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『忘れられた皇軍』(大島渚監督)とTVドキュメンタリーの未来

 今晩(2014年1月13日)配信した「メルマガ金原No.1604」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
『忘れられた皇軍』(大島渚監督)とTVドキュメンタリーの未来
 
 昨日の深夜(日付も変わって今日になっていましたが)、あるドキュメンタリー番組が映されました。しかも、日本テレビ系列各局が放送する番組にもかかわらず、朝日新聞デジタルが大きく事前報道するという異例の扱いでした。
 
(放送された番組)
(本放送)
2014年1月13日(月)午前0時50分~(1時45分) 日本テレビ系列(地上波)
(再放送)
2014年1月19日(日)午前11時00分~ BS日テレ
2014年1月19日(日)午後6時00分~ CS「日テレニュース24」
NNNドキュメント'14の番組案内から引用開始)
2013年1月、大島渚監督が逝った。「大島渚は不器用で、反国家むきだしにして体を張って闘っていた」そんな大島の魂がこめられたドキュメンタリーが、日本テレビに遺されている。『忘れられた皇軍』(1963年放送) 日本軍属として戦傷を負い、戦後、韓国籍となった旧日本軍の兵士たち。片腕と両眼を失った白衣の傷痍軍人が何の補償も受けられぬまま、街頭で募金を集める…大島は一体何を訴えようとしたのか?当時の制作スタッフや妻・小山明子の証言からひもとき、テレビと映画2つのフィールドで活躍する是枝裕和監督や同時代を生きたジャーナリスト田原総一朗と共に考える。50年を経た今、大島の映像は少しも古びることなく、見る者を激しく揺さぶる。テレビを考え抜いた映画監督、大島の遺言とは?
(引用終わり)
 
朝日新聞デジタルの事前報道)
2014年1月12日13時54分
(抜粋引用開始)
 昨年1月15日に亡くなった大島渚(なぎさ)監督のドキュメンタリー作品「忘れられ
皇軍」が半世紀ぶりにテレビで再放送される。DVD化もされていないため、幻の作品とされていた。ファンからもう一度見たいとの声が多く寄せられ、大島監督の没後1年を機に再放送が決まった。
 「忘れられた皇軍」は、1963年、日本テレビの「ノンフィクション劇場」で放送された約30分間の映像だ。日本軍に従軍し戦傷を負いながら、戦後、韓国籍となり社会保障制度からはじかれた元兵士を追う。
 戦争で失った両目からこぼれる涙をカメラはアップでとらえる。大島監督は「カメラは加害者」と話し、怒りや悲しみなど、戦傷者が感情をあらわにした瞬間を容赦なくアップで撮影。電車内や海水浴場など東京五輪前年で盛り上がる街と白装束で募金活動する姿の対比を映し出す。最後は「日本人よ、私たちはこれでいいのだろうか」というナレーションで締めくくっている。(後略)
(引用終わり)
 
 私は、番組が始まる1時間余り前に Facebook で流れていた情報でこの放送を知り(映画監督の太田隆文さんがシェアしていた情報)、かろうじて録画することができました。そして、今朝、じっくりとこの50分余りのドキュメンタリー番組を視聴しました。
 番組は、1963年8月16日に放送された『忘れられた皇軍』本編(約26分)をあいだにはさんだ構造になっており、冒頭から約8分、半世紀前の番組製作に関わった3人のスタッフ(カメラマン、音楽効果、編集)の証言が置かれ、それに引き続いて『忘れられた皇軍』全編が放映され、その後、小山明子さん(女優・大島渚督の妻)、田原総一朗さん(ジャーナリスト)、是枝裕和さん(映画監督)から、『忘れられた皇軍』へのコメントが語られます。
 
 『忘れられた皇軍』については、「作品自体を見て欲しい」と言うしかないのですが(1月19日にBSとCSで再放送されます)、以下に若干の感想を記しておきます。
 
○スタッフの証言にもありましたが、クローズアップの多用という手法が印象的です。技術的な要因として、半世紀前のテレビのブラウン管(液晶などではない)の画面が「小さかった」ということの他、番組が30分枠(コマーシャルを除けば26分弱)という長さしかなく、視聴者に短い時間で強い印象を与えるための手法として採用されたという面があるように思いました。もちろん、対象に対して少しでも肉薄したいという表現者としての欲求ということもあったでしょう。
 
○作品前半、「元日本軍在日韓国人傷痍軍人会」のメンバーが、首相官邸国会議事堂前を行進)→外務省→(千鳥ヶ淵戦没者墓苑で弁当)→大韓民国代表部と、戦傷に対する補償を求めて要請行動に回るものの、どこからも相手にされない一連のシークエンスを見ながら、私は黒澤明監督の『生きる』(1952年)を思い出していました(小さな公園を作って欲しいというささやかな陳情を行おうとする住民たちが市役所内をたらい回しされる)。
 
○朝日の記事にもあるとおり、時は1963年、場所は東京、初めてのオリンピック開催を翌年に控え、高度成長の軌道に乗り始めた日本の首都です。カメラは、在日韓国人の元軍人・軍属が、なぜ一切の補償を受けることができないのか?と訴える姿を横目で見ながら通り過ぎていく日本人の姿を執拗に捉えます。作品の最後でナレーター(小松方正さんだと思います)は視聴者にこう語りかけます。「日本(にっぽん)人たちよ、私たちよ、これでいいのだろうか?これでいいのだろうか?」と。もちろん、この言葉は大島渚監督が視聴者に突きつけた言葉であると同時に、自らに突きつけた言葉でもあったのであり、それが真率に伝わったからこそ、多くの人に忘れがたい感銘を与えたのだろうと思います。
 
 ところで、私はこの番組を見終わった後、「反骨のドキュメンタリスト 大島渚 『忘れられた皇軍』という衝撃」という番組タイトルは、「『忘れられた皇軍』(大島渚監督)とTVドキュメンタリーの未来」としても良かったと思いました。今書いている文章のタイトルはそこから来ています。
 この番組のディレクター・鈴木あづささんは、番組冒頭、日本テレビのフィルム所蔵庫を紹介するシーンに自ら登場した上で、「報道15年目・1児の母」というクレジットをあえて画面に表示しました。私はこれを見た瞬間、この番組にかけたディレクターの並々ならぬ覚悟を知って深く共感しました。大げさ過ぎると思われるでしょうか?

 そこで、番組を見ていない人にもディレクターの思いを伝えたく、一通り番組を見
終わった後、特に以下の部分を文字起こししましたのでご紹介します。
 それは、番組冒頭のナレーションと、『忘れられた皇軍』本編終了後の是枝裕和監督のコメント及びナレーションの一部です。
 これをお読みいただければ、私が「『忘れられた皇軍』(大島渚監督)とTVドキュメンタリーの未来」というタイトルを思いついた理由も納得していただけるのではないかと思います。
 
(番組冒頭のナレーションから)
 太平洋戦争中、日本兵として傷を負った朝鮮人の元兵士たち。戦後、何の補償も受けられずに街頭で訴える。衝撃だった。テレビから放たれる強烈な怒り。「今この時代にもう一度放送してみたい」、強くそう思った。
(略)
 怒りの人、大島渚。政治、経済、社会、あらゆる事象に対して怒りをぶつけていた。今、テレビは何かに怒っているだろうか?
 
(本編終了後の是枝裕和監督のコメントとナレーションから)
ナレーション 大島監督同様、テレビドキュメンタリーと映画、2つのフィールドで活躍する是枝裕和氏。『忘れられた皇軍』を見て衝撃を受けた1人だ。
是枝 大島さんが、生涯批判し続けたのは「被害者意識」ってものだったね、多分。「あの戦争は嫌だったね」っていう、「辛かったね」っていうさ、自分たちが何に荷担したのかっていうことに目をつぶって、被害意識だけを語るようになった日本人に対して、「君たちは加害者なのだ」ということを、あの番組で突きつけてるわけですよね。その強さに見入った人間たちは打ち震えたわけじゃないですか。
ナレーション 既成の概念や価値観に対峙し、それに挑み続けた大島渚。是枝監督は、その志をこそ、今のテレビに求めたいと言う。
是枝 社会全体の中で、多様性っていうのが失われてきていて、どんどん、特に今の政府になってから、ナショナリズムに、「保守」ではない、もうナショナリズムに改宗させられてきている、人々の信条が。それがある種の「救い」になってしまっているっていう気がしていて、それは非常に危険だなと思うんですね。やはり、多様性。だから、8割の人間を支持するのであれば、2割の側で何が出来るかっていうことを、やはりきちんと考えていくべきだなと僕は思ってるので。そこは、どの位作り手がそれを意識できるかが勝負だなと思ってますけどね。支持されてなくても、視聴率が低くても作る。
ナレーション 日本でテレビが放送を開始して60年余り。未来に残すべきテレビとは?常に問い続けていくことが、大島監督が残した私たちへの宿題なのかもしれない。大島監督は、今のテレビに一体何と言葉をかけるだろうか?
是枝 「そんなことグダグダ言ってないでとにかく作れ」って言われますよ。「作ってから考えろ」って。とにかく作ると、カメラを回す。そっから何が出てくるかってことを必死で考えるってことじゃないですかね。
 
(本編の最後のナレーションを再度、番組の最後で繰り返す)
日本人たちよ
私たちよ
これでいいのだろうか?
これでいいのだろうか?
 
(参考サイト)
 在日韓国・朝鮮人が、司法試験に合格さえすれば、国籍を変えずに司法修習生になり、弁護士になれることは今や当たり前のことですが、その道を苦難の末に切り開いたのが金敬得弁護士(1949年~2005年)でした。和歌山県出身の金先生は、惜しくも2005年に病没されましたが、上記論考は、在日韓国朝鮮人・軍人軍属補償問題にとどまらず、戦後補償問題全般にわたっての鳥瞰図とも言うべきもので、是非ご一読いただければと思います。
 以下に、『忘れられた皇軍』の「その後」を理解する上で参考となる記述を抜粋してご紹介します。
(引用開始)
 在日韓国人の傷痍軍人・軍属は、90年代に入って、援護法の適用を求める訴訟を提起した。いずれも敗訴したが、判決理由の中に注目すべき付言があった。例えば、東京高裁は、98年9月、『日韓両国の外交交渉を通じて、日韓請求権協定の解釈の相違を解消し、適切な対応を図る努力をするとともに、援護法の国籍条項…を改廃して、在日韓国人にも同法適用の道を開くなどの立法をすること、または…これに相応する行政上の特別措置を採ることが強く望まれる。』とした。判決の2年後、『平和条約国籍離脱者等の戦没者遺族等への弔慰金等支給法』が作られ、戦死傷者の遺族に対して260万円の弔慰金、戦傷者本人に対しては見舞金200万円と特別給付金200万円の合計400万円が支給されている(2003年3月末現在、計237件)。
 援護法は、国家補償の精神に基づき年金が支給されるのに対し、台湾人、在日韓国人には人道の見地から一回限りの弔慰金や見舞金が支払われるのみで、金額にも顕著な差があった。在日韓国人の原告である石成基さんに400万円が支給されたが、それは同様の被害を受けた日本国民への年金総額の20分の1にすぎない。
(引用終わり)