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桂敬一さんの熱き論考「だれが牧伸二を死なせたか―時代を映し出せなくなったメディア」

 今晩(2013年6月5日)配信した「メルマガ金原No.1378」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
桂敬一さんの熱き論考「だれが牧伸二を死なせたか―時代を映し出せなくなったメディア」
 
時事ドットコム (2013/04/29-15:14)
漫談家牧伸二さんが自殺か=橋から川に飛び降り死亡-前日、舞台を
姿消す
(抜粋引用開始)
 「あ~んあんあ、やんなっちゃった」のウクレレ漫談で知られる牧伸二=本名・大井守常=さん(78)が29日午前0時15分ごろ、東京都大田区田園調布本町の橋の上から多摩川に飛び降り、病院に運ばれたが死亡が確認された。男性が1人で飛び降りたのを目撃した人が近くの交番に届け出た。警視庁田園調布署は自殺を図ったとみて調べている。
 同署によると、牧さんは大田区内に自宅があり、同区と川崎市の間に架かる丸
子橋の上から川に転落。通報で駆け付けた署員が救出したが、既に意識不明の状態だった。遺書などは見つかっていないという。
(引用終わり)
 
 あとでご紹介する桂敬一さんの文章を読みながら、私の家にテレビ受像器がやってきたのがいつのことだったか思い出そうとするのですが、どうしても思い出せません。両親とも既に亡く、兄弟もいないため、身内に尋ねて確認することもできません。
 わずかに、NHK総合TVの「ひょっこりひょうたん島」(1964年4月~1969年4月)は第1回から視ていた記憶がありますから、私の両親も、世間並みに、東京オリンピックを視ようと思って、昭和39年(1964年)にテレビを買ったのかもしれません。
 とすれば、桂敬一さんの家にテレビが来たのと、私の家にテレビが来たのは、せいぜい1年ほどの違いであったことになります。
 ちなみに、東京オリンピックの年、私は小学校4年生でした。
 ただ、同じ時期にテレビが届いても、視られる番組は住んでいる地域によって大きく違っていました。
 私の自宅は背後に山が迫っている地形が災いしてか、3つのチャンネルしか映りませんでした。NHKも、総合は映るけれども教育は映らない。民放も、大阪キー局は全く映らず、わずかに徳島から電波が来る四国放送、他1局だけが映るという有様で、NHK教育や民放大阪キー局が映るようになったのは、私が中学校に進学し、UHFの電波が受信できるようになってからのことでした。
 従って、桂敬一さんが書かれている日本教育テレビ(NET)の番組「大正テレ寄席」で司会者として活躍してい牧伸二さんの姿は多分視ていないと思います。
 ただし、NHK総合や日本テレビ(NTV)の番組を多くネットしていた四国放送で、牧伸二さんのウクレレ漫談は楽しんでいたはずです。
 
『あーやんなっちゃった』
 
 さて、私が牧伸二さんを取り上げようと思ったのは、元東大新聞研究所教授、マスコミ九条の会呼びかけ人である桂敬一さんがNPJに連載している「メディアは今 何を問われているか」の第45回として、牧伸二さんの死をきっかけとして、厳しくメディアの現状を憂う文章が掲載されたことによります。
 その一部を抜粋して引用します。
 
NPJ通信 メディアは今 何を問われているか
だれが牧伸二を死なせたか―時代を映し出せなくなったメディア
桂 敬一(マスコミ九条の会、元東京大学教授)
 
(抜粋引用開始)
 それにしても、なぜテレビはそういう(注:牧伸二のような)才能を、つぎつぎに生み出すことができなかったのか。バブル崩壊直前の80年代末、風刺コント集団ザ・ニュースペーパー」 が登場した。ネタはいくらでもあった。 だが、小泉構造改革のころは、まだ多少テレビでも見かけたが、もっとネタになるはずの第1次安倍内閣ぐらいからは、とんとテレビに現れなくなった。見たければ、劇場公演にいくしかなくなった。「爆笑問題」もせっかくの才能を燻らせっぱなしだ。「3・11」後となると、ネタはいっそう溢れかえっているのにだ。最近、ユーチューブにアップしてあった原発やんなっちゃった節」のソネットを発見した。なんと大震災発生後、3か月も経たない6月1日のアップだ。「ただちに影響ありません/健康被害はございません/20ミリでも安全です でも/20年後は知りません」、 「ヨウ素半減期は8日間/セシウムならば30年/プルトニウムは2万4000年/そんなに長生きできません」、「津波の高さは 想定外/電源喪失 想定外/炉心溶融 想定外/あんたの給料も 想定外」。冴えているではないか。 投稿なので、オリジナル作詞者の名前が分からないのが残念。
(中略)
 今、なぜ牧伸二亡きあとの「牧伸二」がいないのか。そのことを牧伸二本人が、一番口惜しく思っていたであろう。 亡きがらは川面の上に浮かんだが、魂魄はまだ川底にあり、浮かばれないのではないか。彼の死後、自殺の原因は経済的な行き詰まりか、自分が会長を務める演芸人の会の預かり金の使い込みか、といった話題がメディアの続報では飛び交った。だが、これも情けない。そんな詮索より、エンタテインメント番組が全部、巨大プロダクションの仕切るものとなり、タレントは金太郎飴の顔ぶれ、いつも似たようなおちゃらけばかりといった、報道機関の息吹とは無縁な状態に陥ったところに、本当の原因を探るべきではないのか。明治民権運動の時代、民衆のなかで川上音二郎らは「オッペケペー歌」など、壮士演歌を創った。大正の初め、桂陸軍大将内閣が出現すると、憲政擁護運動の勢いが強まり、演歌師、添田唖蝉坊は「マックロ節」などで底辺大衆の怒りを表し、昭和の民衆に歌い継がれる演歌を定着させた。その流れのなかで戦後にもつづく石田一松の「ノンキ節」が生まれてラジオでも歌われ、さらにその遺伝子は、三木鶏郎によるNHK番組「日曜娯楽版」の数々の歌にも受け継がれていった。牧伸二も高度成長の中、そうした批評精神と風刺の技を、メディアのうえで発揮してきたのだ。メディアは、彼の冥福を祈ろうとするのなら、「3・11」と安倍改憲政権出現という、かつてない大きい政変のただ中、この時代に相応しい批評性と、“悪役”の骨の髄まで突き通す鋭い風刺を、みずからの武器として取り戻す必要があるのではないか。
(引用終わり)
 
 桂敬一さんのある種悲痛な訴えに満腔の賛意を表しながら、「おそらく日本のレビに未来はないだろう」と、今年の1月からニュースを含め、ほとんどテレビ番組視なくなった私はつぶやくのでした。
 
 最後に、桂さんが紹介しておられた『原発やんなっちゃった節』(私も初めて知った)と『ノンキ節」を聴いてみましょう。
 
原発やんなっちゃった節』
 

 

『ノンキ節』 土取利行
 作詞作曲:添田唖蝉坊