集団的自衛権をめぐる10年前の議論を振り返る~豊下楢彦氏、本間浩氏、森本敏氏、そして山口那津男議員(参議院憲法調査会)
今晩(2014年4月14日)配信した「メルマガ金原No.1696」を転載します。
なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
2000年(平成12年)1月から2007年(平成19年)8月まで、「日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うため、各議院に憲法調査会を設ける」(国会法第102条の6)との規定に基づき、衆議院憲法調査会及び参議院憲法調査会がそれぞれ設置されて調査活動が行われ、その成果は、それぞれ報告書の形でまとめられています。
同附属資料
それらの資料を博捜する時間はとてもとれていませんが、集団的自衛権に関する資料を探していて、たまたま参議院憲法調査会会議録の中から、第159回国会(常会)における第2回憲法調査会(平成16年2月25日)の会議録が目に止まりました。
この会議録に注目したのは、取り上げられたテーマが「平和主義と安全保障―憲法と集団安全保障、集団的自衛権、日米安保」というものであったこと、3人の参考人の1人が、その3年後に名著『集団的自衛権とは何か』(岩波新書)を刊行することになる豊下楢彦(とよした・ならひこ)氏(関西学院大学法学部教授/当時)であったことによります。
この日、意見陳述し、議員からの質問に答えた参考人は以下の3人の方々でした(肩書きはいずれも当時のもの)。
豊下 楢彦 氏 (関西学院大学法学部教授)
それでも、10年経った現在でも、質疑の部分を含め、非常に参考になる意見が陳述されています。
(抜粋引用開始)
基調発言から
そうしますと、今、日本は一体どこを目指すのかということになります。私たち今、集団的自衛権を議論する場合に、国会でもマスメディアもそうでありますけれども、何か自明のこととして、何か共通の見解がある、共通の認識があるという前提で話がされておるようでございますけれども、その場合に、集団的自衛権を論ずるときに、一体(国連)憲章五十一条に基
づいた集団的自衛権なのか、あるいはアメリカ的、あるいはイスラエル的自衛権の概念(予防戦争)に基づいた集団的自衛権なのか、この点をきっちりと峻別して議論する必要があるんじゃないかというふうに思います。
次に、集団的自衛権を主張される場合に、問題はその行使できる権利を獲得することであって、実際にそれを使うかどうかということは別問題なんだと。だから、集団的自衛権の権利を確保したからといって、それはしかしあくまで慎重に、主体的判断でもって対応するんだという議論が行われております。その前提にありますのは、集団的自衛権に入ることによって
次に、集団的自衛権を主張される場合に、問題はその行使できる権利を獲得することであって、実際にそれを使うかどうかということは別問題なんだと。だから、集団的自衛権の権利を確保したからといって、それはしかしあくまで慎重に、主体的判断でもって対応するんだという議論が行われております。その前提にありますのは、集団的自衛権に入ることによって
日本はアメリカとの間で対等のパートナーになれるんだという、そういう考え方、認識があるんではないかと思います。
しかし、改めて考えてみますと、七〇年代、八〇年代以来このような議論はずっとあったわけでありまして、日米関係において日本が軍事的役割を増大させるたびにこのようなイコールパートナー論というものが出てまいりました。しかし、私は、かつて「安保条約の論理」(「安保条約の成立」?)という本を出しましたときに、それはやはり自立幻想の論理、つまり軍事的役割を増大させたからあたかも一人前になったかのようなわけですけれども、実際はより一層アメリカの軍事戦略の中に包摂されていくんではないかというふうに思います。
そもそも、この間、集団的自衛権の議論が出てきましたのはアーミテージ報告であって、日米軍事共同作戦の障害を排除するためにということで強く主張されてきました。したがって、例えば、具体的に考えますと、仮にあしたでも小泉政権が解釈を変えて集団的自衛権が行使できるというふうになった場合には、直ちにアメリカは名実ともにアメリカの軍事作戦体制の中に自衛隊を組み込むだろうと思います。その段階で拒否をするということになりますと、いわゆる主体的判断するんだということになりますと、これはアメリカからすれば正に裏切りということになるんではないかと思います。
しかし、改めて考えてみますと、七〇年代、八〇年代以来このような議論はずっとあったわけでありまして、日米関係において日本が軍事的役割を増大させるたびにこのようなイコールパートナー論というものが出てまいりました。しかし、私は、かつて「安保条約の論理」(「安保条約の成立」?)という本を出しましたときに、それはやはり自立幻想の論理、つまり軍事的役割を増大させたからあたかも一人前になったかのようなわけですけれども、実際はより一層アメリカの軍事戦略の中に包摂されていくんではないかというふうに思います。
そもそも、この間、集団的自衛権の議論が出てきましたのはアーミテージ報告であって、日米軍事共同作戦の障害を排除するためにということで強く主張されてきました。したがって、例えば、具体的に考えますと、仮にあしたでも小泉政権が解釈を変えて集団的自衛権が行使できるというふうになった場合には、直ちにアメリカは名実ともにアメリカの軍事作戦体制の中に自衛隊を組み込むだろうと思います。その段階で拒否をするということになりますと、いわゆる主体的判断するんだということになりますと、これはアメリカからすれば正に裏切りということになるんではないかと思います。
よく考えてみますと、周辺事態法のときに、当時の小渕首相は、アメリカから要請があれば、日米同盟の本旨からして、つまり安保条約の本旨からして拒否をすることはあり得ないというふうに申しました。これは誠に私は正直な御答弁だったと思います。つまり、戦後日本外交の路線そのままを小渕首相は言明されたんではないかと思います。つまり、ここの前提は、日本の国益とアメリカの国益、日本の政策目標とアメリカの政策目標が自動的に合致する、したがって拒否することはあり得ないという、そのようなお立場だろうと思います。
しかし、もし今、主体的判断あるいは歯止めを掛けるんだということがあれば、この小渕首相の論理というものを超える必要があると思います。それは恐らく、戦後日本外交総体を検討し直すところから出てくるんではないかというふうに思います。
舛添要一議員の質問に答えて
私は、九月十一日の場合は非国家的アクターによる攻撃なものですから、自衛権の発動についてもいろいろ国際法学者で議論ありました。しかし、いずれにしましても、私は今、集団的自衛権を論じる今日的意味はないんじゃないかと思う。
というのは、集団的自衛権というのは国家と国家の間の戦争を前提にしてきたわけであって、だから、AがBに対して攻撃を加え、そしてBと密接な関係にあるCがBを助けるためにAと戦う、Bをアメリカとし、Cを日本とした場合に、今果たしてAという国家があるのかということなんですね。アメリカに対して国家として武力攻撃を掛ける国家が今あるならばリアリティーありますけれども、現実にはない。しかも、今仮に九月十一日のようなことが再び起こったとしても、当時はタリバンの支配するアフガニスタンという国家がありましたけれども、今は存在しません。そうしますと、アメリカは攻撃しようにもどこも攻撃しようがない。そうしますと、あり得るのはアメリカによる予防戦争だと。
したがって、私は原理的な意味において、今、集団的自衛権を論じるリアリティーは実はないんだというふうに考えております。
というのは、集団的自衛権というのは国家と国家の間の戦争を前提にしてきたわけであって、だから、AがBに対して攻撃を加え、そしてBと密接な関係にあるCがBを助けるためにAと戦う、Bをアメリカとし、Cを日本とした場合に、今果たしてAという国家があるのかということなんですね。アメリカに対して国家として武力攻撃を掛ける国家が今あるならばリアリティーありますけれども、現実にはない。しかも、今仮に九月十一日のようなことが再び起こったとしても、当時はタリバンの支配するアフガニスタンという国家がありましたけれども、今は存在しません。そうしますと、アメリカは攻撃しようにもどこも攻撃しようがない。そうしますと、あり得るのはアメリカによる予防戦争だと。
したがって、私は原理的な意味において、今、集団的自衛権を論じるリアリティーは実はないんだというふうに考えております。
(引用終わり)
どうでしょう。豊下先生の指摘は10年経っても全く古びていないとは思いませんか?
なお、この日の審議で、参考人からの意見聴取(質疑を含む)を終えた後、「委員相互間の意見交換」が行われました。
(山口那津男議員の発言から引用開始)
集団的自衛権について、これまでの国会論議を振り返って、私の現在の所感を述べたいと思います。
集団的自衛権をめぐる政府の憲法解釈はにわかに変える必要はないと考えております。その理由を三つ述べます。
まず一つは、長年にわたる安定した、定着した考え方でありますということであります。
これについて幾つかの批判があるわけですが、その一つは、保有しているのに行使できないのはおかしいというものであります。国連憲章を始めとする国際法秩序と憲法を頂点とする国内法秩序を混同した批判でありまして、説得力に欠けるものと思います。国際法上の権利を持っている、しかしそれを国内法で制限をするということは十分可能でありまして、そういう立法例は数々あるわけであります。
次の第二の批判として、内閣法制局の集団的自衛権の定義がおかしいというものもあるわけでありますが、国連憲章や憲法に定義が明記されていない以上、内閣法制局が定めた定義に従って、同じ定義を使ってその当否を論ずるという議論をしなければ到底かみ合わない、空回りの議論になっているということであります。
三番目の批判として、武力行使が片務的であるのはおかしいと、こういう批判もあります。しかし、同盟関係というのが武力行使の双務性を必須としているというわけでもありません。現に日米安保条約は片務的と言われながらも長年存在してきたわけであります。また、NATOの同盟の中にも、アイスランドは基地を提供し、自ら軍隊を持たないで同盟関係を維持していると、こういう在り方も存在するわけであります。
四番目の批判として、在日米軍基地への攻撃に集団的自衛権を使うべきであると、こういう主張もあるわけでありますが、しかし、こういった場合を想定するときに、日本の領土、領空、領海、すなわち領域を侵すことなくしてそういう事態は考えられないわけでありまして、これは個別的自衛権の行使で十分に対応できる、我が国の安全は確保できると、こう思います。
いずれの批判もにわかに変更を必要とする論拠としては十分な説得力を欠いているものと、こう考えます。
第二番目の私の主張の理由でありますが、この長年政府が取ってきた政策は、日本の国益を決して損なってきたとは言えないということであります。そして、この点の議論というものが国会論戦の中には不足をしていると、こう思います。森本参考人が申し上げられたように、そのメリット、デメリット、これをブレークダウンして議論をする、こういう態度がこれからもっと必要だろうと思っております。
それから、三番目の私の主張の理由として、この長年日本が取ってきた政策を変更するという大きな情勢の変化というものは見られないということであります。我が国の政策に対して近隣諸外国の理解はかなりの進んだものがありまして、そういう国々が我が国の政策の変更を現在望んでいるとも言い切れないと思います。そして、日本のこの政策は、長い間いろいろの国際情勢の変化はありましたけれども、ほぼ一貫して取られてきた政策であります。これを現在にわかに覆すだけの大きな状況変化、情勢変化が現れているという認識は持ち得ないわけであります。
以上、三つの理由からいたしまして、この集団的自衛権の行使を認める政策を日本が取るべきだという結論には至らないというのが私の現在の所感であります。
これで終わります。
集団的自衛権をめぐる政府の憲法解釈はにわかに変える必要はないと考えております。その理由を三つ述べます。
まず一つは、長年にわたる安定した、定着した考え方でありますということであります。
これについて幾つかの批判があるわけですが、その一つは、保有しているのに行使できないのはおかしいというものであります。国連憲章を始めとする国際法秩序と憲法を頂点とする国内法秩序を混同した批判でありまして、説得力に欠けるものと思います。国際法上の権利を持っている、しかしそれを国内法で制限をするということは十分可能でありまして、そういう立法例は数々あるわけであります。
次の第二の批判として、内閣法制局の集団的自衛権の定義がおかしいというものもあるわけでありますが、国連憲章や憲法に定義が明記されていない以上、内閣法制局が定めた定義に従って、同じ定義を使ってその当否を論ずるという議論をしなければ到底かみ合わない、空回りの議論になっているということであります。
三番目の批判として、武力行使が片務的であるのはおかしいと、こういう批判もあります。しかし、同盟関係というのが武力行使の双務性を必須としているというわけでもありません。現に日米安保条約は片務的と言われながらも長年存在してきたわけであります。また、NATOの同盟の中にも、アイスランドは基地を提供し、自ら軍隊を持たないで同盟関係を維持していると、こういう在り方も存在するわけであります。
四番目の批判として、在日米軍基地への攻撃に集団的自衛権を使うべきであると、こういう主張もあるわけでありますが、しかし、こういった場合を想定するときに、日本の領土、領空、領海、すなわち領域を侵すことなくしてそういう事態は考えられないわけでありまして、これは個別的自衛権の行使で十分に対応できる、我が国の安全は確保できると、こう思います。
いずれの批判もにわかに変更を必要とする論拠としては十分な説得力を欠いているものと、こう考えます。
第二番目の私の主張の理由でありますが、この長年政府が取ってきた政策は、日本の国益を決して損なってきたとは言えないということであります。そして、この点の議論というものが国会論戦の中には不足をしていると、こう思います。森本参考人が申し上げられたように、そのメリット、デメリット、これをブレークダウンして議論をする、こういう態度がこれからもっと必要だろうと思っております。
それから、三番目の私の主張の理由として、この長年日本が取ってきた政策を変更するという大きな情勢の変化というものは見られないということであります。我が国の政策に対して近隣諸外国の理解はかなりの進んだものがありまして、そういう国々が我が国の政策の変更を現在望んでいるとも言い切れないと思います。そして、日本のこの政策は、長い間いろいろの国際情勢の変化はありましたけれども、ほぼ一貫して取られてきた政策であります。これを現在にわかに覆すだけの大きな状況変化、情勢変化が現れているという認識は持ち得ないわけであります。
以上、三つの理由からいたしまして、この集団的自衛権の行使を認める政策を日本が取るべきだという結論には至らないというのが私の現在の所感であります。
これで終わります。
(引用終わり)
(参考サイト)
豊下楢彦氏が書かれた国民必読の3冊
(参考書籍)