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憲法9条を守る和歌山弁護士の会・創立10周年の日に月山桂弁護士の講演録を読み返す

 今晩(2015年5月13日)配信した「メルマガ金原No.2089」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
憲法9条を守る和歌山弁護士の会・創立10周年の日に月山桂弁護士の講演録を読み返す

 ちょうど10年前の今日、2005年5月13日、和歌山弁護士会館4階講堂において、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」の設立総会が開かれました。
 当時の和歌山弁護士会の会員総数74名(現在140名)中、39名の弁護士の賛同を得て発足にこぎつけたのでした。
 2006年1月から丸6年間、2代目事務局長を務めた私としては、今日という日は、それなりの感慨を覚えざるを得ない1日だったのです。
 
 10年前の5月13日を振り返るために、私が書架から取り出してきた1冊の冊子があります。
 書名は「平和のうちに生きるために 憲法9条を守る和歌山弁護士の会 創立1周年記念誌」、2006年6月28日発行、A4版140頁という、堂々たる冊子です。
 その年の1月半ばに開かれた第2回総会で、「5月13日の創立1周年を記念して有意義な企画を実行すべき」という活動方針が決まり、事務局長の私と事務局次長の岡田政和弁護士に加え、世話人の石津剛彦弁護士ほか3名、計6名のプロジェクトチームメンバーが選ばれ、PTでの検討の結果、1周年記念誌を発行することが比較的簡単に決まりました。
 というのも、それまでに、当会が主催した「月山桂先生 憲法への思いを語る」及び「リレートーク・自民党改憲案の検証」という2つの講演(の録音)という素材があったため、これを反訳した講演録を柱とし、他に、会員の憲法への思いを書いてもらい、さらに、改憲反対運動に取り組む皆さんの活動に少しでも役立つような分かりやすい「Q&A」を作るということで、企画自体はスムースに決まりました。
 このうち、最もクリエイティブな作業を要する「Q&A」については、石津弁護士が設問作り、回答起案者の指名、集まった回答原稿の整理を一手に引き受けてくれましたので、事務局長としては、会員寄稿の原稿督促くらいが仕事だろうと思っていました。
 ところが、発行部数と予算との兼ね合いから問題が生じました。今から考えれば信じられないことですが、この記念誌を何と1500冊(!)も印刷することになったのです。
今なら1000冊もあやしい、せいぜい500冊だろうという気がするのですが、当時の意気込みのほどが偲ばれます。
 しかしながら、1500冊でとった最初の見積は到底、会員からのカンパでまかなえるような金額ではなく、別の印刷業者で相見積をとって少しは安くなったものの、まだまだ高過ぎました。
 そこで、普通なら「印刷部数を減らそう」ということになるはずなのですが、「何とか捻出できる金額で1500冊作る方法はないか?」と印刷業者に掛け合い、「版下データ完全提供ということなら何とかしましょう」ということになったため、2006年のゴールデンウイークの間、私はパソコンと格闘しながら記念誌の版下を作りに励み、結局、そこそこ上質な紙を使った140頁の冊子を270円弱/冊で作ることができました。
 いまだに私のパソコンに1周年記念誌の版下データ(一太郎で作りました)が保存されているのは、そのような事情によります。
 
 前置きが長くなり過ぎました。
 「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」創立10周年の今日、創立1周年記念誌「平和のうちに生きるために」から、2つのコンテンツをご紹介しようと思います。
 もちろんそれは、日本国憲法が、10年前には思いも及ばなかったレベルの危機的状況に瀕している今、初心を振り返り、この10年、私たちが何をなし得たのか、何をなし得ずに今の事態を招いたのかを自覚する助けとするためであることは言うまでもありません。
 
 1つは、2005年5月13日の設立総会で採択された「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」アピールです。
 1周年記念誌の中の「この1年のあゆみ(活動報告)」(私が執筆しています)から引用します。
 
(引用開始)
           憲法9条を守る和歌山弁護士の会アピール
 
 戦争放棄を定めた日本国憲法第9条は,第2次世界大戦における夥しい犠牲に対する反省の上に立ち,「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」て制定されました。
 我が国が,戦後60年に及ぶ長期間,「戦争をしない国」として,世界とアジアの平和に寄与することができたのは,憲法第9条があったからこそです。
 ところが,近時,我が国政府は,アメリカによるアフガニスタンイラクに対する武力攻撃を積極的に支持し,ついにイラクには「復興支援」という名目により,自衛隊を派遣するに至っています。
 また,これらの事態と並行して,武力攻撃事態法等の有事法制が着々と整備され,日本を「戦争のできる国」にしようとする動きが加速しています。
 そして,その総仕上げとしての憲法「改正」が,現実の政治日程に上ろうとしています。
 私たちは,憲法の基本理念を守るべき責務を有する法律家として,この危機的状況を座視することはできません。
 私たちは,集団的自衛権の名の下に,自衛隊を海外の戦争に参加させてはならないと考えます。
 私たちは,憲法前文及び第9条の平和主義の理念を守り,アジアや世界の平和を実現し強化する必要があると考えます。
 そのために,私たちは,憲法第9条が果たしてきた役割や意義を広く世論に訴え,憲法第9条改悪阻止のために全力を尽くすことを表明します。
(引用終わり)
 
 様々な先行する弁護士9条の会の設立趣意書などを参考にしながら、このアピールを起草する作業に私も関わっていたことを思い出しました。
 今振り返ってみても、10年後の今日の状況にも十分対応し得る基本的立場の表明であると思う一方、10年前には想定できていなかった部分ももちろんあります。
 それは、改憲勢力がここまで憲法をないがしろにするということ、それも9条だけではなく、あらゆる憲法的価値を無視するということを想定できておらず、従って、それへの対応も後手後手に回ってしまっているということです。
 これは、「平和のうちに生きるために」で専ら批判の対象としていた自民党「新憲法草案」(2005年)と、その後に発表された自民党日本国憲法改正草案」(2012年)との質的な違いに端的に表れています。
 自民党の2012年改憲案は、その後に出現した第二次・第三次安倍内閣の憲法無視の暴走を予告していたのだと、今となれば分かります。
 今、私たちは、10年前の決意を再確認しつつ、新たな状況にも対応しなければなりません。
 
 さて、「平和のうちに生きるために」のコンテンツからもう1つご紹介するのは、和歌山弁護士会最長老(かつ現役)の会員、月山桂(つきやま・かつら)弁護士の講演録です。
 月山先生は、大正12年3月31日、和歌山市のお生まれ。中央大学法学部在学中の昭和18年12月に召集を受けて陸軍に入隊。輜重隊、関東軍経理部教育隊などを経て、護阪師団の経理部見習士官として敗戦を迎え、復学後の昭和22年に高等文官試験司法科試験に合格し、同25年から31年まで東京・松山で裁判官として勤務された後、地元和歌山弁護士会に入会され、以後、一貫して在野法曹として活動してこられました。
 月山先生は、とりわけ人権問題、平和問題について熱心に取り組まれ、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」顧問、「九条の会・わかやま」呼びかけ人として、単に名前だけではなく、街頭における署名活動にも率先して参加されるなど、和歌山の弁護士は言うに及ばず、多くの市民から深く敬慕されています。

 今日ご紹介するのは、「憲法9条を守る和歌山弁護士の会」が設立されて間もない2005年8月25日、和歌山弁護士会館4階講堂で行われた「月山桂先生 憲法への思いを語る」を文字起こしした講演録です(1周年記念誌収録に際し、月山先生のご意向もあり、「月山桂弁護士 憲法への思いを語る」と改題)。
 
 講演では、時間の都合から、主に「昭和20年敗戦の年、この年の3月ぐらいから、終戦になって、進駐軍に対して物資の引渡しを終えて除隊になった。その間」について語っておられますが、より詳細な戦争体験については、月山先生が2009年5月に自費出版された『法曹界に生きて平和を思う』に綴られています。なお、以下に掲載する写真は、同年12月10日に開催された『法曹界に生きて平和を思う』出版記念講演会(憲法9条を守る和歌山弁護士の会、九条の会・わかやま共催)での月山先生の講演の様子です(会紙「九条の会・わかやま」から転載させていただきました)。
 それでは、講演録のPDFファイルにリンクするとともに、とりわけ感銘深く私が読んだ部分を抜粋してご紹介します。

 月山先生ご自身、「私は、応召し、満州へ行き、関東軍に在籍していたとはいうものの、間もなく原隊復帰となり、戦地へ行ったこともなければ、シベリヤに抑留されたこともない。従って、私などは、戦争の苦しみを語る資格はありません。」と述べておられますが、それでも私が月山先生のお話を是非皆さんに読んでいただきたいと思う理由は、以下に引用した部分に目を通していただければ明らかになるものと思います。
 なお、当然のことですが、講演録の本メルマガ及びブログへの掲載については、月山桂先生からご快諾いただいています。
 
 私は、昭和19年11月末、満州で陸軍経理学校を卒業する時に、運良く、原隊復帰ということで内地へ、しかも和歌山へ帰ってきましたけれども、仲間の多くは、満州の各地に関東軍の要員として残りました。もっとも、その満州に残ったものでも、大体、3分の2くらいは、終戦までに本土防衛ということで内地へ帰ってきたということですけれども、運悪くといいますか、最後まで満州に残らされた人たちの殆どはシベリヤに抑留され、その中の大体4分の1くらいは向こうで亡くなったんではないか、というふうな話があります。
月山桂先生 その満州での陸軍経理学校の卒業の時に、原隊復帰で内地に帰る者の出発は後回しになりまして、満州でも遠隔の地に行く者から順番に出発して行く。内地組は、雪の中、それを見送るわけです。「此の地一たび別れを為し、孤蓬万里に征く」あの李白の「友人を送る」詩の思いで別れました。当時、あのような終戦の迎え方をすることになるとは思いもよらず、送る者も送られる者も、士官勤務の陸軍経理部見習士官として任官したばかりで、それなりに士気軒昂たるものがありました。ところが、敗戦、その何分の一かの者が、シベリヤで捕虜として故国を夢見つつ死んでいったのです。
 そういうふうなことからして、私は、私どもの体験を後の世代に語るのがわれわれの責務だということを感じておりまして、藤井先生の方から話しせよとおっしゃっていただいたんで、ああ、これは宿題を果たせる一つの機会だということで、喜んで参加させていただいたことでございます。
(略)
 護阪師団、大阪を守る師団というのが編成されたのは、昭和20年3、4月頃のことと思います。護阪師団の中に歩兵の方としてイ、ロ、ハという3つの連隊があります。私が配属されたのは、3つの連隊の中のロ部隊、部隊の大きさとすれば2個大隊で、約1、000名余りの割合と小さい連隊だった。連隊に2つ大隊がありました。大隊というのが3個中隊からなっている。中隊というのは、1個中隊が3個小隊ぐらいからなっている。1個小隊というのは大体50人ぐらい。一般的にですよ。
 私は満州の経理学校を卒業して間もない経理部見習士官だった。主計少尉になる寸前の士官勤務の見習士官で、本来は、第一大隊付主計ということで配属になっておったんです。ところが私どもロ部隊の高級主計、連隊の経理部の最高責任者が貨物廠といいまして、食糧とか、被服とか、そういうふうな軍需物資を大量に集積、管理する軍の倉庫、お役所の出身だったんです。そのため、金銭経理、糧秣経理、被服経理、営繕等すべてをやらなければならない、一般部隊、野戦部隊の主計業務の経験がなかった。
 それで、私は第一大隊の主計だったんですが、高級主計の補佐ということで、連隊全部について高級主計の仕事をやることになりました。その当時の私は、関東軍で鍛え抜かれた精鋭の気位があり、高級主計をさしおいて自分が高級主計みたいな顔をして、全部取り仕切ることになった。そういう状態で私は終戦の年の3、4月頃を迎えました。
(略)
 主計の仕事の中には、兵への給与その他の金銭経理というのがありますし、営繕といいますか、宿舎を借りたりとか、いろんな営繕関係の仕事もある。その外、野戦部隊の主計の中心が、糧秣、兵隊に食べさせる食糧ですね、それから陣地構築した場合に、どれぐらいの期間かアメリカと抗戦しなければいけない、その抗戦期間中における物資の確保ですね。
 その当時、民間の方では、食糧はほとんど枯渇しておったかと思います。昭和19年の春頃だったと思いますが、藤原銀治郎という軍需大臣がおりまして、「我が国は19年の終わり頃には物資が枯渇するであろう」というようなことを話して物議を醸したことがありましたけれども、そのとおりになって、19年の終わり頃、20年の初め頃には、民間では主食も事欠いてくるというふうな状態でした。
 そのような状態でありましたけれども、軍隊の方に対しては本土決戦用としてどんどんと食糧を送ってくるわけですね、カマスに入った米が毎日のように大量に送られてくる状態でした。私の部隊は今の中貴志の小学校へ移る以前、連隊本部が海南高校にあった当時、野上谷の倉庫という倉庫、これを全部借り上げたんです。あそこは造り酒屋のたくさんあるところです。酒屋の蔵は全部借りた。それと同時に棕櫚や笹ものの産物が多いところで、その産物のための倉庫というのが、小さい倉庫ですけれども、そういう倉庫もみな借り上げ、今、申しました食糧をそういう倉庫に貯蔵しました。
(略)
 私らが今度、中貴志に移動して来てからも同じように食糧がどんどん来るわけです。置くところに困りまして、最後にはやむを得ず、校庭に丸太を組みまして、丸太の上に、カマス、そうですね、今思い出すんですけど、コーリャンを80㎏の麻袋(マータイ)に詰め込んでいるんですけれども、それが貴志川線ですか、あれで送られてくるわけです。それをそれぞれの倉庫の所在地に近い所で降ろしてもらって、それを倉庫まで運ぶわけです。大体その当時の兵隊は最終動員の補充兵というとなんで、年齢も30を越し、あまり体力はない。そういうふうな兵隊にこの80㎏のマータイを倉庫まで運べといってもなかなかいかん。私は自分でこういうふうにやるんだというて、貨車から降ろすときに、自分の背中のところにマータイを背負わせるように落としてもらって、それを50mぐらい先にある倉庫まで、こうして運ぶんだというて見本を示した記憶があります。そういうふうなことでコーリャンなんかを倉庫まで運ぶ。いよいよ、倉庫もなくなったということで校庭に丸太を組んで。それくらい軍は食糧が非常に豊富だった、とにかく困るくらいどんどん送ってきた。
 民間があの当時困っておって、すいとん(うどん粉の団子汁)までいっておったかどうか知りませんけれども、麦とか、サツマイモ、そういうふうなもので飢えを凌ぐほどになっていた。終戦直後ほどではなかったにしたところで、かなり急迫しておったことは間違いない。そういうふうな状態であった。
(略)
 和歌山空襲(金原注:昭和20年7月9日の大空襲)がありまして、私は和歌山空襲の時に海南高校におりました。その時に、和歌山にある倉庫がどういう状態かと思って視察に出かけたんですけれども、焼夷弾の落ちてくる時のものすごい状態ですね、花火というのをまともに真下で見られたことがおありだと思いますけど、あれの何十倍、何百倍の状態で、ワァーと焼夷弾が炸裂し乍ら物凄い音を立てて落下してくる。普通の爆弾は狙ったところに落として、その破壊によって人間あるいは施設を破壊するということですけれども、焼夷弾というのは、何でもかんでも焼くことが目的なんですね、最初のうちは、アメリカのB-29は施設を破壊する、ところが施設を破壊してもなかなか日本は音を上げないということで絨毯爆撃といいますか、全国各都市を焼き払うという戦法に変えたわけですね。絨毯爆撃。その絨毯爆撃の一つとして、和歌山なんかも空襲にあった。焼くことが目的なんで、別に目標なんて定める必要はないわけですね。とにかく今度は和歌山を焼けと。和歌山の場合はテニアンからB29が108機飛んできたということですけれども、上から撒くわけですね、下から見てましたらものすごいんですね。私は、最初、毛見のトンネルからよう出なかったんです。一つには連隊本部の許可を得て出てきたわけじゃないんで、もし万一事故でもあったら、申し開きもつかんというようなこともありましたけれども、正直言ってそれよりも怖かった。ところが、その怖さというのを空襲に遭った市民の人たちは、まさに自分の頭で受け止めているわけですね。よく物語で聞くのは、歩兵は、真正面から敵の銃火を浴びる。鉄砲の弾が雨、霰と飛んでくる、これに立ち向かう。ところが、空襲では、それが上からくるわけですね、焼夷弾が。
(略)
 そういうふうなことで、民間と軍とどちらの方が危険だったかといえば、前の戦争の時に、これ外地・戦地に行った人は別ですよ、本土決戦といって内地の防衛に当たったものは、民間の方が危険だったと思いますね。軍の方は山野に展開(疎開)して陣地にへばり付いてさぁこいと言うんだけれども、さぁこいと言ったってね。そういうことで、軍隊と民間とどちらが危険だったかといえば、僕の経験からすれば軍隊の方が危険が少なかった。それに、和歌山空襲のときも不思議に24部隊は厳然として残っていた。そして、空襲中にも、空襲解除後も、24部隊が民間の消火、救助に当ったということは全く聞きません。
(略)
 それからだんだん終戦に近づきましてね、7月9日が和歌山の空襲ですから、8月に入ってからだったと思いますけれども、8月の上旬頃にはP何とかというアメリカの偵察機ですね、下駄履きの偵察機が飛んできまして、丸栖から貴志川辺り、あそこはちょっと低いですね、だから、そこのところを中貴志の小学校の方から見ていたら、ほとんど同じぐらいの高さのところで偵察機が旋回しているんです。まるで我がもの顔にね、日本の兵隊はどうかといったら、「みんな隠れよ、絶対に姿見せたらあかん」。あんなの機関銃でもやっつけられるような状態だったんですけど、「みんな隠れよ、絶対に姿見せたらあかん」と。何のための軍人かな、兵隊かなと思いました。もっとも、その当時、8月に入ってましたから広島、長崎の原爆もあった月ですから、あるいはもう講和の試みがなされていたかもしれません。とにかく隠れよ。私が満州から原隊復帰してきた金岡の輜重隊にいた昭和19年末当時も、B-29が何度も飛んできた。その時にも「みんな隠れよ、隠れよ」といわれて隠れた記憶がありますけれどもね。戦争しに行って、B-29が来たとたんに、みんな隠れよ、隠れよ、何のための軍隊かなというような感じを抱いたことは今も忘れません。
 そうこうするうちに、今日は、天皇陛下玉音放送がある、みんな校庭に集まって聞くようにという命令が出ました。後からいえばそれが終戦のご詔勅だったわけです。中貴志の小学校、その当時、東西に棟が4つ5つ並んでいました。その棟の東側の方の運動場に面したところにラジオの放送器がありまして、おそらくラジオ体操なんかに使ったラジオだと思います。そこへみんな集まって、これから玉音放送があるからということで集まって聞いたんです。玉音放送というので、玉のような麗しいお声だろうと思っていたら、全然聞こえない。静かなんですね、あたりは。中貴志の小学校は静かなところなんですけれども、雑音が入って全然分からない。陛下が放送されるというんだから、いよいよ本土決戦、徹底抗戦ということで「朕のためにお前たちの命を預けてほしい」というふうな、国民に対する、兵隊に対する激励、要望のお言葉かな。しかし周囲の空気というのは、もう日本は戦えない、日本は降伏せざるを得ないというような状態になっておりましたから、それにしてはちょっとおかしいなと言いながら聞いておったんです。聞いている間に、「…耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで…」と、それが不思議に耳に残っているんですけど、どうも耐え難きを耐え、忍び難きを忍びという、あの音調からするとどうも「しっかりやってくれ、私も頑張るから、お前たちも頑張ってくれ」と、そんな口調とぜんぜん違うんですね。どうもおかしい、聞き終わった後で、連隊長もわからななかったと見え、師団の方に問い合わせた上で、伝達するからそれまで平常通り軍務に服するようにというようなことでした。しかし、われわれは、今のはどうも日本は参ったという放送みたいやないか、と言ううち、2、3時間した後に、連隊長の方から無条件降伏したことの放送だったということを聞きました。
(略)
 当時、私は営外居住ということで、家族が焼け出されて疎開してきていた下三毛(船戸近く)の自分の家から毎日行き帰りしていました。そうして、終戦を迎えた。終戦を迎えたけれども、私は、主計として、終戦処理業務のためなかなか本当の終戦というふうな感じがしないままに日を過ごしておったんです。ゴルフへ行かれたりしてご存じの方が多いと思いますが、貴志、丸栖の方から船戸の方へ下りる時、非常に印象に残るのは紀ノ川が真ん中に流れておってそれを挟んで北と南に山があります。それまでの間家へ行き帰りするのは、毎日夜8時、9時以前に帰ったことがないんです。帰る時は見渡す限り真っ暗闇で、右側には龍門山、向こうの方に高野山があるんでしょう、その高野山は見えませんで、その向かいの方の金剛山岩湧山、葛城山そういうのがあって、私の真向かいの方が根来、それの西にずっとつながる先は加太、加太の方に行くまでにこちら側、南側の高積山というんでしょうかね、布施屋の山があってさえぎられる。その間に紀ノ川がずうっと、東から西、右から左へ、あるところでは、太く、あるところでは細く、ずっと真っ白く流れているわけです。その間真っ暗なんです。電灯の光一つない、真っ暗な山裾、そういう中を毎日行き帰りしておったんです。
 ところが、終戦後2日目か3日目かですね、いつものように、家へ帰る途中、丸栖の方から船戸の方へ曲がっておりる、角くらいのところでしょうかね、その所へ来た時に、はっと思った。それは、今まで真っ暗だったんです。両側に山があり、その真ん中のところに白く紀ノ川が流れている。その両側は真っ暗だった。ところが、その時に、ハッと気がついたら暗闇の中、電灯が左の方に2つ、3つ、真向かいの方に3つ、4つ、右の方にも3つ、4つ。電灯の光が見えたんです。
 これ、何でもないと思いますけれども、その時、私は本当にびっくりしましたね。当たり前のことだと思います。けれども、その時、生まれて初めて「やあ~、光だ」という気持ちになりましたね、その電灯の光を見て。思わず、しゃがみ込んでしまった。その電灯の光がその次の日には、増えるんです。昨日2つ3つだったやつが、6つになる、7つになる。そういうようなことで、日を追うて1週間ぐらいするうちに、この部落、あの部落がというふうに大体昔通りによみがえった。今のように電灯の光がずうっと紀ノ川の流れに沿って連なっているという状況じゃありませんで、各部落ごとの一つの群れがあったんです。
 そういう部落ごとの光が1週間ぐらいするうちに全部復活してきた。その時、私がはっとした状態というのは、皆さんにはお分かりいただけるかどうか。今まで真っ暗だった。真っ暗だったのは、どういうことかといいますと、ご承知だと思いますけれども、灯火管制、アメリカの飛行機から爆弾を落とされないように各戸とも家の中を真っ暗にしていた。暗幕というのは、電灯といいましても電灯笠があって、電球があって、というのは、今の子にはわからんような状況だと思いますけど、その電灯の笠に暗幕というのを掛けまして、大体50㎝くらいの暗幕を電燈の笠にかけて垂らすわけですね。それは光が外に漏れないように、空襲があったって、上空から見えないように、爆弾落とされないために。もし光が漏れようもんなら、隣組のおっさんからえらい怒られる。そして暗幕のために、8畳の部屋いっぱいを明るくする電灯の光が下の方の畳の上、直径1mぐらいしか、明かりが見えない、そういう状況で暮らしておった。
 私は、あちらの方で、こちらの方で電灯の光が蘇ってきたときに、その暗幕が各家ごとに外されていく、その情景というのが手に取るように分かりましてね。この暗幕が外されていく、それによって光が呼び戻される、光が呼び戻されていくというのは、単に空襲とか何とか言うんじゃなくて、人々の自由とか普通の幸せとか、そういうふうなもの、それまで暗幕によって閉ざされ、失われていたものが生き返ってくるわけです。また私自身が兵隊に引っ張られていたそのような制限、抑圧された状態、そういうふうなものから解放される、暗幕が外されていくということに非常な感銘を受けました。そこで光を見てしゃがみ込んでおった時間は5分か10分ぐらいだと思いますけれども、ああ、平和がもどって来たんだと、じーんと胸に来ました。
 私は、玉音放送聞いたとき、ああ、やっぱり負けたんだという思いはしましたが、戦争が終わったんだとか、平和になるんだ、という感じがしませんでしたけれども、真っ暗な紀ノ川平野の中に電灯が蘇ってくる、光が蘇ってくる、これを見て、ああ、平和が来たんだ、本当に終戦だという気持ちが蘇ったことを記憶しております。思いもよらず、これでもう一度大学へ帰れるんかな、というふうなことも、そういうこともありました。この光によって初めて、暖かみといいますか、心の明るさといいますか、平和が帰ってきたという思い、本当の意味での戦争が終わったという感じがしました。
(略)
 司会の藤井先生から、「そこで新憲法への思いを」と促されるのですが、今ここで、私にとって、新憲法は、とか戦争の放棄とは、と尋ねられても、一言で整理してお話できるものではありません。たって新憲法といわれるならば、私にとっての新憲法は、司法試験に非常にありがたいものだった。昭和21年の11月頃に筆記試験があったと記憶しますが、その頃は、新憲法が公布されたか、未だされていないかの頃で、新憲法の解説といえば、帝国議会での憲法草案に関する提案理由といいますか、解説についての新聞記事しかない。憲法の試験は旧憲法でも新憲法でもどちらでも良いということでしたので、私は、試験を受け易い新憲法を選びました。私が、司法試験に合格できたのは、そういう意味で、新憲法のおかげだったと思っております。と同時に、先ほどからの戦争の話の続きになりますが、私は、戦争に負けてよかったと、負けてくれてよかったと、心から思ったということです。もし、仮に軍の指導下に、国民が軍の統制下におかれて、万一、戦争に勝っておったならば(そんなことはありえませんが)、どんな日本になっただろうかと思うと、ぞっとするのです。あるいは、当時いわれたように大東亜共栄圏で国際的に国威が発揚できたかもしれませんが、日本の国は神国となり、国民の思想は統一され、軍の横暴は極点に達し、国民の自由と権利は抑圧され、誇りのある非文明国となっていたんではないかと思っております。到底生きてはいけない。だからよくぞ負けてくれたという思いがします。そういう意味で、「戦争の放棄」というのはすばらしいことだと、軍隊、戦力を一切持たないというのは、正にそうあって然るべきだという思いに満たされた。そういう意味で、「第2章 戦争の放棄」、「第3章 国民の権利及び義務」という憲法の組み立ては、私には非常に分かり易い、立派な組み立てであると思われたのです。この思いは、終戦直後も、新憲法制定の当時も、今現在も少しも変っておりません。
 先程来述べましたように、私は、応召し、満州へ行き、関東軍に在籍していたとはいうものの、間もなく原隊復帰となり、戦地へ行ったこともなければ、シベリヤに抑留されたこともない。従って、私などは、戦争の苦しみを語る資格はありません。亡くなりましたが、私と同じ年代の岡崎弁護士(元当会会員)は、シベリヤに抑留され、帰ってきたのが昭和23~4年頃だった。そのため、司法試験も少し遅れた。彼に、シベリヤ抑留の話を聞かせてもらおうと思って話しかけるんですが、苦しかったというところまでは言ってくれても、それ以上のことは言ってくれない。私の修習生の同期でインパール作戦に参加した男がいました。彼も戦闘の激しさとか苦しさは話してくれましたが、あるところ以上は話してはくれませんでした。戦争中の人間のもっとも醜いところについては、話してくれない。関東軍の経理学校の同期で「白雲悠々」という上下2冊の思い出の記録が作られています。それによると、「収容所生活というのは、作業に堪え、空腹に堪え、望郷の念に堪える日々であり、いつの日になるか分からない帰国の日をひたすらに待ち続ける毎日であった。」とあります。そのような中で、いわゆる民主教育、共産主義教育が行われる。そして、ノルマを監視するソ連兵に対し、自らが生き残るために、そして、なんとか早く帰れるように、同僚を裏切るようなことが行われるようになったといいます。零下何十度という極寒の中で、お互い温め合うべきなのに。戦争というものは、人間を非情にし、同僚を売るようなことまでさせるんです。これが戦争なんです。軍隊は、戦争は、決して家族を守り、国を守るために生命を捧げるといった、そういう崇高なものばかりでは断じてない。これが実態だということを、私どもは知らなければならないと思うのです。私は、内地での、極めて平穏な軍隊生活、前にもいったように一般の民間人以上に平穏な軍隊生活を送ったものですが、それだけに、戦争とか軍隊というものの勝手気ままな、軍、優先の実態を知り得たという思いです。恥ずかしいことですが、この実態を語り継ぐのが私の義務だと思っております。
 以上で一応終わらせていただきます。下手な話を長々、お聴き頂き恐縮しました。有り難うございました。
(略)
雑談(追加)
 軍隊とか、戦争といえば、非常に格好のよい、勇ましく、やりがいのあるように思われますが、自分がいざ軍隊に入れば、決してそのようなものでないことがわかります。私は、学徒兵として召集されるにあたって、愈々になれば仕様がないとして、できれば、死の危険に近づきたくはない、ということで、歩兵は第一線で銃剣を交えなければならない。その点、輜重隊は後方支援部隊で、敵とぶつかることはない。できれば輜重隊に、と思って、徴兵検査のときに、「こいつは長距離の歩行は不可能だ」と見てもらおうと思って、偏平足よろしく足の裏に水をいっぱいつけて、板の間に足跡をつけました。検査官は、これを見て、この足ではそれ程歩けまいと言って、図に当って、私は、堺の金岡の輜重隊に入ることになりました。私は、当時、輜重隊は馬部隊などなく、全部トラックだと思っておったところが、何と私の入った部隊は馬部隊、それも輓馬部隊と違って駄馬部隊。荷を車に載せて、車を馬に引かせるのではなくて、馬の背中に弾薬を載せて最前線まで補給に行く部隊。歩兵のような装備もなく、もっとも命に危険のある部隊だったのです。それに、昔からそうでしたが、輜重隊(馬部隊)の兵隊は、「輜重輸率が兵隊ならば、蝶やトンボも鳥のうち」といわれるように馬鹿にされ、見くびられた兵隊でした。朝起きれば、寝藁動作といって、馬房の寝藁を厩舎から運び出して、外に干してやるわけですが、その寝藁たるや、馬が一晩かかって大量の糞と小便で蒸しあげたホコホコのもので、それを顎につかえるぐらい胸いっぱいに抱え上げて、干し場に出す。そのあと、馬の背中や脚、体じゅうを藁でこすってやったうえ、按摩をしてやる。そのあと蹄をきれいに洗ってやる。さらに、水を飲ましに水槽のとこまで連れて行く。大体、ゴクンゴクンと40回くらい飲ませるのですが、馬が素直に飲んでくれないときがある。そのような私たちの動作を一つ一つ、助教といわれる古年次兵が監視していて、馬が水を飲んでくれないときまで、何してる、馬鹿野郎とこちらに怒ってくる。「お前たちは一銭五厘、お馬さんは十円」(兵隊は一銭五厘赤紙で召集できる。馬は十円もいる)ということで、馬以下の扱いしかしてくれない。当たり前で、馬は20㎏の弾薬箱を2つ背中に背負って何10kmも歩く。人間は到底そんなことはできない。さらにまた、行軍のときに、10kmくらい行ったら小休止になる。我々は銃を叉銃したのち歩兵ならば休むところ、こちらは20㎏の弾薬箱を馬の背中から2つ下ろしてやらなければならない。そして鞍を取り、毛布をとってやって、また藁束で背中をこすってやらなければならない。そのうえ、とんとんと按摩も。そして、やっと馬の世話が終わったころに、ピィーッと出発用意となる。こちらの休む暇もあらばこそです。また、毛布をかけ、鞍を置き、腹帯を締め、弾薬を背中へ置き、ちょっと遅ければ、「あほったれ、馬鹿野郎」と。この怒声を聞かない日はなかったくらいです。そんなことで怒られ、馬鹿扱いされていたときに、ふと、召集を受けて親戚のものや町内会の人たちに万歳万歳と歓呼の声に送られて、勇ましく送られてきた日のことを思い出すんです。みじめで情けなくなるようなことが何べんあったかしれません。そのうえ、軍隊というところは、上命下従、上官のいうことは朕の命令と心得よということで、理屈の有無は問わないところ。それはもっともで、上官が「突撃! 進め!」と命じたときに、部下が、いや、それは間違っておりませんか、などといって命に従わない場合、戦争は成り立たない。軍隊とはそういうところです。輜重隊だけのことではなくって、軍全体に通じることだと思われます。軍隊とは、上官の命に盲目的に従わせる演習の場であり、そのための日常生活です。そのうえに、時間の都合でいえませんけれども、毎夜のように消灯後、内務班でのしごき、いじめがあります。幸い、私たちは、幹部候補生要員であったから、そのような初年兵生活は3ヶ月くらいですみましたが、一般兵はそれがずっと続くのです。
 私が、九条を考え、軍について語るとき、将棋の駒を振る立場でなくて、振られる駒の立場で考えなければならないというのは、こういう点もあってのことです。

(引用終わり)
 

(付録)
「五月のゼッケン」 作詞:松原洋一 作曲:井上高志 演奏:松原洋一、井上高志
 
(楽曲解説)「井上高志のブログ」より
 今回の歌は、5月15日が近いので、わがらーずの松原洋一さん作詞の「5月のゼッケン」という歌です。1972年5月15日は、沖縄が日本に返還された日です。その日、若き松原青年は、「沖縄の心が泣いている」というゼッケンをつけて、アメリカ軍基地が残されたままの返還反対という意思を表明しながら、一人、大阪で、通勤電車に揺れておられました。あれから43年たったけれど、アメリカ軍の基地は未だ沖縄に集中し、沖縄の人々の民意は無視され、民主主義の崩壊という事態が進行しています。あの日の松原青年のようにわたしたちひとりひとりに何ができるのか、今、問われています。この歌は、松原さんの書いた詩に、私が曲をつけさせてもらいました。下の映像は2014年、11月1日・大阪天六「音太小屋・井上高志ライブ」より、ゲストに出てくださった松原さんと私の競演の模様です。