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『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗

 今晩(2015年3月3日)配信した「メルマガ金原No.2018」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗

 今や「和歌山市・関電支店前アクション」の、という肩書きがすっかり板についた西郷章さん(憲法を生かす会・和歌山)ですが、地元和歌山市だけではなく、求められれば、和歌山県田辺市でも福島県郡山市でも、どこにでも出かけて行ってはドジョウスクイやアコーディオンの腕前を披露することでも有名です。もちろん、「どこにでも」と言っても、それが脱原発憲法を守る運動に役立つものである限り、という条件がつくことは言うまでもありません。
 今でこそ、連日ご自身のFacebookで積極的な情報発信をされている西郷さんですが、かつては(特に「さようなら原発一千万人署名」に熱心に取り組んでおられた頃)、私のメルマガにたびたび手記を寄せてくださったものでした(巻末に、これまで西郷さんが寄稿してくださった文章を転載した私のブログをご紹介しています)。
 
 その西郷さんから、今日ご紹介する金田さんご夫婦がドイツから持ち帰った旗(西郷さんは「闘争旗」と書かれています)のことを教えてもらったのは、今年の1月下旬のことで、最初は西郷さんのFacebookによってでした。
 西郷さんらと共に関西電力和歌山支店前アクションにご夫婦で参加されていた金田輝久さんが、やがて体調悪化によって参加できなくなり、昨年意を決して息子さんの住むドイツに渡り、1ヶ月滞在して帰国したものの、間もなく逝去されたのですが、金田さんが「命を懸けてドイツから持ち帰ったドイツの脱原発闘争のシンボルとして活躍した闘争旗」を、「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」になびかせることを金田さんの御霊と奥様に約束したことが語られていました。
関電和歌山支店前にて その「闘争旗」は、今年の2月20日の夜、関電和歌山支店前に初登場し、金田さんの仲間たちの手で掲げられました。その話を聞いていた私も関電前にかけつけ、その旗を持たせていただきました。
 インターネットで海外の脱原発デモの様子などをご覧になった方にはお馴染みかもしれませんが、黄色地の旗の真ん中に赤いお日様(でしょうね)が描かれ、その上下に、
  ATOMKRAFT?
  NINE DANKE

という黒文字が大きく染め抜かれています。拙訳を披露すれば、
  原子力
  いらないよ
といったところでしょうか。
 後の西郷さんの文章にも登場するドイツ在住のジャーナリスト、梶村太一郎さんのブログ「明日うらしま」を愛読している人も多いのではないかと思いますが、例えば、昨年(2014年)7月25日の「明日うらしま」に掲載された写真を見ると、この旗が何本も打ち振られており、梶村さんは「原発お断りの旗」と表現されています。
 
 実は、金田さんが日本に持ち帰った旗は、梶村太一郎さんがドイツで使っておられたものを、その息子の梶村良太郎さんから譲り受けたものであることが、西郷さんの手記で明らかにされます。
 これからは、毎週金曜日の関電和歌山支店前アクション、今度の日曜日(3月8日)に和歌山城西の丸広場で開催される「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」、そして、脱原発を願う人々が集うところに、金田輝久さんやそのご家族、ドイツの梶村さんたちの思いを載せたこの旗がひるがえることになったのです。

 私は、このエピソードを是非多くの人に知っていただきたいと思い、西郷さんにお願いして寄稿していただくことにしました。
 西郷さんは、この原稿を書くために何度か金田さんの奥様を訪ねてお話を聞かれただけではなく、ドイツ在住の金田さんの息子さんにも草稿を送って手直ししてもらい、いわば「(奥様と息子さんとの)3人で書いたようなものです」という説明付きで原稿をお送りいただきました。
 
 なお、西郷さんの文章でも詳しく紹介されていますが、金田輝久さんの息子さん・金田真聡(まさと)さんは、ドイツ(ベルリン)に住んで建築家として活躍しておられるのですが、法政大学建築同窓会ホームページの中に、「金田真聡のドイツ・ベルリン建築通信」という連載を寄稿されており、その内の第1話、第3話、第4話が「30歳からの国際化-ドイツへ-」として電子書籍化されています。
 

『30歳からの国際化-ドイツへ-』
30歳からの国際化-ドイツへ-


 とりわけ、連載第9話「なぜドイツは、エネルギー転換を決断することができたのか」は、「ATOMKRAFT?NINE DANKE」旗が日本に渡るについて重要な役割を果たされた梶村良太郎さんへのインタビューであり、非常に興味深い内容です。ご一読をお勧めします。
 
 前置きが長くなり過ぎました。
 西郷さんが、金田さんの奥様と息子さんの協力を得て書かれた原稿「ドイツ脱原発の旗に願いを込めて」をじっくりとお読みください。
 
(付記)
 3月8日の「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」、とりわけ、11時30分からの「原発さよなら行進@和歌山Vol.7」には、ドイツから渡ってきた「ATOMKRAFT?NINE DANKE」旗だけではなく、それ以外にも様々な旗や幟や横断幕が、脱原発を願う多くの人々の思いを載せて登場するはずです。
 ここでは、2つだけご紹介しておきます。
出発前(原発要ランウータン) 1つは、「原発さよなら行進@和歌山」の呼びかけ人兼パレード・ディレクターであるデザイナーの奥野亮平さんが生み出したキャラクター「原発要ランウータン(イランウータンと表記されることも)」がフューチャーされたフラッグです(事実上、横断幕として使用されています)。2012年7月22日に実施された第1回「原発さよなら行進@和歌山」に(多分)初登場した際の写真をご紹介しましょう。このフラッグは、その後も常に「原発さよなら行進@和歌山」の先頭を行くことが恒例となっています。
増山麗奈さんライブアート もう1つは、アーティスト・増山麗奈さんが描くものですが、実はまだ出来ていません。というか、3月8日当日、アピールパレード(原発さよなら行進@和歌山)の出発に先立って行われる全体集会の中で、増山麗奈さんがステージで行うライブペインティングで完成させたばかりの作品を、パレードに持ち出そうという計画だったと思います。
 従って、どんな作品になるのか、まだ誰も知らず、麗奈さんの頭の中にあるアイデアの種が、当日どのような表現に結実するのか、もしかすると、ご本人にもくっきりとは予想できていないかもしれません。
 写真は、去る2月7日に和歌山市中央コミセンで開催された「映画『ママの約束』上映と増山麗奈監督トーク&アート」におけるライブペインティングの模様です。
 今日ご紹介した3つの旗や横断幕に限らず、参加者それぞれが思いを込めたボードやフラッグなどを持参して参加して欲しいと願っています。
 

       ドイツ脱原発の旗に願いを込めて
 
                        和歌山市・関電支店前アクション  西 郷  章
 
 2014年11月下旬、私たち関電和歌山支店前アクションの仲間である金田輝久さんは、ドイツに行くために並々ならぬ決断をしていました。不治の病で衰える最後の体力を振り絞って、息子さんの住むドイツ・ベルリンへ「何としてでも、もう一度行かなければ」と決心したのです。11月23日に掛かりつけの医師にその話をすると、医師はいったんは止めました。しかし、輝久さんの意思は固く、説得をあきらめた医師は、「せめて行った先の病院だけは紹介する」との配慮を示してくれましたが、それすらも断り、11月28日に関空から16時間かけて奥さんと2人でベルリン・テーゲル空港へと向かったのです。
 
 金田さんご夫婦は、和歌山市の関電支店前アクションが2012年7月下旬に開始されて間もないころから参加するようになりました。そのきっかは、事故により福島の田畑が放射能まみれになって作物が作れないことにショツクを受けたことでした。
金田輝久氏・耕作風景 金田さんは、自宅の横に自分たちが食べるほどの米を作っていました。2011年3月、苗植えのための田んぼを耕す準備をしているさなかに福島第一原発事故は起こりました。金田さんご夫婦は、原発放射能にある程度の知識を持っていたため、同じ田んぼでありながら、自分たちの田んぼは例年通りにコメが作れるのに、福島の農家の人たちは見た目には和歌山と何も変わらない広い田んぼでも、もうコメが作れなくなったことを我がことのように感じて2人で涙を流しました。そして福島のために何かしなければいけないと思っていた時に、首相官邸前で多くの人たちが金曜デモをやっており、それが全国へと広がっていることを新聞で知り、和歌山ではやっていないのだろうかと調べたところ、関電和歌山支店前でアクションを行っていることを知って、この行動に自分たちの思いをかける決心をしたのです。それ以来、同じ和歌山市でも遠方の郊外に住んでいたにもかかわらず、毎週金曜日の夕方には、関西電力和歌山支店前に夫婦で参加して立ち続けました。
 だが人生はままなりません。2013年の1月ころから2人の姿が見えなくなり、その後、関電前の仲間から、金田さんが胃がんであると知らされたのです。しかし、2014年の春、少し暖かくなった頃に2~3度姿を見せるようになったので、胃がんは良くなることもあるということだし、もう大丈夫と思っていたのですが、その思いもむなしく、それ以来また姿を見ることがなくなりました。
 そして、金田輝久さんが亡くなったことを知ったのは、この新年(2015年)1月16日の今年第2回目の金曜アクションの時でした。
 
 話を昨年11月28日に金田さんご夫婦がドイツに向かった時に戻します。
 ドイツでの滞在期間は1カ月ほどを予定をしていました。ドイツでまず向かった先は当然ながら息子さんの住むベルリン市でした。しかし、息子さんの自宅には3日間しか泊まらず、自分の体が深刻な状態であるということも言いませんでした。息子の金田真聡(まさと)さんは、お父さんが病気であることを知っていましたが、予想以上に体調がよくないように見えたため、すぐに次の予定地に向かおうとする父を引き止めました。しかし、輝久さんは「前を向いて生きたい。行かせてくれ」と言いました。しかし、幸運にも、ここでの3日の間に運命の旗と出会うことになるのです。
 
 話が前後しますが、息子の真聡さんがドイツに在住することになった経緯について紹介しておきたいと思います。
 日本では建設会社で働きつつも高層中心の街づくりや、建物の寿命の短さに疑問を持っていた真聡さんは、かねてからドイツに強い興味を持ち、建築についても無駄をすることなく、古き良きものは一般住宅でも残す建築方法に自分の技術を生かしたいという夢を描いていました。そして、2012年に、その思いを行動に移したのです。父の輝久さんは、その思い切った行動力を我が子供ながら誇らしく思ったそうです。その後2年半の間にドイツを5回も訪れたのは、他国で頑張る真聡さんを心から応援したい気持ちがあったからでした。
 真聡さんのドイツでの当初の待遇は、設計事務所で半年契約の研修員としての仕事でした。月給は6万円くらいしかありませんでしたが、ここで頑張れる手ごたえを感じたのは、建築対象が、住宅もオフィスも現有の建築物を可能な限り活かす、改修重視の建築法であり、建築にかける時間は日本の3倍ほどと余裕があるために、納得のいく建築物に仕上がる満足感があったことによります。また、オフィスの1人当たりの面積は日本の2倍ほどでゆったりと仕事ができ、職場は自宅の近くにあるために通勤で疲れることもなく、住宅費や医療費や教育費などをはじめ福祉が充実しているために金のことで必要以上に心配することがないことを知りました。そして何よりも他国から来て、ドイツ語も不自由な真聡さんを会社の同僚がしっかりと支えてくれたことが、頑張る気持ちを強くさせてくれました。
 さらに幸運にも、その後の仕事が日本で磨いた技術を活かせる内容でしたので、半年のちには正式に建築士として契約するという望みをかなえることができました。ただ、ドイツでは一般的に日本のような終身雇用制ではなく、1年契約が普通ですので、その点は正社員になったからといって安閑としていられないのが現実です。ですから、この設計事務所に採用された人の中には中国人や近隣国から移民した人もいますが、みな真聡さんと同じように真面目に真剣に仕事をこなします。そして、その努力は報われます。日本人も中国人も移民者にも、誰にも福祉や人間としての扱いに差別することはないために、外国からの移住者は、その扱いに応えて、皆マナー等に優れており、ドイツに溶け込むために懸命に努力をする良い関係が保たれており、真聡さんは、その人間を大切にする扱いになおさらドイツで生きる決心を強くしたのです(金田真聡『30歳からの国際化・ドイツへ』より)。
 
 さて、3日間の息子さんの家にいる間に起ったドイツ脱原発闘争旗との出会いですが、かねてからドイツでの脱原発の闘いの歴史に強い関心を持っていた輝久さんは、今回訪独の目的の一つとして、当時活躍した人たちを知りたいと願う一方、闘争やデモ行進などで大きくはためいたシンボル旗にも触れてみたいという強い思いがありました。そのために「緑の党」や幾つかの心当たりを探りましたが、20年間の闘争に勝利した旗は中々見つけることはできませんでした。
ベルリンの息子宅で梶村良太郎氏と そんな時に、真聡さんの友人でドイツ再生産可能エネルギーの推進に従事する梶村良太郎さん(連載コラム「ドイツ・エネルギーだより」寄稿。「ドイツの『再生可能エネルギー法』見直しは成功の証」など。父はドイツ在住の著名なジャーナリストで、ブログ「明日うらしま」を発信する梶村太一郎さん)にそのことを打ち明けると、梶村さんは「父が持っていたものが家に眠っています。脱原発を決めたドイツではもう必要なくなりましたから、今度は日本の脱原発のために使ってください」とプレゼントされたのでした。
※写真はベルリン市の真聡さん宅で。右から輝久さん、真聡さん、梶村良太郎さん。
 
 そのような闘争旗との運命の出会いがあり、息子さんの家を離れたのちはベルリンを中心にプラハなどを見物しましたが、その間にも体調は刻一刻と悪化していきました。しかし、思わしくない体調を押してでも、輝久さんは絶対に後ろは向かず、一言の弱音も吐かずスケジュールを進めました。そしてもう一つの夢であったスキー場へと向かいます。
インスブルグのスキー場 スキー場はドイツの国境を越えて隣国オーストリアのザンクトアントンとインスブルックにあります。40年間もスキーを楽しみ、スイス、オーストリア、アメリカなど滑ってきた輝久さんには長年の夢であるこのスキー場を滑る夢を実現したかったのです。12日間ほどスケジュールを組んでいたことからも感じられるように、何としてもスキーを楽しみたい気持ちでもあったのでしょうが、もうその時体力も相当に低下をしており、スキーを楽しむことができたのはわずか1日だけでした。しかも他のスキー客の手を借りながらのスキーであったことは、思い通りにいかない歯がゆさを強く感じたことでしょう。ままならぬ体調のために残りの8~9日間はスキー場のホテル内での生活となりました。慣れない旅先での生活に加え、言葉もわからないために特に人との接し方には気を使うところですが、たまたま同じような宿泊日程の親切なお客さんに出会い、マナーの中でも特に毎日変わるフルコース料理の食べ方について教えていただいたおかげで、あまり心配することもなく過ごすことができきました。またこの人たちのような親切な旅人のおかげで、憧れのザンクト・マントンの雄大な山に接することができました。後で奥さんが知ったことですが、輝久さんは詳細なスケジュール表を用意しており、完全にそれに沿って行動したとのことでした。その後、帰りの飛行場へと向かう列車の乗り降りでも荷物を持ってくれたり、行く先々で親切な市民に助けてもらうにつけて、これほどに人間を大切にしてくれる人たちに出会えたことに感謝し尽くしきれない気持ちになったと言います。
 
 全くスケジュール通りの行動を取った輝久さんの病状はすでに限界に達しており、空港に着いたころには日本までの長時間の飛行に耐えられる状態ではなかったため、空港の最高責任者から、「今日、飛行機に乗ることはやめましょう」と言われました。しかし、帰れなくなる不安から、何度も「乗せてほしい」と頼みました。しかし、搭乗させて万が一の場合には空港側にも大きな責任が生じることを知らされ、その日の帰国はあきらめざるを得なくなりました。しかし、そのあとの航空会社側の対応は寛大でした。医師の許可が下りれば、翌日の便に乗れることを伝えてくれ、対応してくれた責任者から、当初は輝久さんだけが体調の問題から乗るはずであったビジネスクラス(一人70万円相当)の切符を2枚渡され、「私からのクリスマスプレゼントです」と言ってくれたのです。そしてベルリンから駆け付けた真聡さんを含め、全員分の高級ホテルを用意してくれたので、ゆっくりと体を休めることができました。あまりにも手厚い保護に言葉で言い表せぬほどに感激した奥さんが「このご恩は一生忘れません」とお礼を言いますと、「その気持ちを次に困っている人に尽くしてあげてください」と言われました。
 そして、12月28日の帰国の際には、航空会社は専属のスタッフを配置してくださり、機内でも酸素呼吸器や看護師資格を持ったキャビンアテンダントを用意してくれたおかげで、不安感もさほど感じることなく無事に帰国することができました。また、搭乗を手伝ってくれたベルリン在住の日本人女性とも親しくなり、埼玉に里帰りしたあと和歌山へ来て頂き、ドイツに帰れば息子の金田真聡さんとの家族付合いの約束もしていただきました。
 
 今回の旅行は輝久さんの夢をかなえた旅行であると共に、旅行中に多くの人々に支えられた旅でもありました。金田さん夫婦は、前述の梶村良太郎さんが言われた「ドイツ人は人間を捨てない国」であることを身をもって体験しました。
ブランデンブルグ門 2人が無事に帰国した直後、掛かりつけの医師のいる和歌山生協病院に診察を受けに行った際、そのことを話して「ドイツは人間を捨てない国です」と言いますと、医師は「私たち生協病院も、絶対に人間を見捨てませんからね」と励まし、「私は輝久さんの深刻な状態からすると、率直に言って、もう戻ってこれないのではないかと思った」そして「ドイツへ行き、全て達成した勇気ある決断は正しかった」と輝久さんの前向きな生き方を讃えてくれました。
 輝久さんの前向きな姿勢を物語るエピソードとして、自分の病状が深刻であることを知りつつも、ベルリン滞在中に真聡さんに多くの夢を語ったそうです。ドイツから帰れば太陽光自家発電を取り入れる計画をしていたこと。2年後にはスイスからオランダまでのライン川の遊覧旅行をしたいこと。孫と一緒にスキーをしたいこと。「今度は元気になって行こう」と言うのかと思えば、「今度行くときのために英語をしっかり勉強しなければ」など。真聡さんは、後からお父さんが末期(癌)であったことを知りましたが、それでもなお夢を持ち、未来を見続けた姿を思い出し、お父さんの心は病気に打ち勝っていたんだと思ったそうです。そして奥さんは、「本当に人生を前向きに歩いた人でした」と言っていました。
 
 輝久さんは、帰国して正月を自宅で迎えたものの、ドイツから持ち帰った脱原発の闘争旗を金曜アクションの場に、自らの手で掲げることなく1月8日に他界されましたが、法要も済み、ようやく落ち着いた2月20日、私たちの手で関電和歌山支店前アクションに掲げることができました。さらに、この旗はここを皮切りに今後あらゆる脱原発の闘いの場で活躍することになります。
 いま自由となった輝久さんの魂は、私たちが掲げる旗の中に生き、ドイツのブランデンブルグ広場を、ザンクトアントン山を、そして和歌山のふるさとを自由に飛び交いながら、私たちの闘いに勇気を与え、優しく見守ってくれているに違いありません。そして、奥さんは、また自分が関電前に立つことをお父さんはだれよりも喜んでくれるに違いないと言っておられました。
                                 (2015年3月1日記)         
                                           

(wakaben6888のブログから)
2011年11月17日(2012年11月28日に再配信)
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)
2011年11月29日(2012年11月29日に再配信)
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します

2012年2月29日(2012年11月26日に再配信)
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日(2012年11月26日に再配信)
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)
2012年5月2日(2012年11月30日に再配信)
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日(2012年11月16日に再配信)
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)
2012年11月28日(2012年12月7日に再配信)
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
 

付録)
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