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wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

“恥知らず内閣”の面目躍如 高村試案の呆れた“論理”

憲法 政治

 

 今晩(2014年6月25日)配信した「メルマガ金原No.1768」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
“恥知らず内閣”の面目躍如 高村試案の呆れた“論理”
 
 集団的自衛権について論じた論文・書籍を読んだことのある者ならともかく、普通の人は、「1972年の自衛権に関する政府見解」と言われても、何のことか分かりませんよね。
 マスコミの報じるところによれば、来週7月1日にも閣議決定されるという「憲法第9条の下で許容される自衛の措置」が、実はこの1972年政府見解を下敷きにしているとされるのですが、これがいかに「あり得ない」解釈であるかを確認するため、1972年政府見解と、これを下敷きにしたとされる高村正彦自民党副総裁試案(これが閣議決定の原案と言われて
ます)の各全文を、記録にとどめるために以下に引用します。
 
 まず、1972年政府見解ですが、これは「1972年10月14日、政府(田中角栄内閣)参議院決算委員会に対し、社会党の水口宏之議員によるかねてからの質問に応える形で、集団的自衛権に関する政府見解として、以下のような『資料』を提出した」(豊下楢彦集団的自衛権とは何か(2007年7月刊/岩波新書)』5頁)ものです。
 
1972年10月14日「資料」として参議院決算委員会に提出された政府見解
集団的自衛権憲法との関係」全文
(引用開始)
 国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約
文並びに日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。
 ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである。
 憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。
 しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
(引用終わり)
 
 虚心にこの「政府見解」を読めば、この文章が、「憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」と末尾にあるとおり、憲法上、集団的自衛権の行使が許されない理由を説明した文章であることは明らかであって、これをどうすれば、集団的自衛権の行使を容認するための文章に「お色直し」できるのか、常人には到底思いもつかない芸当です。
 
 それでは、その「芸当」を読んでみましょう。これは、昨日(2014年6月24日)行われた自民党と公明党による「安全保障法制の整備に関する与党協議会」において、その座長を務める自民党高村正彦副総裁が示した「試案」とされているものです。もっとも、一部報道によれば、公明党ともすり合わせ済みであり、「試案」という形にまとめたのは内閣法制局だろうと言われてる文章です。
 
高村座長試案全文
(引用開始)
 集団的自衛権の行使容認に関し、与党協議会座長の高村正彦自民党副総裁が24日に示した試案全文は次の通り。
憲法第9条の下で許容される自衛の措置】
(1)いかなる事態においても国民の命と暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のまま
では必ずしも十分な対応ができないおそれがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきた。その際、政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる。従って、従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要がある。
(2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているよ
に見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や第13条が「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を取ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来、政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月1日に参院決算委員会に対し、政府から提出された資料「集団的自衛権憲法との関係」明確に示されているところである。
 この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
(3)これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、わが国に対
する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたような根本的に変容し、変化し続けているわが国を取り巻く安全保障環境を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的・規模・態様等によっては、わが国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。このように、わが国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
(4)わが国による「武力の行使」が国際法を順守して行われることは当然であるが、国際法
の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合もある。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれるが、憲法上は、あくまでもわが国を防衛し、国民を守るためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものである。
(5)また、憲法上「武力の行使」が許容されるとしても、それが国民の命と暮らしを守るためのも
のである以上、民主的統制の確保が求められることは当然である。政府としては、わが国ではなく他国に対して武力攻撃が発生した場合に、憲法上許容される「武力の行使」を行うために自衛隊に出動を命ずるに際しては、現行法令に規定する防衛出動に関する手続きと同様、原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することとする。
(引用終わり)
 
 何がどう「おかしい」かは、是非、心ある国民の皆さん1人1人がこの2つの文章をじっくりと読み比べ、自分で考え抜いていただきたいですね。
 従って、以下に述べる私のコメントは、ご自分で考えていただくための「ヒント」に過ぎません(出来れば読まずにまず自分で考えてください)。
 
自衛隊が誕生してから60年、1972年の政府見解が示されてからだけでも42年もの長きにわたり、「集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」と解釈されてきたものを、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容される」と結論を180度転換しようというのですから、法律家の常識として、その「必要性」を挙証する責任は、解釈変更を主張する側にあることは当然です。
 そこでこの「試案」の中で、「憲法解釈の変更を必要とする理由」を説明した部分を抜き出してみたところ、それは以下のような箇所でした。
いかなる事態においても国民の命と暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがある
根本的に変容し、変化し続けているわが国を取り巻く安全保障環境を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的・規模・態様等によっては、わが国の存立を脅かすことも現実に起こり得る
 以上が全てです。法律家の目から見れば(一般人の目からでも同じことですが)、結局、全く何論証などしていません。法律論などかけらもありません。
 高村正彦自民党副総裁も、北側一雄公明党副代表も、ともに弁護士です。従って、この「試案」に憲法解釈の変更を「必要」とする、しかもそれが法的に「可能」であることを論証した部分など皆無であることは百も承知のはずです(それが分からないような人間が司法試験に通るはずはないでしょう)。
 もしもこの「試案」がそのまま「閣議決定」されたなら、与党協議や閣議に関わった「弁護士」全員に、「議員バッヂ」を外すかどうかは有権者が決めるにしても、法曹としての良心が少しでも残っいるのであれば、自ら「弁護士バッヂ」を外すことを勧告したいですね。
 
○1972年政府見解について「この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されければならない」と「堂々と」主張する面の皮の厚さには恐れ入るしかありません。
 これまでの1年半を振り返り、第二次安倍内閣の性格を一言で評するとすれば、私は「恥知らず内閣」という評語が最も適切だと思っています。慣例を破って内閣法制局長官に集団的自衛権行使容認派の外交官を据えたり、ろくでもない「お友達」や自分の元家庭教師をNHK営委員に任命したり、「恥を知る」従来のまともな政治家であれば到底なし得ないことを平然と出来るのがこの内閣の最大の特色です。
 この「高村試案」の「論理」も、「恥知らず内閣」の面目躍如と言うべきでしょう。
 
○いわゆる「新3要件」をもう一度読んでみましょう。
第1要件 わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、
→これが直接的に1972年政府見解を「パクった」部分であり、そのアイデアを最初に思いついたのが、公明党自民党か知りませんが、何とも呆れかえった「論理」であり、もしもアイデア提供者内閣法制局であったとすると(その可能性もなしとはしませんが)、歴代長官は怒りで夜も眠れないでしょう。個別的自衛権を行使することの合憲性を根拠付け、かつ集団的自衛権の行使を否定するために展開した憲法13条論を、全く逆の結論を得るために「借用」しようというのですか
ら、盗っ人猛々しいとはこのことです。
第2要件 これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、
→この補充性の要件は、個別的自衛権の行使をしばるためにこそ意味があるのであって、集団自衛権行使の場面では単なる「空念仏」に過ぎません。とりあえず言っておこうというだけのことです。
第3要件 必要最小限度の実力を行使すること
→かねてから柳澤協二さんが指摘されていることですが、個別的自衛権であれば、わが国にする急迫・不正の侵害を排除するという目的が明確ですから、その目的を達成するのに「必要小限」ということに意味がありますが、集団的自衛権では、一体何を達成することを「目的」としての「必要最小限」なのかが全く不明です。それに、日本の自衛隊が武力を行使して交戦状態に入った後に、当該「敵国」からどのような「反撃」が行われるか図りがたいのですから、「必要最小限」と言ったところが、これもやはり「言ってみただけ」であって、何のしばりにもなっていません。
 
○それに、閣議決定の内容をどのように書き換えようが、この内閣のやることは基本的に「言葉の遊び」です。要は、集団的自衛権を行使できる場合があるということを1箇所だけでも書きさえすれば良く、あとは何とでもなると思っていることは、多くの国民が見抜いています。
 従って、「新3要件」など無意味です。憲法を遵守しようとしない内閣が、たかが閣議決定の語句を忠実に守るだろうなどと考える者がいたとしたら、救いがたい愚か者と言うしかありません。