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越野章史著『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』を読む

 今晩(2016年8月14日)配信した「メルマガ金原No.2538」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
越野章史著『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』を読む

 是非読みたいと思って入手しながら、なかなか読むためのまとまった時間を確保できず、それでも、いつでも読めるようにとすぐ手の届くところに置いてある、そういう本が皆さんにもありませんか?
 そういう非常に気になる本を読み上げて、一気に読後感をメルマガ(ブログ)に書いたことが過去何度かあります。最近では(でもない、1年半も前のことですが)こういう本がありました。
 
 
 私の場合、買ってきてすぐにざっと目を通す本もあるのですが(というか、大抵はそういう読み方です)、時として「じっくりと向かい合わなければ読めないな」と思われる本に出会うこともあるのです。
 今日ご紹介しようとする越野章史(こしの・しょうじ)さん(和歌山大学教育学部准教授)の著書『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』も、今年の5月14日、小林節さんの講演会が開かれた和歌山市民会館大ホールのロビーで、刷り上がったばかりの同著を、越野先生自身から割引価格で(!)入手して以来、「早く読まなければ」と気になりながら、ずっと傍らに置き続ける本の仲間入りをし、入手してから3ヶ月にして、ようやく盆休みを利用して読み上げ、この文章を書き始めています。


 越野さんの研究者としての専門分野は、「教育学(教育哲学,教育思想,教育史,学校教育,教育政策),教育社会学(教育社会学,教育政策,学校組織・学校文化,教師・生徒文化,青少年問題,学力問題,ジェンダーと教育)」(和歌山大学ホームページ研究者総覧・基本情報から)ということですが、申し訳ないことながら、私自身はその分野に全くの門外漢であり、今回の著書を読むまで、越野さんの教育学研究者としての業績に触れる機会はほとんどありませんでした。

 「ほとんど」という曖昧な表現を使ったのは、以前、「楠見子連れ9条の会」が越野先生を講師に招いた学習会を行うことをメルマガ(ブログ)でご紹介した際にも触れたことですが、越野先生と私の間で以下のようなやりとりがあったからです。その記事から一部抜粋します(4/7楠見子連れ9条の会・学習会のお知らせ(in和歌山市)/2013年3月29日)。
 
(引用開始)
 なお、私にとって越野先生との関わりで忘れられないのは、2011年12月、越野先生からメールで以下のようなご相談を受けたことです。それは、2011年度後期の越野ゼミにおいて原発問題を学ぶことになり、放射線に詳しいお医者さん、原発反対運動に関わってこられた方、放射能から逃れて避難してこられた方などに学生たちがインタビューすることを希望しているので、適切な方を紹介していただけないかという丁重なご依頼でした。
 幸い、私からお願いした方々(いずれも「メルマガ金原」の読者/そういえば越野先生も読者だった)は皆さん快くお引き受けくださり、充実したインタビューとなったことは、ゼミの学習の成果をまとめた、実に204頁にも及ぶ立派な報告書『2011年度後期 越野ゼミ 活動報告書 原発問題を学ぶ/原発問題から学ぶ』を送っていただいてよく分かりました。
 もちろん、この報告書は非売品で、既に余部もないかもしれませんが、非常に価値の高いものだと思います。
 せめて、越野先生が書かれた「『原発問題』から学ぶことで何が見えるのか―序にかえて―」だけでも、皆さんに読んでもらえたらと思うのですが。
(引用終わり)
 
 そこでも書きましたが、越野ゼミの学生の皆さんがまとめた報告書自体素晴らしいものでしたが、「序にかえて」を一読した私は、指導教官として「学び」の全過程に関わった越野先生の見識の高さに深い感銘を受けたのでした。
 「『原発問題』から学ぶことで何が見えるのか―序にかえて―」から、『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』にも一貫する教育思想研究者としての越野先生の姿勢がうかがえる冒頭部分の一部を引用します。
 
2011年度後期 越野ゼミ 活動報告書 原発問題を学ぶ/原発問題から学ぶ
原発問題」から学ぶことで何が見えるのか―序にかえて―  越野章史
(抜粋引用開始)
 前期のゼミの打ち上げ時に学生の一人が、「後期は何を学びたい?」という私の問いに、ストレートに「原発のことが知りたいです」と言ってくれたことも、私の背中を押した。
 同時に、ただ文献から学ぶだけではだめだろうとも思っていた。それには全く異なる二つの理由がある。一つは、テーマである原子力発電所の問題が、まさに日々進行している問題だからである。(略)二つは、学生たちの潜在的な要求である。教室の中で文献を読む学びを前期に行い、後期にはもう少し「生きた」知に触れる活動がしたいと、多くの学生が望んでいるように感じたのである。学びの内容に、現実社会との関わりにおけるアクチュアリティと、学習者の生活へのレリバンス(relevance=関連性)を回復すべきだというのは、教育思想研究者としての私の日頃の主張でもある。そこから、謝辞に記したように多くの方にご協力いただき、「原発プロジェクト」が進んでいった。目を見張ったのは、このテーマで学ぶうちに学生たちが見せてくれた自発性と学習意欲である。
(引用終わり)
 
 さて、越野章史先生の初の本格的な著書が道徳教育を論じたものとなったのは、学習指導要領が改訂され、「道徳の時間」が「特別な教科」となり、検定教科書が作られるという動き(小学校では2018年度から、中学校では2019年度から実施)を踏まえたものであることは言うまでもないでしょう。
 
 
 もちろん、越野さんは、道徳教科化には非常に批判的です。けれども、『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』は、単に道徳教科化を批判することだけを目的とした著作ではありません。そのことは、この著書の標題からも明らかです。
 もっとも、「市民のための道徳教育」というタイトルを一瞥しただけでは、既に学校教育の課程を終え、市民社会の一員となった者のための「道徳教育」を論じた著作だと早合点しかねず、かくいう私も最初はそう思い込んでおり、本を入手して「はじめに」を読んで、ようやく勘違いに気がついた次第です。
 そこで、「はじめに」の一部を引用して著者の意とするところをご理解いただければと思います。
 
『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』
はじめに
(抜粋引用開始)
 「市民のための道徳教育」が本書のタイトルである。が、これは成人教育や市民を対象とした教育のことではない。本書の主題は、学校(主に小中学校だが、幼稚園にも高校にも通じる内容は含んでいる)における道徳教育である。
 誤解を招きそうなタイトルをつけてしまい読者には申し訳ないが、タイトルが表現したかったことは、「現在の子どもを、近い将来の市民として育てるには、どのような道徳教育が望ましいのか」ということである。
 市民(citizen)とは、まず何よりも、「政治的権利をもった人」という意味である。つまり、主権者のことだ。民主主義の社会にあっては、私たち一人ひとりの人間が、政治的な問題について関心や知識をもち、選挙やそれ以外の政治的活動を通じて、政治的な決定に関与することになっているし、現に関与している(政治への無関心も投票の棄権も、結果に影響を及ぼすのだから、ある種の「関与」である)。
 もう一つ、日本語の市民という言葉には、「ふつうの人」という意味、少し言葉を換えれば、その地域に定住する「一人の生活者」といった響きもあるように思う。
 本書では、この二つの意味で市民という言葉を使う。そして、市民は言うまでもなく、社会の中で、人との関わりのなかで生きていく。そこに何らかの道徳―ルールやマナーについての認識や善悪の判断力―が必要となってくることは、概ね異論がないだろう。子どもたちが将来の主権者として、また生活者として、より豊かに、幸せに生きていくためには、どのような道徳を育む必要があるのか、ということを考えたい。
(引用終わり)
 
 このような意図のもと、本書は大きく2部で構成されています。
 第1部は、日本の学校における道徳教育の歴史が概観されます。
 そして、第2部では、「はじめに」で述べられた問題意識の下、あるべき「市民を育てる道徳教育」が、ルソー、モンテッソーリ、デューイらの理論や実践を参照しつつ、論じられています。
 その一々をご紹介する能力は私にはありませんので、以下に、目次を転記することをもって内容紹介に代えたいと思います。
 
『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』
目次
はじめに
第一部 日本の学校道徳教育の歴史
 
第一章 1945年までの道徳教育
  一、学校教育制度のはじまりと道徳教育
  二、道徳教育重視のはじまり
  三、道徳教育重視への批判と、推進派の意図
  四、教育勅語における道徳教育論
  五、戦争の時代と道徳教育
  六、国家主義的な道徳教育がもたらしたもの
 
第二章 戦後教育改革と道徳教育
  一、修身の停止
  二、第一次米国教育視察団の道徳教育論
  三、コア・カリキュラムと道徳教育
  四、生活綴方と道徳教育
 
第三章 「逆コース」政策と「道徳の時間」の設置
  一、「逆コース」=戦後教育政策の大転換
  二、「修身」復活論
  三、文部省の抵抗と追従
  四、教師・教育学者の抵抗
 
第四章 モラルパニックと道徳教育
  一、はじめに
  二、モラルパニックとは何か
  三、「非行」「少年犯罪」をめぐる言説
  四、モラルパニックとしての「いじめ問題」
  五、「新しい教育問題」について 
 第五章 新自由主義新保守主義と道徳教育                 
  一、新自由主義とは何か
  二、新自由主義が求める道徳教育
  三、新保守主義と道徳教育
第二部 市民を育てる道徳教育の探求
 第六章 中間考察―いくつかの原則―
  一、徳目主義を超える
  二、心情主義を超える
  三、道徳教育を通じてどのような力を育てたいのか
  四、道徳教育の目的は学校の秩序維持ではない
 第七章 ジャン=ジャック・ルソーの道徳教育論
  一、「自然」に従った教育―消極教育―
  二、道徳の源泉としての「ピティエpitie(あわれみ)」
  三、「共苦」の感覚を育てる
  四、ルソー道徳教育論の今日的意義
 
第八章 モンテッソーリとデューイのディシプリン(規律)論
  一、従来の学校におけるディシプリンへの批判
  二、モンテッソーリディシプリン
  三、デューイのディシプリン
 
第九章 市民を育てる学校道徳教育の創造へ
  一、小学校低~中学年の道徳教育を考える
   「自己肯定感」の維持・回復
   「聴く力」を育てる
   「聴き取られる権利」を充たす
   目的を共有し、協同する経験
  二、小学校高学年~中学校の道徳教育   
   発達論的な前提
   モラルジレンマ考
   アクチュアルでレリヴァントな学びへ
   基本的人権を学ぶ
   (悪)について学ぶ
  三、学校を民主的な道徳環境に
おわりに
 
 私自身、小学校6年間、中学校3年間、週に1回は「道徳の時間」があったのだろうと思いますが、きれいさっぱり何の記憶もありません。
 けれども、権力者の言うことに何の疑いもいだかず、批判がましいこともせず、唯々諾々とこれに従うというような「従順な国民」にならずにすんだのですから、結果的に、私の受けた道徳教育は、少なくとも「害にはならなかった」として感謝すべきなのかもしれません。・・・これは、私が本書のとりわけ第一部「日本の学校道徳教育の歴史」を通読し、為政者やその周囲の経済界などが欲する「道徳教育」の内実への理解が深まったことにより、率直に念頭に浮かんだ感慨です。
 
 私は、教育学に関する著作など、ほとんど読んだことがなく(放送大学で受講した「学校と法('12)」のテキストくらいですかね)、越野先生の『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』の類書と比較しての特徴などとても指摘できません。
 けれども、昨日・今日の2日間かけて一気に読んだ私の感想は、全くレベルを落とすことなく、それでいながら、教育学に何の予備知識がない者が読んでも、十分に理解できる道徳教育論になっている、というものです。
 本書は、我が国における学校道徳教育の大きな流れを説明しつつ、その中で「道徳の教科化」がどのように位置付けられるのかについての適確な見取図を提示するとともに、あるべき道徳教育を考えるための具体的提言にまで及ぶものであり、
とりわけ、「道徳の教科化」というニュースに接して危機感を抱いている多くの人に対して、必ずや有益な知見と見通しを与えてくれるものと確信します。
 
 なお、第四章「モラルパニックと道徳教育」は、冷静に統計データを読み解く意識と能力がいかに重要かに気付かせてくれる非常に重要な章だと思います。私自身、少年犯罪に対する厳罰化の主張に対し、「それは違うだろう」と反論するのが常なので、よけいに共感をいだいたということもあります。
 
CIMG4517 本書の「あとがき」でも著者自身が言及されていますが、越野先生は、昨年8月13日に結成され、翌14日(ちょうど1年前ですね)に記者会見を開いた「安全保障関連法案の廃案を求める和歌山大学有志の会」(その後「安全保障関連法の廃止を求める和歌山大学有志の会」と改称)の事務局長として、同月から9月にかけて、まさに東奔西走の日々を送り、その後も、多くの団体と共同して安保法制の廃止を求める活動に積極的に関与されています。そのような活動の中で、越野先生は、特に若者や学生の良き相談相手として非常に信頼されています。
 
 その越野先生が、本書「あとがき」で、昨年の市民運動の高揚を高く評価しつつ、以下のように述べられていることに注意を喚起して、本稿を終えたいと思います。
 著者と以下のような問題意識を共有される方に、是非本書を手にとってお読みいただきたいとお薦めします。

※写真は、2015年9月23日に和歌山城西の丸広場で開かれた9団体共同呼びかけによる「
安保法制(戦争法)廃止を求める9・23和歌山集会」でスピーチする越野章史さんです。
 
『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』
おわりに
(抜粋引用開始)
 
そのことの意義を充分に認めながら、他方でしかし、事態の重大さに比して、発言する人、何らかの行動を起こす人の数が、あまりに少ないのではないかという思いを、私はぬぐいきれない。
(略)
 人びとが政治的な問題について意見を持つことができ、自由に討議することができ、そうした活動を通じて政治を「変えられる」という希望をもっている状態のことを、政治学者のダグラス・ラミスは「公的希望状態」と名づけているが、そうした状態こそが民主主義にとって必須なのである。
(略)
 そして今、学校道徳教育に対して、ここまで述べたような政治的な無力さを助長するかのような「改革」が押しつけられようとしている。そのような危機にあってこそ、それに対抗し得る道徳教育のあり方を探求し、議論し、実現していくことの必要性がより明確になっているのではないか。本書執筆の動機は以上のようなものである。
(引用終わり)