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司法に安保法制の違憲を訴える意義(4)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述

 今晩(2016年10月5日)配信した「メルマガ金原No.2590」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
司法に安保法制の違憲を訴える意義(4)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述

東京地方裁判所(民事第二部) 
平成28年(行ウ)第169号 安保法制違憲・差止請求事件
原告 志田陽子、石川徳信ほか(計52名)
被告 国
 
 9月29日(木)午後2時から、東京地裁103号法廷で開かれた上記事件の第1回口頭弁論において、原告訴訟代理人3名及び原告3名による意見陳述が行われました。
 昨日は、原告訴訟代理人である伊藤真角田由紀子、福田護各弁護士による意見陳述の内容をご紹介しました(司法に安保法制の違憲を訴える意義(3)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述)。
 
 今日は、3名の原告の皆さんによる意見陳述をご紹介しようと思います。それぞれの陳述内容は、口頭弁論終了後、参議院議員会館で行われた報告集会での資料として配付され、「安保法制違憲訴訟の会」ホームページの「裁判資料」コーナーに掲載されていますが、それらを全文引用するものです。
 
 意見陳述されたのは、
  志葉玲さん(戦場ジャーナリスト
  金田マリ子さん(東京大空襲遺児)
  富山正樹さん(現役自衛官の父)
のお三方です。それぞれ、自らの経験に則し、どうしても安保法制に基づく自衛隊の戦争への加担を許すことができない理由を、情理兼ね備えた言葉で訴えておられます。法廷で直接陳述をうかがうことは出来ませんでしたが、陳述書を読んだだけでも、全ての方の言葉が胸に5迫りました。1人でも多くの方にこの陳述をお読みいただきたく、このブログなども活用して「拡散」にご協力いただければと思います。
 
 また、昨日もご紹介しましたが、報告集会の模様は、UPLAN及びIWJによって中継されました。金田さんは体調の問題から報告集会には出席されませんでしたが、志葉玲さんと富山正樹さんは、報告集会でもしっかりと自らの思いを語っておられます。
 UPLANでは、特に富山正樹さんの発言部分をフューチャーした動画を別立てでアップしています。これらの動画も、是非SNSなどで「シェア」していただければ幸いです。
 
20160929 UPLAN【抜粋】東京地裁103法廷を震わせた富山正樹氏による陳述(14分33秒
 

20160929 UPLAN 安保法制違憲・差し止め請求訴訟の第1回期日(報告集会)(1時間15分)

司会 杉浦ひとみ弁護士
冒頭~ 寺井一弘弁護士 あいさつ
9分~ 原告 山口氏
11分~ 黒岩哲彦弁護士 第1回口頭弁論の裁判の様子
21分~ 伊藤 真弁護士 裁判の法的な展開について
31分~ 福田 護弁護士 訴訟の今後の展開
42分~ 原告 志葉 玲氏
53分~ 原告 富山正樹氏
1時間08分~ 支える会 藤本氏 
 

原告 志 葉   玲
 
1 自衛隊イラク派遣がもたらした日本人ジャーナリストのリスク
 私は、いわゆる戦場ジャーナリストです。2002年から紛争地域で取材を行って来ました。自衛隊イラクに派遣された時ですら、私は取材中、銃を持った若者達に取り囲まれ、「お前は日本から来たのか?日本は米国の犬だ!」「自衛隊イラクに送った日本は我々の敵だ!」と激しくなじられました。イラク人助手が何とかなだめてくれ、拘束や殺されずにすみました。
 しかし、同時期に取材していたジャーナリストの橋田信介さんと小川功太郎さんは、2004年5月末、武装勢力に襲撃され、殺されてしまいました。生き残ったイラク人運転手によれば、武装勢力は橋田さんの顔を確認し、日本人だと認識して攻撃してきた、というのです。
 かつて、中東の人々は皆、親日的でしたが、それは日本が悲惨な戦争を乗り越え、平和憲法のもと経済を発展させたということに、本当に尊敬し憧憬の眼差しで見ていたからです。
 しかし、イラク戦争が始まると、私も、米軍が病院や救急車までもを攻撃し、女性や子どもなどの非戦闘員を殺害してきたのを、何度も見聞きしてきました。そのため、アメリカのイラク戦争を支持し、戦闘行為に参加しないとしても自衛隊を派遣した日本に対する現地での反発は非常に強かったのです。
 
2 安保法制がもたらす日本人ジャーナリストの身の危険
 この度の安保法制によって、日本の自衛隊が戦場で米軍を支援し、行動を共にするということは、米軍が行う非人道的行為の片棒を担ぐ日本人という構図を現地の人々にまざまざと見せつけることとなります。対日感情は悪化し、その憎悪は最前線で取材する日本人ジャーナリストにぶつけられることになります。
 既にそのことをイラク戦争で体験してきた私自身にとっては、安保法制によって、自らの身にふりかかる危険は、未来のことではなく、既に今、直面するものとなっています。もともとリスクの高い紛争地取材がさらにリスクが高くなることは明白で、現地に入ることすら躊躇せざるを得なくなります。
 
3 安保法制がもたらす紛争地取材の危機
 我々ジャーナリストは、日本の人々の、憲法で保障された「知る権利」のために奉仕する存在です。紛争地取材を行う日本人ジャーナリストは減り続けています。この上、安保法制による身の危険のリスク増大が、紛争地の現場に入ることすら躊躇せざるを得なくなり、日本人戦場ジャーナリストを絶滅に追いやるのではないか、そう危惧せざるを得ません。それは、我々、ジャーナリストたちの危機というだけではなく、日本の人々の「知る権利」の危機でもあります。
 さらに、万が一、私が取材中何かあれば、日本ではこれまでもそうであったように「自己責任」の名の下に、私だけではなく、私の家族・親族にまでもバッシングが及ぶことになります。
 この傾向は、安保法制で自衛隊が紛争地に派遣される状況となれば、ますます酷くなることは目に見えています。このことが、今、精神的な障壁として私の前に立ちはだかって、取材活動の足を引っ張るのです。
 安保法制によって対日感情が悪化すれば、私を信頼し協力してくれる現地の人々もリスクにさらされることになります。既に、安倍政権の安保法制や対テロ戦争に関する言動がイスラム過激派を刺激しており、私の取材を支える現地の協力者は一層危険な状況下に置かれ、このことも取材活動における大きな障壁です。
 
4 私たちジャーナリストが情報を伝えられなくなったら真実は見えなくなる
 もともと私がこの仕事を選んだのは、報道というものへの強い思いからでしたが、取材を通して、現実に遭遇すると、戦争で極めて理不尽に、真っ先に殺されるのは最も弱い人々であることを目の当たりにしました。究極の不平等や人権侵害は戦場で起きていることを知りました。
 そして、世界がどう進んでいくべきかについて政治や外交を考えるときに,この戦場での事実を伝えることなくして、平和も人権もないと確信を持ちました。
 私は「人々の苦しみに目をそむけ自分だけ楽な生活を送ることはできない」という人としての思いから、どんなに危険でも戦場ジャーナリストをやめるつもりはありません。多くの戦場ジャーナリストも同じ気持ちだと思うのです。
 ただ、こういったジャーナリストを見殺しにするような国の政策はどうしてもやめてほしいのです。
 それは、私の命が惜しいのではなく、現場の真実を伝える事ができなくなるからです。真実を知らずに平和など語れるはずはないからです。だから、私は無用に政府に殺されたくないのです。そのために、私はこの裁判の原告になりました。
                                        以上
 

原告 金 田 マ リ 子
 
1 私は東京大空襲の戦争孤児です。現在81歳です。父は私が3歳の時に病死し、母と姉と妹と暮らしていました。
 戦争中、宮城県学童疎開していましたが、東京に残った母達と別の場所に縁故疎開するために、3年生だった私は卒業する6年生と一緒に東京に帰ってきました。母たちに会えると、はやる心で上野駅に着くと、そこは一面焼け野原になっていました。昭和20年3月10日、夜半の東京大空襲の直後の朝だったのです。

2 母は迎えには来ていませんでした。迎えに来てくれた叔父に連れられて「母たちはどうしているだろう」とそのことだけを思いながら、西新井の叔父の家まで半日かけて歩きました。黒焦げになった遺体があちらこちらにありました。その光景は今でも私の頭の中に焼き付いて離れません。
 空襲で母と姉と妹は行方が知れず、私は叔父の家に引き取られました。空襲から約3カ月たった6月に、母と姉が隅田川で遺体で発見されたと知らされました。妹は結局見つからず行方不明のままでした。心の中の何かがすっぽり砕け落ちてしまいました。
 
3 孤児となった私は、その後、別の親戚宅に引き取られました。そこには7人の子どもがいて、義理の叔母が「なんで面倒見なきゃいかんのか。」と言っているのを何度も聞きました。いとこ達からは「おまえなんか、はよ、去(い)んでけ!」「お前は野良犬だ」と言われ、気に入らないことがあると往復ビンタをされ、本当につらく惨めな毎日でした。一番悲しかったのは、「親と一緒に死んでいたら良かったのにね。」と言われたことでした。
 悲しくても孤児には甘える人もいません。親戚宅で私は、朝早くから家事をさせられ、走って小学校に行き、学校から帰ると、また様々な家事が待っているという生活でした。家で勉強をする暇などは全くなく、毎日くたくたになるまで働きました。
 ある日、夜遅くに理不尽なことで従兄から何度も殴られ、私は家を飛び出し、真っ暗な川辺で泣きじゃくっていました。「お母さん、なんで死んでしまったの。お母さんのところに行きたい、早く死にたい」と思いました。
 でも、「自殺したらお母さんの所に行けなくなるよ」と言った祖母の言葉が忘れられず、死ぬこともできませんでした。
 
4 高校を卒業し、無一文で親戚宅を出ました。親なし、家なしで仕事先もない中、女中や女給の仕事をしながら、必死に働きました。24歳で結婚し、子どもができたとき、私は、「この子のために生きなくてはいけない」、「この子にだけは親のいない苦しさを味あわせたくない」と思いました。孤児になって、生きることに絶望していた私が、初めて感じた「生きよう」という思いでした。
 
5 子育ても終わり、私は、戦争孤児の方々の聴き取りをするようになり、私より、もっと壮絶な体験をしている人たちを知りました。戦後、上野の地下道は戦争孤児であふれ、大勢の子ども達が餓死し、凍死しました。浮浪児となった孤児たちは、捕えられトラックに山積みにされ収容所に送られたり、人身売買されたり、農家で奴隷として使われたり、自殺をした子もたくさんいたそうです。
 
6 私はこんな夢を何度も見ました。「電車に母と姉と妹が乗っており、私だけをおいて行ってしまう。母は振り向き本当に悲しそうな顔をする。姉と妹は振り向かない。私はその電車を追いかける」こんな夢です。それ以来、母の顔はこの悲しそうな顔しか思い出せないのです。
 これが私の9歳からの人生です。
 
7 日本が戦争をしないと決めたことで、この孤児の苦しみは私たちで終わると思っていました。ところが、憲法9条に違反して、また戦争をする国になる法律が作られてしまいました。戦争は必ず人が亡くなります。孤児も生まれます。私は、子どもや孫たち、若い人たちに、絶対に、私と同じ思いはさせたくないのです。経験をしていない人たちにとって、戦争になったらどんなことが起こるのか、想像ができないのではないでしょうか。私にはあの辛い体験が、すぐそこに蘇ってくるのです。「絶対に戦争はしてはいけない」血を吐くまで叫び続けてでも、今の国の動きを止めなければなりません。
 この新しい安保法が作られ、私は、 自分の身が引き裂かれそうな思いです。
                                        以上
 

原告 富 山 正 樹
 
 私は、鍼灸マッサージ師として働いております。私には4人の子どもがおり、長女は介護職の職を体調不良で辞めて現在フリーター、長男は漁師、次男は自衛官、次女は看護学生です。
 それぞれが利息付きの奨学金や借金を持ち、人生の進路をゆっくりと冷静に選択する余裕もなく日々の暮らしを懸命に生きています。
 次男は陸上自衛隊に所属する自衛官です。息子は就職難で奨学金の返済も抱え求職活動に悩んでいた時、高校時代の友人が自衛官で、その親御さんも自衛官ということで、自衛隊災害派遣や、専守防衛の尊い任務についてご家庭を訪ねて、たびたび話を聴きました。そして自衛隊の存在意義と理念に共感し、自らの意思で自衛官の道を志しました。私は専守防衛とは言え、武器を持つことに反対をしましたが、最後は息子の信じる専守防衛と災害救援派遣に対する思いを尊重し、自衛隊へと送り出しました。息子も私も、その任務は専守防衛という国民の厳粛な信託にこたえるものとして、間違っても海外での戦争に参加するなどということは、9条のもとにある自衛隊に限って起こすまいと信じておりました。
 ところが 2015 年7月15日、衆議院で戦争法を強行採決された瞬間、息子が戦争に送られるかもしれないことが現実のものとなったことに、こころが激しく揺れました。私は「このまま何もしなかったら日本は大変なことになる、自分が何もしないで、息子が戦場に行くことになったら、自分で自分を許せない」との強い思いが、眠ることもできないほどに湧いてきたのです。
 その思いは抑えがたく、妻からは最初反対されましたが、3日後にはたった一人で街頭に立ち、無言のスタンディングアピールを始めました。やがて志を同じくする人たちが一緒に駅前や繁華街などに立って下さるようになり、「愛する人を戦地に送るな!」と書いた大きなポスターを掲げ、ついには、のぼりを立て、トラメガを使って、大きな声で戦争法に反対のアピール活動をしております。最初は隠れるように活動していましたが、だんだん一緒に行動してくれる人も増え、今では当初反対していた妻も共に立つ仲間の一人となりました。
 自衛隊員の息子は、自分のこころに誠実に向き合い、自分の人生に悔いは残さないように生き抜いてほしいと思って育ててきました。自らの思いを通じた生き方で、人様の役に立つような人間になるようにと育てたつもりです。でも、それは、もちろん平和な方法によるものです。戦争は、殺し殺されるものです。私たち家族が愛し、その思いを尊重して育ててきた息子が、専守防衛を超えて、海外で殺し殺される場に立つことを想像すると、胸は潰れ、こころは乱れます。
 アメリカの帰還兵の現状を調べるうちに、一日平均22人の帰還兵が自殺をする現実を知りました。帰還兵の自殺者の異常な数の多さ。戦場の恐怖で夜中に奇声をあげる。恐怖と後悔から酒に溺れ、ドラッグに走る。家族や恋人、医師や心理カウンセラーも手助けできない。極限の家族と、自分をどうすることもできない本人。それは『帰還した兵士とともに、家庭や社会に戦場が持ち帰られる現実です。』
 日本の社会に、今まさに再現されようとしています。この平和な日本社会に、自衛官家族に、それを受け止める覚悟があるのでしょうか。わたしにはありません。
 こころからの怒りと悲しみが湧いてきています。
 いま自衛隊員の戦闘状態にある「南スーダン」への安保法制に基づく新任務を帯びた派遣が始まったらと思うと、私は居てもたってもいられません。
                                        以上
 

(弁護士・金原徹雄のブログから)
2013年8月29日
自衛隊員等の「服務宣誓」と日本国憲法
2014年7月3日
今あらためて考える 自衛隊員の「服務宣誓」

2015年5月31日
もう一度問う 自衛隊員の「服務の宣誓」~宣誓をやり直さねばおかしい

2016年9月3日
東京・安保法制違憲訴訟(国賠請求)が始まりました(2016年9月2日)
※過去の安保法制違憲訴訟関連のブログ記事にリンクしています。
2016年9月6日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(1)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述

2016年9月10日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(2)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述

2016年10月4日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(3)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述