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wakaben6888のブログ

憲法を大事にし、音楽を愛し、原発を無くしたいと願う多くの人と繋がれるブログを目指します

「原発がこわい女たちの会ニュース」第98号が届きました

 今晩(2016年7月6日)配信した「メルマガ金原No.2502」を転載します。

 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。

 

原発がこわい女たちの会ニュース」第98号が届きました

 

 松浦雅代さんから、「原発がこわい女たちの会ニュース」の第98号が届きました。前号が届いた時、「ほぼ規則正しく3か月に1度届く同会のニュースですが、このままのペースを維持すれば、年末には記念すべき100号に到達します。「持続する志」というありきたりの賛辞だけでは追いつかない大変さがしのばれます」と書きましたが、ほぼ3か月のインターバルで第98号が届きました。いよいよ第100号へのカウントダウンが始まったというところでしょうか。
 ところで、前号では、汐見文隆先生の訃報が伝えられましたが、第97号が発行されて間もなく、寺井拓也さんが70歳の若さでご逝去されました。今号でも末尾に短い追悼文が掲載されていますが、「原発がこわい女たちの会」公式ブログには、5月28日に田辺の「ララロカレ」で開かれた「寺井拓也さんを偲ぶ会」の模様を含め、より詳しい追悼の文章が掲載されていますので、そちらも転載させていただきました。いずれ、私のメルマガ(ブログ)でも、追悼特集をお届けしたいと思っています。

 

原発がこわい女たちの会ニュース NO98号・2016年7月3日発行
事務局 〒640-0112和歌山市西庄1024-15 TEL・FAX073/451/5960松浦雅代方
原発がこわい女たちの会ブログ http://blog.zaq.ne.jp/g-kowai-wakayama/

福島事故の教訓どこへ
6月20日、関西電力高浜原発1、2号機を         
原子力規制委員会は40年超え60年まで運転延長を認可した。

 東京電力福島第一原発事故を経験した民主党政権下では30年代に「原発ゼロ」を目指すとしていたが2012年末、自民党安倍政権に交代し、「原発回帰」へと一変した。
 安倍政権下では2030年度の総発電量に占める原発の割合を20~22%とする計画を決めた。同じく事故を教訓とした運転期間の「40年ルール」も形骸化。運転延長は「極めて例外」のはずが今後も老朽化した40年超の原発を運転させる。高浜1、2号機の運転延長の審査は7月7日までに終了しないと廃炉になるために、熊本の地震についても無視したまま運転延長を認めた。なお適合性に係わる追加安全対策で2160億円かかり、再稼働の時期も工事が終わる2019年10月以降だ。なお同じく運転延長を申請している美浜3号炉は11月末が審査の期限。

◇6月20日に共同声明を出しました。同封しています。
 60年運転延長の原子炉は再稼働するまで時間があります引き続き反対して行きましょう。
(金原注)「脱原発わかやま」を含む19団体による共同声明が「原発がこわい女たちの会」公式ブログに掲載されています。ちなみに、19団体は以下のとおり。
福井から原発を止める裁判の会/高浜原発40年廃炉・名古屋行政訴訟を支える市民の会/原発設置反対小浜市民の会/ふるさとを守る高浜・おおいの会/避難計画を案ずる関西連絡会/脱原発はりまアクション/おおい原発止めよう裁判の会/3.11ゆいねっと京田辺原発なしで暮らしたい丹波の会/原発なしで暮らしたい宮津の会/脱原発わかやま/グリーン・アクション/美浜・大飯・高浜原発に反対する大阪の会/放射能のゴミはいらない!市民ネット・岐阜/川内原発30キロ圏住民ネットワーク/玄海原発プルサーマルと全基をみんなで止める裁判の会/国際環境NGO FoE Japan/福島老朽原発を考える会/原子力規制を監視する市民の会
「共同声明 40年超え老朽炉を廃炉に! 高浜原発1・2号機の運転期間延長認可に抗議」

◇「老朽原発廃炉に」の署名用紙同封しています。9月末まで
(金原注)
「40年超えの老朽原発 高浜1・2号、美浜3号は廃炉に」署名フォーマット
同署名用紙(PDF)
6月29日に行われた院内集会の動画をご紹介しておきます。
20160629 UPLAN 老朽炉を廃炉に!院内集会と署名提出(2時間30分)

 
高浜3、4号機→大津地裁仮処分その後の動き

 今年の3月9日の高浜3、4号機の仮処分決定に対して、(女たちの会ニュース-97号に記載)関西電力は執行停止申し立てをしていました。これに対して、6月17日、大津地裁は却下する決定をしました。今後、少なくとも仮処分異議に対する決定が出るまでの間、関西電力は高浜3、4号機の運転が出来ないことが確定しました。

◇報告:4月12日~14日・福島県を訪れました   梅原清子 

 今回の訪問の目的は、5年経った被災地の現状をみておくことと、佐藤栄佐久・元福島県知事と本宮市に避難中の橘 柳子さんに会って話を聞くこと。
 佐藤栄佐久さんは、原発がこわい女たちの会28年のつどいで「原発問題と地方の論理」と題して講演していただいたので、1年ぶりである。橘さんは、最近除染されたという浪江町のご自宅まで案内いただくことにした。
 4月12日、朝7時和歌山市を出発、東海道新幹線東北新幹線を乗り継いで14時に最初の訪問地・福島県郡山市に到着。総計すると確かに延々7時間だが、行き慣れた東京からはたったの1時間半。まずこの近さに驚いた。
 郡山駅から、佐藤栄佐久さんの従弟さんに案内していただいて、栄佐久氏ご自宅へ。ご夫妻で待っていてくださった。お二人には、昨年の和歌山(帰路には伊勢旅行された)の思い出を写真など交えて話され、歓待していただいた。
 栄佐久氏は退職金返納命令の取り消しを求めた訴訟で、今年2月仙台高裁において、返納一部取り消し(3期目取り消し)で一応決着。2006年の収賄罪で冤罪不当逮捕・起訴から10年という長期にわたったが、不本意ながらもこれら裁判闘争に一段落した、という局面におられる。(文末に佐藤栄佐久ブログ公式文を転載)
 栄佐久氏は福島県知事5期目に逮捕起訴された。栄佐久氏の弟さんがまだ任意で取り調べを受けているときに、「知事は日本にとってよろしくない。いずれは抹殺する」と担当検事が言い放ったように(平凡社刊『知事抹殺』より)、収賄額ゼロ円で収賄罪に問われるという不思議な裁判であった。この「国策」裁判の経緯を私たちは肝に銘じるとともに、栄佐久氏ブログの付記にもある闘う知事の姿勢に学びたい。
 この日の宿は、近くの磐梯熱海温泉・浅香荘。ここで先に待っていて下さった橘さんと合流して、かけ流しの温泉と美味しい料理を楽しむことができた。でも翌朝、部屋のカーテンを開けると、目にとび込んできたのが斜面一面の雑木林。雑木には赤いテープが張られていて、除染作業済みのサインがあった。ああここはフクシマなんだなあ、と思った。
 2日目は橘さんの案内で浪江町へ。いま橘さんが住んでいる仮設住宅からは橘 毅氏の運転で、本宮市を出発、二本松市、川俣町、飯舘村南相馬市浪江町へと進んだ。途中、休憩や昼食を挟みながらおよそ3時間の行程だ。
98号フレコンパック ちょうど春真っ盛りの頃で、あちこちには桜、そして椿に木蓮、レンギョウ水仙、芝桜などが競うように咲いていたが、進むにつれて車窓からの風景は、変わっていく。除染作業中の作業員の姿が見える。道路端の元田畑には、除染廃棄物を入れた黒いフレコンパックの山が続々と現れる。土をかぶせたものや塀で目隠しをしたものもある。
 放射線量を測る。測定値はあくまで参考値だが、次の通りである。
 前日の佐藤栄佐久氏自宅(除染済み、郡山市内)で測った時は、室内で放射線量0.08マイクロシーベルト毎時(以下、μSv/h )、テラスに出ると0.17μSv/h。
 浪江町までの走行中の車内では、0.2レベルだったが飯舘村に入ると0.5レベルにアップ。浪江町にある橘さん宅の庭では0.5μSv/h。除染済みでもこの値だ。橘さん宅の庭は以前、5μSv/h位あった。除染によって今回放射線はひと桁低くなったが、敷地南側の水路に近づくと1μSv/h近くになった。
98号請戸港 浪江町請戸港へ。ここは福島第一原発から約7㎞、写真の中央、消点あたりに原発サイトの排気塔が見える。左方、堤防の外側では護岸工事が始まっていた。
 311の津波に流された住宅の跡地では、基礎と土台部分がキチンと残っているのには妙に感心させられた。この辺りは以前来たときは雑草が生繁ってさっぱり見えなかったそうなので、この間に除草されたのだろう。避難指示解除の前触れと思われる。
 この請戸港近く見渡す限り荒涼とした一帯に、われわれ一行とガードマンさん以外は人けがなく、工事用のダンプだけが砂埃あげて走っていた。
 橘さん宅は、庭は雑草が抜きはらわれ、庭木は剪定、土が入れ替えられピッカピカになっていた。しかし除染済みでも放射線量は先に記したように0.5μSv/h。そして住宅内は、壁に亀裂が走り、避難当時の大混乱のまま家具や郵便物が散乱していた。ご近所も除染済みらしく外見上は閑寂な住宅街である。が、整地された庭土にイノシシとおぼしき足跡がみられたりして、人けのない住まいや町並みは正直いって異様な印象だ。休憩で立ち寄った川俣町のスーパーマーケットや昼食をとった南相馬市原町の喫茶店が、それなりにお客で賑わっていたのとも比べられない。
 テレビやネットの報道、映画や雑誌の映像などで見聞きする機会はたくさんあっても、実際に自分の目や足で確かめた経験は記憶の襞に張付く。今回初めて福島を訪れることができた。もちろん、足を踏み入れた場所や出会った人たちはごく限られた範囲である。よく言われるように、福島といっても地域差が大きく一括りにはできない、原発被災一色というのも間違い、それもその通りなのだろう。私は頭の中にあった福島のイメージを修正したり強化したりして、より確かなものにしていけたらと思う。  

佐藤栄佐久 公式ブログより転載】
2016年3月9日
福島県との退職手当返納命令に関する裁判についてのご連絡
退職手当返納命令に関する仙台高裁判決を受け発表したリリースを本サイトにも掲載いたします。
佐藤榮佐久
 福島県との間で退職手当返納命令に関して争っておりました、仙台高等裁判所平成27年(行コ)第14号退職手当返納命令取消請求控訴事件(原審・福島地方裁判所平成26年(行ウ)第6号)並びに同裁判所平成27年(ネ)第276号退職手当返還請求控訴事件及び同反訴請求事件(原審・福島地方裁判所平成26年(ワ)第131号)の各判決について、今般、上告及び上告受理申立をしないこととしましたので、ご連絡致します。
 なお、上記各判決において、収賄事件について冤罪である旨の主張が入れられなかった点について、上告理由及び上告受理申立の理由を構成するのが困難と判断しましたが、前提とされた収賄事件の判決は、最高裁において確定しているとはいえこれを是認することはできませんので、今後も新証拠の発見に鋭意努力し、再審によって身の潔白を図りたいと思っていることを付記させて頂きます。
以上
<連絡先> 
武藤正隆法律事務所  電話024?534?4111
佐藤榮佐久代理人 弁護士 武 藤 正 隆
               同  藤 井 和 久

橘毅氏に恐る恐る話をお聞きしました。 「生きるということ」→①
2016年4月13日~14日

 梅原清子さんがJR本宮駅から帰られた後、私は橘さんご夫妻の仮設住宅で、今までいつも運転して下さっていて、話をする機会がなかった橘毅氏に話を聞く機会を持っていただいた。が宿泊する「浅香荘」の夕食タイムもあって途中で失礼して翌日、続きを聞くことになった。それでも時間が足りなかった。
 1937年東京で生まれ、戦争で福島に強制疎開。いじめにあった。子どもだけではない、大人からも。言葉の違いが大きかった。ボコボコにされながら殴られても、じーと我慢して殴らなかったそうです。
 農家の子供は銀シャリで、僕は風呂敷を背中に、弁当箱の中はサツマイモ2個であった。福島事故の疎開で70年前の嫌な経験がよみがえった。と話されました。
 敗戦後福島の実家へ。仙台で土方仕事をしながら大学を5年で卒業し、東京の企業に4年半勤めた。
98号請戸漁船 父の病気で福島に帰ってきたが就職先がなく、その当時公務員は大卒を採用しなかった。それで28歳で教員免許を取得し29歳から中学校の先生になったそうです。そして初めて赴任した学校が請戸中学校。今回希望して東北震災から5年目の請戸港に行ってもらった時、請戸港は工事中で立入れなかった。港のすぐそばから集落の跡が、流された家の土台が残っていた。その土台だけの集落跡を歩いていたとき、毅氏は最初教えた請戸中学の一番の悪ガキが、船を新しく造ったので、進水式に来てほしいといわれている。と嬉しそうに話して下さった。災害で命を落とさずに生き残っていたのと、新しく息子の船を作り漁師として次の世代へ引き継いでいこうとしている。一番の悪ガキで手が付けられない位だったと言いながらも、何ともうれしそうな毅氏の姿を請戸港で見ることが出来ました。毅氏のホームグランドだったところが、家も人も流され、もう元には絶対戻らない。人も自然環境もばらばらに汚染されてしまった。毅氏の内なる慟哭が少し分かったような気がしました。(松浦雅代)

報告・4月29日―原発がこわい女たちの会結成29年のつどい―
勤労者総合センター6階ホールに於いて
チェルノブイリ30年・福島5年を考える」 今中哲二氏講演会

 今中さんは、3月末で京都大学原子炉実験所助教を定年退官されたところですが(女たちの会ニュース97号に詳報)、当面は実験所研究員として福島県飯舘村を調査続行されるそうです。
98号今中 今中さんは、広島出身で被爆2世だが、大学で原子力工学を専攻したのはそのせいではなく、福島原発現地の双葉町商店街に掲げられたPR看板「原子力 明るい未来のエネルギー」(当時小学生だった大沼勇治さん作の標語。2015年看板撤去に反対運動が起こった)のような明るいイメージを抱いていたためだそうです。「私も騙され、日本の多くの人が騙されていた」と。そこから原子力の見方が変わったのは、大学で学び社会の動きを知るうちに、後述のような原発政策の胡散臭さに気づいたからと明かされました。
 「29年のつどい」で松浦代表が挨拶の中でも触れていたが、今中さんや、遡ってすでに退官された熊取の京大原子炉実験所の先生方との出会いは、ぺんぺん草時代からのもので、教えられ支えられて女たちの会にとっては本当に貴重な賜物でした。もちろん熊取以外の先生方にも言い尽くせないほどのお世話になってきたのですが。
 講演会終了後の今中さんを囲んでの会食の際にも、40年以上という永のおつとめご苦労様でした、などとだれも言葉にしませんでした。まだこれからもバリバリ働いていただくつもりだから、ご本人もそのおつもりだろうからです。
 さてこの日の講演ですが、福島原発事故から5年経った被災地飯舘村の現状、スリーマイル、チェルノブイリ原発事故の概要と教訓、そして福島事故の経緯、情報開示の遅れ、直後の飯舘村調査、放射線被ばくと障害、子どもの甲状腺ガン、自然放射線との関連、等々これまでの集大成のような多岐にわたるお話しでした。
 とくに示唆深かったことをいくつか、挙げておきます。
(1)スリーマイル原発事故から学んだのは、不幸にも炉心溶融メルトダウン)が実証され「原発事故は起きるもの、原発は危ないもの」ということが骨身にしみた確信に変わったこと。チェルノブイリ原発事故では、地域社会が丸ごと消滅する、原子力専門家として解明できるのは被害全体のごく一部にすぎない、ことが分かったということ。
 「原発は、起きるか起きないか、危険か安全かではない。起きるし、危険なものに決まっている。だから事故が起きたらどれ位危険なのか、リスクの程度や規模を明らかにしていかねばならない」と問題意識を語られました。
(2)誤った情報や不作為、情報隠しなどは許されないことと断罪されるべき。しかし腹立たしいことに、原子力開発、原発事故においてはウサンくさいことだらけ。
 次の2つの例を今中さんは挙げられた。
その1、1964年原子力委員会決定の「原子炉立地審査基準」に「重大事故を越えるような技術的見地から起こるとは考えられない事故の発生を仮想しても、周辺の公衆に著しい放射能災害をあたえないこと(中途省略)」とある。これをクリアするような原発などあろうはずないのに、日本のすべての原発はこの基準を充たしているとして建設されてきた。
その2、1960年日本原産会議報告での原発事故の損害評価額は1兆円。当時の国家予算1.7兆円に迫るような、あり得ない程の巨額である(電力事業者が賠償すべき保険金の額は当時50億円)。
 つまり原発開発の当初から、事故が起こればとんでもない規模になることを知りつつ、原発は安全であるという安全神話を敷いてきたのです。
 行政の意思決定や政策実行に係る役人は、組織で動き個人の顔をもたない。政策を裏で仕切りながら、(フクシマの避難区域の除染政策などにもみられるが)そこに間違いや不作為があっても責任が問われることがないのは許し難い。役人の「個人責任を問う」システムをつくる必要があると強調されました。
(3)これまで何度も今中さんの講演は聞いてきたが、一貫しているのは、「データは可能な限り提供しますから、判断は皆さんでしてください」というスタンスだ。例えば原発事故から避難するか否かについて、放射線の汚染の程度を知って決めるのは私たちなのです。
 個々の住民市民は、だれかにいわれて上の方からいわれてそれに従うのではない、自分自身が考え判断して行動する、そのことこそが大切だと。自立した市民たれ、ということなのでしょう。私たちに対する深いエールなのだと受け止めています。
 もう一つ、一貫しているのは、余計な被ばくはしない方がいい。が、ある程度の被ばくは避けられない(なぜなら福島原発事故による放射能汚染、60年代米ソの大気内核実験からの残留放射能、これらを含む自然からの放射能に囲まれているのだから)。この相反する要件に折り合いをつけること、結局どこまでの被ばくをガマンするのか、ということになる。(今中さんは、原子力施設からの一般公衆の線量限度を大まかに年間1ミリシーベルトとされる)
 残念ながら福島原発事故の後、放射能汚染と向き合わねばならない時代に生きることになった私たちは、放射能放射線について学習し、ベクレル、シーベルトの値になじんでいくほかないのだと。
(4)さらに、今中さん個人として言いたいこととして3点を上げられました。
◇避難区域の除染政策を見直し、お金の使い方を考え直すべきだ!
◇日本に住んでいる人全部についての被曝量評価を行い、しかるべき健康追跡調査を、国の責任で行うべきだ!
◇行政の意思決定や政策実行にかかわる役人や政治家に間違いや不作為があった場合には、ヒアリングを行い、個人責任を問うシステムが必要だ(前述)!
 そもそも日本列島にこんなにも原発を作ったのが間違っていた!
 いったん動き出したら止められない日本丸では情けない。間違いを素直に認めて、原発の再稼働は止めるべきである!と締めくくられました。 (梅原清子)
◇本講演録はユーチューブにアップされています。

事故時5歳児、甲状腺がん~悪性・悪性疑い173人
投稿者: ourplanet 投稿日時: 月, 06/06/2016 - 13:00

(引用開始)
 東京電力福島第一原発事故後、福島県が実施している「県民健康調査」の検討委員会が6日、開催され、事故当時5歳だった子どもにも甲状腺がんが見つかったことが分かった。検討委員会では3月末に発表した「中間とりまとめ」において、「事故当時5歳以下からの発見がないこと」などを理由に、「放射線の影響とは考えにくい」と評価していた。1巡目と2巡目の健診をあわせて、悪性・悪性疑いと診断された子どもは、前回より6人増え、172人となった。  
 本格検査(2巡目)結果~2014年~2015年
 福島県立医大の大津留晶教授はまず、2014年から2015年に実施された本格検査(2巡目)の結果を報告した。それによると、2次検査で穿刺細胞診を行い、悪性または悪性疑いと診断された子どもは前回より6人増えて57人となった。
 57人の先行検査結果は、A1が28人(49.1%)、A2が25人(43.8%)、B判定は4人(0.7%)だった。A2判定だった子どものうち、結節があった子どもは17人、なかった子どもが18人だった。平均腫瘍径は10.4ミリで、最大は35.6ミリだった。この2年間で腫瘍が急成長した可能性がある。
 また年齢は、最年少が 事故当時5才と、はじめて事故当時5歳以下の子どもが甲状腺がんと診断された。チェルノブイリでは、5歳以下の子どもが多数甲状腺がんとなったことから、検討委員会はこれまで「被曝の影響とは考えにくい」との見解を示してきた。一方、事故当時5歳以下の子どもに甲状腺がんが多発したのは、事故5年以上経ってからと指摘する研究者もおり、今後、この世代で甲状腺がんが多発するかどうかが、ひとつの焦点となる。
 男女比は男性25人に対して女性は32人と約3:4の比率となっている。甲状腺がん専門医である清水一雄委員が、「通常の乳頭がんは男女1:7。男性の比率が多いことについて検討しているのか」と質問。これについて大津留氏は、集計の問題であるなどと回答した。
 本格検査で摘出手術を受けたのは14人増えて30人となり、全員が乳頭がんと診断された。
先行検査(1巡目)結果~2011年~2013年
 次いで、2011年から2013年まで実施された先行検査(1巡目)の確定結果が公表された。前回の口頭発表と変わらず、穿刺細胞診で、悪性または悪性疑いと診断された子どもは116人と報告された。
 平均年齢は震災当時14.9才で、最年少は震災当時6才。男女比は男性39人に対して、女性が77人と約1:2の比率だった。また平均腫瘍径は13.9ミリで、最大は45.0ミリだった。
 すでに摘出手術を受けたのは102人で、手術後の組織診断によって、乳頭がんが100人、低分化がんが1人、残る1人は良性結節だった。これまで低分化がんは3人公表されてきたが、昨年11月に甲状腺がん取り扱い規約が改定されたことに伴う変更という。
(引用終わり)
 
◇報告 5月28日10時30分~「脱原発わかやま」の総会が田辺市でありました。

 2年ごとの役員改選の年で、代表は白浜町日置の冷水喜久夫氏、事務局長は田辺市の田中友氏、副代表は串本町の中西仁士氏と和歌山市松浦雅代氏、会計は新宮市の濱野兼吉氏に決まりました。
 お昼からは同じ会場で「寺井拓也さんを偲ぶ会」が開催されました。
 
寺井拓也さんありがとう。

 寺井拓也さんは4月14日に癌で亡くなられました。(享年70歳)
 昨年の6月に「脱原発わかやま」の総会が田辺市で開催され福井の中嶌哲演氏の話をお聞きしました。その時少しご自分で風邪気味です。と言われていました。
 終了後ホールの前で田辺市の人たちと知事候補がないか、何とかしたい話をしておりました。寺井夫妻もおられました。それから1年も経たないうちに亡くなられるとはこの時、誰も思いもしませんでした。寺井さん自身もそうだったと思います。
 1996年に当会で「暮らしとエネルギー」講師寺井拓也氏(田辺市・つゆくさの会)の記録があります。が私は余り覚えていません。2000年2月に故高木仁三郎さんが和歌山に来られた時、高木さんご夫妻を白浜の南方熊楠館やお泊りになった湯峰の旅館にご案内されたのは寺井さんであったと、忍ぶ会が終わってしまってから思い出したのです。あまり目立たずにしかし安心して任せることができる人でした。
 2010年に汐見文隆氏から「脱原発わかやま」の代表を引き継ぎ、その翌年2011年に福島原発事故が起き、デモや抗議文等の初めての経験の中で果敢に行動されました。「原発を拒み続けた和歌山の記録」の編集、出版は寺井拓也さんの努力なしではなし得なかったと思います。
 あらためて 寺井拓也さんありがとう。 
 ご冥福をお祈りいたします。 (松浦雅代)

原発がこわい女たちの会拡大世話人会を開催します。
◎8月4日(木曜日)13:00~16:00  ◎テーマ・「女の会30年目に入って」
 場所:ボランティアサロン(フォルテワジマ~旧丸正百貨店)6階D会議室

<記>
☆女たちの会の会計報告と郵便口座振り込み用紙を同封します。7月中に会費納入をお願いします。
蒸し暑い。原発を止めるため。戦争を止めるため。声をかけて投票に行こう!7月10日投票日。

原発がこわい女たちの会」公式ブログから 2016年06月05日(日)
寺井拓也さんを偲ぶ

(引用開始)
 4月14日、寺井拓也さんが私たちの前から旅立っていかれました。享年70歳。
 寺井さんは、田辺市白浜町の「つゆくさと大地の会」の会員で、2010年から汐見文隆氏に代わって「脱原発わかやま」の代表をされていました。次の年に3.11東京電力福島原発の事故が起き、代表になられたばかりでご苦労もあったと思いますが、福島原発事故の過激さに果敢に行動され代表の責務を果たされました。原発のみならず寺井さんは平和や人権の問題にも精力的に取り組んで来られたことはよく知られています。
 草の根の市民運動の理論的・実践的存在として紀南の田辺市に腰を据えながら、全県下へ、全国へ、視座を広げ行動されてきたのです。
 私たちの知る寺井さんは、事故後の県当局との話し合いなどの時、緻密な論理構成で私たちの主張と相手方の対応をかみ合わせてもらえる方でした。当局やマスコミに公表する抗議文書なども的確に作成していただきました。どれも何処かからの借り物ではなく、ネットや書物を丹念に検索し事実のみを抽出した実証性に基づいていることに、いつもこころ強さを感じていました。
 進行した大腸癌が発見されたとの突然の報を受けたのは、昨年6月20日の「脱原発わかやま」総会で元気にお会いしたそのすぐ後の7月中旬でした。信じられない、ウソであってほしい、何故ここまで分からなかったか…、と思わずにはいられませんでした。
 寺井さんは治療に専念されることになり、緊急手術の後は抗がん剤治療を止めて自宅療養、食事療法を続けられました。
 病魔に負けないで、と回復を願う祈りもむなしくついにご逝去されたが、葬儀は行われず遺体は医学部に献体されました。ずっと以前よりの寺井さんの意思であり遺言だったそうです。
偲ぶ会1 去る5月28日(土)、田辺市において、「寺井拓也さんを偲ぶ会」が催されました。準備万端して下さったのは、田辺市在住の方々を中心に脱原発わかやまと9条ネットの皆さんでした。老若男女(若はやや少なし)およそ70名の参加者は、寺井さんとの思い出を語り合い、今後に残されたものを共有しました。
 RaRa Locale(ララロカレ)は、今は民家カフェだがかつてつゆくさの会結成も行われた場所。ここの2F のギャラリーが会場です。
 正面には白い花に囲まれていつもの温顔で微笑む寺井さんの遺影が掲げられ、この傍らでスピーチが続きました。
 全部で20名の方々からのリレー・スピーチ(ご挨拶、メッセージ代読を含む)は圧巻。
異口同音でした。実証的、細かく調べ尽す、熱心で几帳面、計画性があって粘り腰。けれども決して固執的ではなく、細やかな気配りで、分かりやすく伝える広がりがあった…。
その一方で、謹厳実直そうなのにユーモアがあって愉快、ふだんは小さい声なのにデモを先導するシュプレヒコールはとてつもなく大声、等々ユニークなお人柄を示すエピソードも。
偲ぶ会2 とくに『原発を拒み続けた和歌山の記録』(寿郎社)出版に関しては、寺井さんが実質的な調整役として共著者の個性を繋ぎ、こまごまとした雑用事務をも担われたからこそ成しえたこと、と何人かの関係者からの証言もありました。
 この著作は、後日、「地方出版文化功労賞奨励賞」を受賞するというおまけがつくのですが(2013年7月28日の本ブログ参照のこと)、寺井さんによる受賞記念スピーチ草稿(偲ぶ会でプリントが配付)は、寺井さんの出版にかけた思いの深さを示すものです。なお当日は寿郎社の社長夫妻もご出席でした。
 最後にお連れ合いの秋代さんから、ご挨拶がありました。家庭人としての素顔は、ますます寺井さんのことを彷彿とさせるものでした。
 一つあげるなら、「主夫」をされていたことは知っていたが、そのご夫妻間のいきさつや日常の家事について具体的にお聞きするのは今回が初めてでした。とくに「夫は外で働き、妻は家庭を守る」という性役割イデオロギーに囚われず、妻が外という逆転スタイルで結婚生活の大半を貫いたということはやはり稀有なこと。生前にもっとお話ししてみたかったです。
 「(彼の誠実さ、熱心さに)感心するというより、変わってるな~と思った(笑)」と仰る秋代さんなのですが、ご友人の証言によると、夫に点数をつけるならばの話で「120点!!」だったそうです。寺井拓也さんのエネルギッシュな市民運動は、その基地としてよきご家族ご家庭をお持ちだったからかもしれません。
 「平らかで穏やかな日々を家族で最後に過ごせたことは幸せでした」という秋代さんの言を深く肯きながらお聞きしました。
合掌
(引用終わり)