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越野章史著『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』を読む

 今晩(2016年8月14日)配信した「メルマガ金原No.2538」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
越野章史著『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』を読む

 是非読みたいと思って入手しながら、なかなか読むためのまとまった時間を確保できず、それでも、いつでも読めるようにとすぐ手の届くところに置いてある、そういう本が皆さんにもありませんか?
 そういう非常に気になる本を読み上げて、一気に読後感をメルマガ(ブログ)に書いたことが過去何度かあります。最近では(でもない、1年半も前のことですが)こういう本がありました。
 
 
 私の場合、買ってきてすぐにざっと目を通す本もあるのですが(というか、大抵はそういう読み方です)、時として「じっくりと向かい合わなければ読めないな」と思われる本に出会うこともあるのです。
 今日ご紹介しようとする越野章史(こしの・しょうじ)さん(和歌山大学教育学部准教授)の著書『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』も、今年の5月14日、小林節さんの講演会が開かれた和歌山市民会館大ホールのロビーで、刷り上がったばかりの同著を、越野先生自身から割引価格で(!)入手して以来、「早く読まなければ」と気になりながら、ずっと傍らに置き続ける本の仲間入りをし、入手してから3ヶ月にして、ようやく盆休みを利用して読み上げ、この文章を書き始めています。


 越野さんの研究者としての専門分野は、「教育学(教育哲学,教育思想,教育史,学校教育,教育政策),教育社会学(教育社会学,教育政策,学校組織・学校文化,教師・生徒文化,青少年問題,学力問題,ジェンダーと教育)」(和歌山大学ホームページ研究者総覧・基本情報から)ということですが、申し訳ないことながら、私自身はその分野に全くの門外漢であり、今回の著書を読むまで、越野さんの教育学研究者としての業績に触れる機会はほとんどありませんでした。

 「ほとんど」という曖昧な表現を使ったのは、以前、「楠見子連れ9条の会」が越野先生を講師に招いた学習会を行うことをメルマガ(ブログ)でご紹介した際にも触れたことですが、越野先生と私の間で以下のようなやりとりがあったからです。その記事から一部抜粋します(4/7楠見子連れ9条の会・学習会のお知らせ(in和歌山市)/2013年3月29日)。
 
(引用開始)
 なお、私にとって越野先生との関わりで忘れられないのは、2011年12月、越野先生からメールで以下のようなご相談を受けたことです。それは、2011年度後期の越野ゼミにおいて原発問題を学ぶことになり、放射線に詳しいお医者さん、原発反対運動に関わってこられた方、放射能から逃れて避難してこられた方などに学生たちがインタビューすることを希望しているので、適切な方を紹介していただけないかという丁重なご依頼でした。
 幸い、私からお願いした方々(いずれも「メルマガ金原」の読者/そういえば越野先生も読者だった)は皆さん快くお引き受けくださり、充実したインタビューとなったことは、ゼミの学習の成果をまとめた、実に204頁にも及ぶ立派な報告書『2011年度後期 越野ゼミ 活動報告書 原発問題を学ぶ/原発問題から学ぶ』を送っていただいてよく分かりました。
 もちろん、この報告書は非売品で、既に余部もないかもしれませんが、非常に価値の高いものだと思います。
 せめて、越野先生が書かれた「『原発問題』から学ぶことで何が見えるのか―序にかえて―」だけでも、皆さんに読んでもらえたらと思うのですが。
(引用終わり)
 
 そこでも書きましたが、越野ゼミの学生の皆さんがまとめた報告書自体素晴らしいものでしたが、「序にかえて」を一読した私は、指導教官として「学び」の全過程に関わった越野先生の見識の高さに深い感銘を受けたのでした。
 「『原発問題』から学ぶことで何が見えるのか―序にかえて―」から、『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』にも一貫する教育思想研究者としての越野先生の姿勢がうかがえる冒頭部分の一部を引用します。
 
2011年度後期 越野ゼミ 活動報告書 原発問題を学ぶ/原発問題から学ぶ
原発問題」から学ぶことで何が見えるのか―序にかえて―  越野章史
(抜粋引用開始)
 前期のゼミの打ち上げ時に学生の一人が、「後期は何を学びたい?」という私の問いに、ストレートに「原発のことが知りたいです」と言ってくれたことも、私の背中を押した。
 同時に、ただ文献から学ぶだけではだめだろうとも思っていた。それには全く異なる二つの理由がある。一つは、テーマである原子力発電所の問題が、まさに日々進行している問題だからである。(略)二つは、学生たちの潜在的な要求である。教室の中で文献を読む学びを前期に行い、後期にはもう少し「生きた」知に触れる活動がしたいと、多くの学生が望んでいるように感じたのである。学びの内容に、現実社会との関わりにおけるアクチュアリティと、学習者の生活へのレリバンス(relevance=関連性)を回復すべきだというのは、教育思想研究者としての私の日頃の主張でもある。そこから、謝辞に記したように多くの方にご協力いただき、「原発プロジェクト」が進んでいった。目を見張ったのは、このテーマで学ぶうちに学生たちが見せてくれた自発性と学習意欲である。
(引用終わり)
 
 さて、越野章史先生の初の本格的な著書が道徳教育を論じたものとなったのは、学習指導要領が改訂され、「道徳の時間」が「特別な教科」となり、検定教科書が作られるという動き(小学校では2018年度から、中学校では2019年度から実施)を踏まえたものであることは言うまでもないでしょう。
 
 
 もちろん、越野さんは、道徳教科化には非常に批判的です。けれども、『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』は、単に道徳教科化を批判することだけを目的とした著作ではありません。そのことは、この著書の標題からも明らかです。
 もっとも、「市民のための道徳教育」というタイトルを一瞥しただけでは、既に学校教育の課程を終え、市民社会の一員となった者のための「道徳教育」を論じた著作だと早合点しかねず、かくいう私も最初はそう思い込んでおり、本を入手して「はじめに」を読んで、ようやく勘違いに気がついた次第です。
 そこで、「はじめに」の一部を引用して著者の意とするところをご理解いただければと思います。
 
『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』
はじめに
(抜粋引用開始)
 「市民のための道徳教育」が本書のタイトルである。が、これは成人教育や市民を対象とした教育のことではない。本書の主題は、学校(主に小中学校だが、幼稚園にも高校にも通じる内容は含んでいる)における道徳教育である。
 誤解を招きそうなタイトルをつけてしまい読者には申し訳ないが、タイトルが表現したかったことは、「現在の子どもを、近い将来の市民として育てるには、どのような道徳教育が望ましいのか」ということである。
 市民(citizen)とは、まず何よりも、「政治的権利をもった人」という意味である。つまり、主権者のことだ。民主主義の社会にあっては、私たち一人ひとりの人間が、政治的な問題について関心や知識をもち、選挙やそれ以外の政治的活動を通じて、政治的な決定に関与することになっているし、現に関与している(政治への無関心も投票の棄権も、結果に影響を及ぼすのだから、ある種の「関与」である)。
 もう一つ、日本語の市民という言葉には、「ふつうの人」という意味、少し言葉を換えれば、その地域に定住する「一人の生活者」といった響きもあるように思う。
 本書では、この二つの意味で市民という言葉を使う。そして、市民は言うまでもなく、社会の中で、人との関わりのなかで生きていく。そこに何らかの道徳―ルールやマナーについての認識や善悪の判断力―が必要となってくることは、概ね異論がないだろう。子どもたちが将来の主権者として、また生活者として、より豊かに、幸せに生きていくためには、どのような道徳を育む必要があるのか、ということを考えたい。
(引用終わり)
 
 このような意図のもと、本書は大きく2部で構成されています。
 第1部は、日本の学校における道徳教育の歴史が概観されます。
 そして、第2部では、「はじめに」で述べられた問題意識の下、あるべき「市民を育てる道徳教育」が、ルソー、モンテッソーリ、デューイらの理論や実践を参照しつつ、論じられています。
 その一々をご紹介する能力は私にはありませんので、以下に、目次を転記することをもって内容紹介に代えたいと思います。
 
『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』
目次
はじめに
第一部 日本の学校道徳教育の歴史
 
第一章 1945年までの道徳教育
  一、学校教育制度のはじまりと道徳教育
  二、道徳教育重視のはじまり
  三、道徳教育重視への批判と、推進派の意図
  四、教育勅語における道徳教育論
  五、戦争の時代と道徳教育
  六、国家主義的な道徳教育がもたらしたもの
 
第二章 戦後教育改革と道徳教育
  一、修身の停止
  二、第一次米国教育視察団の道徳教育論
  三、コア・カリキュラムと道徳教育
  四、生活綴方と道徳教育
 
第三章 「逆コース」政策と「道徳の時間」の設置
  一、「逆コース」=戦後教育政策の大転換
  二、「修身」復活論
  三、文部省の抵抗と追従
  四、教師・教育学者の抵抗
 
第四章 モラルパニックと道徳教育
  一、はじめに
  二、モラルパニックとは何か
  三、「非行」「少年犯罪」をめぐる言説
  四、モラルパニックとしての「いじめ問題」
  五、「新しい教育問題」について 
 第五章 新自由主義新保守主義と道徳教育                 
  一、新自由主義とは何か
  二、新自由主義が求める道徳教育
  三、新保守主義と道徳教育
第二部 市民を育てる道徳教育の探求
 第六章 中間考察―いくつかの原則―
  一、徳目主義を超える
  二、心情主義を超える
  三、道徳教育を通じてどのような力を育てたいのか
  四、道徳教育の目的は学校の秩序維持ではない
 第七章 ジャン=ジャック・ルソーの道徳教育論
  一、「自然」に従った教育―消極教育―
  二、道徳の源泉としての「ピティエpitie(あわれみ)」
  三、「共苦」の感覚を育てる
  四、ルソー道徳教育論の今日的意義
 
第八章 モンテッソーリとデューイのディシプリン(規律)論
  一、従来の学校におけるディシプリンへの批判
  二、モンテッソーリディシプリン
  三、デューイのディシプリン
 
第九章 市民を育てる学校道徳教育の創造へ
  一、小学校低~中学年の道徳教育を考える
   「自己肯定感」の維持・回復
   「聴く力」を育てる
   「聴き取られる権利」を充たす
   目的を共有し、協同する経験
  二、小学校高学年~中学校の道徳教育   
   発達論的な前提
   モラルジレンマ考
   アクチュアルでレリヴァントな学びへ
   基本的人権を学ぶ
   (悪)について学ぶ
  三、学校を民主的な道徳環境に
おわりに
 
 私自身、小学校6年間、中学校3年間、週に1回は「道徳の時間」があったのだろうと思いますが、きれいさっぱり何の記憶もありません。
 けれども、権力者の言うことに何の疑いもいだかず、批判がましいこともせず、唯々諾々とこれに従うというような「従順な国民」にならずにすんだのですから、結果的に、私の受けた道徳教育は、少なくとも「害にはならなかった」として感謝すべきなのかもしれません。・・・これは、私が本書のとりわけ第一部「日本の学校道徳教育の歴史」を通読し、為政者やその周囲の経済界などが欲する「道徳教育」の内実への理解が深まったことにより、率直に念頭に浮かんだ感慨です。
 
 私は、教育学に関する著作など、ほとんど読んだことがなく(放送大学で受講した「学校と法('12)」のテキストくらいですかね)、越野先生の『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』の類書と比較しての特徴などとても指摘できません。
 けれども、昨日・今日の2日間かけて一気に読んだ私の感想は、全くレベルを落とすことなく、それでいながら、教育学に何の予備知識がない者が読んでも、十分に理解できる道徳教育論になっている、というものです。
 本書は、我が国における学校道徳教育の大きな流れを説明しつつ、その中で「道徳の教科化」がどのように位置付けられるのかについての適確な見取図を提示するとともに、あるべき道徳教育を考えるための具体的提言にまで及ぶものであり、
とりわけ、「道徳の教科化」というニュースに接して危機感を抱いている多くの人に対して、必ずや有益な知見と見通しを与えてくれるものと確信します。
 
 なお、第四章「モラルパニックと道徳教育」は、冷静に統計データを読み解く意識と能力がいかに重要かに気付かせてくれる非常に重要な章だと思います。私自身、少年犯罪に対する厳罰化の主張に対し、「それは違うだろう」と反論するのが常なので、よけいに共感をいだいたということもあります。
 
CIMG4517 本書の「あとがき」でも著者自身が言及されていますが、越野先生は、昨年8月13日に結成され、翌14日(ちょうど1年前ですね)に記者会見を開いた「安全保障関連法案の廃案を求める和歌山大学有志の会」(その後「安全保障関連法の廃止を求める和歌山大学有志の会」と改称)の事務局長として、同月から9月にかけて、まさに東奔西走の日々を送り、その後も、多くの団体と共同して安保法制の廃止を求める活動に積極的に関与されています。そのような活動の中で、越野先生は、特に若者や学生の良き相談相手として非常に信頼されています。
 
 その越野先生が、本書「あとがき」で、昨年の市民運動の高揚を高く評価しつつ、以下のように述べられていることに注意を喚起して、本稿を終えたいと思います。
 著者と以下のような問題意識を共有される方に、是非本書を手にとってお読みいただきたいとお薦めします。

※写真は、2015年9月23日に和歌山城西の丸広場で開かれた9団体共同呼びかけによる「
安保法制(戦争法)廃止を求める9・23和歌山集会」でスピーチする越野章史さんです。
 
『市民のための道徳教育―民主主義を支える道徳の探求―』
おわりに
(抜粋引用開始)
 
そのことの意義を充分に認めながら、他方でしかし、事態の重大さに比して、発言する人、何らかの行動を起こす人の数が、あまりに少ないのではないかという思いを、私はぬぐいきれない。
(略)
 人びとが政治的な問題について意見を持つことができ、自由に討議することができ、そうした活動を通じて政治を「変えられる」という希望をもっている状態のことを、政治学者のダグラス・ラミスは「公的希望状態」と名づけているが、そうした状態こそが民主主義にとって必須なのである。
(略)
 そして今、学校道徳教育に対して、ここまで述べたような政治的な無力さを助長するかのような「改革」が押しつけられようとしている。そのような危機にあってこそ、それに対抗し得る道徳教育のあり方を探求し、議論し、実現していくことの必要性がより明確になっているのではないか。本書執筆の動機は以上のようなものである。
(引用終わり) 

全国戦没者追悼式で今年も貫徹された“安倍3原則”(付・天皇陛下「おことば」を読む)

 今晩(2016年8月15日)配信した「メルマガ金原No.2539」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
全国戦没者追悼式で今年も貫徹された“安倍3原則”(付・天皇陛下「おことば」を読む)

 8月15日の「全国戦没者追悼式」における内閣総理大臣「式辞」と天皇陛下「おことば」をメルマガ
(ブログ)で取り上げるようになったのは2年前からでした。
 過去の記事を振り返ってみましょう。
 
2014年8月15日
“コピペ”でなければ良いというものではない~全国戦没者追悼式での安倍晋三首相の式辞を聴いて

首相官邸ホームページに掲載されている歴代総理大臣の「式辞」(平成8年の橋本龍太郎首相以降の分が掲載されています)を全て確認した上で、平成25年(2013年)の安倍晋三首相に至り、アジア諸
国の人々に対する加害責任への言及と反省の言葉が削除されたことを跡づけました。
 従来の総理大臣「式辞」の一例として、平成21年(2009年)の麻生太郎首相「式辞」の該当部分
を引用します。
「また、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えております。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となられた方々に、謹んで哀悼の意を表します。」
 
2014年8月18日
続 “コピペ”でなければ良いというものではない~“平和と繁栄”はいかにして築かれたのか
※歴代の総理大臣「式辞」において、戦後の“平和と繁栄”がいかに築かれたかに言及した部分の変遷を
検証してみました(やはり平成8年の橋本龍太郎首相以降)。
 以上2回の検証の結果を踏まえ、2度目に首相に就任した後の安倍首相「式辞」の著しい特色を、私は
以下のようにまとめています。
「以上で、昨年及び今年の全国戦没者追悼式における「式辞」において、安倍首相が、何を述べ、何を述
べなかったかが明らかになったと思います。要約すれば以下のとおりです。
① 村山富市首相から数えれば19年にも及んだ歴代首相によるアジア諸国民に対する加害についての反
省と哀悼の意の表明を削除した。
② 多くの首相が述べた「不戦の誓い」にも言及しなかった。
③ 戦没者の犠牲の上に“平和と繁栄”があると述べながら、“平和と繁栄”をもたらしたものが「国民
のたゆまぬ努力」との言及はなかった。
 以上を踏まえれば、安倍首相は、アジア諸国民に対する加害責任があるとは思っておらず、我が国の“平和と繁栄”をもたらしたのは戦没者らの「犠牲」によるものであり、今後、場合によっては日本が自ら武力行使に及ぶこともあると考えていると解するのがごく素直な解釈というものでしょう(これ以外の解釈
の余地ってあるでしょうか?)。」
 
2015年8月15日
全国戦没者追悼式総理大臣「式辞」から安倍談話を読み返す(付・同追悼式での天皇陛下「おことば」について)
※安倍首相「式辞」については、前日の14日に発表されたいわゆる「戦後70年談話」で使用されたキ
ーワード(「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」「心からのお詫び」)のどれ1つとして(歴代首相が式辞で述べていたアジアへの加害と「深い反省」も)使われず、2013年、2014年と基本的に同じ
内容であったことを確認しました。
 これに対し、平成元年(1989年)以降の天皇陛下「おことば」を全て読み返してみた結果を次のよ
うにまとめています。
「私は、昨年、平成元年の即位以来の全国戦没者追悼式での「おことば」を全部読んでみました。
 その結果、毎年ほとんど同じ表現の「おことば」であるものの、平成7年(1995年)に初めて「戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い」という憲法前文を踏まえた表現が付け加えられ、その後
ずっと継承されているということを知りました。ちなみにこの時の総理大臣は村山富市氏でした。
 今年の「おことば」における「さきの大戦に対する深い反省と共に」という表現の付加は、平成元年(
1989年)の即位後、2度目の大きな変更(追加)です。
 さらに細かく言えば、昨年は「国民のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられました」とされていた部分が、「戦争による荒廃からの復興,発展に向け払われた国民のたゆみない努力と,平和の存続を切望する国民の意識に支えられ,我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました」と手厚い表現になっており、とりわけ「平和の存続を切望する国民の意識」が強調されていることを見落とすことはできません。」
 
 以上が、昨年までの「おさらい」です。
 ということで、今年の内閣総理大臣「式辞」と天皇陛下「おことば」を、昨年のそれと比較し、何らか
の変化があったかどうかを検証してみましょう。
 
 今年の式典の動画として、政府インターネットテレビ配信のものをご紹介しておきます。安倍首相の「式辞」は2分48秒から、天皇陛下「おことば」は9分23秒からです。 
 
 
 まずは、安倍晋三内閣総理大臣の「式辞」です。
 昨年の戦後70年ヴァージョンの「式辞」と比較してみると、これでもやや抑え気味と言うべきなのでしょうね。いつも気に障る「安倍方言」も、「孜々(しし)として」(「熱心に」というほどの意味)くらいですから。
 結局、言っていることは2013年以来変わっていません。
 先に述べた安倍「式辞」の3大特徴、すなわち、
① アジア諸国民に対する加害についての反省と哀悼の意は絶対に表明しない。
② 「不戦の誓い」も述べない。
③ 戦没者の犠牲の上に“平和と繁栄”があることを強調しながら、“平和と繁栄”をもたらしたものが
「国民のたゆまぬ努力」であるとは言わない。
については、完璧に昨年までの「式辞」を踏襲しています。今やこれを「安倍3原則」と名付けても良い
でしょう。
 それでは、今年と昨年の「式辞」を読み比べてください。
 
安倍晋三内閣総理大臣 全国戦没者追悼式式辞 平成28年8月15日
(引用開始)
 本日ここに、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式を挙行するにあたり、政府を代表し、
慎んで式辞を申し述べます。
 あの、苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に斃れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥かな異郷に亡くなられた御霊、皆様の尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを、片時たりとも忘れません。衷心より、哀悼の誠を捧げるとともに、改めて、敬意と
感謝の念を申し上げます。
 未だ、帰還を果たされていない多くの御遺骨のことも、脳裡から離れることはありません。おひとりで
も多くの方々が、ふるさとに戻っていただけるよう、全力を尽くします。
 我が国は、戦後一貫して、戦争を憎み、平和を重んじる国として、孜々として歩んでまいりました。世
界をよりよい場とするため、惜しみない支援、平和への取り組みを、積み重ねてまいりました。
 戦争の惨禍を決して繰り返さない。
 これからも、この決然たる誓いを貫き、歴史と謙虚に向き合い、世界の平和と繁栄に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。明日を生きる世代のために、希望に満ちた
国の未来を切り拓いてまいります。そのことが、御霊に報いる途であると信じて疑いません。
 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に永久の安らぎと、御遺族の皆様には、御多幸を、心よりお祈りし
、式辞といたします。
(引用終わり)
 
(参考)
安倍晋三内閣総理大臣 全国戦没者追悼式式辞 平成27年8月15日
(引用開始)
 天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を
、ここに挙行致します。
 遠い戦場に、斃れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥かな異郷に命を落とされた御霊の御前
に、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。
 皆様の子、孫たちは、皆様の祖国を、自由で民主的な国に造り上げ、平和と繁栄を享受しています。それは、皆様の尊い犠牲の上に、その上にのみ、あり得たものだということを、わたくしたちは、片時も忘
れません。
 七十年という月日は、短いものではありませんでした。平和を重んじ、戦争を憎んで、堅く身を持して
まいりました。戦後間もない頃から、世界をより良い場に変えるため、各国・各地域の繁栄の、せめて一助たらんとして、孜々たる歩みを続けてまいりました。そのことを、皆様は見守ってきて下さったことで
しょう。
 同じ道を、歩んでまいります。歴史を直視し、常に謙抑を忘れません。わたくしたちの今日あるは、あ
またなる人々の善意のゆえであることに、感謝の念を、日々新たにいたします。
 戦後七十年にあたり、戦争の惨禍を決して繰り返さない、そして、今を生きる世代、明日を生きる世代
のために、国の未来を切り拓いていく、そのことをお誓いいたします。
 終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、末永いご健勝をお祈りし、式辞といた
します。
(引用終わり)
 
 ついで、天皇陛下「おことば」です。基本的には昨年の踏襲であり、あえて言えば、「戦後70年」の特別モードであった昨年の「おことば」から、それ以前の「平年」モードに戻った感があります。
 細かく見れば、以下のような変化が認められます。
 
昨年「戦争による荒廃からの復興,発展に向け払われた国民のたゆみない努力と,平和の存続を切望する国民の意識に支えられ,我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。」
今年「国民のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられました。」
 
昨年「戦後という,この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき,感慨は誠に尽きることがありません。」
今年「苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨は今なお尽きることがありません。」
 
昨年「ここに過去を顧み,さきの大戦に対する深い反省と共に」
今年「ここに過去を顧み,深い反省とともに」
 
 結論的には、先に書いたとおり、「戦後70年」モードから「平年」モードに戻ったもので、特に「後退」というべきではないでしょう。
 昨年から使われるようになった「深い反省」は、今年も使われています。「先の大戦に対する」という反省の対象が除かれているのは、そもそも「大戦」が何を指すかが明確ではないと考えられた上での削除
ではないかと推測します。
 この「深い反省」が、2013年以降の全国戦没者追悼式における総理大臣「式辞」から消え失せたことは先に述べたとおりですが、総理大臣も天皇も、どちらも「反省」という言葉を使わないことは許され
ない、首相があくまで使わないのであれば自分が述べざるを得ないという天皇の考えによるものであろう
と思います。
 これを、現行憲法天皇条項(特に4条の「国政に関する権能を有しない。」)に違反する越権行為だ
という解釈も聞こえてきそうですけどね。

 それより私が気になるのは、「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ」という昨年新たに盛り込まれた表現が削除されたことです。一応、「平年」モードに戻しただけという解釈を示しておきましたが、先日の参院選の結果などを見るにつけ、本当に日本国民が「平和の存続を切望」しているのか?天皇陛下も確信が持てなくて削除したというようなことでなければ良いのですが。
 
 なお、今年の「おことば」から削除された「深い反省」の対象については、昨年1月1日に発表された「天皇陛下のご感想(新年に当たり)」が参考となります。
(抜粋引用開始)
 本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。 
(引用終わり)
 
全国戦没者追悼式 平成28年8月15日(月)(日本武道館)
天皇陛下「おことば」

(引用開始)
 本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において
,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来既に71年,国民のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが
,苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨は今なお尽きることがありません。
 ここに過去を顧み,深い反省とともに,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い,全国
民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発
展を祈ります。
(引用終わり)
 
(参考)
全国戦没者追悼式 平成27年8月15日(土)(日本武道館)
天皇陛下「おことば」

(引用開始)
 「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけ
がえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来既に70年,戦争による荒廃からの復興,発展に向け払われた国民のたゆみない努力と,平和の存続を切望する国民の意識に支えられ,我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という,この
長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき,感慨は誠に尽きることがありません。
 ここに過去を顧み,さきの大戦に対する深い反省と共に,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心からなる追悼の意を表し,世界の平和
と我が国の一層の発展を祈ります。
(引用終わり)