今晩(2014年4月28日)配信した「メルマガ金原No.1710」を転載します。
なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
いよいよ明日(2014年4月29日)、3年間の歴史に幕を閉じる「Cafe ざっか屋 あわたま」(和歌山市浜の宮海水浴場前)において、今晩、シンガー・ソングライターよしだよしこさんのライブがあり、素晴らしい演奏の余韻にひたりながら「あわたま」をあとにしたのが夜の10時過ぎ。さすがに帰宅してからじっくりとメルマガ(ブログ)を書いている時間はないので、先週の
浦部先生は、「国際法上、自衛権とは、国家または国民に対して急迫不正の現実の侵害があった場合にやむを得ず実力をもってその侵害を排除する国家の権利 」という一応の定義を紹介した上で、「そもそも、国際法上『自衛権』というものがとくに問題とされるようになったのは、国際的な『戦争違法化』論のなかにおいてであった」と指摘し、第1次世界大戦
後の国際連盟成立(1920年)、不戦条約の締結(1928年)によって武力行使を違法とする国際法的な枠組みができあがったにもかかわらず、「米・英・仏など、それまで世界の分捕り合いをしてあちこちに植民地を確保してきた帝国主義列強や、そこに割り込んで新たな植民地の獲得・拡大をめざす日・独など新興帝国主義諸国は、植民地争奪戦をやめるわけ
そして、最後に大胆な(?)結論を提示されます。
(引用開始)
「他国から侵害を受けたときに実力をもってそれを排除し国を守ることは、主権国家として当然のことであり、そういう意味で『自衛権』は主権国家の固有の権利だ」という論理は、たしかに一般に受け入れられやすい。スーッと入ってくる論理だろう。だが、国際法の世界では、第1次世界大戦以前には、「自存権」(right of self-preservation)なるものが、国家の基
本権・絶対権だとされていた(日本では、「国家の生存権」などと言われることもあった)。「自存権」とは、たんに他からの侵害を排除すること(「自衛」)だけでなく、国を発展させ拡大すること、つまり、経済的・軍事的な力を増加させ、福利を増進させ、物資・資源を獲得し、領土を拡大することなど、を含む国家の権利だとされていた(横田喜三郎著『自衛権』参照)。かつての「大日本帝国」も、「自存自衛」を掲げてアジアを侵略し米・英などとの戦争に突き進んだ。こんな「権利」が国家の基本権・絶対権だなどという理屈は、いまではとうてい通用しないであろう。でも、それが国家の絶対的基本権だとされて疑われなかった時代があったのである。だから、自衛権は国家の固有の権利だという理屈も、決して普遍・不変のものではないはずだと、私は考える。
日本国憲法は、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」した(憲法前文)。これは、まさしく「帝国主義との決別宣言」である。そういう憲法のもとでは、「帝国主義の遺物」たる「自衛権」概念は、入り込む余地がないというべきである。それでも、《どこかから攻められたらどうするんだ!?》。でも、攻められたら、とくに日本のような小さな島国では、攻められたらどのみち「終わり」である。だから、「攻められたらどうするか」ではなく「攻められないようにするにはどうするか」を考えるのが、それこそ「現実的」な方策だと思う。
(引用終わり)
思わず「大胆な」と書いてしまいましたが、日本国憲法を素直に読めば浦部先生の解釈が正統的な解釈なのでしょうね。最近、安倍晋三首相や安保法制懇の無茶苦茶な主張に論駁するため、従来の政府公権解釈を1人でも多くの人に理解してもらおうと、元内閣法制局長官であった阪田雅裕さんの主張などを大いに参考にしながら、学習会の講師を務
めたりメルマガ(ブログ)を書いたりしてきましたので、「自衛権」「自衛隊」の存在は憲法上認められて当然という、しばらく前までの自民党政権の閣僚のような気分(?)になりがちであったのですが、他方で、あらためて浦部先生のような主張を対置することの重要性を再認識したという次第です。
もっとも、当面の憲法学習会で、浦部説を強調するかどうかはまた別問題なのですが。
(参考記事)
2013年2月25日
2013年7月30日
2013年9月26日