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小田嶋隆さんのコラム「人の結婚に介入したがる彼らは何者なんだ?」を読み、選択的夫婦別姓制度の今後を考える

 2020年1月24日配信(予定)のメルマガ金原No.3439を転載します。

小田嶋隆さんのコラム「人の結婚に介入したがる彼らは何者なんだ?」を読み、選択的夫婦別姓制度の今後を考える

 一昨日(1月22日)の衆議院本会議において、野党統一会派「立憲民主・国民・社保・無所属フォーラム」を代表して質問に立った玉木雄一郎国民民主党代表が、選択的夫婦別姓の導入を求める質問をしている途中に、「だったら結婚しなくていい」という趣旨のヤジが飛び、これが自民党杉田水脈(すぎた・みお)議員(比例中国ブロック)によるものではないかということで物議を醸しています。
 杉田議員といえば、「新潮45」2018年8月号に、「LGBTのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり生産性がないのです」などと寄稿して国内外から大きな批判を浴び、最終的に、同誌が休刊(事実上の廃刊)に追い込まれたことが思い出されます。

 ところで、今日の昼食後、Facebookをチェックしていたところ、佐藤康宏先生(東京大学教授・日本美術史)がシェアされている小田嶋隆さんのコラムに気が付きました。小田嶋さんが日経ビジネスに連載されている「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」~世間に転がる意味不明」に今日アップされた「人の結婚に介入したがる彼らは何者なんだ?」という記事であり、早速一読した私はとても感銘を受け、自分もFacebookで「シェア」させていただきがてら、若干の感想を書きました。
 これから書こうとするブログは、Facebookに書いた文章をベースに少し敷衍したものになるはずです。

 この問題の根本は、現在の日本の法制度において、婚姻した夫婦は、必ず元々の夫または妻の氏(姓、名字)のどちらかを名乗らなければならない(夫婦同氏を強制される)ことになっていることに由来します。

 (夫婦の氏)
(民法)第七百五十条 夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。

 しかし、他の日本の「伝統」と言われるものの多くがそうであるように、「夫婦同氏の強制」も、たかだか明治以降に導入された制度に過ぎず、選択的に夫婦別氏(夫婦別姓)を認めるべきではないのかという議論はかねてからありました。
 しかも、単にそのような説が有力であったというにとどまらず、法務省に設置された法制審議会が議論を重ねた末、平成8年(1996年)2月26日開催の総会で、民法第4編「親族」、第5編「相続」の規定の多くを改正するための「民法の一部を改正する法律案要綱」を決議しました。
 同要綱の改正項目は多岐にわたり、その後改正が実現した項目もありますが、とりわけ注目を浴びた項目を3点あげてみましょう。

第三 夫婦の氏
一 夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫若しくは妻の氏を称し、又は各自の婚姻前の氏を称するものとする。
二 夫婦が各自の婚姻前の氏を称する旨の定めをするときは、夫婦は、婚姻の際に、夫又は妻の氏を子が称する氏として定めなければならないものとする。

第七 裁判上の離婚
一 夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができるものとする。ただし、(ア)又は(イ)に掲げる場合については、婚姻関係が回復の見込みのない破綻に至っていないときは、この限りでないものとする。
(ア)配偶者に不貞な行為があったとき。
(イ)配偶者から悪意で遺棄されたとき。
(ウ)配偶者の生死が三年以上明らかでないとき。
(エ)夫婦が五年以上継続して婚姻の本旨に反する別居をしているとき。
(オ)(ウ)、(エ)のほか、婚姻関係が破綻して回復の見込みがないとき。
二 裁判所は、一の場合であっても、離婚が配偶者又は子に著しい生活の困窮又は耐え難い苦痛をもたらすときは、離婚の請求を棄却することができるものとする。(エ)又は(オ)の場合において、離婚の請求をしている者が配偶者に対する協力及び扶助を著しく怠っていることによりその請求が信義に反すると認められるときも同様とするものとする。

第十 相続の効力
嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分と同等とするものとする。

 第七の裁判上の離婚要件は「五年別居」で離婚できると受け取る向きもあり、離婚訴訟の実務に与える影響も大きいということで、私の周辺でも、賛否の意見が対立していたという記憶があります。
 ただ、第三の選択的夫婦別姓制度の導入と、第十の非嫡出子相続分差別規定の撤廃につうては、弁護士業界では(よほどの変わり者でない限り)「当然でしょう」ということであったと思います。
 実際、その年(1996年)の10月25日に行われた人権擁護大会において、日本弁護士連合会は、「選択的夫婦別姓制導入並びに非嫡出子差別撤廃の民法改正に関する決議」を採択し、「政府に対し、すみやかに上記民法改正案を国会に上程し、選択的夫婦別姓制の導入と非嫡出子の相続分差別の撤廃を実現することを強く求める。」という意見を明らかにしました。

 しかし、その後の経過はどうであったかと言えば、事態は遅々として進展しませんでした。
 上記2つの懸案のうち、まだしも抵抗が少ないのではと思われた、非嫡出子の相続分を嫡出子の1/2とする規定の改正すら行われずに時間だけが経過していき、平成25年(2013年)9月4日、ついに最高裁判所が「憲法14条1項に違反して」無効との違憲判決を言い渡すに及び、同年12月、国会は判例変更の後追いで民法を改正するに至りました。法制審議会が答申を出してから17年以上が経っていました。

 そして、選択的夫婦別姓制度です。法制審議会の答申から24年、野党が一致して改正を求めても(まあ、全野党ではないかもしれませんが)、現在の政権は全く民法改正に対する意欲を示しません。

 それでは、国民の多くが選択的夫婦別姓に反対しているのかというと、そんなことはありません。小田嶋さんのコラムでも紹介されていましたが、平成29年(2017年)に政府が実施した「家族の法制に関する世論調査」の結果によれば、「婚姻をする以上、夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきであり、現在の法律を改める必要はない」と答えた人の割合は29.3%にとどまり、「夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望している場合には、夫婦がそれぞれ婚姻前の名字(姓)を名乗ることができるように法律を改めてもかまわない」と答えた人の割合が42.5%、「夫婦が婚姻前の名字(姓)を名乗ることを希望していても、夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきだが、婚姻によって名字(姓)を改めた人が婚姻前の名字(姓)を通称としてどこでも使えるように法律を改めることについては、かまわない」と答えた人の割合が24.4%となっており(法務省ホームページ「選択的夫婦別氏制度(いわゆる選択的夫婦別姓制度)について」より)、選択的夫婦別姓制度容認派こそ多数派なのです。

 「非嫡出子の相続分差別規定の撤廃」と「選択的夫婦別姓制導入」が、法制審議会の答申以来、かくも長い間放置され続けた(後者はいまだにそうです)背景には、全く「同根」の事情があったことは明らかだと思われます。
 一昨日、衆議院本会議の議場で飛ばされた「ヤジ」も、そのような長きにわたる抵抗(憲法24条に「家族は、互いに助け合わなければならない」という規定を書きこもうとしたりする人々やその周辺の〇〇会議とかによる)の1つの現れ(「飛沫」のようなもの)でしょう。

 こうなれば、「非嫡出子の相続分差別規定」に続いて、「夫婦同氏の強制」についても、最高裁違憲判決を出すしか仕方がないと思いますけどね。

 最後に、小田嶋隆さんによる「人の結婚に介入したがる彼らは何者なんだ?」の末尾の部分のみ引用させていただきます。ここは、このテーマについての小田嶋さんの「まとめ」であると共に、このコラムのタイトルの由来が明かされています。
 

(引用開始)
 家族を大切にする考え方に異存はない。
 ただ、その「家族」なり「家族観」なりを防衛するために、日本中の家族が、どれもこれも同じスタンダードで再生産される粒ぞろいの斉一的な家族単位であることが望ましいというふうには私は考えない。
 自分の家族について自分が思うことと、他人の家族に関して他人が考えるところは、おのずと違っている。あたりまえの話だ。とすれば、自分自身の個人的な「家族観」とやらを守るために、他人の家族のあり方に注文をつける態度は、少なくとも私には思いもよらぬことだ。失礼にもほどがある。
 不思議なのは、日本の伝統的な家族観を守るためには、伝統的家族観を守りたいと思っていない人たちに対しても伝統的家族観を守ることを強制しないといけないと思い込んでいる人たちがいることだ。
 彼らは、いったい何者なんだろう?
 そういえば、百田尚樹さんの著書『日本国紀』の帯には、
 「私たちは何者なのか」
というキャッチコピーが大書されていた。
 せっかくなので、この場を借りて、私も問うておきたい。

 あんたたちは何者なんだ?
(引用終わり)

(弁護士・金原徹雄のブログから/小田嶋隆さん関連)
2014年1月9日
今こそ読もう!『9条どうでしょう』(ちくま文庫)