今晩(2013年1月23日)配信した「メルマガ金原No.1242」を転載します。
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)WEBサイトに掲載された開催概要と開催趣旨を引用します。
(引用開始)
1953年福島県飯舘村生まれ。酪農家として牛や猪を飼い、暮らしてきた。福島第一原発事故による放射能汚染を知り、いち早く区長を務める飯舘村前田地区の住民集会を開いて現状を説明し、被曝を避けるための対処法を知らせた。以後飯舘村の映像を記録し続け、日本国内はもとより海外にも出かけて、飯館村で起きていることを知らせる活動を展開している。著書に『原発に「ふるさと」を奪われて~福島県飯館村・酪農家の叫び』(宝島社)がある。
「写真展 飯舘村」開催趣旨
2011年3月の東京電力福島第一原発の過酷事故は、日本一美しい村といわれた飯館村を高いレベルの放射能で汚染しました。そのため、4月に全村避難となり6,200人もの村びとは村を追われ避難暮らしをしいられて、現在もなおつらい生活を送っています。村びとの自宅への帰還はいつになるのか見当がつきません。
飯館村で酪農を営んできた長谷川健一さんは、原発事故がおきた直後3月から1年半の間に1万枚を越える写真を撮り今もなお撮り続けています。写真に込められた、村びとの深い悲しみと怒りを分かち合うために、私たちは「写真展飯館村」を企画しました。
飯館村で酪農を営んできた長谷川健一さんは、原発事故がおきた直後3月から1年半の間に1万枚を越える写真を撮り今もなお撮り続けています。写真に込められた、村びとの深い悲しみと怒りを分かち合うために、私たちは「写真展飯館村」を企画しました。
(引用終わり)
この写真展を開催するに至った経緯などにつき、OurPlanet-TVの白石草(しらいし・はじめ)さんが長谷川さんにインタビューした映像があります(12分41秒)。メルマガNo.1230で取り上げたフォト・ジャーナリストの豊田直巳さんも登場してコメントされています。
上記インタビューでも語っておられますが、長谷川さんは、2011年7月5日を皮切りに、これまで約140回の講演活動を行ってこられたそうです。
その原動力となっているのが、長谷川さんの友人であった相馬市の酪農家が「原発さえなければ」とベニヤ板に書き残して「自死」したことでした。
最近の講演の映像を2つご紹介します。
2013年1月11日・東京(中継 原子力資料情報室)
飯舘村 酪農家の叫び 3.11からの記録
(CNICスタッフコメント/引用開始)
飯舘村の酪農家、長谷川健一さんが福島原発事故発生当初から起きたことを、問題点をあげながら分かりやすく熱意をもって語っています。
長谷川さんは飯舘村で区長を担っています。事故直後に飯舘村の放射能汚染の実態が判明したとき、役場の担当者はその事実を隠そうとしたそうです。3歳以下の子どもと母親は避難するように言われた時、長谷川さんは「年上の兄弟は母親と離れてしまう。子ども全員といっしょに避難させないとならない」と役場にかけあいました。飯舘村の牛が放射能汚染され、処分しなければならないと国が決めた時、牛の命をなんとか守ろうと奮闘した様子も心に響きます。長谷川さんが飯舘村と住民と家畜をとても大切に思っていることが伝わってきます。
後半に紹介する、世話をすることができなかった20km圏内の牛の変わり果てた姿の写真はぜひ皆さんに見て辛く厳しい現実を知ってほしいと思います。また、モニタリングポストの周辺のみを徹底除染して、周囲の値よりも低い値を示している問題も見過ごすことはできません。
長谷川さんは飯舘村で区長を担っています。事故直後に飯舘村の放射能汚染の実態が判明したとき、役場の担当者はその事実を隠そうとしたそうです。3歳以下の子どもと母親は避難するように言われた時、長谷川さんは「年上の兄弟は母親と離れてしまう。子ども全員といっしょに避難させないとならない」と役場にかけあいました。飯舘村の牛が放射能汚染され、処分しなければならないと国が決めた時、牛の命をなんとか守ろうと奮闘した様子も心に響きます。長谷川さんが飯舘村と住民と家畜をとても大切に思っていることが伝わってきます。
後半に紹介する、世話をすることができなかった20km圏内の牛の変わり果てた姿の写真はぜひ皆さんに見て辛く厳しい現実を知ってほしいと思います。また、モニタリングポストの周辺のみを徹底除染して、周囲の値よりも低い値を示している問題も見過ごすことはできません。
(引用終わり)
2013年1月20日・茨城県結城市(中継 IWJ)
(IWJ会員登録にご協力ください http://iwj.co.jp/join/ )
最後に、長谷川さんが2011年に行った講演の概要を掲載したサイトを2つご紹介します。
月刊「現代農業」 2011年9月号
後者の福島市での講演の末尾の部分で長谷川さんはこう語られています。
全ての者が心して聞く必要のある言葉だと思います。
(引用開始)
そういう中で、一番、子どもたちがかわいそうだ思う。
広島・長崎の原爆、あのときに差別が起きた。まさにこれから、この福島県、飯舘村、すべてで、そういう差別が起きる。
いま、私は、全国を歩いて、二つのお願いをしている。
ひとつは、絶対に風化をさせない。こういうとんでもない事故を。
もうひとつは、差別が起きない社会づくり、差別ができない社会づくり、そういうものを、これから、みんなで、やっていかないとだめなんだろうなって、私は思う。
広島・長崎の原爆、あのときに差別が起きた。まさにこれから、この福島県、飯舘村、すべてで、そういう差別が起きる。
いま、私は、全国を歩いて、二つのお願いをしている。
ひとつは、絶対に風化をさせない。こういうとんでもない事故を。
もうひとつは、差別が起きない社会づくり、差別ができない社会づくり、そういうものを、これから、みんなで、やっていかないとだめなんだろうなって、私は思う。
(引用終わり)