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“憲法9条 幣原喜重郎 発案説”を補強するマッカーサー書簡の発見~部分再録『内閣総理大臣の孤独な闘い』

 今晩(2016年8月13日)配信した「メルマガ金原No.2537」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
憲法9条 幣原喜重郎 発案説”を補強するマッカーサー書簡の発見~部分再録『内閣総理大臣の孤独な闘い』

 日本国憲法9条は、幣原喜重郎首相がマッカーサーGHQ最高司令官に提案したものだという学説を補強する、マッカーサーの高柳賢三憲法調査会会長宛の書簡が発見されたというニュースは、昨日(8月12日)の東京新聞一面のトップ記事となって注目され、既に澤藤統一郎弁護士の「憲法日記」をはじめ、いろいろなサイトで取り上げられて話題となっていますので、今さら私が紹介するまでもないのではと思わないこともないのですが、秋の臨時国会から国会両院の憲法審査会で本格的な改憲論議が始まるとも言われている状況の下、多くの国民が知っておくべき話題だという観点から、今日のメルマガ(ブログ)でも取り上げることとしました。これは、私自身の備忘のためでもあります。
 まず、東京新聞の一面に掲載された記事をご紹介しましょう。
 
東京新聞 2016年8月12日 朝刊
「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料

(抜粋引用開始)
 
日本国憲法の成立過程で、戦争の放棄をうたった九条は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相(当時、以下同じ)が連合国軍総司令部(GHQ)側に提案したという学説を補強する新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけた。史料が事実なら、一部の改憲勢力が主張する「今の憲法戦勝国の押しつけ」との根拠は弱まる。今秋から各党による憲法論議が始まった場合、制定過程が議論される可能性がある。(安藤美由紀、北條香子)
 九条は、一九四六年一月二十四日に幣原首相とマッカーサーGHQ最高司令官が会談した結果生まれたとされるが、どちらが提案したかは両説がある。マッカーサーは米上院などで幣原首相の発案と証言しているが、「信用できない」とする識者もいる。
 堀尾氏は五七年に岸内閣の下で議論が始まった憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程を調査するため五八年に渡米し、マッカーサーと書簡を交わした事実に着目。高柳は「『九条は、幣原首相の先見の明と英知とステーツマンシップ(政治家の資質)を表徴する不朽の記念塔』といったマ元帥の言葉は正しい」と論文に書き残しており、幣原の発案と結論づけたとみられている。だが、書簡に具体的に何が書かれているかは知られていなかった。
 堀尾氏は国会図書館収蔵の憲法調査会関係資料を探索。今年一月に見つけた英文の書簡と調査会による和訳によると、高柳は五八年十二月十日付で、マッカーサーに宛てて「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも貴下が憲法に入れるよう勧告されたのか」と手紙を送った。
 マッカーサーから十五日付で返信があり、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と明記。「提案に驚きましたが、わたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」と結んでいる。
 九条一項の戦争放棄は諸外国の憲法にもみられる。しかし、二項の戦力不保持と交戦権の否認は世界に類を見ない斬新な規定として評価されてきた。堀尾氏が見つけたマッカーサーから高柳に宛てた別の手紙では「本条は(中略)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したもの」とあり、堀尾氏は二項も含めて幣原の発案と推測する。
(略)
高柳賢三憲法調査会長に対するマッカーサーGHQ最高司令官の返信
憲法9条は)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原男爵の先見の明と経国の才とえい知の記念塔として、永存することでありましょう
(1958年12月5日)
戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです。首相は、わたくしの職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対してわたくしがどんな態度をとるか不安であったので、憲法に関しておそるおそるわたくしに会見の申込みをしたと言っておられました。わたくしは、首相の提案に驚きましたが、首相にわたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました。
(同年12月15日)
(引用終わり)
 
 また、東京新聞による堀尾輝久東大名誉教授に対するインタビューも引用しておきます。
 
東京新聞 2016年8月12日 朝刊
「9条提案は幣原首相」 史料発見の東大名誉教授・堀尾輝久さんに聞く

(抜粋引用開始)
(略)
 -なぜ、書簡を探したのか。
 
「安倍政権は、戦争放棄の条文化を発意したのはマッカーサーという見解をベースに改憲を訴えている。マッカーサー連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官が高柳賢三・憲法調査会長の質問に文書で回答したのは知っていたが、何月何日に回答が来て、どういう文脈だったのか分かっておらず、往復書簡そのものを探し出そうと思った」
 -書簡発見の意義は。
 「マッカーサーは同じような証言を米上院や回想録でもしているが、質問に文書で明確に回答したこの書簡は、重みがある」
 -二項も、幣原の発案と考えていいのか。
 「一項だけでは(一九二八年に締結され戦争放棄を宣言した)パリ不戦条約そのもの。往復書簡の『九条は幣原首相の先見の明と英知』、幣原の帝国議会での『夢と考える人があるかもしれぬが、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、後方から付いてくる』などの発言を考えると、二項も含めて幣原提案とみるのが正しいのではないか」
 -幣原がそうした提案をした社会的背景は。
 「日本にはもともと中江兆民田中正造内村鑑三らの平和思想があり、戦争中は治安維持法で押しつぶされていたが、終戦を機に表に出た。民衆も『もう戦争は嫌だ』と平和への願いを共有するようになっていた。国際的にも、パリ不戦条約に結実したように、戦争を違法なものと認識する思想運動が起きていた。そうした平和への大きなうねりが、先駆的な九条に結実したと考えていい」
(略)
 <ほりお・てるひさ> 1933年生まれ。東大名誉教授、総合人間学会長。教育学、教育思想。東大教育学部長、日本教育学会長、日本教育法学会長などを歴任した。著書に「現代教育の思想と構造」「教育を拓く」など。
(略)
憲法9条制定を巡る主な経緯
1946年1月24日 幣原喜重郎首相とマッカーサーGHQ最高司令官が会談
同年2月13日 GHQ草案を日本側に提示。現行9条の要素が盛り込まれる
同年3月6日 日本政府案を発表
同年6月20日 帝国憲法改正案を帝国議会に提出。修正が進む
同年10月7日 成立
同年11月3日 日本国憲法として公布
1947年5月3日 日本国憲法が施行
1951年5月5日 米上院でマッカーサーが、9条は幣原の発案と証言
1957年8月 内閣に設置された憲法調査会憲法の再検討を開始
1958年12月 調査会の高柳賢三会長が訪米し、マッカーサーと書簡を交わす
1964年7月 調査会が報告書提出。改憲の是非について結論を出さず
(引用終わり)
 
 なお、昨日の東京新聞を読んでから気がついたのですが、堀尾輝久氏は、これらの書簡の発見を踏まえた論文「憲法9条と幣原喜重郎 憲法調査会会長 高柳賢三・マッカーサー元帥の往復書簡を中心に」を、岩波書店の月刊誌「世界」882号(2016年5月号)に発表していました。
 同論文の要約を岩波書店ホームページから引用します。
 
憲法9条と幣原喜重郎
憲法調査会会長 高柳賢三・マッカーサー元帥の往復書簡を中心に
堀尾輝久

(抜粋引用開始)
 憲法9条の発案者は誰なのか──。その成立過程をめぐっては、日本国憲法GHQによる「押しつけ」憲法なのか否かといった問題にも触れるだけに、これまでにも活発な論争が展開されてきた。著者はこれまで、憲法9条は当時の首相・幣原喜重郎によって発案されたものであると考えてきたが、その根拠の一つが英米法学者・高柳賢三の『天皇憲法第9条』(有紀書房、1963年) という著作である。高柳は、自由民主党政府のもとで改憲のためにつくられた憲法調査会 (1956年設置法、57年に岸信介首相のもとで始動、64年に最終報告提出) の会長を務め、憲法制定過程を検証し報告書をまとめた責任者である。同著で高柳は、憲法9条は「幣原首相の提案と見るのが正しいのではないかという結論に達し」たと述べている。高柳がそう判断するに至ったのは、高柳自身がマッカーサーとの間で交わした往復書簡が根拠となっている。著者はこのたび、国会図書館の憲政資料室でその原文 (高柳・マッカーサー往復書簡) を発見した。幣原説を補強する重要な資料であるこの往復書簡では、何が問われ、どんな内容が示されているのか。
 日本国憲法は、2016年の今年、公布から70年を迎える。いまあらためて、日本国憲法がどのようにして形成されたのかを考えたい。
(略)
(引用終わり)
 
 YouTubeで容易に検索できた堀尾輝久名誉教授の講演とスピーチの動画を1本ずつご紹介しておきます。
 
秋の大学習会 基調報告1 堀尾輝久氏(つくる会会長、DCI日本副代表)
「子どもの視点から憲法子どもの権利条約に重ねて読み直す」(45分)

※2013年秋に行われた講演のようです。この講演の11分~で、憲法9条原発案説について言及されています。
 
T-ns SOWL 国会前 6.10 東大名誉教授 堀尾輝久さん スピーチ(14分)

※2016年6月10日、T-ns SOWL 国会前抗議行動でのスピーチです。
 
(付記1 平野文書について)
 憲法9条原発案説を裏付ける資料としては、マッカーサーや幣原自身の発言、文書の他、傍証としての聞き書きもあります。その中でも最も有名なものは、幣原の秘書官も務めた側近・平野三郎氏(元衆議院議員)が、高柳賢三憲法調査会会長の求めにより取りまとめた「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」(いわゆる「平野文書」)でしょう。その文書の冒頭で平野氏は「私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬である。同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。」と言うのですが、同氏が高柳会長の要請に応じてこの文書を憲法調査会に提出し、印刷に付されたのは昭和39年2月のことで、その間に13年が経過しています。従って、その細部にわたる再現の正確性については何とも言い難いところがあるのですが、大筋では信用して良いのではないかと私は考えています。
 様々なサイトで読めますが、以下のサイトのものが最も信頼できるのではないかと思います。
 
(付記2 弁護士・金原徹雄のブログから)
 憲法9条原発案説については、私もかねて気にかかり、過去4回にわたってメルマガ(ブログ)で取り上げています。私は、9条幣原発案説は正しい、と思っています。理由は、幣原発案説には、その裏付となる資料の積み重ねがあり、相当に説得力があること。憲法制定過程の流れをそれなりに合理的に説明できること。幣原発案説以外の説で、より説得力を持つ説が見出し難いことなどからです。
 以下に、直接、間接に憲法9条幣原喜重郎発案説を取り上げた私のメルマガ(ブログ)をご紹介しておきます。
 
内閣総理大臣の孤独な闘い~天皇制と日本の若者を救った幣原喜重郎(この仮説は知っておく価値がある)
 
 特に、いわゆる安保法案が衆議院に提出されたという事態を受けて書き上げた「内閣総理大臣の孤独な闘い~天皇制と日本の若者を救った幣原喜重郎(この仮説は知っておく価値がある)」は、是非お読みいただきたいと思いますので、その主要部分を以下に再録しておきます。
 
(抜粋引用開始)
 1945年10月9日から1946年5月24日まで内閣総理大臣の地位にあった幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)は、日本国憲法制定史を考える上での最重要人物の1人です。とりわけ、注目されるのが、以下の約3週間の動きです。
 
1946年1月24日
 幣原喜重郎が肺炎治療のためにGHQがペニシリンを融通してくれたことへのお礼を述べるためにダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官を訪ね、通訳を交えず約3時間会談する。
同年2月1日
 毎日新聞が、内閣に設けられた憲法問題調査委員会(松本委員会)の改憲試案の1つをスクープ掲載した。
同年2月3日
 マッカーサーは、ホイットニーGHQ民政局長に憲法改正の必須要件(マッカーサー三原則)を示した。
同年2月4日
 民政局内に作業班が設置され、GHQ草案(マッカーサー草案)の起草作業が開始された。
同年2月13日 
 外務大臣官邸において、ホイットニーから松本国務大臣吉田茂外務大臣らに対し、さきに提出された日本政府の憲法改正要綱を拒否することが伝えられるとともに、GHQ草案が手交された。
 
 幣原喜重郎は、内閣総理大臣として、他の閣僚とともに、GHQ草案の提示に衝撃を受けたことになっていますが、実は、1月24日の会談において、その後「マッカーサー三原則」と呼ばれるようになる新憲法の基本原則について協議していたのではないのか、というのが、憲法9条・幣原発案説、もしくは憲法9条・幣原・マッカーサー合作説というものです。
 なお、「マッカーサー三原則」というのは、現行憲法の第1章(象徴天皇制)、第2章(戦争の放棄、戦力の不保持)、第3章(国民の権利及び義務/マッカーサーノートでは封建制の廃止がうたわれている)に結実していますので、「9条」だけということではありません。
 それで、この説の根拠は何か?ということなのですが、1月24日の会談に陪席者がいなかった以上、当事者であるマッカーサーと幣原の証言をまずは聴くべきところ、マッカーサーの回顧録にはかなり明瞭に幣原からの提案であったと書かれており、幣原の著書、談話においても、1月24日に提案したとまでは言っていないものの、結論としては自ら発想したものとしており、さらに以下にご紹介するような、平野三郎衆議院議員(晩年衆議院議長を務めていた幣原の秘書官だった)による聞き書き(平野ノート「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」)などもあります。
 もっとも、平野ノートについては、聴き取りをしてすぐにまとめたというものではなく、幣原の死後10年以上経ってから、内閣に設置された憲法調査会会長の求めに応じて提出されたという経緯から、平野氏による推測や創作が紛れ込んではいないか?という吟味が必要でしょう(私にそういう能力はありませんが)。
 ただし、1946年1月当時、敗戦国日本の総理大臣であった幣原にとって、天皇制及び昭和天皇個人をいかにすれば守れるか、ということが最大の政策課題であったことは疑いを容れないでしょう。そして、老練な元外交官であった幣原にとって、内閣の憲法問題調査委員会(松本委員会)で取りまとめられようとしている改憲案では、到底連合国の了解は得られそうもなく、最悪の場合、昭和天皇戦争犯罪人として訴追される事態もないとは言い切れないということが見通せたのだろうと思います。ここから幣原の、閣僚にも一切秘密を漏らせない「内閣総理大臣の孤独な闘い」が始まったと、憲法9条(正確に言えば象徴天皇制と戦争・軍備放棄をセットにした案)幣原発案説を支持する者は考えるのです。
 事実上、天皇から大権を剥奪し、軍備も撤廃するという、ある意味驚天動地の案を幣原が閣内で提起しても、到底実現するとは思えず、閣論不一致で内閣が瓦解に至るに違いないと考えた幣原は、日本の為政者がいざという時には常に発想する「外圧利用策」に打って出ることとし、マッカーサーのもとを訪ねたのです・・・という風に推論が続いていきます。
 これ以上、推論を書き連ねる必要もないでしょうから、以下には、平野ノートの一部を引用するにとどめます。
 実は、現在、国会で審議されている戦争法案を考える上で、幣原喜重郎による「内閣総理大臣の孤独な闘い」を想起すべきだと考えたのには理由があります。
 基本的に幣原発案説の立場に立つとすれば、幣原首相は、軍備を放棄することによって(憲法に「9条」を書き込むことによって)、天皇制を守ることができただけではなく、日本の若者が「アメリカの尖兵」としてあたら命を落とすことも防いだのであり、このことに多くの国民の注意を喚起したいと思ったからです。
 以下に、平野ノートから、幣原首相が、「9条」のような条項が無ければ、早晩、日本の若者が「アメリカの尖兵」とならざるを得ないという将来を見通していたことを裏付ける部分を引用します。

(今回の注:平野ノートからの引用部分は原典にあたっていただきたいと思います。とりわけ、『内閣総理大臣の孤独な闘い』との関連では、「日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。」で始まるパラグラフに注目してください)
 
 「内閣総理大臣の孤独な闘い」自体は1つの仮説です。しかし、日本国憲法9条が法規範として「守るべきもの」であった時代に、その9条が日本の若者(とは限らないかもしれませんが)の命を救ってきたことは厳然たる歴史的事実です。
 それが気に入らない、もっと日本人は血を流すべきであったと考える人たちもいるでしょうが(今の政権にもたくさんいるかもしれません)、少なくとも、多くの良識ある日本人はそのような考えに与しないでしょう。
 今まさに、憲法を無視して、日本の若者を「アメリカの尖兵」として差し出そうとする法案が審議されています。
 そして、幣原喜重郎マッカーサーを1人で訪ねた時から69年余りにして、初めて米国連邦議会上下両院合同会議で演説する機会を与えらた総理大臣は、国民にその内容を説明しておらず、国会に提出もしていない法案について、米国の国会議員に対して、以下のように約束しました。

「日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます。」
 
 別に、マッカーサーと通訳なしで重要な会談が出来た幣原喜重郎と語学力を比較して現首相を嘲笑しようというのではありません。
 何を自らに課された最も重要な使命と自覚するか(これが間違っていたらそもそも話にならないけれど)、それを実現するための「孤独な闘い」を厭わぬ覚悟と能力を備えた者だけが、一国のリーダー(内閣総理大臣)にふさわしいということを考える上で、この2人の内閣総理大臣は比べ甲斐があるということです。
(引用終わり)