「中国の脅威」「北朝鮮の脅威」と“日米同盟”(付・「米国における軍隊投入の権限(レファレンス2014年10月号)」のご紹介)
今晩(2015年9月20日)配信した「メルマガ金原No.2219」を転載します。
なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
「中国の脅威」「北朝鮮の脅威」と“日米同盟”(付・「米国における軍隊投入の権限(レファレンス2014年10月号)」のご紹介)
1960年に締結された(新)日米安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)の中で、最も重要な条項は、言うまでもなく、日本有事を想定した第5条です。
1960年に締結された(新)日米安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)の中で、最も重要な条項は、言うまでもなく、日本有事を想定した第5条です。
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約
第五条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
第五条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
現在のいわゆる「日米同盟」の実態は、既にこの条約による規律を大幅に逸脱しており、とりわけ本年(2015年)4月27日にニューヨークにおける2+2で合意された新(第3次)日米ガイドラインは、何らの地域的限定なく地球規模に(宇宙空間まで!)米日軍事協力を拡大するものであり、昨日(9月19日)未明に国会を通過した安全保障関連2法がそれを具体化するための法案であったことは言うまでもありません。
ところで、先日(9月12日)、私は、和歌山県田辺市(田辺ひがしコミュニティセンター)で開かれた「安保法案だよ全員集合!」という、安保法案についての賛成派2人と反対派2人が、様々な論点について意見を述べ合うというイベントに、反対派の1人として出演して意見を述べてきたのですが、その際、賛成派として出演した日本会議紀南支部の支部長と事務局次長が揃って安保法案を必要とする論拠として強調したのが、(予想したことではありますが)「中国の脅威」でした。
当日は、それぞれが意見を述べ合うだけで、ディベートにはしないという申し合わせでしたので、議論にはなりませんでしたが、仮に、「中国の脅威と日本の安全保障」というテーマでディベートを行うとすれば、どうしても避けて通れないのが先に引用した日米安保条約第5条です。
例えば、「尖閣有事」を想定した場合、尖閣諸島は、竹島や北方四島とは異なり、日本が実効支配していますので、「日本国の施政の下にある領域」に該当し、日米安保条約の適用範囲に含まれることは明らかであって、このことはかねてから米国も認めているところです。ただし、この国境の島での紛争がどの程度に至ったら「いずれか一方に対する武力攻撃」となるのかは、必ずしも一義的に明らかとは言えません。偶発的な警備船同士の発砲など(仮に海上保安庁側に死傷者が出ても)、まず日米安保条約上の「武力攻撃」と認定される可能性はゼロでしょう(言うまでもなく米国は日米安保条約を自国の立場から解釈します)。
これが海上自衛隊が当事者になると話がエスカレートしますが、米国は、自国の利益になると考えない限り、おそらく日中間の少々の小競り合いくらいで「武力攻撃」を認定して「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動する」ことなどあり得ません。私は米国大統領の政策決定過程について何ほどの知識もありませんが、少なくとも、中国による日本に対する「武力攻撃」を認定することによる米国の利益と不利益を天秤にかければ、戦線が拡大して沖縄駐留米軍にも危険が及ぶというような事態にでもならない限り、米国が「武力攻撃」があったと認めるメリットなど考えられません。それは、今もそうですし、安保関連法制によって、自衛隊が世界中で米軍の兵站を担うようになったとしても同じことです。こんなことは、別に大した軍事知識などなくても、健全な常識さえあれば明らかなことでしょう。
当日は、それぞれが意見を述べ合うだけで、ディベートにはしないという申し合わせでしたので、議論にはなりませんでしたが、仮に、「中国の脅威と日本の安全保障」というテーマでディベートを行うとすれば、どうしても避けて通れないのが先に引用した日米安保条約第5条です。
例えば、「尖閣有事」を想定した場合、尖閣諸島は、竹島や北方四島とは異なり、日本が実効支配していますので、「日本国の施政の下にある領域」に該当し、日米安保条約の適用範囲に含まれることは明らかであって、このことはかねてから米国も認めているところです。ただし、この国境の島での紛争がどの程度に至ったら「いずれか一方に対する武力攻撃」となるのかは、必ずしも一義的に明らかとは言えません。偶発的な警備船同士の発砲など(仮に海上保安庁側に死傷者が出ても)、まず日米安保条約上の「武力攻撃」と認定される可能性はゼロでしょう(言うまでもなく米国は日米安保条約を自国の立場から解釈します)。
これが海上自衛隊が当事者になると話がエスカレートしますが、米国は、自国の利益になると考えない限り、おそらく日中間の少々の小競り合いくらいで「武力攻撃」を認定して「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動する」ことなどあり得ません。私は米国大統領の政策決定過程について何ほどの知識もありませんが、少なくとも、中国による日本に対する「武力攻撃」を認定することによる米国の利益と不利益を天秤にかければ、戦線が拡大して沖縄駐留米軍にも危険が及ぶというような事態にでもならない限り、米国が「武力攻撃」があったと認めるメリットなど考えられません。それは、今もそうですし、安保関連法制によって、自衛隊が世界中で米軍の兵站を担うようになったとしても同じことです。こんなことは、別に大した軍事知識などなくても、健全な常識さえあれば明らかなことでしょう。
もう一つ、「安保法案だよ全員集合!」で、賛成派が指摘していた中に、中国ほど強調していなかったように思いますが、「北朝鮮による脅威」ということもありました。
この問題についてディベートするとすれば、これは、中国問題とは様相が相当に異なることを踏まえる必要があります。決定的な違いは、第2次世界大戦終結後、あるいはそれに先立つ国際連合発足後と言い換えても良いのですが、米国は多くの国と戦争(武力衝突)をしてきましたが、「冷戦」や「代理戦争」は別として、国連安全保障理事会の常任理事国と戦争したこと(砲火を交えたこと)など一度もないということです。常任理事国は全て核保有国であり、核戦争の危険を賭し、第二次世界大戦後の基本秩序である国際連合という枠組を崩壊させてまで武力行使する危険を冒すのはあまりにも愚かしいという判断があってのことでしょう。
「中国の脅威」をあおり立てて安保法制の必要性を主張する論者に対しては、「国連安保理常任理事国同士が戦争すると本気で考えているのか?」というカウンターを打ち込むことが有効でしょう。
ところが、北朝鮮は、核保有国であると自称はしていますが、安保理常任理事国ではありません。その核開発も、「米国からの先制攻撃を防ぐ効果的な手段は核武装しかない」と考えてのものでしょう。実際、「北朝鮮有事」は、「中国有事」などよりよほど可能性があります。その理由は言うまでもありません。米国が望むか望まないかの違いです。
「北朝鮮による暴発」という可能性もゼロではないにせよ、最も懸念されるのは「米国による対北朝鮮先制攻撃」であって、米中軍事衝突に比べれば、相対的に、はるかに可能性が高いでしょう。
これを我が国の有事法制にあてはめれば、従来、直接日本が攻撃を受けない限り(そうなったら武力攻撃事態で自衛隊が防衛出動する)、周辺事態法による「後方地域支援」(非戦闘地域に限る)で対応することになっていたものが、新安保法制によって、重要影響事態の認定で(現に戦闘行為が行われていなければ)あらゆる場所で米軍や韓国軍の後方支援(兵站)が可能となり、存立危機事態という認定さえすれば、自衛隊に防衛出動を命じて「参戦」させることも可能ということになったということです。
「北朝鮮の脅威」に備えて安保法制が必要と主張していた人たちは、以上のようなことを出来るようにするのが日本の利益になると本気で考えているのでしょうか?
この問題についてディベートするとすれば、これは、中国問題とは様相が相当に異なることを踏まえる必要があります。決定的な違いは、第2次世界大戦終結後、あるいはそれに先立つ国際連合発足後と言い換えても良いのですが、米国は多くの国と戦争(武力衝突)をしてきましたが、「冷戦」や「代理戦争」は別として、国連安全保障理事会の常任理事国と戦争したこと(砲火を交えたこと)など一度もないということです。常任理事国は全て核保有国であり、核戦争の危険を賭し、第二次世界大戦後の基本秩序である国際連合という枠組を崩壊させてまで武力行使する危険を冒すのはあまりにも愚かしいという判断があってのことでしょう。
「中国の脅威」をあおり立てて安保法制の必要性を主張する論者に対しては、「国連安保理常任理事国同士が戦争すると本気で考えているのか?」というカウンターを打ち込むことが有効でしょう。
ところが、北朝鮮は、核保有国であると自称はしていますが、安保理常任理事国ではありません。その核開発も、「米国からの先制攻撃を防ぐ効果的な手段は核武装しかない」と考えてのものでしょう。実際、「北朝鮮有事」は、「中国有事」などよりよほど可能性があります。その理由は言うまでもありません。米国が望むか望まないかの違いです。
「北朝鮮による暴発」という可能性もゼロではないにせよ、最も懸念されるのは「米国による対北朝鮮先制攻撃」であって、米中軍事衝突に比べれば、相対的に、はるかに可能性が高いでしょう。
これを我が国の有事法制にあてはめれば、従来、直接日本が攻撃を受けない限り(そうなったら武力攻撃事態で自衛隊が防衛出動する)、周辺事態法による「後方地域支援」(非戦闘地域に限る)で対応することになっていたものが、新安保法制によって、重要影響事態の認定で(現に戦闘行為が行われていなければ)あらゆる場所で米軍や韓国軍の後方支援(兵站)が可能となり、存立危機事態という認定さえすれば、自衛隊に防衛出動を命じて「参戦」させることも可能ということになったということです。
「北朝鮮の脅威」に備えて安保法制が必要と主張していた人たちは、以上のようなことを出来るようにするのが日本の利益になると本気で考えているのでしょうか?
ところで、冒頭で引用した日米安保条約第5条について、「武力攻撃」があったと米国が認定するかどうかという説明はしましたが、後半の「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動する」についてはまだ説明していませんでした。
この規定は、当然、米日両国に適用されるのですが、日本にとってこの規定は「日本国憲法上の規定及び手続に従って~行動する」と読み、米国は「連邦憲法上の規定及び手続に従って~行動する」と読むことになるのですが、これが両国とも明確とはいかないのが問題です。
日本国憲法の場合、戦争を放棄し、戦力を保持しない、交戦権も認めないとしているにもかかわらず、その「憲法上の規定及び手続に従って~行動する」のですから、実際には、憲法から黙示的に委任された範囲で立法された武力攻撃事態法や自衛隊法に定められた手続に従って行動すると解するしかありません。
他方、米国の場合も、どのような場合に、軍隊を投入して武力行使ができるかが連邦憲法上一義的に明確という訳にはいかないという問題を抱えています。
何しろ、アメリカ合衆国(連邦)憲法は、1787年に制定され、翌1788年に発効したというもので(これはフランス革命の前年)、しかもそれが今でも現役の憲法ですからね。
戦争に関する連邦憲法の規定でまず参照すべきは、第1条第8節第11項(アメリカ大使館公式サイトに掲載された連邦憲法日本語訳では第1章第8条第11項と表記されています)。
この規定は、当然、米日両国に適用されるのですが、日本にとってこの規定は「日本国憲法上の規定及び手続に従って~行動する」と読み、米国は「連邦憲法上の規定及び手続に従って~行動する」と読むことになるのですが、これが両国とも明確とはいかないのが問題です。
日本国憲法の場合、戦争を放棄し、戦力を保持しない、交戦権も認めないとしているにもかかわらず、その「憲法上の規定及び手続に従って~行動する」のですから、実際には、憲法から黙示的に委任された範囲で立法された武力攻撃事態法や自衛隊法に定められた手続に従って行動すると解するしかありません。
他方、米国の場合も、どのような場合に、軍隊を投入して武力行使ができるかが連邦憲法上一義的に明確という訳にはいかないという問題を抱えています。
何しろ、アメリカ合衆国(連邦)憲法は、1787年に制定され、翌1788年に発効したというもので(これはフランス革命の前年)、しかもそれが今でも現役の憲法ですからね。
戦争に関する連邦憲法の規定でまず参照すべきは、第1条第8節第11項(アメリカ大使館公式サイトに掲載された連邦憲法日本語訳では第1章第8条第11項と表記されています)。
「戦争を宣言し」というのは、いわゆる「宣戦布告」のことですが、これが連邦議会の権限とされているのです。
従って、これを根拠に、日米安保条約第5条における「自国の憲法上の規定及び手続」として、米国連邦議会による「戦争を宣言」する決議が必要と解することも形式上は可能でしょう。
しかしながら、米国の歴史の中で実際にこの憲法の規定が適用されたのは「1812-14年の米英戦争、1846-48年の米墨戦争、1898 年の米西戦争、両世界大戦の5つの事例」だけであり(後掲の「レファレンス」掲載論文「米国における軍隊投入の権限」)、第2次世界大戦終結後は一度も適用されていません。これは、正規軍同士が「宣戦布告」した上で軍事衝突するという、ある種牧歌的な時代が終わったという世界の趨勢を反映したものでもあります。
私たちは、日米安保条約第5条を理解するためだけではなく、新安保法制の廃止を目指す運動を推進するためにも、「米国の戦争」がどのような国内的メカニズムで始まるのかについて、実例を踏まえた正確な知識を身につける必要があります。
これは、連邦憲法の諸規定の他、1973年に制定された戦争権限法をめぐる議会とホワイトハウスの意見の対立と妥協の歴史にも目を配らねばならないもので、おおよその理解を得るためだけでも一筋縄ではいきません。
私自身の勉強のために適当な論考がないかと探した結果、国立国会図書館が発行する月刊「レファレンス」2014年10月号に、以下の論文が掲載されているのを発見し、一読したところ、非常に要領よくまとめられており、皆さんにも是非お勧めしようと思います。この論考の最後の「まとめ」の部分を引用しておきますが、是非全文をお読みください。
従って、これを根拠に、日米安保条約第5条における「自国の憲法上の規定及び手続」として、米国連邦議会による「戦争を宣言」する決議が必要と解することも形式上は可能でしょう。
しかしながら、米国の歴史の中で実際にこの憲法の規定が適用されたのは「1812-14年の米英戦争、1846-48年の米墨戦争、1898 年の米西戦争、両世界大戦の5つの事例」だけであり(後掲の「レファレンス」掲載論文「米国における軍隊投入の権限」)、第2次世界大戦終結後は一度も適用されていません。これは、正規軍同士が「宣戦布告」した上で軍事衝突するという、ある種牧歌的な時代が終わったという世界の趨勢を反映したものでもあります。
私たちは、日米安保条約第5条を理解するためだけではなく、新安保法制の廃止を目指す運動を推進するためにも、「米国の戦争」がどのような国内的メカニズムで始まるのかについて、実例を踏まえた正確な知識を身につける必要があります。
これは、連邦憲法の諸規定の他、1973年に制定された戦争権限法をめぐる議会とホワイトハウスの意見の対立と妥協の歴史にも目を配らねばならないもので、おおよその理解を得るためだけでも一筋縄ではいきません。
私自身の勉強のために適当な論考がないかと探した結果、国立国会図書館が発行する月刊「レファレンス」2014年10月号に、以下の論文が掲載されているのを発見し、一読したところ、非常に要領よくまとめられており、皆さんにも是非お勧めしようと思います。この論考の最後の「まとめ」の部分を引用しておきますが、是非全文をお読みください。
「レファレンス」2014年10月号(93頁~116頁)
「米国における軍隊投入の権限」
国立国会図書館 調査及び立法考査局 外交防衛課 栗田真広
(引用開始)
おわりに
ここまで見てきた中で明らかなように、米国における軍隊投入の権限の運用は、大統領のイニシアティブの側面が非常に強い。これに一定の制限をかけることを意図して制定された戦争権限法については、実質的にその役割を果たしていないとの指摘がしばしばなされている。
たしかに、この類の指摘は一面では正鵠を得ているが、その内実を見る限り、連邦議会の強い抵抗を押し切って、大統領側が強硬に権限を拡大してきたわけではない点にも留意が必要であろう。そもそも連邦議会は、個々の議員が大統領側の行動を批判することはあっても、議会として何らかの法的拘束力のある決議を可決するなどの対抗措置を取ることは極めて稀であった。
こうした議会側の消極姿勢の背景には、構造的な要因として、極めて論争的かつ先が見通しにくく、成功・失敗にかかわらず議員自身の業績にはなりにくい戦争に関する政策は、個々の議員にとって積極的に関わる誘因が薄いという事情がある。それゆえ議会の関与のあり方は、大統領が議会の承認なしで軍隊を投入した場合でも軍事作戦が成功裏に進めば不問に付し、行き詰まったときにはこれを糾弾したり、戦費の支出に対して制約をかけたりといった事後的な対応になりやすいとされる。この形態での議会の統制が望ましいか否かは本稿では判断しないが、そうした構造的な要因がもたらす影響については、現在安全保障法制の見直しを進める我が国にとっても、一定の示唆を持つように思われる。
もう一つ、本稿の議論が我が国にとって持ちうる意味合いとしては、軍隊の投入に関わる米国内の手続きと、日米安全保障条約との関係が挙げられよう。日米安全保障条約第5 条は、「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動する」ことを規定しており、ここでいう「憲法上の規定及び手続」とは、米国の場合、本稿で見てきた憲法及び戦争権限法上の手続がそれに当たる。この点については、過去にも何度か国会でも議論がなされているが、最近では、オバマ大統領が2014年4月の訪日時に尖閣諸島を条約第5 条の適用対象とすることに言及したことなどもあり、尖閣諸島の防衛における米国の軍事介入の有無を論じた文脈で、戦争権限法への言及がなされることがある。
本稿で見てきた通り、歴代の大統領が議会の事前承認なしでも米軍を戦闘行為に投入してきたことを踏まえれば、仮に我が国に対する武力攻撃があった場合、その防衛のために米国が軍隊を投入するか否かは、第一義的には大統領側の政治的判断に拠ることになるものと考えられ、戦争権限法の条文通りに、議会が大統領に先んじてその是非を判断することになる見込みは小さいものと思われる。ただ、軍事行動が長引くほどに、その軍隊投入に対する連邦議会による支持は重要性を増してくるであろうし、予想される軍事衝突の様態と併せて、それに関して議会側がいかなる態度を示すのかという点に関する見込みは、少なからず、当初の段階で軍事介入を行うか否かを決める大統領側の政治決定に影響を与えると考えるのが妥当である。同盟管理の観点からは、日本側として、こうした側面にも一定の留意をする必要があると言えよう。
(引用終わり)
「米国における軍隊投入の権限」
国立国会図書館 調査及び立法考査局 外交防衛課 栗田真広
(引用開始)
おわりに
ここまで見てきた中で明らかなように、米国における軍隊投入の権限の運用は、大統領のイニシアティブの側面が非常に強い。これに一定の制限をかけることを意図して制定された戦争権限法については、実質的にその役割を果たしていないとの指摘がしばしばなされている。
たしかに、この類の指摘は一面では正鵠を得ているが、その内実を見る限り、連邦議会の強い抵抗を押し切って、大統領側が強硬に権限を拡大してきたわけではない点にも留意が必要であろう。そもそも連邦議会は、個々の議員が大統領側の行動を批判することはあっても、議会として何らかの法的拘束力のある決議を可決するなどの対抗措置を取ることは極めて稀であった。
こうした議会側の消極姿勢の背景には、構造的な要因として、極めて論争的かつ先が見通しにくく、成功・失敗にかかわらず議員自身の業績にはなりにくい戦争に関する政策は、個々の議員にとって積極的に関わる誘因が薄いという事情がある。それゆえ議会の関与のあり方は、大統領が議会の承認なしで軍隊を投入した場合でも軍事作戦が成功裏に進めば不問に付し、行き詰まったときにはこれを糾弾したり、戦費の支出に対して制約をかけたりといった事後的な対応になりやすいとされる。この形態での議会の統制が望ましいか否かは本稿では判断しないが、そうした構造的な要因がもたらす影響については、現在安全保障法制の見直しを進める我が国にとっても、一定の示唆を持つように思われる。
もう一つ、本稿の議論が我が国にとって持ちうる意味合いとしては、軍隊の投入に関わる米国内の手続きと、日米安全保障条約との関係が挙げられよう。日米安全保障条約第5 条は、「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動する」ことを規定しており、ここでいう「憲法上の規定及び手続」とは、米国の場合、本稿で見てきた憲法及び戦争権限法上の手続がそれに当たる。この点については、過去にも何度か国会でも議論がなされているが、最近では、オバマ大統領が2014年4月の訪日時に尖閣諸島を条約第5 条の適用対象とすることに言及したことなどもあり、尖閣諸島の防衛における米国の軍事介入の有無を論じた文脈で、戦争権限法への言及がなされることがある。
本稿で見てきた通り、歴代の大統領が議会の事前承認なしでも米軍を戦闘行為に投入してきたことを踏まえれば、仮に我が国に対する武力攻撃があった場合、その防衛のために米国が軍隊を投入するか否かは、第一義的には大統領側の政治的判断に拠ることになるものと考えられ、戦争権限法の条文通りに、議会が大統領に先んじてその是非を判断することになる見込みは小さいものと思われる。ただ、軍事行動が長引くほどに、その軍隊投入に対する連邦議会による支持は重要性を増してくるであろうし、予想される軍事衝突の様態と併せて、それに関して議会側がいかなる態度を示すのかという点に関する見込みは、少なからず、当初の段階で軍事介入を行うか否かを決める大統領側の政治決定に影響を与えると考えるのが妥当である。同盟管理の観点からは、日本側として、こうした側面にも一定の留意をする必要があると言えよう。
(引用終わり)
(参考動画)
安保法案だよ全員集合 2015.9.12(撮影:東条雅之氏)
(弁護士・金原徹雄のブログから)
2013年11月28日
「レファレンス」掲載論文で学ぶ「集団的自衛権 政府公権解釈の変遷」
2014年4月27日
集団的自衛権の行使事例を学ぼう(「レファレンス」掲載論文から)
2015年9月10日
月刊レファレンス(2015年3月号)の小特集「集団的自衛権」掲載論文4点のご紹介
2015年9月12日
(忘れないために)
「自由と平和のための京大有志の会」による「あしたのための声明書」を、「忘れないために」しばらくメルマガ(ブログ)の末尾に掲載することにしました。
(引用開始)
あしたのための声明書
あしたのための声明書
わたしたちは、忘れない。
人びとの声に耳をふさぎ、まともに答弁もせず法案を通した首相の厚顔を。
戦争に行きたくないと叫ぶ若者を「利己的」と罵った議員の無恥を。
強行採決も連休を過ぎれば忘れると言い放った官房長官の傲慢を。
人びとの声に耳をふさぎ、まともに答弁もせず法案を通した首相の厚顔を。
戦争に行きたくないと叫ぶ若者を「利己的」と罵った議員の無恥を。
強行採決も連休を過ぎれば忘れると言い放った官房長官の傲慢を。
わたしたちは、忘れない。
マスコミを懲らしめる、と恫喝した議員の思い上がりを。
権力に媚び、おもねるだけの報道人と言論人の醜さを。
居眠りに耽る議員たちの弛緩を。
マスコミを懲らしめる、と恫喝した議員の思い上がりを。
権力に媚び、おもねるだけの報道人と言論人の醜さを。
居眠りに耽る議員たちの弛緩を。
わたしたちは、忘れない。
声を上げた若者たちの美しさを。
街頭に立ったお年寄りたちの威厳を。
内部からの告発に踏み切った人びとの勇気を。
声を上げた若者たちの美しさを。
街頭に立ったお年寄りたちの威厳を。
内部からの告発に踏み切った人びとの勇気を。
わたしたちは、忘れない。
戦争の体験者が学生のデモに加わっていた姿を。
路上で、職場で、田んぼで、プラカードを掲げた人びとの決意を。
聞き届けられない声を、それでも上げつづけてきた人びとの苦しく切ない歴史を。
戦争の体験者が学生のデモに加わっていた姿を。
路上で、職場で、田んぼで、プラカードを掲げた人びとの決意を。
聞き届けられない声を、それでも上げつづけてきた人びとの苦しく切ない歴史を。
きょうは、はじまりの日。
憲法を貶めた法律を葬り去る作業のはじまり。
賛成票を投じたツケを議員たちが苦々しく噛みしめる日々のはじまり。
人の生命を軽んじ、人の尊厳を踏みにじる独裁政治の終わりのはじまり。
自由と平和への願いをさらに深く、さらに広く共有するための、あらゆる試みのはじまり。
憲法を貶めた法律を葬り去る作業のはじまり。
賛成票を投じたツケを議員たちが苦々しく噛みしめる日々のはじまり。
人の生命を軽んじ、人の尊厳を踏みにじる独裁政治の終わりのはじまり。
自由と平和への願いをさらに深く、さらに広く共有するための、あらゆる試みのはじまり。
わたしたちは、忘れない、あきらめない、屈しない。
自由と平和のための京大有志の会
(引用終わり)