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「閣議決定」で「集団的自衛権」の定義は変更されたのか?

 

 今晩(2014年7月26日)配信した「メルマガ金原No.1798」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
閣議決定」で「集団的自衛権」の定義は変更されたのか?
 
 一昨日、「公明党は何が言いたいのか?」とタイトルに書きながら、時間がなかったため、「即
断することなく、もう少し慎重に考えてみたいと思います」という「予告」だけで終わってしまっていますので、いずれ、公明党が主張する「閣議決定の意義」を検証してみたいとは思うのですが、まずその前にやらなければならないことがあることに気がつきました。
 それは、「集団的自衛権」の定義の再確認です。
 
 実は、今日(7月26日)の午後、和歌山市内で行われた憲法学習会の講師を務めてきたのですが(そのレジュメは既にメルマガ(ブログ)で配信済み→「あらためて集団的自衛権を学ぶ~遅すぎるということはない 自分が何をするかこそが問題~」)、そこで、「集団的自衛権とは何か?」という【問】を立て、以下の3類型に分類してご説明しました。
① 国連憲章51条及び日本政府公権解釈から導かれる集団的自衛権
② 国連安保理に報告された実際の行使事例から見えてくる集団的自衛権
③ 米国の「先制攻撃正当化論」によって引き起こされる集団的自衛権
 そして私は、1972年に田中角栄内閣が参議院決算委員会に提出した「資料」によって
明示された解釈、すなわち、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止すること」という定義自体は、今回の閣議決定によっても変更はされていない、とご説明しました。
 
 実際、内閣官房ホーム-ページに掲載されている「一問一答」冒頭に、集団的自衛権「定義」が掲載されています。
 
(引用開始)
【問1】 集団的自衛権とは何か?
【答】 集団的自衛権とは、国際法上、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、
自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利です。しかし、政府としては、憲法がこのような活動の全てを許しているとは考えていません。今回の閣議決定は、あくまでも国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るための必要最小限度の自衛の措置を認めるだけです。他国の防衛それ自体を目的とするものではありません。
(引用終わり)
 
 これを読めば、集団的自衛権の定義には何らの変更もない、ということで良いように思われのですが、そういう理解で、今回の閣議決定の「理論構成」をきちんと説明できるのでしょうか?
 公明新聞に掲載された「Q&A 安全保障のここが聞きたい<上>」に以下のような説明
があります。
 
(引用開始)
Q3 集団的自衛権の行使を認めたのか?
A3 外国防衛それ自体を目的とする集団的自衛権は認めていない。
個別的自衛権の行使は、自国が武力攻撃を受けたことが条件ですが、今回、その前であっ
ても限定的に実力の行使が認められました。この場合、国際法上、集団的自衛権が根拠となる場合があります。
しかし、このような場合であっても、あくまでも国民の命と平和な暮らしを守るための「自衛の
措置」でなければならず、外国防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使は認めていません。
 
Q5 「専守防衛」をやめるのか。外国で戦争をする国になるのか?
A5 「専守防衛」は堅持。海外派兵は認めない。
専守防衛」とは、日本の防衛に限ってのみ武力行使が許されるということであり、これは堅
持します。
今回の決定はあくまでも国民の生命と平和な暮らしを守るために必要な「自衛の措置」の
限界を示したものです。外国防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使は認めていません。
(後略)
(引用終わり)
 
 これが、とりあえずの政府与党の主張の骨子のようです。政府「一問一答」はここまで明確に書いていませんが、概ね同趣旨と読めないことはありません。
 さて、これを素直に読めば、集団的自衛権の中には、
  第1類型 外国防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使
  第2類型 我が国の「自衛の措置」と評価できる集団的自衛権の行使
という2つの類型があり、今回の閣議決定が認めたのは第2類型だけだと主張しているとい
うことになります(多分、そういうことでしょう)。
 
 以上のレトリックを念頭に置きながら、もう一度、閣議決定「国の存立を全うし、国民を守
るための切れ目のない安全保障法制の整備について」「3 憲法第9条の下で許容される自衛の措置」を読んでみましょう。
 
(引用開始)
3 憲法第9条の下で許容される自衛の措置
(1)我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、いかなる事態においても国民の命
と平和な暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきた。その際、政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる。したがって、従来の政府見解におけ
憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要がある。
(2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じている
ように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権憲法との関係」に明確に示されているところである。
 この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
(3)これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、我が国
に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。
 我が国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努
力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然であるが、それでもなお我が国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要がある。
 こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が
国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の
存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法許容されると考えるべきであると判断するに至った。
(4)我が国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然であるが、国際法
上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれるが、憲法上は、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものである。
(引用終わり)
 
 あらためて読み直してみると、当初は(3)の「新3要件論」にばかりに目が行っていたものの、実は(4)の部分が、今回の閣議決定の「論理構成」を端的に説明した部分らしいということが分かってきます。ポイントとなるのは、「国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある」という部分です。
 これを敷衍すれば、「新3要件」に該当して、我が国が「武力の行使」ができる場合の中に
は、「国際法上は」、個別的自衛権が根拠となる場合と集団的自衛権が根拠となる場合の両者が含まれているが、「憲法上は」、いずれの場合であっても、「我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置」であると言っている訳です。
 つまり、(個別的自衛権の行使や)「集団的自衛権の行使」は、「国際法上の根拠」を説
明する概念として使用し、「憲法解釈」を説明する部分には、あえて「自衛の措置」という表現を用い、「(個別的及び)集団的自衛権の行使」という概念を使用しないというレトリックを用いている訳です。
 実は、この使い分けは、1972年の政府解釈を明記した「資料」を一応は踏襲したものなのです。
 
(抜粋引用開始)
国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており~」
「政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっている」
(引用終わり)
 
 しかしながら、以上を前提としながら、「1972年見解」は、その結論部分において、以下のように明確に述べていたのでした。
 
(引用開始)
 平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
(引用終わり)
 
 私は、今回の閣議決定が、なぜ「1981年見解」ではなく、「1972年見解」を下敷きにしたのか、当初は理解できていませんでした。
 たしかに、実質的な内容はほぼ同一なので、9年早い「1972年見解」の方を基本に据えてもおかしいことはないのですが、ただ「一問一答」(問10)も指摘するとおり、「1972年見解」は、公式には閣議決定を経たものではないのに対し、「1981年見解」は、稲葉誠一衆議院議員からの質問趣意書に対する答弁書(当然閣議決定を経ている)において表明さたものであり、集団的自衛権に関する政府公権解釈の基本としては、「1981年見解」を挙げることの方が多いと思われます。
 
 ところが、よく読んでみると、「1981年見解」は以下のような内容なのです。
(抜粋引用開始)
 国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利を有しているものとされている。
 我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、
当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている。
 なお、我が国は、自衛権の行使に当たつては我が国を防衛するため必要最小限度の実力
を行使することを旨としているのであるから、集団的自衛権の行使が憲法上許されないことによつて不利益が生じるというようなものではない。
(引用終わり)
 
 以上のとおり、「1981年見解」には、自衛権行使のための「3要件」が明示されていない他、「国際法上の根拠と憲法解釈」が明確に区別されているようには読めず、「新3要件論」を展開するベースとし得るのは「1972年見解」しかなかったということだろうと思います。
 
 さて、首都大学東京准教授の木村草太氏の主張、すなわち、閣議決定で行使を容認した集団的自衛権」とは、実際は個別的自衛権集団的自衛権が重複する領域に事象集めたものに過ぎないという主張は、以上のレトリックを読み解いた説ということでしょう。
 それでは、何故、木村准教授が言われるような内容が分かりやすく閣議決定に書かれなかっ
たかと言えば、あからさまにそう書いてしまっては、安倍首相の顔を立てることができないため、「国際法上の根拠」と「憲法解釈」によって概念を使い分け、るという小手先のテクニックを使ったのだということなのでしょうか?
 
 それでは、今日のテーマ、「『閣議決定』で『集団的自衛権』の定義は変更されたのか?」に
対してどう答えるべきでしょうか。
 
 木村准教授は、ビデオニュース・ドットコムの中で、個別的自衛権集団的自衛権が重複する領域に事象の一例として、我が国領土内にある米軍基地が攻撃を受けた場合を挙げていましたが、従来の解釈、すなわち「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国 が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止すること」という定義からは、この攻撃に反撃を加えることは、個別的自衛権の行使とは言い得ても、どう考えても集団的自衛権の行使とは言えないでしょう(自国が攻撃を受けているのだから)。
 もちろん、「国際法上」この場合を集団的自衛権の行使として説明することは可能かもしれませんが、そうであれば、集団的自衛権の「定義」自体をやり直す必要があるはずです。

 そもそも、これまで「集団的自衛権」の定義が問題にされたのは、「憲法解釈」との関係を論ずる前提として必要であったからに他なりません(「1972年見解」もまさにそうです)。ところが、今回の閣議決定では、「国際法上の根拠」と「憲法解釈」で概念を使い分けるというレトリックが用いられているため、にわかに「変更された」とも「変更されていない」とも答えられないというのが正直なところです。
 はなはだすっきりしない結論ですが、この釈然としない部分が、おそらく公明党「Q&A 安全
保障のここが聞きたい<上>」での主張(外国防衛それ自体を目的とする集団的自衛権行使は認められないが、我が国の「自衛の措置」と評価できる集団的自衛権の行使は認められる)のある種の「いかがわしさ」の本質に肉薄するポイントではないかという気がします。
 ということで、再び「宿題」を持ち越すことになりました。
 

(付録)
『今夜彼女は台所を棄てた』 作詞作曲:よしだよしこ 演奏:よしだよしこ