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司法に安保法制の違憲を訴える意義(18)~東京・差止請求訴訟(第4回口頭弁論)において3人の原告が陳述する予定だったこと

 2017年8月8日配信(予定)のメルマガ金原.No.2898を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
司法に安保法制の違憲を訴える意義(18)~東京・差止請求訴訟(第4回口頭弁論)において3人の原告が陳述する予定だったこと
 
 昨日に引き続き、去る7月24日に東京地方裁判所で開かれた安保法制違憲・差止請求事件の第4回口頭弁論期日についてお送りします。
 ただし、裁判自体の報告は、昨日ご紹介した「原告訴訟代理人による陳述」で尽きていると言えば尽きているのです。
 というのは、この差止請求事件においても、前回の第3回口頭弁論期日までは、訴訟代理人弁護士のみならず、原告本人による意見陳述も3人ずつ認められてきました(その内容は全て私のブログでもご紹介してきました)。
 しかし、この第4回以降は、弁論期日内で陳述するのは代理人弁護士のみということになり、原告による意見陳述は(訴訟終結時は別として)もうやらないという訴訟指揮を裁判所が行ったようです。
 もともと、原告自身の弁論期日における意見陳述というのは、民事訴訟法上、主張でもなければ証拠調べでもない、でもやりたい、というなかなか微妙な位置付けのものなので、第3回口頭弁論まで計9人の原告の意見陳述を認めてきたことが異例だったかもしれません。
 その辺の事情については、報告集会で古川(こがわ)弁護士が冒頭で説明されています(1時間26分~)。
 裁判所としては、当初から「様々な属性を持つ原告の類型ごとに1人ずつは聞く」という意向であり、第3回までで、各類型からの意見陳述は一巡したというのが裁判所の理解だったようです。
 ただ、以下にご紹介する3人の原告の皆さんは、「意見陳述できるのではないか」という見通しの中で、代理人と相談しながら「陳述書」を準備してこられたので、法廷では陳述できないことになっても、報告集会資料には、そのまま掲載し、集会でも発言されたということです。
 3人の原告が準備された陳述内容はとても読み応えのある、胸に迫るものでした。そこで、私のブログでも、「3人の原告が陳述する予定だったこと」として、全てご紹介することにしました。
 とりわけ、竹中正陽(まさはる)さんの船員の立場からの陳述「私たち海運産業で働く者の目から見れば、日本は戦争が出来る国では決してないのです。」には、とても多くのことを教えられました。
 
 なお、弁論期日での意見陳述は、訴訟の証拠とはなりませんが、正式な証拠としての「陳述書」は、おそらく全原告について作成・提出するものと思いますし、そのうちの代表的な方については、いずれ原告本人尋問が行われるのだろうと思います。原告となっている武蔵野美術大学教授の志田陽子先生(憲法学)も、原告本人尋問候補者でしょうね。
 
 それでは、今日も、東京地裁前事前集会、裁判所内司法記者クラブでの記者会見、参議院議員会館講堂での報告集会の模様を収録したUPLAN(三輪祐児さん)の動画をご紹介します。
 
20170724 UPLAN 東京地裁103号法廷を満席に!安保法制違憲訴訟 自衛隊出動差止めの第4回口頭弁論期日 & 報告集会(2時間24分)

冒頭~ 東京地裁前事前集会
23分~ 記者会見
55分~ 報告集会
55分~ 寺井一弘弁護士(共同代表)
1時間03分~ 伊藤 真弁護士
1時間14分~ 角田由紀子弁護士
1時間26分~  古川 ( こがわ ) 健三弁護士
※古川弁護士が冒頭で、今回から原告本人の意見陳述が行われなくなった事情を説明されています。
1時間40分~ 水越淑子さん(原告)「孫たちを守らなければならない」
1時間45分~ 竹中正陽 (まさはる)さん(原告)「「平和愛好国」日本のブランド」
1時間55分 大村芳昭さん(原告)「国際家族法研究者、教育者、学部長として」
2時間06分~ 福田 護弁護士「差止追加提訴について」
2時間22分~ 司会(杉浦ひとみ弁護士)
 
 以下の2点の補足は、昨日書いたことそのままですが、とても重要なことなので繰り返します。
 
〇私のブログでも事前にご紹介しましたが(近刊予告!『私たちは戦争を許さない-安保法制の憲法違反を訴える-』(8/4岩波書店刊/安保法制違憲訴訟の会 編)/2017年7月23日)、8月4日、岩波書店から、『私たちは戦争を許さない-安保法制の憲法違反を訴える-』(安保法制違憲訴訟の会編)が刊行されました(1300円+税)。
新宿・紀伊國屋3階「私たちは戦争を許さない」 「安保法制違憲訴訟の会」共同代表の寺井一弘弁護士が、早速、新宿・紀伊國屋3階まで視察に行かれた際の写真がMLにアップされ、「私としては今週から一気に販売活動を本格化したいと思っております。提訴、若しくは提訴予定の全国各地で位置付けて関係団体や市民の皆様にご購入いただけるよう働きかけくだされば大変嬉しく思います。」ということでしたので、その写真を転載させていただいても支障ないだろうと判断しました。
 それにしても、『私たちは戦争を許さない-安保法制の憲法違反を訴える-』の周りに平積みされているのが、田母神俊雄氏の著書(2冊)や『戦争がイヤなら憲法を変えなさい』(古森義久著)だったりするというのが、いやはや何というか・・・。
 是非、書店が瞠目するほど、『私たちは戦争を許さない-安保法制の憲法違反を訴える-』が売り上げを伸ばして行って欲しいと思います。「安保法制は許せない」という志を共有される皆さんに、「是非お買い求めください」と訴えたいと思います。
 
〇報告集会で、裁判の進行状況を報告した福田護弁護士のお話の最後の方で、少し気になる発言がありました。それは、この第4回口頭弁論の傍聴席に空席が見られたということです。東京地裁における安保法制違憲訴訟は、国賠請求訴訟、差止請求訴訟とも、同地裁最大の103号法廷を使って行われてきましたが、抽選なしで、傍聴席に空席が目立つことが続くようであれば、早晩もっと小さな法廷に移されることになるでしょう。「安保訴訟違憲訴訟の会」としても、訴訟に対するバックアップ力の低下を非常に懸念しているのではないかと思いました。
 名前だけ原告訴訟代理人の私が和歌山の地から気を揉んでも何の力にもなりませんが、時間的に傍聴可能な方は、是非支援のために日程を確保していただければと希望します。
裁判の日程については、「安保法制違憲訴訟の会」ホームページに、随時掲載されます。
 

原 告  水 越  淑 子
孫たちを守らなければならない
 
1 私は埼玉県に1960(昭和35)年3月9日に生まれました。中学校2年生の時に練馬に引っ越し、22歳の時に結婚して、以来中野区に住んでいます。
 私の両親は2人とも大正生まれで、父は海軍の出身だと聞いています。その父は、海軍時代には怪我や病気をしたり、階級が低いために辛かった経験があったりしたようですが、具体的なことは聞いていません。母は、戦時中は食べ物などがなくて辛かったそうです。また、母方の祖父は背が高く、関東大震災の時にたまたま東京にいて、朝鮮人と間違われて襲われそうになったと聞いていました。私が家族などから、戦争とか、人を殺すといったような殺伐とした話として接したのはこの程度でした。
 私が育った時代は、戦後10数年経ち、戦争のにおいは全くなくなっており東京オリンピックがあり、社会は高度経済成長にむけてひた走っていた時代でした。憲法もすでに既存のもので、小学校のころから戦争放棄の9条は習っていましたが、そのことの持つ意味など実感するようなことはありませんでした。戦争は遠い昔のお話しでした。
 現在、私は、介護ヘルパーの仕事をしているので、支援する高齢の方たちの中には、足を焼夷弾にやられたご高齢の利用者もおられます。しかし、父や祖父の戦争中の話を聞いたときと同じで、焼夷弾で障害があることになった話を聞いても、特に戦争のことについて考えたことはなく、戦争を想像することもない、ごくごく普通の主婦として生活をしてきました。
 
2 私たち夫婦には子どもが2人おり、長男も長女もすでに30才を過ぎ独立していますが、長男夫婦は自転車で数分の所に住んでおり、現在中2、小6、小3の3人の男の孫がいます。長男の妻が病弱で、出産後床についていることが多かったために、私は、長男宅に通ったり、自宅に連れてきたりして、この3人の孫たちを、母親代わりのようにして育ててきました。
 長男は、食べるのが大好きで小さな頃からぷっくりしてかわいらしく、でも長男として母親の病弱なことも我慢し、次男三男の面倒を見るような子でした。次男はかけっこの早い、きりっとした子ですが、母の病気のことは一番気にする神経質な子でした。三男は好き嫌いが多くやせっぽっちで、食事作りには手こづらされましたが、お母さんの暖かさが恋しいのか幼稚園の送り迎えで自転車の後ろに乗せていると、私の背中にぺったりとくっついてくるような子でした。3人をお風呂に入れたりすると、シャンプーの泡をたくさん立てて、はしゃいだり、3人を洗っててんてこ舞いの私に泡をなすりつけてくるようなやんちゃで、仲のいい孫たちでした。
 
3 私が初めて政治に関心をもつようになったのは、3.11の東京電力原子力発電所の事故のときからです。
 私は、テレビに映し出される真っ黒い津波が町を飲み込んでいく恐ろしい様子や、東京電力原子力発電所の建屋からモクモク白いような煙が出て、更に、爆発して原子炉建屋が破壊されボロボロになった姿になるまでの様子を毎日釘付けになって見ました。人が大勢亡くなることや、放射能で将来に関わるような健康被害がおびただしい規模で発生することを知りました。
 私が生まれる前の戦争の被害は抽象的にしか想像できませんでしたが、同じ国内に住む同時代の人が現実に、こんな悲惨な被害を受けることにショックを受けました。
 私は、あの孫たちを守らなければいけないと思いました。何も知らずに無邪気に過ごしている孫たち、「おばあちゃん、もっとおうちにいてよ」「おばあちゃんのとんかつ美味しいね」と言ってくれるあの孫たちを、私が守らなければいけないと思いました。
 私は、初めてネットで情報を見るということをするようになりました。原発の被害が実はテレビで政府が「ただちに健康に被害はない」と繰り返すのとは全く違うことを知りました。東電の幹部の人がテレビでの会見で、いかにも責任を回避するように回答をするのを見て、腹が立ちました。今では、すぐにメルトダウンになっていたことが分かっていますが、当時はそんな説明はありませんでした。また、高額の費用を費やして準備したスピーディーが使われず、多くの人が汚染された地域に移動させられてしまったことを知りました。
 それまでの私は政府や電力会社を心から信じていました。原子力は安全であること、事故はありえないこと、また、お上は決して国民を裏切らないと思っていました。
 しかし、事故は起き、お上は国民を守ってくれないことがわかりました。
 お茶の汚染など、多くの食材が汚染されていることを知り、衝撃をうけました。私は、ネットを検索して原発批判を読み、また、新聞をよく読みました。そうして知識を身につけた私は、被曝で孫たち3人の健康と命が侵されるとの恐怖心が全身をかけめぐりました。必ず孫たちを守らなければならない、自分にできることは何でもやろうと決意しました。
 私が、まず、孫たちに安全な食材を与えようと必死になりました。危険があるなら、夫が単身赴任している富山へ孫たちを連れて逃げようと思いました。次に金曜日の国会前行動に参加しました。はじめてデモに参加したときは、正直心配で、私みたいな者が行っていいのだろうかと思いました。しかし、行ってみると皆さん熱心に声をあげ、また、新顔の私に打ち解けて対応してくれました。そこで、新宿での反原発の行動などにも積極的に参加しました。私一人の力は弱いけれど、皆で力を合わせれば、世論を動かすことができるのではないかと思ったのです。
 でも原発は再稼働され、事故の収束も実現できていないにもかかわらず、政府は原発を海外に売りつけています。やがて、原発放射能がまだまだ飛散しており、汚染水の処理もできていないのに、海外にむけて「アンダーコントロール」といい、復興のための費用と労力をオリンピックに向けてしまう政策を採ったことに、やはり政府は国民の命も生活も守らないということを、繰り返し痛感しました。
 
4 国会で、安全保障関連法案の審議が行われました。
 戦争をする国になって、アメリカの要求にNOをいうことができなくなり、若い日本人が海外に銃を持って出かけなければならなくなることが分かりました。国民が大勢殺され、また人を殺す場に出されることになるその恐怖が間近に迫っていることを感じました。国は、国民を守らないことも身をもって体験しています。あの孫たちは私が守らなければいけない、と緊張感と焦燥感で体の中が一杯になりました。
 そんなある日、私が孫の家に、食事作りに行った時、当時小学校6年生だった上の孫が、私に「安倍さんは何をしているのだろう」と言ったのです。
 私は孫が何を思っているのか不思議に思い、「どうしてそう思うの?」と聞くと、孫は「戦争はしたくないよ!戦争はしたくないから、もしそうなったらデモとかで反対する!」と孫は言いました。私はそれを聞いて、胸が痛むと同時に、大人としての責任を感じました。私たちが安保法を止められなかった故に、孫たちにそんな思いは絶対にさせたくありません。これから日本が戦争に巻き込まれたときに、戦場に送られるのは、孫たちの世代なのです。絶対に、孫や同じ世代の子どもたちを戦争の犠牲にしてはならない、殺し殺される社会にしてはならない、と心から思いました。
 この一番上の孫は、中2になり野球に夢中です。身長も160㎝を超え、体重も70キロほどあります。時々は疲れてかえってくると「おばあちゃんマッサージをして」とねだるので、私は肩をマッサージしてやったりします。
 そんなときには学校でのことを話してくれたりします。いつまでも私にとってはかわいい孫ですが、がっちりとした体格になって来ました。こういう若い人間が、戦争を知らない政治家たちに戦いの場に連れ出されるのかと思うとたまりません。
 
5 昨年、自衛隊を内乱状態にあると言われている南スーダンに派兵しました。今年5月に帰国することができましたが、次がないわけではありません。戦いに巻き込まれたら、自衛隊は今の数では足りるはずがありません。日本が戦う国になれば、テロの標的にもなります。
 私は、自分がこの手で育てた孫たちを殺し殺される場所には行かせたくありません。引き金が引かれたこの安保法制を何とか止めてください。
 「おばあちゃんはあなたたちのために闘ったよ」と最期に言えるように、そして「あなたたちを守ることが出来たよ」と最期に言えるように、安保法を止めてください。
 

原 告  竹 中  正 陽(まさはる)(船員)
「平和愛好国」日本のブランド
 
 私は、外国航路や日本沿海航路に就航する船の船員です。30年以上の間、タンカーや鉱石船で世界20数か国を回り、原油や鉄鉱石などを日本に運んできました。
 その間、戦争に遭遇することこそありませんでしたが、海賊には2度襲われ、いずれも乗組員がロープと猿ぐつわで縛られて人質になりました。2 度目の時は、日本の船ではあっても、日本人は私を含めてわずか2名、残りの20人はフィリピン人でした。10人の海賊が甲板上に乗り込み、フィリピンクルーの1人を人質にして立て籠もり、私たちもバールや斧で武装してにらみ合いが続きました。この時は「ああ、これで俺も終わりか」と肝が冷え、死を意識しました。幸いスコールがやみ、夜も明けてきたので、海賊は現地の港湾警察や軍隊が来るのを恐れて退散し、ライフラフトなどの船用品が奪われただけで済みました。
 海賊に限らず、東南アジアやアフリカの港では、言語や宗教、国民感情の違いなどから、予期せぬトラブルが絶えず発生します。積荷の量や質のクレーム、荷役の遅延、税関や検疫官の差し止め、窃盗の侵入や上陸した乗組員による官憲とのいさかい等々です。そうした時、大きな問題にならないように、現地に赴任している商社マンや代理店の人が駆けずり回って、解決してくれます。
 その時に役立つのが「平和愛好国」という日本のブランドです。日本は中立でどの国とも友好的、戦争をしない国として知られ、日本人は穏やかで優しく、お金に対してきれいな人種として通っています。
 このブランドはとりわけイスラム地域において効力を発してきました。イランイラク戦争の真只中においても、日本のタンカーや貨物船はペルシャ湾の奥深くまで入って両当事国から原油や貨物を積み出しました。上空をミサイルが飛び交い、両国の軍隊から臨検を受ける中で、私の先輩や同級生たちは、日本のブランドと政府の外交努力を信じて、甲板上と船側に大きく日の丸を描いて進みました。日本政府も1隻1隻の船について、各国の政府・現地大使館・商社・代理店と綿密に連絡を取りながら、進路や通過時間の決定に協力しました。
 イランイラク戦争では、一部の熱狂的兵士により国際法を無視した無差別爆撃が行われました。その結果、世界各国で407隻が被弾し333名の船員が死亡しましたが、日本船の被害は12隻、死亡者2名と配船数の割に極端に少なく済みました。これは、日本が両当事国ともに友好国であったことによります。
 中立国・平和愛好国という日本のブランドは、長年にわたる政府の外交姿勢の賜物です。敗戦後の再建・復興のため数十年かけて世界各国との友好・貿易促進を求めて配慮されてきた日本の外交姿勢、それを先端で担ったのが現地に赴任した大使館員や商社マン、企業の技術者・営業マンたちです。私たち船員も僅かながらそれに寄与したと思っています。
 現在、日本の海運会社が支配・運航する外航船舶は約2700隻、2千人に満たない日本人船員と6万人の外国人船員の手で運航されています。この瞬間にも2700隻の船が世界中の海や港に散らばり、昼夜を問わず稼働して、国民生活を維持するための物資を運んでいます。地球儀上に各船の位置をプロットすれば、地球儀は隙間なく埋まってしまうと言われるほどです。
 日本は、原油・石炭・鉄鉱石・ゴム・綿花・羊毛の100%、天然ガス98%、大豆93%、小麦88%、砂糖72%、木材の70%を輸入に頼り、その運航のほとんどを外国人船員に委ねているわけですが、いざ日本が参戦すれば外国人船員はどうなるでしょうか。船舶は真っ先に攻撃対象とされるので、外国人船員の大量下船が始まることは目に見えています。一家の大黒柱として大勢の家族を養うために、苦労して日本の船に「出稼ぎ」に来ている彼らにとって、笑顔で健康な姿で故郷に帰ることが悲願です。
 私は13年間、洋上で彼らと苦楽を共にして来ましたが、家族思いであると共に平和希求の強い彼らが、日本が行う戦争のために命を投げ出すことは考えられません。それが健全な姿でもあります。
 そうしたことから、外国人船員のほとんどが加入するITF(国際運輸労連)の労働協約書及び彼らの雇用契約書には、危険海域への就労拒否権(下船の自由。不利益扱いされない)が明記されています。私たち海運産業で働く者の目から見れば、日本は戦争が出来る国では決してないのです。
 昨年安保法制が施行されるに伴い、海上予備自衛官制度が発足しました。2 隻の民間大型フェリーが、防衛省が関与して新たに作られた特別目的会社に売却され、平時は通常の商業輸送を、訓練や有事の際には自衛隊の指揮命令下に入り、自衛隊や米軍の物資を運ぶことになりました。
 新会社に移籍もしくは新採用される船員は予備自衛官になることが前提とされています。有事の際に就労を拒否すれば罰則が待っており、これは徴用以外の何ものでもありません。
 先の大戦では、船舶と船員に徴用令が発せられ、1万5千隻(88%)の船と、6万人の船員が海の藻屑と消えました。陸軍(20%)・海軍(16%)の死亡率に対して、船員の死亡率は43%に上りました。
 現在私は、フェリーや大型外航船に燃料を補給する重油タンカーに乗船しています。毎年秋に行われる自衛隊の南西諸島奪還訓練の際にも、自衛隊を運ぶフェリーに燃料を補給しました。
 日本が戦争当事国になれば、燃料補給船は格好の餌食になることは疑いありません。
 私は、国民の豊かな生活を守るためにも、私自身の生命と職業を守るためにも、安保法制・集団的自衛権の発動に真っ向から反対します。
 そのため、裁判所に具体的な差し止め措置を講じるよう求めるものです。それこそが、真の国益であると信じます。
 

原 告  大 村  芳 昭(中央学院大学法学部長・教授)
国際家族法研究者、教育者、学部長として
 
 いわゆる安全保障関連法の施行によって私が被る精神的被害につき、研究者、教育者、学部長の3つの立場からそれぞれ陳述致します。
 まず、研究者の立場から申し上げます。私は1987年に大学院に進学して以来、一貫して国際家族法の研究に携わって来ました。国際家族法とは、国際結婚など複数の国にまたがる家族の関係を扱う法律の分野です。日本の国際家族法では、特別な事情がない限り、日本の法律に反するような外国の法律でも、日本の法律と同様に適用するという考え方を採用しています。
 それは、あらゆる国の社会や文化に対する尊重と、自国の価値観に必ずしも拘泥しない寛容さが国際家族法の基礎にあるからです。これは家族法に限らず、価値観が多様化・複雑化している国際社会ではごく標準的な考え方です。
 そのような観点からすると、いわゆる安全保障関連法には重大な欠陥があります。それは、日本が集団的自衛権という言い訳のもと、特定国の国家戦略に巻き込まれて後方支援や武力行使を行うことにより、徒に敵を増やし、日本をめぐる国際関係を、相互の尊重や寛容とは正反対の方向に導いてしまう点です。それは私にとって、自分の拠って立つ理念が否定されることを意味します。
 次に、教育者の立場から申し上げます。私は1997年から千葉県にある中央学院大学の専任教員をしておりますが、学生指導に際して私が最も重視しているのは、誰かの言うことに無条件に従うのではなく、自分で調べ、自分で考えて、自分なりの結論を出せる能力を養ってほしい、ということです。それは、市民一人ひとりが大切であり、学生を含む市民が国のあり方を決めるのだ、という信念に基づきます。
 ところが現政権は、日本国憲法の歴史的な土台である「天賦人権」や「民主主義」の考え方を否定して憚らない空気に満ちており、2012年の改憲草案では国民に憲法尊重義務を課したり、本来憲法レベルで議論すべき問題を閣議決定や立法で済ませてしまうなど、憲法が定めた国民と国の関係を根本から破壊しようとしているようにしか見えません。このような環境下で、個人に寄り添う教育を進めようとする多くの教員が被る精神的圧力、精神的損害には計り知れないものがあり、私もその例外ではありません。
 最後に、学部長の立場から申し上げます。
 本学は地方公務員の養成に力を入れており、中でも地元の千葉県警には多くの卒業生が就職しています。千葉県警の活動方針のひとつは「思いやり」ですが、入試の面接で警察官志望の受験生に話を聞くと、住民のためになりたいという素朴な気持ちが伝わってきて、ほほえましい気持ちになると同時に、とても頼もしく思えます。
 ところが近年、沖縄に県外から動員された警察官は、住民などの抗議活動を、時として暴力的に抑圧する業務を担わされています。その中には本学の卒業生もいるかもしれません。それが果たして、「思いやり」のある警察の姿と言えるのでしょうか。私はこのような状況には耐えられませんし、本学はそんなことのために警察官を養成しているわけではありません。そのような現状を生んでいる根源こそ、今の政権の政策、そしてその政策の重要な要である安全保障関連法です。
 私は、多くの警察官を社会に送り出している法学部の責任者として、自分の大学が4年間かけて育てた人材がそのような不当な役割を押し付けられることに大いに抵抗を覚えますし、本学で学んだ教育と現実の落差に苦悩しているに違いない教え子たちを思うと身を裂かれるような思いです。
 以上の理由により、私は安全保障関連法及びその施行により重大な精神的損害を被っていることを主張します。
 

(弁護士・金原徹雄のブログから/安保法制違憲訴訟関連)
2016年9月3日
東京・安保法制違憲訴訟(国賠請求)が始まりました(2016年9月2日)
※過去の安保法制違憲訴訟関連のブログ記事にリンクしています。
2016年9月6日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(1)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述
2016年9月10日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(2)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述
2016年10月4日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(3)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述
2016年10月5日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(4)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述
2016年12月9日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(5)~東京・国家賠償請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告代理人による意見陳述

2016年12月10日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(6)~東京・国家賠償請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告による意見陳述
2017年1月5日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(7)~寺井一弘弁護士(長崎国賠訴訟)と吉岡康祐弁護士(岡山国賠訴訟)の第1回口頭弁論における意見陳述
2017年1月7日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(8)~東京・差止請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告訴訟代理人による陳述
2017年1月8日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(9)~東京・差止請求訴訟(第2回口頭弁論)における原告(田中煕巳さんと小倉志郎さん)による意見陳述

2017年2月14日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(10)~東京「女の会」訴訟(第1回口頭弁論)における原告・原告代理人による意見陳述

2017年3月15日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(11)~東京・国家賠償請求訴訟(第3回口頭弁論)における原告代理人による陳述 
2017年3月16日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(12)~東京・国家賠償請求訴訟(第3回口頭弁論)における原告(田島諦氏ほか)による意見陳述
2017年4月21日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(13)~東京・差止請求訴訟(第3回口頭弁論)における原告代理人による陳述

2017年4月22日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(14)~東京・差止請求訴訟(第3回口頭弁論)における原告による意見陳述(様々な立場から)

2017年6月23日
2017年8月7日