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浦部法穂先生の「憲法時評」を読む

 今晩(2013年7月30日)配信した「メルマガ金原No.1434」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
浦部法穂先生の「憲法時評」を読む
 
 浦部法穂(うらべ・のりほ)先生は、現在、顧問を務めておられる法学館憲法研究所サイトでは、以下のように紹介されています。
 
(引用開始)
1946年愛知県生まれ。神戸大学法学部長・副学長、名古屋大学大学院法学研究科教授を経て、現在法学館憲法研究所顧問、神戸大学名誉教授。主な著書に、『違憲審査の基準』(頸草書房、1985年)、『いま、憲法学を問う』(共編著)日本評論社、2001年)、『ドキュメント日本国憲法』(共編著、日本評論社、1998年)、『憲法の本』(共栄書房、2005年)、『法科大学院ケースブック 憲法』(共編著)(日本評論社、2005年)、『憲法学教室(全訂第二版)』(日本評論社、2006年)、『世界史の中の憲法』(共栄書房、2008年)、『憲法時評 2009-2011』(HuRP出版、2011年)、『憲法の本・改訂版』(共栄書房、2012年)など。
(引用終わり)
 
 残念ながら、私自身は、浦部先生の講義・講演を伺ったことは一度もないのですが、実は、法学館憲法研究所サイトに連載されている「浦部法穂の憲法時評」の“大ファン”なのです。
 
 同研究所サイトで、2009年以来のバックナンバーを全て読むことができます。
 
 浦部先生ほどの業績を積まれた学者が書かれる文章の“大ファン”と言うこと自体、ささか軽薄のそしりを免れませんが、「憲法時評」という連載タイトルのとおり、その々の話題を俎上に載せ、これを切れ味鋭い「憲法包丁」でさばいていくその手際見事さにいつも感歎しきりなのです。
 
 試みに、今月(2013年7月)発表された2つの「時評」を是非お読みください。こ2つの文章は、2編で1つの論旨を構成していると理解することができます。
 
2013年7月8日 「本物の野党」と「擬似野党」
2013年7月25日 「政権交代」という幻想
 
 参議院選挙が公示された直後に書かれた「『本物の野党』と『疑似野党』」において、「本物の野党」とは、「新自由主義」に対するopposition(反対、対抗、抵抗)でなければならないとともに、憲法への敵視に対するoppositionでもなければならないとした上で、浦部先生は以下のように論じておられます(内田樹さんの反グローバリズム論にも一脈通じるところがあると感じました)。
 
(引用開始)
 「言うは易く行うは難し」の典型のような議論だと思われるかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。私は、多くの人が、まずは最も個人的な利害から考えるなら、そんなに難しいことではないはずだと思う。「天下国家」の観点からではなく、そこで言われていることが自分にとってどういう利害をもたらすのかを考えてみる。つまり、自分の利害を基準に考えてみればいいのである。ただし、その場合、今日明日の目先の利害だけでなく将来を見据えた利害を考えるという視点は、意識的にもつ必要がある。そのうえで、余裕があれば、その基準がどこまで普遍性をもつかを考えればよい。そうすれば、何でも市場における競争に委ねるべきだといった「新自由主義政策の自分にとっての意味が理解でき、多くの人がそういう政策を支持するなどということにはなりえないはずだと思う。それを、「天下国家」で論じさせられると、日本経済にとってどうのこうので、自分の利益には反するのに納得させられてしまうことになる。「改憲」問題もそうである。「国防軍」をもつことが自分にとってどういう意味をもつのか。その「国防軍」には誰が入るのか。自分や自分の子どもが徴兵されて場合によっては戦地に送られることになってもいいのか。というように考えれば、そう簡単にこのような「改憲」には賛成できないはずである。「自分基準」はなんとなく身勝手な議論のようで後ろめたく感じるかもしれない。しかし、すべてそれだけでいいとは言わないが、まずは自分にとってどうなのか、そこから考えることで問題の核心が見えてくると思うのである。
(引用終わり)  
 
 これに引き続き、選挙結果が出た後に書かれた「『政権交代』という幻想」で、浦部先生は、20年前の社会党も現在の民主党も、なぜ、自民党以外の政党は一度政権を取ったらあとは消滅するだけということになってしまうのか?という問を立てた上で、以下のような解を与えられます。
 
(引用開始)
 私は、根本的な原因は憲法軽視の政治がずっと続いてきたことにあると考える。政治において一番その基礎とされなければならないのは、憲法である。だから、どの党派も憲法という共通の土台の上にそれぞれの政策を構築するというのが、本来の政治の姿でなければならない。それが立憲政治といわれるものである。この立憲政治が機能しているかぎり、どの党派が政権を取っても土台は共通で動かす必要はないことになる。しかし、憲法という土台を逸脱する政治が行われてきた場合には、どうか。そこには憲法とはちがう別の土台が作られてしまい、どの党派も基礎とすべき共通の土台というものは存在しないことになってしまう。だから、政権交代で新たに政権についた党派は、自分たちの主義主張を実現するために、それまで行われてきた政治の土台ごと壊して新たに土台から作り直すか、それとも自分たちの主義主張の完全な実現はあきらめて、従前の政権が築いた土台を引き継ぐか、そのどちらかの道を選ばざるをえないことになる。前者の道は途方もない労力と時間を要するであろう。2年や3年では何もできないかもしれない。となると、後者の道を選んで1つ2つ前政権とは違う成果を挙げたほうが政権の維持のためには得策だ、という判断に傾くことになりやすい。そうなれば、しかし、前政権と何も変わらないじゃないかということになって、国民の失望を招くことになる。
(引用終わり)
 
 ここまで読んだだけでも、「政治改革」という(今から思えば内容空疎な)スローガンに、私を含めた多くの国民が幻惑されていた時、散々聞かされた「政権交代可能な健全野党の育成が何よりも重要」という言説がいかにまやかしであったかを理解するための理論的枠組が与えられた思いです。
 
 そして、浦部先生は、将来を見据えた展望を以下のように示してくれます。
 
(引用開始)
 あまりにも長い間、憲法を逸脱した土台の上に行われてきた政治。それを憲法という土台の上に戻し作り直すのは、簡単なことではない。たまさかの政権交代でできるようなことではないのである。逆に言えば、政権交代があっても土台はそのままということにならざるをえない、ということである。だから、政権交代ということを追求すればするほど、憲法的価値の実現をめざす党派は、ますます脇へ追いやられる結果となってしまうのである。自民党が作ってきた土台も、自民党政権が日本国憲法のもとでの政権であるかぎり、一部は憲法の土台と重なり合っている。その右側に大きく逸脱する形で土台が作られ、憲法と重なっている土台の上の構築物はどんどん「減築」し、右側に逸脱した土台の上にますます積み上げていっている、というのが、いまの政治だといえる。そして、憲法と重なっている土台の部分は、「もう古くなったから」というので土台ごと取り壊し、右側の土台のさらに右側に新たに「増築」して、日本国憲法とは完全に切り離された土台を作り上げようというのが、「改憲」の動きなのである。
 こういう状況の中で必要なことは、憲法という土台を基礎とする政治を追求する党派、前回述べた「本物の野党」が、政治に一定の現実的影響力をもつ程度の議席数(衆・参それぞれ3分の1程度)をもち、憲法を逸脱した土台の上の構築物の積み上げを許さず、憲法と重なる土台の上へのさらなる積み上げを要求し、それを一つ一つ勝ち取っていくことだと思う。政権獲得をめざす必要はないし、性急にそうすべきでもない。そういう一つ一つの積み上げの結果として、憲法から逸脱する土台を徐々に解体し、憲法と重なる土台のほうを少しずつ「増築」していって、やがて土台がすべて憲法と重なる形にできれば理想的だが、いまの段階でその理想像が現実的なものとして見えなくても構わない。逆に、理想論に過ぎないといってあきらめてしまってはダメである。半永久的に「3分の1の抵抗勢力」であったとしても、それがないよりは、はるかにマシなのだから。そして私たちも、「政権交代が必要だ」という、善意ではあるが幻想に過ぎない言説に惑わされず、「政権交代可能な野党」よりも「3分の1の抵抗勢力」を選び育てることに、力を注ぐべきではないかと思う。
(引用終わり)
 
 ところで、一面識もない私から浦部先生に、「現代の末広厳太郎(すえひろいずたろう)」というオマージュを捧げて、果たして喜んでいただけるでしょうかね?
 
(注)末広厳太郎(1888-1951) 東京大学法学部卒業。1918-20年欧米留学。1921-46年東京大学法学部教授。1941-46年日本体育協会理事長。1947-50年中央労働委員会会長。著書に『債権各論』『物権法』『嘘の効用』『農村法律問題』『民法講話』『日本労働組合運動史』など。
 戦前に発表されて話題を呼んだエッセイは、自由主義の精神に貫かれており、今読んでも非常に新鮮で感銘を受けます。「青空文庫」でもいくつか読めます。
『役人学三則』
『嘘の効用』
『役人の頭』