24年の地方自治法の改正の経緯から、本件訴訟に対して所定の手続きに沿って速やかに中立的で公平な審理・判断をすべき責務を負わされている裁判所としてはその責務を果たすほかないと思料するものである。
                                              以上
 

【関連法令】
地方自治法(昭和二十二年四月十七日法律第六十七号)
(是正の指示)
第二百四十五条の七
 各大臣は、その所管する法律又はこれに基づく政令に係る都道府県の法定受託事務の処理が法令の規定に違反していると認めるとき、又は著しく適正を欠き、かつ、明らかに公益を害していると認めるときは、当該都道府県に対し、当該法定受託事務の処理について違反の是正又は改善のため講ずべき措置に関し、必要な指示をすることができる。
 (略)
 (略)
 (略)
                                   
(国の関与に関する訴えの提起)
第二百五十一条の五
 第二百五十条の十三第一項又は第二項の規定による審査の申出をした普通地方公共団体の長その他の執行機関は、次の各号のいずれかに該当するときは、高等裁判所に対し、当該審査の申出の相手方となつた国の行政庁(国の関与があつた後又は申請等が行われた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁)を被告として、訴えをもつて当該審査の申出に係る違法な国の関与の取消し又は当該審査の申出に係る国の不作為の違法の確認を求めることができる。ただし、違法な国の関与の取消しを求める訴えを提起する場合において、被告とすべき行政庁がないときは、当該訴えは、国を被告として提起しなければならない。
一 第二百五十条の十四第一項から第三項までの規定による委員会の審査の結果又は勧告に不服があるとき。
二 第二百五十条の十八第一項の規定による国の行政庁の措置に不服があるとき。
三 当該審査の申出をした日から九十日を経過しても、委員会が第二百五十条の十四第一項から第三項までの規定による審査又は勧告を行わないとき。
四 国の行政庁が第二百五十条の十八第一項の規定による措置を講じないとき。
 前項の訴えは、次に掲げる期間内に提起しなければならない。
一 前項第一号の場合は、第二百五十条の十四第一項から第三項までの規定による委員会の審査の結果又は勧告の内容の通知があつた日から三十日以内
二 前項第二号の場合は、第二百五十条の十八第一項の規定による委員会の通知があつた日から三十日以内
三 前項第三号の場合は、当該審査の申出をした日から九十日を経過した日から三十日以内
四 前項第四号の場合は、第二百五十条の十四第一項から第三項までの規定による委員会の勧告に示された期間を経過した日から三十日以内
 第一項の訴えは、当該普通地方公共団体の区域を管轄する高等裁判所の管轄に専属する。
 原告は、第一項の訴えを提起したときは、直ちに、文書により、その旨を被告に通知するとともに、
当該高等裁判所に対し、その通知をした日時、場所及び方法を通知しなければならない。
 当該高等裁判所は、第一項の訴えが提起されたときは、速やかに口頭弁論の期日を指定し、当事者を呼び出さなければならない。その期日は、同項の訴えの提起があつた日から十五日以内の日とする。
 第一項の訴えに係る高等裁判所の判決に対する上告の期間は、一週間とする。
 国の関与を取り消す判決は、関係行政機関に対しても効力を有する。
 第一項の訴えのうち違法な国の関与の取消しを求めるものについては、行政事件訴訟法第四十三条第一項 の規定にかかわらず、同法第八条第二項 、第十一条から第二十二条まで、第二十五条から第二十九条まで、第三十一条、第三十二条及び第三十四条の規定は、準用しない。
 第一項の訴えのうち国の不作為の違法の確認を求めるものについては、行政事件訴訟法第四十三条第三項 の規定にかかわらず、同法第四十条第二項 及び第四十一条第二項 の規定は、準用しない。
10 前各項に定めるもののほか、第一項の訴えについては、主張及び証拠の申出の時期の制限その他審理の促進に関し必要な事項は、最高裁判所規則で定める。
 
普通地方公共団体の不作為に関する国の訴えの提起)
第二百五十一条の七
 第二百四十五条の五第一項若しくは第四項の規定による是正の要求又は第二百四十五条の七第一項若しくは第四項の規定による指示を行つた各大臣は、次の各号のいずれかに該当するときは、高等裁判所に対し、当該是正の要求又は指示を受けた普通地方公共団体の不作為(是正の要求又は指示を受けた普通地方公共団体の行政庁が、相当の期間内に是正の要求に応じた措置又は指示に係る措置を講じなければならないにもかかわらず、これを講じないことをいう。以下この項、次条及び第二百五十二条の十七の四第三項において同じ。)に係る普通地方公共団体の行政庁(当該是正の要求又は指示があつた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁)を被告として、訴えをもつて当該普通地方公共団体の不作為の違法の確認を求めることができる。
一 普通地方公共団体の長その他の執行機関が当該是正の要求又は指示に関する第二百五十条の十三第一項の規定による審査の申出をせず(審査の申出後に第二百五十条の十七第一項の規定により当該審査の申出が取り下げられた場合を含む。)、かつ、当該是正の要求に応じた措置又は指示に係る措置を講じないとき。
二 普通地方公共団体の長その他の執行機関が当該是正の要求又は指示に関する第二百五十条の十三第一項の規定による審査の申出をした場合において、次に掲げるとき。
イ 委員会が第二百五十条の十四第一項又は第二項の規定による審査の結果又は勧告の内容の通知をした場合において、当該普通地方公共団体の長その他の執行機関が第二百五十一条の五第一項の規定による当該是正の要求又は指示の取消しを求める訴えの提起をせず(訴えの提起後に当該訴えが取り下げられた場合を含む。ロにおいて同じ。)、かつ、当該是正の要求に応じた措置又は指示に係る措置を講じないとき。
ロ 委員会が当該審査の申出をした日から九十日を経過しても第二百五十条の十四第一項又は第二項の規定による審査又は勧告を行わない場合において、当該普通地方公共団体の長その他の執行機関が第二百五十一条の五第一項の規定による当該是正の要求又は指示の取消しを求める訴えの提起をせず、かつ、当該是正の要求に応じた措置又は指示に係る措置を講じないとき。
 前項の訴えは、次に掲げる期間が経過するまでは、提起することができない。
一 前項第一号の場合は、第二百五十条の十三第四項本文の期間
二 前項第二号イの場合は、第二百五十一条の五第二項第一号、第二号又は第四号に掲げる期間
三 前項第二号ロの場合は、第二百五十一条の五第二項第三号に掲げる期間
 第二百五十一条の五第三項から第六項までの規定は、第一項の訴えについて準用する。
 第一項の訴えについては、行政事件訴訟法第四十三条第三項 の規定にかかわらず、同法第四十条第二項 及び第四十一条第二項 の規定は、準用しない。
 前各項に定めるもののほか、第一項の訴えについては、主張及び証拠の申出の時期の制限その他審理の促進に関し必要な事項は、最高裁判所規則で定める。
 
公有水面埋立法(大正十年四月九日法律第五十七号)
第四条 都道府県知事ハ埋立ノ免許ノ出願左ノ各号ニ適合スト認ムル場合ヲ除クノ外埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ズ
一 国土利用上適正且合理的ナルコト
二 其ノ埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノナルコト
三 埋立地ノ用途ガ土地利用又ハ環境保全ニ関スル国又ハ地方公共団体(港務局ヲ含ム)ノ法律ニ基ク計画ニ違背セザルコト
四 埋立地ノ用途ニ照シ公共施設ノ配置及規模ガ適正ナルコト
五 第二条第三項第四号ノ埋立ニ在リテハ出願人ガ公共団体其ノ他政令ヲ以テ定ムル者ナルコト並埋立地ノ処分方法及予定対価ノ額ガ適正ナルコト
六 出願人ガ其ノ埋立ヲ遂行スルニ足ル資力及信用ヲ有スルコト
 前項第四号及第五号ニ掲グル事項ニ付必要ナル技術的細目ハ国土交通省令ヲ以テ之ヲ定ム
 都道府県知事ハ埋立ニ関スル工事ノ施行区域内ニ於ケル公有水面ニ関シ権利ヲ有スル者アルトキハ第一項ノ規定ニ依ルノ外左ノ各号ノ一ニ該当スル場合ニ非ザレバ埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ス
一 其ノ公有水面ニ関シ権利ヲ有スル者埋立ニ同意シタルトキ
二 其ノ埋立ニ因リテ生スル利益ノ程度カ損害ノ程度ヲ著シク超過スルトキ
三 其ノ埋立カ法令ニ依リ土地ヲ収用又ハ使用スルコトヲ得ル事業ノ為必要ナルトキ
 

【2016年3月4日和解に関する文書】
(事件の表示)
福岡高等裁判所那覇支部 平成27年(行ケ)第3号
地方自治法第245条の8第3項の規定に基づく埋立承認処分取消処分取消命令請求事件
原告 国土交通大臣 石 井 啓 一
被告 沖縄県知事 翁 長 雄 志
及び
同支部 平成28年(行ケ)第1号
地方自治法第251条の5に基づく違法な国の関与の取消請求事件
原告 沖縄県知事 翁 長 雄 志
被告 国土交通大臣 石 井 啓 一
 
(和解勧告文)
(注記 和解手続は非公開で行われることにご留意いただき、本書面は当事者限りとしていただきたい。)
 現在は、沖縄対日本政府という対立の構図になっている。それは、その原因についてどちらがいい悪いという問題以前に、そうなってはいけないという意味で双方ともに反省すべきである。就中、平成11年地方自治法改正は、国と地方公共団体が、それぞれ独立の行政主体として役割を分担し、対等・協力の関係となることが期待されたものである。このことは法定受託事務の処理において特に求められるものである。同改正の精神にも反する状況になっている。
 本来あるべき姿としては、沖縄を含めオールジャパンで最善の解決策を合意して、米国に協力を求めるべきである。そうなれば、米国としても、大幅な改革を含めて積極的に協力をしようという契機となりうる。
 そのようにならず、今後も裁判で争うとすると、仮に本件訴訟で国が勝ったとしても、さらに今後、埋
立承認の撤回がされたり、設計変更に伴う変更承認が必要となうたりすることが予想され、延々と法廷闘争が続く可能性があり、それらでも勝ち続ける保証はない。むしろ、後者については、知事の広範な裁量が認められて敗訴するリスクは高い。仮に国が勝ち続けるにしても、工事が相当程度遅延するであろう。他方、県が勝ったとしても、辺野古移設が唯一の解決策だと主張する国がそれ以外の方法はありえないとして、普天間飛行場の返還を求めないとしたら、沖縄だけで米国と交渉して普天間飛行場の返還を実現できるとは思えない。
 そこで、以上の理由から、次のとおり和解案を2案提示する。まずは、A案 を検討し、否である場合にB案 を検討されたい。なおA案B案ともアウトラインを示したものであり、手直しの余地はあるので、前向きな提案があれば考慮する。
 A案 被告は埋立承認取消を取り消す。原告(国)は、新飛行場をその供用開始後30年以内に返還または軍民共用空港とすることを求める交渉を適切な時期に米国と開始する。返還等が実現した後は民間機用空港として国が運営する。原告(国)は、埋立工事及びその後の運用たおいて、周辺環境保全に最大限の努力をし、生じた損害については速やかに賠償することとする。国は、普天間飛行場の早期返還に一層努力し、返還までの間は、特段の事情変更がない限り、普天間爆音訴訟一審判決(那覇地裁沖縄支部平成24年(ワ)第290号等)の基準(コンター図w75区域及びw80区域居住者につきそれぞれw75は一日150円、w80は300円とするもの)に従って、任意に損害を賠償する。被告(県)は、原告(国)がこれらを遵守する限りにおいて埋立工事及びその後の運用に協力する。
 B案 原告は、本件訴訟を、沖縄防衛局長は原告に対する行政不服審査法に基づく審査請求をそれぞれ取り下げる。沖縄防衛局長は、埋立工事を直ちに中止する。原告と被告は違法確認訴訟判決まで円満解決に向けた協議を行う。被告と原告は、違法確認訴訟判決後は、直ちに判決の結果に従い、それに沿った手続を実施することを相互に確約する。
                                          以上 
 
(和解条項)
1 当庁平成27年(行ケ)第3号事件原告(以下「原告」という。)は同事件を、同平成28年(行ケ)第1号事件原告(以下「被告」という。)は同事件をそれぞれ取り下げ、各事件の被告は同取下げに同意する。
2 利害関係人沖縄防衛局長(以下「利害関係人」という。)は、被告に対する行政不服審査法に基づく審査請求(平成27年10月13日付け沖防第4514号)及び執行停止申立て(同第4515号)を取り下げる。利害関係人は、埋立工事を直ちに中止する。
3 原告は被告に対し、本件の埋立承認取消に対する地方自治法245条の7所定の是正の指示をし、被告は、これに不服があれば指示があった日から1週間以内に同法250条の13第1項所定の国地方係争処理委員会への審査申出を行う。
4 原告と被告は、同委員会に対し、迅速な審理判断がされるよう上申するとともに、両者は、同委員会が迅速な審理判断を行えるよう全面的に協力する。
5 同委員会が是正の指示を違法でないと判断した場合に、被告に不服があれば、被告は、審査結果の通知があった日から1週間以内に同法251条の5第1項1号所定の是正の指示の取消訴訟を提起する。
6 同委員会が是正の指示が違法であると判断した場合に、その勧告に定められた期間内に原告が勧告に応じた措置を取らないときは、被告は、その期間が経過した日から1週間以内に同法251条の5第1項4号所定の是正の指示の取消訴訟を提起する。
7 原告と被告は、是正の指示の取消訴訟の受訴裁判所が迅速な審理判断を行えるよう全面的に協力する。
8 原告及び利害関係人と被告は、是正の指示の取消訴訟判決確定まで普天間飛行場の返還及び本件埋立事業に関する円満解決に向けた協議を行う。
9 原告及び利害関係人と被告は、是正の指示の取消訴訟判決確定後は、直ちに、同判決に従い、同主文及びそれを導く理由の趣旨に沿った手続を実施するとともに、その後も同趣旨に従って互いに協力して誠実に対応することを相互に確約する。
10 訴訟費用及び和解費用は各自の負担とする。