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自民党の憲法改正草案批判~「緊急事態条項」を中心に(参院選の結果を踏まえた憲法学習会用レジュメ)

 今晩(2016年10月6日)配信した「メルマガ金原No.2591」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
自民党憲法改正草案批判~「緊急事態条項」を中心に(参院選の結果を踏まえた憲法学習会用レジュメ)

 今晩(10月6日)午後7時から、和歌山県庁近くの高校会館において開催された「憲法九条を守るわかやま県民の会」総会後の学習会で講師を務めてきました。
CIMG6622 これまでの慣例通り(?)、講演当日のメルマガ(ブログ)は、別の素材で書いている時間がないため、レジュメをそのまま掲載させてもらいます。
 今までにも、何度もレジュメを掲載していますので、「いつか読んだことがあるな」という箇所が次々と出てくるかと思います。それもそのはず、似たようなテーマで直近に書いたレジュメを下敷きにして、今回の依頼の趣旨に応じた手直しや、最新の情勢を踏まえたアップトゥーデートを施すという、おそらく誰もがやっていると思われる方法でレジュメを作っていますから、当然、読んだことのある箇所が続出するでしょう。
 今回のレジュメの下敷きにしたのは、今年の6月15日に「憲法をまもりくらしに活かす田辺・西牟婁
会議」のお招きにより、和歌山県田辺市で行った講演でした。その時のレジュメも、当日のうちにメルマガで配信し、ブログにアップしています(自民党「日本国憲法改正草案」批判レジュメ~2016年参院選直前ヴァージョン/2016年6月15日)。

 今回は、自民党改憲案の中でも特に「緊急事態条項」に力点を置いて欲しいというご依頼でしたので、その辺を補充する必要があったのと、今夏の参院選の結果、改憲勢力が衆参両院で2/3以上の議席を持つに至ったという情勢を踏まえ、何を警戒しなければならないかを述べるべきだろうと考えた結果、冒頭で、緊急事態条項を新設する改憲発議がなされたら、国民投票期日までの間にどういうことが起こるのか、具体的なイメージを持っていただくためのシミュレーションを試みました。
 もっとも、本当のシミュレーションをやろうとすれば、もっと色々な立場の者が集まってプロジェクトチームを作り、様々な事態を想定した上で、その影響や対策を考えるという取組が必要であり、私はどこかが音頭を取ってやるべきだと本気で思っています。
 
 ところで、私は、今月22日(土)には、「憲法を生かす会 和歌山」主催の講演会のご依頼も受けており、そちらのレジュメはまだ全く手付かずなのです。テーマは、「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」というもので、充分、今日のテーマ「自民党憲法改正草案批判~「緊急事態条項」を中心に」と関連はありそうなので、今日のレジュメをベースに改訂を加えるということになると思います(開催予告10/22「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」(講師:金原徹雄弁護士)@和歌山市中央コミセン/2016年9月4日)。
 
 それでは、「自民党憲法改正草案批判~「緊急事態条項」を中心に」のレジュメをお届けします。
 なお、レジュメを印刷して読まれる場合には、PDFファイルからどうぞ。
 
 

2016年10月6日(木) 和歌山県高校会館4F
憲法九条を守るわかやま県民の会
 
   自民党憲法改正草案批判~「緊急事態条項」を中心に
 
                            弁護士 金 原 徹 雄
 
【本日のお話の構成】
1 はじめに~あるシミュレーション
2 自民党日本国憲法改正草案」の位置付け
3 自民党日本国憲法改正草案」の問題点(「緊急事態条項」以外)
(1)立憲主義との決定的対立
(2)「個人」が消えた自民党改憲
(3)復古主義の衣をまとった「新自由主義」至上憲法
(4)平和主義の放棄
4 緊急事態条項は不要であるばかりか有害で危険
(1)どのような規定を設けようとしているのか
(2)大日本帝国憲法ではどうだったか
(3)日本国憲法に「緊急事態条項」がないのは何故か
(4)世界中の憲法に「緊急事態条項」があるというけれど
(5)改憲派のデマに対抗するために
(6)「緊急事態条項」は戦争をするためのもの
5 終わりに~「学習」と「運動」を両輪として

 
1 はじめに~あるシミュレーション
(1)201X年〇月△日、自民党公明党の与党に加え、日本維新の会、日本のこころ他無所属の一部も加わり、衆参両院の総議員の三分の二以上の賛成を得て、初めて日本国憲法改正案を国会が発議した。
※参考
 衆議院(第192回国会開会時点での現在議席数)475議席の内
  自由民主党無所属の会 291
  公明党 35
  日本維新の会 15
   3党計 341(71.8%)
 参議院(第192回国会開会時点での現在議席数)242議席の内
  自由民主党 122
  公明党 25
  日本維新の会 12
  日本のこころ 3
4党計 162(66.9%)
 「日本国憲法の改正手続に関する法律」第2条に基づき、国会は、発議の日から起算して90日後にあたる同年●月▲日を国民投票の期日と定めた(期日は発議の日から「起算して六十日以後百八十日以内」で国会が定める)。
 
(2)国民投票の対象となる憲法改正案は、「第八章 地方自治」の次に「第九章 緊急事態」として、次の二箇条を挿入するというものであった。
    第九章 緊急事態
(緊急事態の宣言)
第98条
 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震
による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律
の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急
事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において
、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。
(緊急事態の宣言の効果)
第99条
 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を
有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上 必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基
本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
 
(3)自民党公明党日本維新の会などの政党は言うに及ばず、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」に結集した日本会議神社本庁日本青年会議所などが総力を挙げて、憲法改正案への賛成投票を呼びかける「国民投票運動」を行ったことは言うまでもない。
 神社本庁傘下の全国の神社の境内には、「憲法改正国民投票で賛成票を投じよう」「緊急事態条項は国民を守る!」などというスローガンを掲げた幟がはためき、電車やバスの中吊り広告でも、同じような意見広告を頻繁に目にするようになった。
 国民投票運動は、選挙運動とは異なり、活動主体に制限はなく、また運動の方法についての制限もほとんどない。罰則規定はあるが、通常の国民にとっては、「買収以外は何でもあり」と言っても過言ではない。経済的格差による実質的不平等に配慮した規定はなく、「国民投票運動の自由」が最大限に保障されている。
 唯一、規制らしい規制といえば、「国民投票の期日前十四日に当たる日から国民投票の期日までの間においては」「放送事業者の放送設備を使用して、国民投票運動のための広告放送をし、又はさせることができない。」というスポットCM禁止規定(国民投票法第105条)がある程度であり、それも、間際の14日間だけの放送広告に限った規制であり、それ以前のテレビCMは自由、新聞広告に至っては、国民投票期日の当日までいくらでも広告を打てることになっている。
 「国民投票運動の自由」が保障されている結果として、例えば、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が集めた1000万人署名の署名用紙に記載された電話番号宛に(この署名用紙には、氏名・住所だけではなく、電話番号も記載する書式になっている)、「来る●月▲日の国民投票には、是非とも賛成票を投じてください」という電話が組織的にかかってくることになる。実際、この署名用紙の末尾には「「ご賛同者」の皆様には、国民投票の際、賛成投票へのご賛同の呼びかけをさせていただくことがあります」という利用目的についての注記があり(しかも「どこから」電話があるとは書いていない)、個人情報保護法上の要件をクリアしている。
 さらに、自民党公明党日本維新の会などの議員(地方議員を含む)には、後援会組織を利用して、末端まで「改憲賛成票」を投じるように浸透させることが党本部から指示される。
 また、企業、団体、組織などを利用した締め付けにより、「賛成票」の調達が推進される。
 
(4)201X年●月▲日、史上初の憲法改正国民投票が行われた。投票日当日の全国紙朝刊各紙に、自民党公明党日本維新の会などの政党だけではなく、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」などの民間団体も、「改憲案に賛成を!」という意見広告を盛大に掲載する中で。
 さて、その結果は?
 
(5)悪夢のような(?)シミュレーションについて若干の補足説明を。
 自民党「日本国憲法改正草案」第98条、第99条という現在の緊急事態条項のままで公明党日本維新の会が賛成するのか?いくら何でもこのままということはないだろう、というようなことはもちろんあります。その辺のすり合わせは当然ながら、行われるでしょう。
 それから、衆参両院で改憲勢力が2/3を超えたのは事実ですが、それでもまだしも参議院の方がきわどい2/3であることは事実です。
 けれども、こと「国民投票運動」に関しては、私の「シミュレーション」はほぼ外れないだろうという自信(?)があります。これまでの、日本会議神社本庁日本青年会議所などの改憲に向けた動きを跡
づけてくれば、そして、国民投票法の諸規定を通読すれば、こうとしかなりようがないと思うからです。
 
 
2 自民党日本国憲法改正草案」の位置付け
(1)冒頭、頭が痛くなるような憲法改正国民投票のシミュレーションからお話を始めたのは、1つには、現在の憲法を取り巻く諸状況が、参院選の結果一変したという認識を持つ必要があるということなのですが、もう1つの理由としては、今日の学習会のテーマである自民党日本国憲法改正草案」が、具体的な改憲案を発議するための「たたき台」というか「商品見本」というか、そのような具体的役割をようやく担う時期が到来したということに注意を喚起したかったということがあります。
 国会法第68条の3は「憲法改正原案の発議に当たつては、内容において関連する事項ごとに区分して行うものとする。」と定めていますから、もともと、同草案全体を国民投票にかける(事実上の「全部改正」)ことは法律上出来ないことになっています。
 従って、具体的な「見本」の中から、様々な政治的事情を勘案し、改憲勢力内での調整が可能で、国民投票での過半数も確実に得られる見込みのある条項を絞り込む、ということになるはずなのです。
 その第一弾が、巷間伝えられるところによれば、緊急事態条項であるというのが驚きます。少しでも法学の素養がある者が自民党案を読めば、「これはないだろう!」と思うはずなのですが。
 
(2)ここでは、改憲の「ショーウインドウ」としての自民党日本国憲法改正草案」の性格を浮き彫りにするため、先にご紹介した「美しい日本の憲法をつくる国民の会」による1000万人署名の署名用紙の冒頭に書かれた「改憲目標」と、それに対応する自民党改憲案の条項を(括弧内に)示しておきます(もちろん、この署名用紙自体、自民党改憲案を十二分に意識して作成されています)。
①前文には、美しい伝統・文化を盛り込み、世界平和に貢献する日本の使命を明記しましょう。(前文)
②第1章には、天皇陛下が日本国を代表する元首であることを明記しましょう。(第1条)
③9条は、1項の平和主義は堅持し、2項では自衛隊憲法上の規定を明記しましょう。(第9条、第9
条の2)
④地球的規模の環境破壊が進む中、自然との共存や環境保全の規定を新設しましょう(第25条の2)
⑤国家や社会の基礎となる家族保護の規定を新しく盛り込みましょう。(第24条1項)
⑥国民を大規模災害などから守る緊急事態対処のための規定を新設しましょう(第98条、第99条)
憲法改正への国民参加を促すため、96条の憲法改正要件を緩和しましょう。(第100条)
 

3 自民党日本国憲法改正草案」の問題点(「緊急事態条項」以外)
 ここからが今日の学習会の本題なのですが、「緊急事態条項」を中心に、と予告した手前、他の論点については、全体で1時間の中では、とても詳しくお話している余裕がありませんので、いくつかの重要論点について、関連する条項や資料を紹介するにとどめざるを得ません。
 
(1)立憲主義との決定的対立
①新設義務規定の多さ
第3条2項 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。
第9条の3 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確
保しなければならない。
第12条後文 国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常
に公益及び公の秩序に反してはならない。
第19条の2 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。
第21条2項 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びに
それを目的として結社をすることは、認められない。
第24条1項後文 家族は、互いに助け合わなければならない。
第25条の2 国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全に努めなければならない。
第28条2項前文 公務員については、全体の奉仕者であることに鑑み、法律の定めるところにより、前項
に規定する権利の全部又は一部を制限することができる。
第92条2項 住民は、その属する地方自治体の役務の提供を等しく受ける権利を有し、その負担を公平に
分担する義務を負う。
第99条3項 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条そ
の他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
第102条1項 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
 
憲法は誰が守るべきものか
現行憲法 第10章 最高法規
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であ
つて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の
権利として信託されたものである。
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するそ
の他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
 
自民党改憲案 第11章 最高法規
現行の第97条 → 全文削除
憲法の最高法規性等)
第101条 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関する
その他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
憲法尊重擁護義務)
第102条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。
 
1888年(明治21年)6月22日、枢密院における伊藤博文の発言
「そもそも、憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり。ゆえに、もし憲法において臣民の権利を列記せず、ただ責任のみを記載せば、憲法を設くるの必要なし」 (原文は旧字・カタカナ・句読点なし)
 
1789年 フランス人権宣言(人及び市民の権利の宣言)16条
「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものでない。」 岩波文庫「人権宣言集」の訳による)
 
(2)「個人」が消えた自民党改憲
現行憲法
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
自民党改憲
第13条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
 
自民党 日本国憲法改正草案Q&A(増補版)
Q14「日本国憲法改正草案」では、国民の権利義務について、どのような方針で規定したのですか?
答 国民の権利義務については、現行憲法が制定されてからの時代の変化に的確に対応するため、国民の権利の保障を充実していくということを考えました。そのため、新しい人権に関する規定を幾つか設けま
した。
 また、権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。
例えば、憲法 11 条の「基本的人権は、……現在及び将来の国民に与へられる」という規定は、「基本的人権は侵すことのできない永久の権利である」と改めました。
 
(3)復古主義の衣をまとった「新自由主義」至上憲法
自民党改憲案 前文 第4段落
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 
現行憲法
22条1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
自民党改憲
22条1項 何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
 
樋口陽一小林節共著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)での樋口陽一氏の発言
「「美しい国土」などについて謳う前文をもう一度、見てください。同じ前文のなかに、異様な規定があ
るでしょう。「活力ある経済活動を通じて国を成長させる。」」
「つまり、自民党改正草案が憲法になると、いわゆる新自由主義が国是になってしまうのです。」
「うっかり制限をつけ忘れたわけではないのでしょう(金原注:22条の経済活動の自由から「公共の福
祉」による制限を削除したこと)。用意周到に、前文で新自由主義を国是とする宣言を行い、経済的領域における基本権だけ自由を拡大しているのです。」
「効率重視、競争の拡大を進めて、無限の経済成長を目標に置けば、「国と郷土」「和」「家族」「美しい国土と自然環境」「良き伝統」、この全部は壊れてしまいます。片方で日本独特の価値を追及しつつ、他方国境の垣根を取り払い、ヒト・モノ・カネの自由自在な流通を図るグローバル化を推進するというの
は、矛盾というほかありません。」
「論理的にはひどく矛盾していますね。けれども、実はこの二つは表裏一体なのかもしれません。つまり、「美しい国土」など復古調の美辞麗句は、競争によって破綻していく日本社会への癒しとして必要とされた、偽装の「復古」なのではないかと思うのです。」


(4)平和主義の放棄
現行憲法 前文 第2段落
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうち
に生存する権利を有することを確認する。
自民党改憲案 前文 第2段落
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 
現行憲法 
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力に
よる威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認め
ない。
自民党改憲
(平和主義)
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄
し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
国防軍
第9条の2 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官と
する国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の
統制に服する。
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命
若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した
場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。
 この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
(領土等の保全等)
第9条の3 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。
 

4 緊急事態条項は不要であるばかりか有害で危険
(1)どのような規定を設けようとしているのか

 自民党改憲案は、「第9章 緊急事態」という一章を設けようとしていますが、その条文自体(第98条、第99条)は、冒頭の「はじめに~あるシミュレーション」(2)をご参照ください。
 なお、シミュレーションとの関係でご紹介しておきたいのは、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が推進する「おしゃべり憲法カフェ」等のイベントで配布しているカラーパンフレット等で、とりわけ強調しているのが「緊急事態条項の新設」と「家族保護規定の導入」だということです。
 ちなみに、そのパンフレットを読むと、緊急事態条項がなかったから東日本大震災で多くの人が死亡(震災関連死)したというようなとんでもないデマが平然と語られています。
 
(2)大日本帝国憲法ではどうだったか
第8条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ
法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其
ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
第70条 公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ召集ス
ルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ処分ヲ為スコトヲ得
2 前項ノ場合ニ於テハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出シ其ノ承諾ヲ求ムルヲ要ス
 
第14条 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第31条 本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ
 
 第8条が緊急勅令、第70条が緊急財政処分と言われるものです。緊急勅令の例としては、1928年、治安維持法における「国体の変革」目的で結社を組織した者等を死刑を含む厳罰とする「改正」行ったことなどが有名です。
 
(3)日本国憲法に「緊急事態条項」がないのは何故か
 日本国憲法には、参議院の緊急集会(第54条2項、3項)以外には、戦前の緊急勅令や緊急財政処分などに対応する「緊急事態条項」が設けられていません。その理由について、1946年、憲法改正が審議された第90回帝国議会(制憲議会)において、憲法担当の金森徳治郎国務大臣が明確に答弁しています(詳しくは、私のブログをご参照ください。/金森徳次郎国務大臣答弁と『新憲法の解説』を読む~災害を理由とした緊急事態条項は不要!/2016年5月29日)。
 
「緊急勅令及ビ財政上ノ緊急処分ハ、行政当局者ニ取リマシテハ実ニ調法ナモノデアリマス、併シナガラ調法ト云フ裏面ニ於キマシテハ、国民ノ意思ヲ或ル期間有力ニ無視シ得ル制度デアルト云フコトガ言ヘルノデアリマス、ダカラ便利ヲ尊ブカ或ハ民主政治ノ根本ノ原則ヲ尊重スルカ、斯ウ云フ分レ目ニナルノデアリマス」
「併シナガラ民主政治ヲ徹底サセテ国民ノ権利ヲ十分擁護致シマス為ニハ、左様ナ場合ノ政府一存ニ於テ
行ヒマスル処置ハ、極力之ヲ防止シナケレバナラヌノデアリマス」
「随テ此ノ憲法ハ左様ナ非常ナル特例ヲ以テ――謂ハバ行政権ノ自由判断ノ余地ヲ出来ルダケ少クスルヤウニ考ヘタ訳デアリマス、随テ特殊ノ必要ガ起リマスレバ、臨時議会ヲ召集シテ之ニ応ズル処置ヲスル、又衆議院ガ解散後デアツテ処置ノ出来ナイ時ハ、参議院ノ緊急集会ヲ促シテ暫定ノ処置ヲスル、同時ニ他ノ一面ニ於テ、実際ノ特殊ナ場合ニ応ズル具体的ナ必要ナ規定ハ、平素カラ濫用ノ虞ナキ姿ニ於テ準備スルヤウニ規定ヲ完備シテ置クコトガ適当デアラウト思フ訳デアリマス」
 
 このような、制憲議会における政府の立場は、日本国憲法公布を期して刊行された『新憲法の解説』(1946年11月3日刊/法制局閲 内閣発行)でも、以下のように繰り返されています(現在は、岩波現代文庫『あたらしい憲法のはなし 他二編』(高見勝利編)に収録されています)。
あたらしい憲法のはなし 他二篇――付 英文対訳日本国憲法 (岩波現代文庫)


(引用開始)
 明治憲法においては、緊急勅令、緊急財政処分、また、いわゆる非常大権制度等緊急の場合に処する途が広くひらけていたのである。これ等の制度は行政当局にとっては極めて便利に出来ており、それだけ、濫用され易く、議会及び国民の意思を無視して国政が行われる危険が多分にあった。すなわち、法律案として議会に提出すれば否決されると予想された場合に、緊急勅令として、政府の独断で事を運ぶような事
例も、しばしば見受けられたのである。
 新憲法はあくまでも民主政治の本義に徹し、国会中心主義の建前から、臨時の必要が起れば必ずその都度国会の臨時会を召集し、又は参議院の緊急集会を求めて、立憲的に、万事を措置するの方針をとってい
るのである。
(引用終わり)
 
 すなわち、現行憲法に旧憲法における緊急勅令や緊急財政処分などにあたる緊急事態条項が規定されていないのは、単なる「不備」というようなものではなく、明確な意図に基づき、「排除」されたのだということが明らかなのです。
 
(4)世界中の憲法に「緊急事態条項」があるというけれど
 「美しい日本の憲法をつくる国民の会」は、「どう守る?国民の命と暮らし」というA3両面カラー印刷の豪華パンフレット(緊急事態条項に特化したもの)を作っていますが、「緊急事態条項は世界の常識!」というコーナーを設けています。そもそも、そこでいう各国の「緊急事態条項」の具体的中身の分析などは当然なされていない、というようなことはもちろんあるのですが、ここでは、このような主張に対する1つの応答例をご紹介したいと思います。
 2016年4月30日、日弁連主催のシンポジウムでの石川健治東京大学教授(憲法学)の発言です。
 
「『海外では(憲法に緊急事態条項があるのが)普通である』ということですが、確かに、緊急事態条項を持っている国は多いということがあります。何故そうなのかというと、その国は『戦争する』からなんですね。簡単にいえば、戦争をする準備である。我々は少なくとも『戦争を絶対しない』という憲法を持っているということですから、結局、根本問題はどこかということです。逆にいえば、根本問題を先送りして、緊急事態条項だけを作るということには意味がないということです。」
 
 ここで、制憲議会における金森徳次郎国務大臣の答弁の一部を思い出してみましょう。参議院の緊急集会と並び、「同時ニ他ノ一面ニ於テ、実際ノ特殊ナ場合ニ応ズル具体的ナ必要ナ規定ハ、平素カラ濫用ノ虞ナキ姿ニ於テ準備スルヤウニ規定ヲ完備シテ置クコトガ適当デアラウト思フ訳デアリマス」と答弁していましたが、まさにそれを実現した諸規定が、災害救助法災害対策基本法にたくさんあります。いわば、法的レベルでの「緊急事態条項」です。とりわけ、災害対策基本法の「第五章 災害応急対策」、特に「第四節 応急措置等」を参照してください。
 
(5)改憲派のデマに対抗するために
 「嘘も100回言えば本当になる」とナチス宣伝相のゲッペルスが語ったというのは「嘘」らしいのですが、しかし、デマであっても、何度でも繰り返せば、それを信じ込む人もいるでしょう。
 ということで、「緊急事態条項の新設」を推進するサイドが強調する「デマ」に対する分かりやすくて有効なカウンターを用意しておくことは重要です。
 その際、非常に参考になる文章として、マガジン9に小口幸人弁護士が寄稿した以下の論考をご紹介します。
 
~「憲法おしゃべりカフェ」で流布されている~「緊急事態条項」をめぐる「四つのデマ」を検証 
-検証1-「倒壊家屋に立ち入れない」は本当か
 →災害対策基本法71条
-検証2-「車両を移動させられない」は本当か
 →災害対策基本法64条、76条の6
-検証3-被災地のガソリン不足の原因は、首都圏の買いだめだったのか
 →全くの嘘
-検証4-震災関連死は、憲法を変えれば防げるのか
 →全く非論理的
 
(6)「緊急事態条項」は戦争をするためのもの
 大規模災害に対する備えとしては、事情を把握している現場に権限を下ろして迅速な対応を行うこと、日ごろから災害を想定して十分な準備をしておくことこそが求められており、内閣に「独裁権」を与える必要など全くないばかりか、有害無益です。
 自民党改憲案も、「我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態」としており、大規模災害は、国民投票での賛同を得るための「エサ」としか考えられません。
 実態は、石川健治東大教授が言うとおり、戦争をするための前提として、この「緊急事態条項」が必要なのだということを広く国民に知らせる必要があります。 
 

5 終わりに~「学習」と「運動」を両輪として
(1)憲法を取り巻く様々な危機の具体的内容をしっかりと見定める必要があります。そのためにも「学
習」を怠らないようにしなければなりません。とりわけ、自民党「日本国憲法改正草案」については、集中的に理解を深める必要があります。
 そのためには、これまでの常識を越えた「学習会の波」を起こし続ける必要があります。これまでより
も、呼びかける範囲を少しずつでも広げながら、学習会を継続的に実施する企画力こそが求められています。
(2)私たちの主張を対外的にアピールする活動を強化するためには、様々な形態を模索しながら、粘り強い「運動」を進める必要があります。安保法制の違憲性を司法に問う訴訟もその一環として取組が出来ればと考えて検討中です。
(3)以上の「学習」と「運動」は車の両輪です。「学習」をともなわない「運動」は方向性を見失い、「運動」をともなわない「学習」は空虚なものにならざるを得ません。
(4)学んだ者は、1人1人が改憲阻止のための「伝道師」としての役割を果たす自覚を持ち、まずは家族、親戚、さらに自らの周囲への働きかけを心掛けましょう。憲法に関心の薄かった者を1人でも説得できれば、立派な「護憲の伝道師」です。
(5)「伝道」の方法は、1人1人が最も得意とするところで力を発揮すべきです。対面による話し合い
が効果的だとは思いますが、それが不得手な人は手紙やメールでもよいでしょう。
 食わず嫌いでソーシャルメディアを敬遠するのではなく、TwitterFacebookにも果敢に挑戦してください。ただし、あまりのめり込み過ぎても問題ですが。
(6)現実の情勢は冷静に分析しなければなりませんが、とはいえ、いかに情勢が厳しくとも、絶対に諦
めないように、みんなが仲間を鼓舞するという意識を常に持つことが必要です。「評論家」になって、上から目線で仲間を批判したりするのは最悪です。
(7)ともに頑張りましょう。  

(付記/素晴らしいブログのご紹介)
 このレジュメを書いている途中で偶然見つけたブログです。愛知県名古屋市の由緒ある神社「清洲山王宮 日吉神社」の宮司三輪隆裕さんが書かれているもので、どの投稿も立派な見識に裏打ちされており、読み応えがあります。
清洲山王宮 日吉神社 宮司のブログ
 中でも、以下の記事などは是非一読していただければと思います。
憲法改正運動の危険性 2016年7月2日
神社本庁の取るべき道 2016年7月28日


(付録)
『世界』 作詞・作曲:ヒポポ田 演奏:ヒポポフォークゲリラ
  

司法に安保法制の違憲を訴える意義(4)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述

 今晩(2016年10月5日)配信した「メルマガ金原No.2590」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
司法に安保法制の違憲を訴える意義(4)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述

東京地方裁判所(民事第二部) 
平成28年(行ウ)第169号 安保法制違憲・差止請求事件
原告 志田陽子、石川徳信ほか(計52名)
被告 国
 
 9月29日(木)午後2時から、東京地裁103号法廷で開かれた上記事件の第1回口頭弁論において、原告訴訟代理人3名及び原告3名による意見陳述が行われました。
 昨日は、原告訴訟代理人である伊藤真角田由紀子、福田護各弁護士による意見陳述の内容をご紹介しました(司法に安保法制の違憲を訴える意義(3)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述)。
 
 今日は、3名の原告の皆さんによる意見陳述をご紹介しようと思います。それぞれの陳述内容は、口頭弁論終了後、参議院議員会館で行われた報告集会での資料として配付され、「安保法制違憲訴訟の会」ホームページの「裁判資料」コーナーに掲載されていますが、それらを全文引用するものです。
 
 意見陳述されたのは、
  志葉玲さん(戦場ジャーナリスト
  金田マリ子さん(東京大空襲遺児)
  富山正樹さん(現役自衛官の父)
のお三方です。それぞれ、自らの経験に則し、どうしても安保法制に基づく自衛隊の戦争への加担を許すことができない理由を、情理兼ね備えた言葉で訴えておられます。法廷で直接陳述をうかがうことは出来ませんでしたが、陳述書を読んだだけでも、全ての方の言葉が胸に5迫りました。1人でも多くの方にこの陳述をお読みいただきたく、このブログなども活用して「拡散」にご協力いただければと思います。
 
 また、昨日もご紹介しましたが、報告集会の模様は、UPLAN及びIWJによって中継されました。金田さんは体調の問題から報告集会には出席されませんでしたが、志葉玲さんと富山正樹さんは、報告集会でもしっかりと自らの思いを語っておられます。
 UPLANでは、特に富山正樹さんの発言部分をフューチャーした動画を別立てでアップしています。これらの動画も、是非SNSなどで「シェア」していただければ幸いです。
 
20160929 UPLAN【抜粋】東京地裁103法廷を震わせた富山正樹氏による陳述(14分33秒
 

20160929 UPLAN 安保法制違憲・差し止め請求訴訟の第1回期日(報告集会)(1時間15分)

司会 杉浦ひとみ弁護士
冒頭~ 寺井一弘弁護士 あいさつ
9分~ 原告 山口氏
11分~ 黒岩哲彦弁護士 第1回口頭弁論の裁判の様子
21分~ 伊藤 真弁護士 裁判の法的な展開について
31分~ 福田 護弁護士 訴訟の今後の展開
42分~ 原告 志葉 玲氏
53分~ 原告 富山正樹氏
1時間08分~ 支える会 藤本氏 
 

原告 志 葉   玲
 
1 自衛隊イラク派遣がもたらした日本人ジャーナリストのリスク
 私は、いわゆる戦場ジャーナリストです。2002年から紛争地域で取材を行って来ました。自衛隊イラクに派遣された時ですら、私は取材中、銃を持った若者達に取り囲まれ、「お前は日本から来たのか?日本は米国の犬だ!」「自衛隊イラクに送った日本は我々の敵だ!」と激しくなじられました。イラク人助手が何とかなだめてくれ、拘束や殺されずにすみました。
 しかし、同時期に取材していたジャーナリストの橋田信介さんと小川功太郎さんは、2004年5月末、武装勢力に襲撃され、殺されてしまいました。生き残ったイラク人運転手によれば、武装勢力は橋田さんの顔を確認し、日本人だと認識して攻撃してきた、というのです。
 かつて、中東の人々は皆、親日的でしたが、それは日本が悲惨な戦争を乗り越え、平和憲法のもと経済を発展させたということに、本当に尊敬し憧憬の眼差しで見ていたからです。
 しかし、イラク戦争が始まると、私も、米軍が病院や救急車までもを攻撃し、女性や子どもなどの非戦闘員を殺害してきたのを、何度も見聞きしてきました。そのため、アメリカのイラク戦争を支持し、戦闘行為に参加しないとしても自衛隊を派遣した日本に対する現地での反発は非常に強かったのです。
 
2 安保法制がもたらす日本人ジャーナリストの身の危険
 この度の安保法制によって、日本の自衛隊が戦場で米軍を支援し、行動を共にするということは、米軍が行う非人道的行為の片棒を担ぐ日本人という構図を現地の人々にまざまざと見せつけることとなります。対日感情は悪化し、その憎悪は最前線で取材する日本人ジャーナリストにぶつけられることになります。
 既にそのことをイラク戦争で体験してきた私自身にとっては、安保法制によって、自らの身にふりかかる危険は、未来のことではなく、既に今、直面するものとなっています。もともとリスクの高い紛争地取材がさらにリスクが高くなることは明白で、現地に入ることすら躊躇せざるを得なくなります。
 
3 安保法制がもたらす紛争地取材の危機
 我々ジャーナリストは、日本の人々の、憲法で保障された「知る権利」のために奉仕する存在です。紛争地取材を行う日本人ジャーナリストは減り続けています。この上、安保法制による身の危険のリスク増大が、紛争地の現場に入ることすら躊躇せざるを得なくなり、日本人戦場ジャーナリストを絶滅に追いやるのではないか、そう危惧せざるを得ません。それは、我々、ジャーナリストたちの危機というだけではなく、日本の人々の「知る権利」の危機でもあります。
 さらに、万が一、私が取材中何かあれば、日本ではこれまでもそうであったように「自己責任」の名の下に、私だけではなく、私の家族・親族にまでもバッシングが及ぶことになります。
 この傾向は、安保法制で自衛隊が紛争地に派遣される状況となれば、ますます酷くなることは目に見えています。このことが、今、精神的な障壁として私の前に立ちはだかって、取材活動の足を引っ張るのです。
 安保法制によって対日感情が悪化すれば、私を信頼し協力してくれる現地の人々もリスクにさらされることになります。既に、安倍政権の安保法制や対テロ戦争に関する言動がイスラム過激派を刺激しており、私の取材を支える現地の協力者は一層危険な状況下に置かれ、このことも取材活動における大きな障壁です。
 
4 私たちジャーナリストが情報を伝えられなくなったら真実は見えなくなる
 もともと私がこの仕事を選んだのは、報道というものへの強い思いからでしたが、取材を通して、現実に遭遇すると、戦争で極めて理不尽に、真っ先に殺されるのは最も弱い人々であることを目の当たりにしました。究極の不平等や人権侵害は戦場で起きていることを知りました。
 そして、世界がどう進んでいくべきかについて政治や外交を考えるときに,この戦場での事実を伝えることなくして、平和も人権もないと確信を持ちました。
 私は「人々の苦しみに目をそむけ自分だけ楽な生活を送ることはできない」という人としての思いから、どんなに危険でも戦場ジャーナリストをやめるつもりはありません。多くの戦場ジャーナリストも同じ気持ちだと思うのです。
 ただ、こういったジャーナリストを見殺しにするような国の政策はどうしてもやめてほしいのです。
 それは、私の命が惜しいのではなく、現場の真実を伝える事ができなくなるからです。真実を知らずに平和など語れるはずはないからです。だから、私は無用に政府に殺されたくないのです。そのために、私はこの裁判の原告になりました。
                                        以上
 

原告 金 田 マ リ 子
 
1 私は東京大空襲の戦争孤児です。現在81歳です。父は私が3歳の時に病死し、母と姉と妹と暮らしていました。
 戦争中、宮城県学童疎開していましたが、東京に残った母達と別の場所に縁故疎開するために、3年生だった私は卒業する6年生と一緒に東京に帰ってきました。母たちに会えると、はやる心で上野駅に着くと、そこは一面焼け野原になっていました。昭和20年3月10日、夜半の東京大空襲の直後の朝だったのです。

2 母は迎えには来ていませんでした。迎えに来てくれた叔父に連れられて「母たちはどうしているだろう」とそのことだけを思いながら、西新井の叔父の家まで半日かけて歩きました。黒焦げになった遺体があちらこちらにありました。その光景は今でも私の頭の中に焼き付いて離れません。
 空襲で母と姉と妹は行方が知れず、私は叔父の家に引き取られました。空襲から約3カ月たった6月に、母と姉が隅田川で遺体で発見されたと知らされました。妹は結局見つからず行方不明のままでした。心の中の何かがすっぽり砕け落ちてしまいました。
 
3 孤児となった私は、その後、別の親戚宅に引き取られました。そこには7人の子どもがいて、義理の叔母が「なんで面倒見なきゃいかんのか。」と言っているのを何度も聞きました。いとこ達からは「おまえなんか、はよ、去(い)んでけ!」「お前は野良犬だ」と言われ、気に入らないことがあると往復ビンタをされ、本当につらく惨めな毎日でした。一番悲しかったのは、「親と一緒に死んでいたら良かったのにね。」と言われたことでした。
 悲しくても孤児には甘える人もいません。親戚宅で私は、朝早くから家事をさせられ、走って小学校に行き、学校から帰ると、また様々な家事が待っているという生活でした。家で勉強をする暇などは全くなく、毎日くたくたになるまで働きました。
 ある日、夜遅くに理不尽なことで従兄から何度も殴られ、私は家を飛び出し、真っ暗な川辺で泣きじゃくっていました。「お母さん、なんで死んでしまったの。お母さんのところに行きたい、早く死にたい」と思いました。
 でも、「自殺したらお母さんの所に行けなくなるよ」と言った祖母の言葉が忘れられず、死ぬこともできませんでした。
 
4 高校を卒業し、無一文で親戚宅を出ました。親なし、家なしで仕事先もない中、女中や女給の仕事をしながら、必死に働きました。24歳で結婚し、子どもができたとき、私は、「この子のために生きなくてはいけない」、「この子にだけは親のいない苦しさを味あわせたくない」と思いました。孤児になって、生きることに絶望していた私が、初めて感じた「生きよう」という思いでした。
 
5 子育ても終わり、私は、戦争孤児の方々の聴き取りをするようになり、私より、もっと壮絶な体験をしている人たちを知りました。戦後、上野の地下道は戦争孤児であふれ、大勢の子ども達が餓死し、凍死しました。浮浪児となった孤児たちは、捕えられトラックに山積みにされ収容所に送られたり、人身売買されたり、農家で奴隷として使われたり、自殺をした子もたくさんいたそうです。
 
6 私はこんな夢を何度も見ました。「電車に母と姉と妹が乗っており、私だけをおいて行ってしまう。母は振り向き本当に悲しそうな顔をする。姉と妹は振り向かない。私はその電車を追いかける」こんな夢です。それ以来、母の顔はこの悲しそうな顔しか思い出せないのです。
 これが私の9歳からの人生です。
 
7 日本が戦争をしないと決めたことで、この孤児の苦しみは私たちで終わると思っていました。ところが、憲法9条に違反して、また戦争をする国になる法律が作られてしまいました。戦争は必ず人が亡くなります。孤児も生まれます。私は、子どもや孫たち、若い人たちに、絶対に、私と同じ思いはさせたくないのです。経験をしていない人たちにとって、戦争になったらどんなことが起こるのか、想像ができないのではないでしょうか。私にはあの辛い体験が、すぐそこに蘇ってくるのです。「絶対に戦争はしてはいけない」血を吐くまで叫び続けてでも、今の国の動きを止めなければなりません。
 この新しい安保法が作られ、私は、 自分の身が引き裂かれそうな思いです。
                                        以上
 

原告 富 山 正 樹
 
 私は、鍼灸マッサージ師として働いております。私には4人の子どもがおり、長女は介護職の職を体調不良で辞めて現在フリーター、長男は漁師、次男は自衛官、次女は看護学生です。
 それぞれが利息付きの奨学金や借金を持ち、人生の進路をゆっくりと冷静に選択する余裕もなく日々の暮らしを懸命に生きています。
 次男は陸上自衛隊に所属する自衛官です。息子は就職難で奨学金の返済も抱え求職活動に悩んでいた時、高校時代の友人が自衛官で、その親御さんも自衛官ということで、自衛隊災害派遣や、専守防衛の尊い任務についてご家庭を訪ねて、たびたび話を聴きました。そして自衛隊の存在意義と理念に共感し、自らの意思で自衛官の道を志しました。私は専守防衛とは言え、武器を持つことに反対をしましたが、最後は息子の信じる専守防衛と災害救援派遣に対する思いを尊重し、自衛隊へと送り出しました。息子も私も、その任務は専守防衛という国民の厳粛な信託にこたえるものとして、間違っても海外での戦争に参加するなどということは、9条のもとにある自衛隊に限って起こすまいと信じておりました。
 ところが 2015 年7月15日、衆議院で戦争法を強行採決された瞬間、息子が戦争に送られるかもしれないことが現実のものとなったことに、こころが激しく揺れました。私は「このまま何もしなかったら日本は大変なことになる、自分が何もしないで、息子が戦場に行くことになったら、自分で自分を許せない」との強い思いが、眠ることもできないほどに湧いてきたのです。
 その思いは抑えがたく、妻からは最初反対されましたが、3日後にはたった一人で街頭に立ち、無言のスタンディングアピールを始めました。やがて志を同じくする人たちが一緒に駅前や繁華街などに立って下さるようになり、「愛する人を戦地に送るな!」と書いた大きなポスターを掲げ、ついには、のぼりを立て、トラメガを使って、大きな声で戦争法に反対のアピール活動をしております。最初は隠れるように活動していましたが、だんだん一緒に行動してくれる人も増え、今では当初反対していた妻も共に立つ仲間の一人となりました。
 自衛隊員の息子は、自分のこころに誠実に向き合い、自分の人生に悔いは残さないように生き抜いてほしいと思って育ててきました。自らの思いを通じた生き方で、人様の役に立つような人間になるようにと育てたつもりです。でも、それは、もちろん平和な方法によるものです。戦争は、殺し殺されるものです。私たち家族が愛し、その思いを尊重して育ててきた息子が、専守防衛を超えて、海外で殺し殺される場に立つことを想像すると、胸は潰れ、こころは乱れます。
 アメリカの帰還兵の現状を調べるうちに、一日平均22人の帰還兵が自殺をする現実を知りました。帰還兵の自殺者の異常な数の多さ。戦場の恐怖で夜中に奇声をあげる。恐怖と後悔から酒に溺れ、ドラッグに走る。家族や恋人、医師や心理カウンセラーも手助けできない。極限の家族と、自分をどうすることもできない本人。それは『帰還した兵士とともに、家庭や社会に戦場が持ち帰られる現実です。』
 日本の社会に、今まさに再現されようとしています。この平和な日本社会に、自衛官家族に、それを受け止める覚悟があるのでしょうか。わたしにはありません。
 こころからの怒りと悲しみが湧いてきています。
 いま自衛隊員の戦闘状態にある「南スーダン」への安保法制に基づく新任務を帯びた派遣が始まったらと思うと、私は居てもたってもいられません。
                                        以上
 

(弁護士・金原徹雄のブログから)
2013年8月29日
自衛隊員等の「服務宣誓」と日本国憲法
2014年7月3日
今あらためて考える 自衛隊員の「服務宣誓」

2015年5月31日
もう一度問う 自衛隊員の「服務の宣誓」~宣誓をやり直さねばおかしい

2016年9月3日
東京・安保法制違憲訴訟(国賠請求)が始まりました(2016年9月2日)
※過去の安保法制違憲訴訟関連のブログ記事にリンクしています。
2016年9月6日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(1)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述

2016年9月10日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(2)~東京・国家賠償請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告による意見陳述

2016年10月4日
司法に安保法制の違憲を訴える意義(3)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述

司法に安保法制の違憲を訴える意義(3)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述

 今晩(2016年10月4日)配信した「メルマガ金原No.2589」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
司法に安保法制の違憲を訴える意義(3)~東京・差止請求訴訟(第1回口頭弁論)における原告訴訟代理人による意見陳述

 去る9月2日の国家賠償請求訴訟に続き、先週の9月29日(木)午後2時から、場所も同じ東京地方裁判所で最も広い103号法廷において、安保法制違憲・差止請求事件(原告52名)の第1回口頭弁論が開かれました。
 原告の主張と被告・国による認否・答弁のうち、被告の「答弁書」は、まだ「安保法制違憲訴訟の会」ホームページに掲載されていませんので、ここでは、訴状の「請求の趣旨」及び「請求の原因」の骨子(目次)のみ引用しておきます。

東京地方裁判所(民事第二部) 
平成28年(行ウ)第169号 安保法制違憲・差止請求事件
原告 志田陽子、石川徳信ほか(計52名)
被告 国
 
請求の趣旨
1 内閣総理大臣は,自衛隊法76条1項2号に基づき自衛隊の全部又は一部を出動させてはならない。
2 防衛大臣は,重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律の実施に関し,
(1) 同法6条1項に基づき,自ら又は他に委任して,同法3条1項2号に規定する後方支援活動として,自衛隊に属する物品の提供を実施してはならない。
(2) 同法6条2項に基づき,防衛省の機関又は自衛隊の部隊等(自衛隊法8条に規定する部隊等をいう。以下同じ。)に命じて,同法3条1項2号に規定する後方支援活動として,自衛隊による役務の提供を実施させてはならない。
3 防衛大臣は,国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律の実施に関し,
(1) 同法7条1項に基づき,自ら又は他に委任して,同法3条1項2号に規定する協力支援活動として,自衛隊に属する物品の提供を実施してはならない。
(2) 同法7条2項に基づき,自衛隊の部隊等に命じて,同法3条1項2号に規定する協力支援活動として,自衛隊による役務の提供を実施させてはならない。
4 被告は,原告らそれぞれに対し,各金10万円及びこれに対する平成27年9月19日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
5 訴訟費用は,被告の負担とする。
との判決並びに第4項につき仮執行の宣言を求める
 
請求の原因(目次)
第1 本件訴訟の概要と意義
 1 新安保法制法の制定とその憲法違反,立憲主義違反
 2 原告らの権利の侵害と本件訴訟の意義
第2 集団的自衛権の行使,後方支援活動の実施及び協力支援活動の実施の違憲
 1 新安保法制法の制定
 2 集団的自衛権の行使が違憲であること
 3 後方支援活動等の実施が違憲であること
第3 集団的自衛権の行使等による原告らの権利の侵害
 1 集団的自衛権の行使等によってもたらされる状況
 2 各事態においてとられる措置と国民の権利制限・義務等
 3 平和的生存権,人格権及び憲法改正・決定権
 4 集団的自衛権の行使等による平和的生存権等の侵害
第4 差止めの訴えによる差止請求
 1 本件処分
 2 集団的自衛権の行使等の処分性
 3 原告適格について
 4 重大な損害を生ずるおそれについて
 5 補充性について
 6 処分が行われる蓋然性について
 7 違法性
第5 原告らの損害と国家賠償責任
 1 加害行為
 2 原告らの損害
 3 公務員の故意・過失
 4 加害行為と損害との因果関係
 5 結論
第6 おわりに
別紙 原告らの権利侵害の具体的内容
第1 戦争体験者
 1 空襲被害者
 2 広島・長崎の原爆被爆者
 3 その他の戦争体験者
第2 基地周辺住民
 1 厚木基地周辺住民
 2 横須賀基地周辺住民
第3 公共機関の労働者
 1 航空労働者
 2 船員
 3 鉄道労働者
 4 医療従事者
第4 その他の特徴的な被害者
 1 学者・教育者
 2 宗教者
 3 ジャーナリスト
 4 母親等
 5 障がい者
 6 在日外国人
 7 自衛隊関係者
 8 原発関係者
 
 29日の第1回口頭弁論では、原告訴訟代理人の弁護士が3名、そして、原告本人が3名、意見陳述に立ちました。
 今日は、その前半として、3人の弁護士による意見陳述をご紹介します。これらの陳述内容は、口頭弁論終了後、参議院議員会館で行われた報告集会で資料として配付され、その後、「安保法制違憲訴訟の会」のホームページの「裁判資料」のコーナーに掲載されています。
 
 また、報告集会の模様は、IWJ及びUPLANによって中継されました。
 
 
20160929 UPLAN 安保法制違憲・差し止め請求訴訟の第1回期日(報告集会)(1時間15分)

司会 杉浦ひとみ弁護士
冒頭~ 寺井一弘弁護士 あいさつ
9分~ 原告 山口氏
11分~ 黒岩哲彦弁護士 第1回口頭弁論の裁判の様子
21分~ 伊藤 真弁護士 裁判の法的な展開について
31分~ 福田 護弁護士 訴訟の今後の展開
42分~ 原告 志葉 玲氏
53分~ 原告 富山正樹氏
1時間08分~ 支える会 藤本氏 
 
 冒頭、寺井一弘弁護士(「安保法制違憲訴訟の会」共同代表)が「あいさつ」の中で、東京地裁103号法廷に用意された記者席(普通、背もたれに白いカバーがかけられているものですよね)に座って取材していたのが1社だけだった(別の情報では共同通信だったとか)という、ある意味「衝撃」の事実を取り上げ、「忘却」に抗うことの難しさと重要性を強調しておられたのが印象的でした。
 私たちも、我が身自身や周辺を見渡して、「忘却」へと向かう流れを自覚することはないでしょうか。
 そのような意識を持ちながら、原告訴訟代理人3人の意見陳述に耳を傾けていただければと思います。
 

原告ら訴訟代理人 弁護士 伊 藤   真

―差止めの意義、法律家の職責等について―
 昨年9月19日に国民、市民、そして圧倒的多数の憲法学者など法律専門家が反対する中で、新安保法制案の採決が強行されて1年余りが経過しました。いよいよ南スーダンPKO派遣のための自衛隊訓練など新安保法制の適用、運用が始まり、また先日も、日米物品役務相互提供協定の改定がなされたとの報道がありました。立憲民主主義国家においては絶対にあってはならない前代未聞の違憲の事態が次々と引き起こされ、許されない既成事実が積み重ねられようとしています。
 こうした政府、国会の行為によって、原告らはすでに重大な苦痛と損害を被っており、今後、その被害がさらに拡大しようとしています。こうした原告らの声を法律家としてどう受け止め司法的救済を図るか検討を重ねた結果、ことが起こってしまった後では遅い、これ以上の事態の悪化をくい止めるには、違憲の国家行為を差し止めるしか方法がないと考えるに至り、提訴しました。
 
1 差止めの意義
 原告らは多大な精神的苦痛を受け、すでに損害賠償に値するほどの損害を被っています。今後、新安保法制の下で、請求の趣旨に掲げたような自衛隊の防衛出動、物品・役務の提供すなわち本件処分により、原告らはさらに重大な損害を被ることになります。その場合の損害は、ある者は生命等の人格権を害され、ある者は平和の中で生存する権利を侵害され、ある者は国の形を変えてしまうような重大な憲法体制の事実上の変更により、憲法制定権者たる国民にのみ与えられている憲法改正・決定権が侵害されます。本件処分によるこうした損害の回復は限りなく困難であり、損害の性質及び程度も極めて重大です。こうした重大かつ深刻な被害を避けるためには、本件処分を事前に差し止めるしか方法はありません。
 新安保法制法の立法を急いだ理由は、我が国を取り巻く安全保障環境の変化にあるとされました。すなわち、一刻も早くこの法律を成立させ新安保法制を発動させなければならない緊迫した安全保障環境にあるという政府の主張が仮に正しいのであれば、政府の総合的判断により、集団的自衛権の行使や後方支援活動等の実施が容易かつ安易に行われてしまう危険性・蓋然性は極めて高いものと言わざるを得ません。
 
2 法律家の職責
 原告らは皆、この新安保法制によって誰もがひどく苦しんでいます。この苦しみは決して単なる不快感、不安感として切り捨てられるものではありません。その苦しみを具体的な損害として言葉にし、形にして、裁判所に理解してもらうことが私たち弁護士の職責であることは、十分に理解しております。そのために代理人もすべての者が最大の努力をします。ですが、ぜひ、裁判所におかれましても、想像力、共感力を発揮していただいて、原告の、ときに言葉にならない強い思いをくみ取っていただきたいと思っています。
 違憲の新安保法制による既成事実が積み重ねられ、違憲の状態が司法によっても放置されてしまうようなことがあると、憲法で政治権力を拘束するという立憲主義など絵空事であり、憲法は為政者によって都合のいいように解釈される単なる紙切れにすぎないことになってしまいます。そうした事態はなんとしても避けなければなりません。しかし、現在の日本でこれを政治部門によって是正していくことは極めて困難と言わざるを得ません。
 特定の政策についての国民投票が認められていない憲法の下では、ある政策について、選挙を通じて民主的コントロールを及ぼすことは極めて困難です。ましてや最高裁が5回も違憲状態と判断した選挙で選ばれた国会議員によって構成される国会には民主的正統性が全くありません。手続的にも、実体的にも違憲の法律によって国家権力が行使されるという前代未聞の事態がこの瞬間にも起こっています。これ以上の事態の悪化を防ぎ、憲法秩序を回復するためには、なんとしても司法部門がその役割を果たさなければなりません。法律家の職責は極めて大きいと考えます。
 今回の提訴にあたり、私は一部の市民から「日本の司法は政治部門の判断を追認するばかりで独自の存在意義などない、そんな司法に期待をしても無駄だ」と厳しい批判を受けました。しかし、私は、「いや、裁判官も被告側の訟務担当検事も法律家であり、憲法を学び実現するために法律家になったのだから、日本を真の立憲民主主義国家にしたいという思いにおいて違いはないはずだ。だから、政治に失望しても司法には失望しないでほしい」と言い続けてきました。
 また、法曹養成に35年以上、携わってきましたが、法曹三者は立場を越えて、憲法価値を実現する仕事であり、政治部門とは異なる独自の存在意義があるのだから極めて魅力的な尊い仕事だと学生達にも訴え続けてきました。
 
3 国民 ・ 市民の司法への信頼と期待
 今回、新安保法制違憲訴訟は、現在までに全国10カ所の地裁で提訴され、3300人以上の原告が声をあげ、今後もさらに全国各地での提訴が予定されています。これは国民・市民が司法を信頼し期待を寄せていることの証です。
 私は、裁判所にはこうした国民・市民の信頼と期待に応える責務があると考えています。そして、この訴訟を通じてこの国の憲法秩序を回復する重大な職責があると考えます。
 この裁判では、多岐にわたる論点を争うことになりますが、憲法秩序を破壊する政治部門に対して司法がどうあるべきか、その姿勢と司法の存在意義が問われていることは間違いありません。
 この裁判を多くの国民・市民が注視している中、国民・市民の司法への期待と信頼を裏切ってはならないこと、そしてこの国の立憲主義を護り、司法の威信を示す責任が、日本の法曹全体にあることを、この裁判の冒頭に申し添えて、私の意見陳述を終えたいと思います。
                                        以上
 

原告ら訴訟代理人 弁護士 角 田 由 紀 子
 
―被害の実態について―
 原告ら市民 ・ 国民は安保法制法の制定によって甚大な被害を受けており、 今後さらに受け続ける蓋然性が高いことについて
 本件の原告らには様々な人が含まれおり、年代も経験もさまざまです。第2次世界大戦での被害を経験した人々も含まれています。それらの人々にとっては、安保法制が現にもたらしている苦痛は言葉にできないものがあります。それらの人々が実際に経験した地獄を、71年後に再び目の当たりにさせられるものだからです。
 原告ら戦争被害体験者の語る恐怖や苦痛は、戦争によって実際に生命の危機に直面させられた者としてのそれです。今回の安保法制法の制定によって、これらの原告が感じる苦痛は、自分たちの過去の筆舌に尽くしがたい悲惨な体験に基づいたものです。空襲被害や原爆被害による心身の苦痛は、今も癒えることがありません。
 そのような原告たちにとっては、トラウマ体験を再来させる行為が今回の法制定です。集団的自衛権の行使等によって、原告らは再びかつて経験した事態に見舞われることを覚悟しなければならないのです。子ども時代に戦争被害を体験したある原告は、「この法制は、もう一度私たちを殺すものです」と述べています。 
 次に注目しなければならないのは、現に戦争と隣合わせで暮らすことを余儀なくされている原告たちです。日本各地でアメリカ軍や自衛隊の基地周辺で暮らしている人々です。安保法制法制定以前からこれらの基地周辺に住んでいる人たちは、常に危険と恐怖と隣り合わせで生活することをいわば強制されてきております。しかし、安保法制制定によってその恐怖と危険はさらに強いものとなりました。例えば、原子力空母が配備されている横須賀基地では、戦争と原発被害との2重苦が現実化することを考えざるを得ないのです。日本がアメリカとともに他国間で戦争になった場合、横須賀は真っ先に攻撃対象となることは、火を見るよりも明らかです。安保法制法は、その危険性をより確かなものにしました。
 航空機関で働く労働者、船舶で働く労働者、鉄道で働く労働者らは、いったん事があれば、自分の意思に反しても、戦争行為に協力することが求められる立場にあります。これらの労働者は、すでに危険と背中合わせの現場にいます。安保法制法により、その危険がさらに増すことを実感しております。
 教育に携わる市民・国民は、安保法制法の制定により、自分の信念に反することを教えることを求められています。例えば、憲法について教える者は、今までの自分が正しいと信じてきたことと政府の立場との大きな違いに戸惑い、学生にどう教えればよいのか悩んでいます。教育者が自分の良心に反することを教えることはできません。しかし、安保法制法はそれを求めるのです。教育者がこのように自分の良心を封印することを求められることは、この上ない精神的苦痛です。それがすでに起きており、集団的自衛権の行使等はそれをさらに強めるのです。
 その他の市民・国民もそれぞれに苦痛を味わっております。ごく普通の市民・国民にとっては、生命の危険が現実のものとなっても、この国で生きるしか選択肢はありません。ある原告は「優しい心の持ち主である息子が、銃を担いでいる姿を想像しただけで涙が出る」と述べております。平和主義を捨てたとみなされる国に属していることが、外国でのテロの対象になることは、本年7月のバングラデシュでのテロ事件が証明しました。
 多くの市民・国民には、憲法とともに生き、憲法に育てられてきたという確かな実感があります。憲法は、多くの市民・国民の文字通り人間としての骨格を形作ってきたのです。それを、昨年、多くの市民・国民が目にした理不尽な方法で奪われ、集団的自衛権の行使や後方支援活動等の実施によって、戦争に連なる恐怖や不安にさらされ続けることで、原告たちは深く傷つけられております。原告らは、司法こそが、この人権の危機において本来の任務を果たすことを切望しております。
                                        以上
 

原告ら訴訟代理人 弁護士 福 田   護
 
―新安保法制法の違憲性について―
1 新安保法制法が動き出した
 政府は、去る8月24日、11月中旬以降に南スーダンPKOに派遣予定の陸上自衛隊の部隊について、新安保法制法で導入された「駆け付け警護」などの新任務を付与する場合に備えた訓練を開始すると発表し、現在実働訓練が行われています。駆け付け警護とは、他国の部隊が武装集団に襲われたときなどに、武器を使用して助けに行く任務であり、そこで戦闘行為が行われることになる危険性は否定できません。
 また、後方支援の訓練も視野に入れた日米共同訓練なども、今後実施していくとされています。
 いよいよ、新安保法制法の適用、運用が始まりました。
 小泉・安倍・福田・麻生政権の下で、安全保障・危機管理担当の内閣官房副長官補を務めた柳澤協二氏は、国際平和支援法や改正PKO法によって自衛隊の任務が拡大し、戦場近くで活動することになれば、「戦争で一人も殺していないし、殺されてもいない」という戦後70年間に確立した日本の平和ブランドを、簡単に葬り去ることになるのは確実だと、警鐘を鳴らしておられます(『新安保法制は日本をどこに導くか』2015年6月・かもがわ出版)。
 
2 憲法9条は、政府が戦争を起こさない防波堤
 憲法9条は、戦後70年間、この国が「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうに」するための、大きな防波堤でした。
 憲法9条は、戦争の放棄からさらに進んで、戦力を持たない、交戦権を否認するという、戦争の違法化を徹底した規定です。この規定の理解に様々な立場はありますが、少なくとも9条は、日本が直接攻撃を受けた場合の自衛のために自衛隊を保有するにしても、他国の戦争に参加して戦争当事国になることはできないという一線で、政府に歯止めをかけてきたのです。それが、自衛権発動の3要件であり、集団的自衛権の行使の禁止という政府の憲法解釈として、現実的な枠組を作ってきました。山口繁元最高裁長官は、この政府解釈を、「単なる解釈ではなく、規範として骨肉化したもの」と表現されました。
 自衛隊の海外派遣の禁止の原則も、これまで、自衛隊イラク派遣のように危険なきわどい状況もありましたが、それでもその活動を「非戦闘地域」に限定し、他国軍隊への武器・弾薬等の提供を禁止し、他国の武力行使と一体化して日本が戦争当事国とならないための枠組を、制度的な担保として設定してきました。
 こうして憲法9条は、自衛隊創設以来60年にわたって積み上げられてきたこれらの政府解釈を通じて、政府と自衛隊の行動を制約し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないための大きな防波堤になってきたのです。
 
3 新安保法制法は、 憲法9条の堤防に大きな穴を開けた
 新安保法制法は、こうして積み上げてきた政府の憲法解釈の安全弁、制度的保障を、ことごとく突き崩そうとするものです。集団的自衛権の行使の容認はもちろん、後方支援活動や協力支援活動も、「現に戦闘行為が行われている場所」以外なら、戦争中の他国に弾薬の提供までもできるようにするなど、自衛隊が他国の武力の行使と一体となってしまい、敵国の攻撃にさらされかねない極めて危険なものに変貌しました。
 新安保法制法は、自衛隊が世界中で、アメリカなど他国の戦争に参加し、あるいは戦争を支援できる体制を作り、日本が戦争当事国となったりテロ攻撃にさらされたりする機会と危険を大きく拡大したのです。 
 それを超えたら違憲だという一線を、新安保法制法は明らかに踏み超えました。憲法9条の堤防は、大きな穴を開けられてしまいました。
 国際情勢の水位が上がれば、堤防は決壊を免れません。私たちが現在直面しているPKOの駆け付け警護は、戦後70年を超えて初めて、この国を、武力紛争の犠牲者が生ずるという現実に、直面させるかもしれないのです。
 
4 新安保法制法の制定過程での立憲主義 ・ 民主主義の蹂躙
 新安保法制法の制定過程は、憲法9条の内容を変えただけではありません。安倍内閣は、閣議決定と法律の制定という方法で解釈改憲をするいわば下克上により、憲法の根本理念である立憲主義を蹂躙しました。国会審議では、国民の理解を得られていないことを自認しながら、採決を強行しました。速記も残らない大混乱の中での参議院特別委員会の採決に象徴されるように、言論の府における代表制民主主義も蹂躙されました。
 内閣が暴走し、国会もこれに追随し、立憲主義と民主主義が危機に瀕する状況のもとで、新安保法制法が施行されました。その適用による国民・市民の権利の侵害に対し、司法による積極的な憲法解釈が、この国のためにどうしても必要であると考えます。
                                        以上
 

IWJが日本語字幕を付けたジョージ・クルーニーの動画「戦争で儲けさせてはならない!」(War Crimes Shouldn't Pay)のご紹介

 今晩(2016年10月3日)配信した「メルマガ金原No.2588」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
IWJが日本語字幕を付けたジョージ・クルーニーの動画「戦争で儲けさせてはならない!」(War Crimes Shouldn't Pay)のご紹介

 昨日(10月2日)の記事(「松本市災害時医療救護活動マニュアル 原子力災害編」の安定ヨウ素剤についての記述を読んで欲しい)が思わぬ“大作”(?)になってしまった余波、だけでもないのですが、今日はまとまった記事を書いている時間がありませんので、5分弱の短い動画をご紹介するにとどめます。
 その動画を見る前に、以下のニュース記事をお読みください。
 
BBC NEWS JAPAN 2016年09月13日
クルーニー氏、南スーダン内戦に加担する銀行を非難

(引用開始)
 米俳優ジョージ・クルーニー氏は12日、ワシントンで記者会見し、南スーダン内戦の双方の当事者とその家族が、武器商人や国際金融機関を通じて巨額の利益を得ていると告発する報告書を公表した。
 クルーニー氏たちが設立した調査組織「The Sentry(見張り)」による2年間の内部調査にもとづく報告書によると、内戦で対立するキール大統領とマシャール副大統領、双方の側近将軍たちが、戦争犯罪によって金銭的な利益を得ているという。
 クルーニー氏は記者会見で、自分たちが戦争犯罪の資金源になっていると知った上で南スーダンと取り引きを続ける国際金融機関は、今後「名指しして、辱めていく」と警告した。
(引用終わり)
 
 上記BBCニュース日本語版には、記者会見でのジョージ・クルーニー氏の発言(日本語字幕付き)を紹介する2分45秒の動画も付いていますので、是非リンク先で視聴してください。
 
 ところで、今日ご紹介しようという動画は、それではありません。
 まず、IWJに掲載された以下の記事を(抜粋して)ご紹介しますので、お読みください。
 
<★お知らせ★>ハリウッド俳優、ジョージ・クルーニー氏が暴く南スーダン権力者の腐敗――動画『戦争で儲けさせてはならない!』にIWJが日本語字幕を挿入! 2016.10.1
(抜粋引用開始)
 ジョージ・クルーニー氏という人物をよりよく理解するためには、「世界で最もセクシーな男」というやや軟派なイメージに、「骨太のジャーナリスト志望」という軸を新たに加えることが必要なのかもしれません。
 そんな彼が「セントリー(The Sentry)」という調査団体を設立して、南スーダンの内紛について調査を実施しました。そして、2016年9月13日にワシントンD.C.にて記者会見を開き、交戦を続ける同国の大統領と副大統領らの不正な資金運用について告発したのです。
 南スーダンと言えば、安倍政権が自衛隊の任務を拡大し、自衛隊による「駆けつけ警護」を行うべく、派遣の準備をしている国です。
 他方、日本で暮らす人々の多くは、南スーダンでの紛争がどのようなものであるのかは、残念ながら知らないままではないでしょうか。日本のマスメディアによる報道が圧倒的に不足していることに加え、海外メディアが報じるニュースにはどうしても「英語」と言う壁があることが理由のひとつだと言えるでしょう。しかしながら、自衛隊が派遣されようとしている今、「知らないまま」放置しておくことはできなくなってきました。
 「セントリー」がその調査概要を4分ほどにまとめた動画『戦争で儲けさせてはならない』(原題:War Crimes Shouldn’t Pay)。ナレーションはもちろんジョージ・クルーニー。IWJは、「セントリー」に直接コンタクトし、この動画に日本語字幕を挿入する許可を得ました。
 IWJは、クルーニー氏の「セントリー」に関する記者会見後、コンタクトを開始。会見の中で使用されていた動画『戦争で儲けさせてはならない』を、日本で暮らす人々に、英語の壁を感じずに視聴して欲しい、つまり動画に日本語字幕を挿入したいとの思いから、9月25日(日)に「セントリー」の広報(在ワシントンDC)にメールでコンタクト。字幕挿入の許可を求めると、日曜日にも関わらず、先方からすぐに回答が到着しました。
 “Yes, please go ahead.” (はい、ぜひどうぞ)
 遠い、遠い、南スーダンで起こっていることが、やがて私たちにも関係の深い出来事になる可能性もあります。そんな国の実情を、ジョージ・クルーニーが解説しています。ぜひ一度ご覧いただき、南スーダンのことを知るきっかけとしていただければ幸いです。
(引用終わり)
 
 その動画は、以下の記事の中に収録されています。
 
 
 YouTubeにアップされた動画を抜き出してご紹介します。ただし、「残酷な映像が含まれています。閲覧にご注意ください。」
 
【閲覧注意】ジョージ・クルーニー「戦争で儲けさせてはならない!」(War Crimes Shouldn't Pay)(4分32秒)

 
 記者会見でクルーニー氏が述べたような方法で、南スーダン内戦で対立する当事者と取引を続ける国際金融機関に手を引かせることが出来るのか、出来たとして、それが内戦の終結にどれだけの効果があるのか、という疑問を持たれる方もいるでしょうが、身の危険も顧みず、自腹を切り(でしょうね)、実態調査、そして提言にまでこぎ着けたジョージ・クルーニー氏の行動には、深い感銘を受けざるを得ません。

「松本市災害時医療救護活動マニュアル 原子力災害編」の安定ヨウ素剤についての記述を読んで欲しい

 今晩(2016年10月2日)配信した「メルマガ金原No.2587」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
松本市災害時医療救護活動マニュアル 原子力災害編」の安定ヨウ素剤についての記述を読んで欲しい

 今日お届けするのは、昨日ご紹介した「自由なラジオ LIGHT UP!」第26回に登場された菅谷昭(すげのや・あきら)さんが市長を務める長野県松本市が制定した「松本市災害時医療救護活動マニュアル 原子力災害編」の中の、特に「安定ヨウ素剤」について定めた部分です。
 内陸県である長野県には原子力発電所はありませんし、隣接する静岡県の浜岡原発新潟県柏崎刈羽原発からも30㎞以上は離れています。けれども、日本での地位をなげうち、ベラルーシでの小児甲状腺癌の外科治療を中心とした医療支援活動に献身的に従事された菅谷さんが市長を務めるだけあり、松本市の上記マニュアルは、原子力災害に備えて実に周到な定めをしており(特に安定ヨウ素剤の予防服用について)、是非多くの人に読んでいただきたいと思いました。
 
 実は、この「災害時医療救護活動マニュアル 原子力災害編」の存在に気がついたのは、「自由なラジオ LIGHT UP!」ホームページの中の第26回アーカイブの画像において、パーソナリティのいまにしのりゆきさん、一緒にゲスト出演した小出裕章さんと並んで写真に写っている菅谷市長が、誇らしげに手に持っておられる冊子の存在が目にとまったからでした。
 文字は小さくてよく読めませんが、黄色い表紙に赤い原子力マークがあざやかでした。そして、文字起こしされたテキストを読んでいくと、松本市では、3.11の翌年(平成24年)から、地元の医師会、歯科医師会、薬剤師会などと一緒になってしっかり検討し、「災害時医療救護活動マニュアル 原子力災害編」を作成したこと、安定ヨウ素剤については、住民の分だけではなく、観光客などのための分も備蓄して万一に備えているということが分かりました。
 そこで、松本市ホームページを調べてみたという次第です。
 
 なお、これまでもメルマガ(ブログ)でご紹介してきたところですが、都道府県及び市町村は、原子力災害対策特別措置法(平成11年法律第156号)第28条第1項の規定により読み替えて適用する災害対策基本法(昭和36年法律第223号)第40条及び第42条の規定により、防災基本計画及び原子力災害対策指針(平成24年10月31日原子力規制委員会)に基づく地域防災計画を作成することが求められています。
 当然、松本市でも「地域防災計画 原子力災害対策編」を定めています。
 その中で、「安定ヨウ素剤」についてどのように定められているかを見ておきましょう。
 
松本市地域防災計画 原子力災害対策編
(抜粋引用開始)
第3章 災害応急対策
第4節 防護措置等
第3 医療体制及び安定ヨウ素剤の予防服用(健康福祉部、危機管理部)
 原子力災害時における医療体制及び安定ヨウ素剤の予防服用に関する実施手順等は、「松
本市災害時医療救護活動マニュアル原子力災害編」に規定する。
(引用終わり)
 
 このように、原子力災害に備えた防災計画の中で、「医療体制及び安定ヨウ素剤の予防服用に関する実施手順等」は別に詳細・具体的なマニュアルを作っているのです。
 その「松本市災害時医療救護活動マニュアル 原子力災害編」の中から、「安定ヨウ素剤の予防服用」に関わる部分を(これだけでも何ページにもなりますが)、煩をいとわず引用したいと思います。

 ただ、この松本市のマニュアルをお読みいただく前に、現在の「原子力災害対策指針」(原子力規制委員会)が、「安定ヨウ素剤の予防服用」についてどのように定めているかを見ておきましょう。これにより、松本市のマニュアルの特色がより良く理解できると思いますので。
 以下、「原子力災害対策指針」(茶色)と「松本市災害時医療救護活動マニュアル 原子力災害編」(紺色)のうち、「安定ヨウ素剤の予防服用」に関わる部分を、いずれも相当長文ですが、全部引用します。
 
 この両者を読み比べた上での私の感想を、早手回しではありますが、ここで書いておきます。
 松本市の「松本市災害時医療救護活動マニュアル 原子力災害編」の「安定ヨウ素剤」に関わる部分の重要ポイントは以下の3点だと思います。
 第1に、各戸配布、学校備蓄、緊急配布用備蓄などを通して、十分な量の安定ヨウ素剤を事前に備蓄しておくことがきめ細かく定められており、万一の場合に速やかな対応がとれるようになっています。
 松本市は、原子力災害対策重点区域ではありませんが、このような備蓄を行うことにより、緊急時に安定ヨウ素剤を入手するために駆け回るなどの必要がなくなり、以下に述べるような独自の「判定」や「勧告」を行うための物質的基盤が平常時から準備されているということになります。
 第2に、住民に安定ヨウ素剤の服用を「勧告」するかどうかは、松本市に設置される「本部医務班」(マニュアルに「本部医務班は、松本市医師会、松本市歯科医師会、松本薬剤師会、医療機関、関係行政機関及び松本市で構成し、松本市医師会長が班長及び災害医療コーディネーターを担って、原子力災害医療活動の総合調整を行います。」とあります)が「判定」を行った上で市長に「提言」し、これを踏まえて市長が服用の「勧告」を行うことになっています。つまり、国や長野県の指示を待つのではなく、松本市が自分たちで決めることにしているのです。福島第一原発事故に際し、多くの自治体が国や福島県からの指示を待ちながら時機を逸し、あたら住民を被ばくさせてしまった(自治体が独自の判断で住民に安定ヨウ素剤の組織的な服用を勧めたのは三春町だけだった)という「教訓」を誠実に受け止め、今後に活かそうとすれば、こういうやり方しかないだろうと私は思います。
第3に、安定ヨウ素剤の「備蓄量」を定めるにあたり、「市民」のためだけではなく、「市内滞留者(学生、就業者、観光客、避難者等)のうち40歳未満の者及び妊産婦約2万人分」も備蓄することになっているということです。これを読んで、福島県から関西に避難してきた女性の手記を思い出していただけた方は、相当以前から私のブログを熱心に読んでくださっている方でしょう。その女性は、3.11の地震によって自宅が損壊し、無事だった実家に子どもとともに避難していたところ、実家のある町で40歳以上の「住民」に安定ヨウ素剤が配布されることになったものの、他の町に住民登録していたため、子どものための安定ヨウ素剤をどうしても入手してやることができなかった母親の痛切な悲しみを手記で述べられていました。このような悲劇を二度と繰り返さないようにするためには、松本市のような対策がどうしても必要だと思います。もちろん、原発を動かさないことが最大の安全対策であることは言うまでもありませんが。
 
 なお、国の「原子力災害対策指針」においても、UPZ(概ね半径30㎞圏)内の地方自治体に対し、安定ヨウ素剤を備蓄すべきことは指示されていますが、松本市のような原子力災害対策重点区域ではない圏外の自治体については、特段の指示はないようです。
 また、松本市のマニュアルにいう「市内滞留者」については、国の指針でも「・地方公共団体は紛失等により安定ヨウ素剤を即時に服用できない住民や一時滞在者等に対して追加配布できるよう予備の安定ヨウ素剤を備蓄する。」という規定はあるものの、直接には、PAZ(概ね半径5㎞圏)内の自治体を対象とした規定ですから、松本市のように、圏外にもかかわらず、観光客や避難者も想定した上で、日ごろから十分な備蓄しておく地方自治体はめったにないかもしれません。
 それよりも、「原子力災害対策指針」で問題だと思うのは、「放射性ヨウ素による内部被ばくを防ぐため、原則として、原子力規制委員会が服用の必要性を判断し、原子力災害対策本部又は地方公共団体の指示に基づいて、安定ヨウ素剤を服用させる必要がある。」という部分です。これでは東京電力福島第一原発事故の教訓を全く活かせないないのではないかという懸念をぬぐうことができません。
 ここで、今年8月に3号機が再稼働した四国電力伊方原子力発電所の立地自治体である愛媛県伊方町の「地域防災計画 原子力災害対策編」を見てみましょう。
 
伊方町 地域防災計画(原子力災害編)
伊方町避難行動計画

(抜粋引用開始)
7-1 安定ヨウ素剤の配備、服用等
(1)PAZ(金原注:概ね半径5㎞圏)内においては、全面緊急事態に至った時点で、直ちに、避難と安定ヨウ素剤の服用について指示を出すため、原則として、原子力規制委員会の指示に従い安定ヨウ素剤を服用するものとする。
 ただし、安定ヨウ素剤を服用できない者、放射性ヨウ素による甲状腺被ばくの健康影響が大人よりも大きい乳幼児、乳幼児の保護者等については、安定ヨウ素剤を服用する必要性のない段階である施設敷地緊急事態において、優先的に避難するものとする。
 このような迅速な服用を可能とするために、住民に対して事前に安定ヨウ素剤を配布する。この事前配布にあたっては、原則として医師による説明会などを開催する。
(2)UPZ(金原注:概ね半径30㎞圏)内においては、全面緊急事態に至った場合、町においては全面緊急事態において町内全域避難としたことから、安定ヨウ素剤は、一時集結所で受取り、避難等の際、指示に従い服用する。
(下線は金原による)
(引用終わり)
 
 基本的に「指針」のとおりであり、「原子力規制委員会の指示に従い」「服用する」です。大丈夫なんでしょうか?
 
 以下、「原子力災害対策指針(原子力規制委員会)」と「松本市災害時医療救護活動マニュアル 原子力災害編」の「安定ヨウ素剤」に関する記述を引用します。かなり長いものであり、技術的な部分もありますが、「我がこと」として、読み込んでいただければと思います。
 
原子力災害対策指針(原子力規制委員会)
(抜粋引用開始)
第2 原子力災害事前対策
(7)原子力災害時における医療体制の整備・
安定ヨウ素剤予防服用の体制
(ⅰ)安定ヨウ素剤の予防服用について
 放射性ヨウ素は、身体に取り込まれると、甲状腺に集積し、数年~十数年後に甲状腺がん等を発生させる可能性がある。このような内部被ばくは、安定ヨウ素剤をあらかじめ服用することで低減することが可能である。このため、放射性ヨウ素による内部被ばくのおそれがある場合には、安定ヨウ素剤を服用できるよう、その準備をしておくことが必要である。
 ただし、安定ヨウ素剤の服用は、その効果が服用の時期に大きく左右されること、また、副作用の可能性もあることから、医療関係者の指示を尊重して合理的かつ効果的な防護措置として実施すべきである。また、体制整備に際しては、関連法制度及び技術面等の最新の状況を反映するよう努めるとともに、以下のような点に留意する必要がある。
・服用の目的や効果とともに副作用や禁忌者等に関する注意点等については事前に周知する。
地方公共団体は、原子力災害時の副作用の発生に備えて事前に周辺医療機関に受入の協力を依頼等するとともに、緊急時には服用した者の体調等を医師等が観察して必要な場合に緊急搬送が行うことができる等の医療体制の整備に努める。また、平時から訓練等により配布・服用方法の実効性等を検証・評価し、改善に努める必要がある。
(ⅱ)事前配布の方法
 原子力災害対策重点区域のうちPAZ(金原注:概ね半径5㎞圏)においては、全面緊急事態に至った場合、避難を即時に実施するなど予防的防護措置を実施することが必要となる。この避難に際して、安定ヨウ素剤の服用が適時かつ円滑に行うことができるよう、以下の点に留意し、平時から地方公共団体が事前に住民に対し安定ヨウ素剤を配布することができる体制を整備する必要がある。
地方公共団体は、事前配布用の安定ヨウ素剤を購入し、公共施設(庁舎、保健所、医療施設、学校等)で管理する。
地方公共団体は、事前配布のために原則として住民への説明会を開催する。説明会においては、原則として医師により、安定ヨウ素剤の配布目的、予防効果、服用指示の手順とその連絡方法、配布後の保管方法、服用時期、禁忌者やアレルギーを有する者に生じ得る健康被害、副作用、過剰服用による影響等の留意点等を説明し、それらを記載した説明書とともに安定ヨウ素剤を配布する。
地方公共団体は、説明会に参加できない住民に対しては、医師による説明を受けることができる公共施設や医療機関に住民が出向き、説明を受けた上で受領できるよう対応する必要がある。歩行困難である等のやむを得ない事情により説明が受けられない者には、説明会に参加した家族や公共施設等に出向いた家族等が代理受領し、説明書とともに説明内容を当該対象者に伝えることを確認した上で配布する。
地方公共団体は、配布や代理受領に際しては、他の者に譲り渡さないよう指示するとともに、調査票等への回答や問診の実施等を通じて禁忌者やアレルギーの有無等の把握に努める。
地方公共団体は、配布等を円滑に行うために、説明会等において、薬剤師に医師を補助等させることができる。
地方公共団体は紛失等により安定ヨウ素剤を即時に服用できない住民や一時滞在者等に対して追加配布できるよう予備の安定ヨウ素剤を備蓄する。また、追加配布方法等について説明会等を通じて説明する。
地方公共団体は、放射性ヨウ素による内部被ばく予防が必要な住民に対して必要な量の安定ヨウ素剤のみを事前配布する。
地方公共団体は、転出者又は転入者があった場合は速やかに安定ヨウ素剤を回収又は配布するよう努める。また、安定ヨウ素剤の更新時期の管理方法と期限切れ製剤の確実な回収方法についてあらかじめ定め、実施する。
(ⅲ)事前配布以外の配布方法
 UPZ(金原注:概ね半径30㎞圏)においては、全面緊急事態に至った場合、プラント状況や空間放射線量率等に応じて、避難等の防護措置を講じることとなる。そのため、以下の点に留意して、避難等と併せて安定ヨウ素剤の服用を行うことができる体制を整備する必要がある。
地方公共団体は、緊急時に備え安定ヨウ素剤を購入し、避難の際に学校や公民館等で配布する等の配布手続きを定め、適切な場所に備蓄する。
安定ヨウ素剤の配布・服用は、原則として医師が関与して行うべきである。ただし、時間的制約等のため必ずしも医師が関与できない場合には、薬剤師の協力を求める等、状況に応じて適切な方法により配布・服用を行う。なお、EALの設定内容に応じてPAZ内と同様に予防的な即時避難を実施する可能性のある地域、避難の際に学校や公民館等の配布場所で安定ヨウ素剤を受け取ることが困難と想定される地域等においては、地方公共団体安定ヨウ素剤の事前配布を必要と判断する場合は、前述のPAZ内の住民に事前配布する手順を採用して、行うことができる。
(略)
第3 緊急事態応急対策
(5)防護措置
安定ヨウ素剤の予防服用
 放射性ヨウ素による内部被ばくを防ぐため、原則として、原子力規制委員会が服用の必要性を判断し、原子力災害対策本部又は地方公共団体の指示に基づいて、安定ヨウ素剤を服用させる必要がある。原子力規制委員会の判断及び原子力災害対策本部の指示は安定ヨウ素剤を備蓄している地方公共団体に速やかに伝達されることが必要である。
 安定ヨウ素剤の予防服用に当たっては、副作用や禁忌者等に関する注意を事前に周知するほか、以下の点を留意すべきである。
安定ヨウ素剤の服用は、放射性ヨウ素以外の他の放射性核種に対しては防護効果が無い。
安定ヨウ素剤の予防服用は、その防護効果のみに過度に依存せず、避難、屋内退避、飲食物摂取制限等の防護措置とともに講ずる必要がある。また、不注意による経口摂取の防止対策も講じる必要がある。
・緊急時に投与・服用する場合は、精神的な不安などにより平時には見られない反応が認められる可能性がある。
・年齢に応じた服用量に留意する必要がある。特に乳幼児については過剰服用に注意し、服用量を守って投与する必要がある。
 また、安定ヨウ素剤の服用の方法は、原子力災害対策重点区域の内容に合わせて以下のとおりとするべきである。
・PAZ(金原注:概ね半径5㎞圏)においては、全面緊急事態に至った時点で、直ちに、避難と安定ヨウ素剤の服用について原子力災害対策本部又は地方公共団体が指示を出すため、原則として、その指示に従い服用する。ただし、安定ヨウ素剤を服用できない者、放射性ヨウ素による甲状腺被ばくの健康影響が大人よりも大きい乳幼児、乳幼児の保護者等については、安定ヨウ素剤を服用する必要性のない段階である施設敷地緊急事態において、優先的に避難する。
・PAZ外においては、全面緊急事態に至った後に、原子力施設の状況や緊急時モニタリング結果等に応じて、避難や一時移転等と併せて安定ヨウ素剤の配布・服用について、原子力規制委員会が必要性を判断し、原子力災害対策本部又は地方公共団体が指示を出すため、原則として、その指示に従い服用する。
(引用終わり)
 
松本市災害時医療救護活動マニュアル 原子力災害編(平成27年3月改訂)
(抜粋引用開始)
第1章 被ばく医療の活動内容
第3節 安定ヨウ素剤について
1 服用の目的と効果
 原子力災害で放出される放射性ヨウ素は、人が吸入し、身体に取り込むと、甲状腺に集積するため、放射線の内部被ばくによる甲状腺がん等が発生する可能性があります。
 これに対して、安定ヨウ素剤を予防的に服用すれば、放射性ヨウ素甲状腺への集積を防ぐことができるため、特に子どもの甲状腺発癌の危険度を低減・阻止する効果があります。
2 予防服用
(1)予防服用の検討・判定
ア 本部医務班は、「安定ヨウ素剤の予防服用の実施」について、原子力規制委員会の判断等に基づき総合的に検討し、松本市としてその必要性を判定します。
イ 判定基準等
 次の基準、関連情報等を検討して総合的に判定します。
 (ア)屋内退避基準の最小値である、外部実効線量 10mSv
 (イ)SPEEDI(予測情報緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の情報
 (ウ)中部電力株式会社及び東京電力株式会社と長野県との連絡通報体制に基づく情報
(エ)IAEA(International Atomic Energy Agency:国際原子力機関)等が示す小児甲状腺等価線量の予測線量 50mSv/7 日間
 (オ)国の示す EAL(Emergency Action Level:緊急時活動レベル)及び OIL(Operational Intervention Level:運用上の介入レベル)の基準
 (カ)安定ヨウ素剤服用効果の有効時間(事前 12 時間、事後 8 時間)
 (キ)その他気象情報等の関連情報
ウ 原子力発電所の立地県等からの関連情報等
 原子力発電所の立地県等から発信される関連情報等は、長野県を経由して松本市危機管理部が入手します。
(2)市長への提言
 本部医務班は、「安定ヨウ素剤の予防服用を実施するべき状況である」と判定したときは、その旨を市長に対し、提言します。
(3)市長による勧告等
ア 決定
 市長は、本部医務班からの提言を受けたときは、「安定ヨウ素剤の予防服用の実施勧告」を決定することができるものとします。
イ 勧告等
 (ア)市長は、「安定ヨウ素剤の予防服用の実施勧告」を決定したときは、その旨を市民に周知し、安定ヨウ素剤の予防服用を勧め、促します。
 (イ)市長は、勧告にあたっては、安定ヨウ素剤の服用により副作用が発生する恐れがあることについて十分周知するとともに、服用を見合わせるべき者又は注意が必要な者等についての情報を提供します。
 ※ 副作用の例
 a 火照り感、皮疹、頭痛、関節痛、吐き気や下痢等の症状
 b ヨウ素に対する特異体質(過敏症)を有する者が、ヨウ素を含む製剤を服用した場合にアレルギー反応を引き起こし、服用直後から数時間後に急性反応として、発熱、関節痛、浮腫、蕁麻疹用皮疹が生じ、重篤になるとショックに陥ることがあります。
 ただし、単回服用での重大な副作用の発生は、稀とされています。
 ※ヨウ素摂取により重い副作用が発生する恐れのある者
 a ヨウ素過敏症の既往歴のある者
 b 造影剤過敏症の既往歴のある者
 c 低補体性血管炎の既往歴のある者又は治療中の者
 d ジューリング疱疹状皮膚炎の既往歴のある者又は治療中の者
 (ウ)市長勧告の市民周知の方法
 a 同報系防災行政無線(屋外に設置したスピーカー等で、住民へ一斉に通報を行う通信システム)による周知
 b 報道機関による周知
 c 広報宣伝車による周知
 d 緊急速報メール(携帯電話への一斉メール(NTT ドコモ エリアメール等))
 e 松本市公式ホームページ、公式ツイッター等による周知
 (エ)市長勧告を受けた市民は、自己(保護者)の責任において、安定ヨウ素剤を予防服用するものとします。
(4)服用対象者と服用量等
ア 服用対象者
 原則として、40 歳未満の者及び妊産婦とします。
イ 服用量
 (ア)新生児(1 カ月未満)
   1 包 0.1g(ヨウ化カリウム量 16.3mg)
 (イ)生後 1 カ月以上 3 歳未満
   1 包 0.2g(ヨウ化カリウム量 32.5mg)
 (ウ)3 歳以上 13 歳未満
   丸薬 1 丸 (ヨウ化カリウム量 50.0mg) なお、丸薬を服用できない場合は分包(0.3g)
 (エ)13 歳以上及び妊産婦
   丸薬 2 丸(ヨウ化カリウム量 100.0mg)
ウ 服用の運用等
 (ア)緊急時における迅速な服用を図るため、一律、小学1年生から6年生までの児童に対して丸薬1丸、中学1年生以上に対して丸薬2丸の服用をすることができるものとします。
 (イ)3歳未満及び丸薬を服用できない3歳以上13歳未満の対象者に服用させるにあたっては、ヨウ化カリウムの粉末を水に溶解し、必要に応じて単シロップを適当量添加する等の対応をとります。
(5)服用回数
 服用は、原則1回とします。2回目の服用を考慮しなければならない状況が見込まれる場合には、安全な区域への避難を優先させます。
3 住民等への配布
(1) 配布対象者
 安定ヨウ素剤の配布の対象者は、原則として、市民並びに市内滞留者のうち40歳未満の者及び妊産婦とします。
(2) 配布方法
ア 市長勧告前の配布(事前配布)
 有事の際に迅速な服用ができるようにするために、次の事前配布ができるものとします。
 (ア)各戸配布
 (イ)学校等(市内の保育園、幼稚園、小学校及び中学校)への備蓄
イ 市長勧告後の配布(緊急配布)
 安定ヨウ素剤予防服用の市長勧告後において、緊急配布として対象者へ配布します。
(3) 各戸配布について(事前配布)
ア 概要
 服用対象者がいる世帯に対し、本人に即した服用量の薬剤を事前に配布する方法です。
 具体的な配布の時期、方法等については、別途対応するものとします。
イ 留意点
 (ア)各世帯に配布する際には、薬剤とともに、服用量、禁忌、副作用、適切な保管方法及び保存期限を超えた薬剤の回収・廃棄等を説明した「各戸配布説明書」(資料編 P35)を配布する必要があります。
 (イ)薬剤を配布した世帯から、本人又は保護者等の署名のある「安定ヨウ素剤受取書」(資料編 P35)の提出を受けることとします。
 (ウ)配布した薬剤の保存期限が切れる場合には、当該薬剤の確実な回収・廃棄処分を周知するとともに、必要に応じ、新たな薬剤に更新します。
 なお、更新に当たっては、対象者の年齢が上がることによる、薬剤の服用量(配布量)に注意が必要です。
 (エ)転入者等への対応も配慮します。
(4) 学校等への備蓄について(事前配布)
ア 概要
 市内の保育園、幼稚園、小学校及び中学校(以下「学校等」という。)に対して、その所属する園児、児童及び生徒(以下「児童等」という。)に即した服用量の薬剤を事前に配備する方法です。
 学校等は、市長から安定ヨウ素剤の服用について勧告のあったときは、あらかじめ児童等の保護者から学校等へ提出されている承諾書に基づき、配備されている安定ヨウ素剤のうちから、本人に即した服用量の薬剤を児童等へ配布します。
イ 留意点
 (ア)学校等は、あらかじめ児童等の保護者に対し、服用量、禁忌及び副作用等を説明した「学校等での安定ヨウ素剤服用に関する説明書」(資料編 P36)を配布するとともに、「安定ヨウ素剤服用承諾書」(資料編 P36)の提出を受けておきます。
 (イ)学校等では、配布した薬剤の保存期限が切れる場合には、当該薬剤を確実に回収・廃棄処分する必要があります。また、児童等の変動に応じて、必要な薬剤の配備に配慮する必要があります。
(5) 緊急配布について
ア 概要
 市長から安定ヨウ素剤の服用について勧告のあったときは、配布拠点において、安定ヨウ素剤を対象者へ配布します。
 なお、事前配布等している薬剤がある場合には、原則としてそちらの服用を優先します。
イ 配布拠点
 配布拠点は、市立小学校28校、原子力災害医療救護所・原子力災害避難所(総合体育館)、市役所、保健センター(南部、北部、中央、西部)、松本駅、長野県松本合同庁舎等とします。
ウ 留意点
 (ア)医師が配布に立ち会うことを原則としますが、困難な場合には、薬剤師等の立会いにおいて実施することができるものとします。
 (イ)配布に当たっては、「安定ヨウ素剤緊急配布説明書」(資料編 P37)をもって服用量、禁忌、副作用等を示したうえで、本人に即した服用量を、本人又は保護者等の署名のある「安定ヨウ素剤受取・服用承諾書」(資料編 P37)と引換えに、配布することとします。
 (ウ)副作用が懸念される場合、医師等は、しばらくの間(30 分間が目安)、服用者の様態を慎重に観察するものとします。
(6) 緊急配布用安定ヨウ素剤の備蓄
ア 備蓄量
 緊急配布用の安定ヨウ素剤として、次の量を備蓄します。
 (ア)市民のうち40歳未満の者及び妊産婦約11万人分
 (イ)市内滞留者(学生、就業者、観光客、避難者等)のうち40歳未満の者及び妊産婦 約2万人分
イ 備蓄場所等
 (ア)緊急配布用の安定ヨウ素剤は、次の4カ所と市立小学校28校に備蓄します。
  ※金原注:備蓄場所一覧表及び備蓄小学校一覧表の引用は省略します。
 (イ)服用区分ごとの備蓄量
※金原注:一覧表の引用は省略します。
ウ 搬送
 各備蓄場所から配布拠点への薬剤の搬送は、原則として薬剤師の立会いのもと、松本市災害対策本部物資輸送担当等が行います。
4 安定ヨウ素剤の取扱い
保管方法
 安定ヨウ素剤の保管に当たっては、乳幼児等の手の届かない、湿気のない環境で保管します。
 一般家庭においては、災害時の非常持出袋等へ入れて保管することを推奨します。
(2) 保存期限
 安定ヨウ素剤の保存期限は、次のとおりとします。
 なお松本薬剤師会が保存状況等を検証し、保存期限の延長等の見直しができるものとします。
 ア 丸薬 3 年
 イ 分包 1 年
(3) 廃棄方法
 安定ヨウ素剤の保存期限後の廃棄に当たっては、松本市が回収した上で、一般廃棄物(可燃物)として適切に処理するものとします。
(引用終わり)
 
(付記)
 上でご紹介した福島県から関西に避難された女性の手記は、まず、『20年後のあなたへ 東日本大震災避難ママ体験手記集』(避難ママのお茶べり会/2013年3月11日刊)に収録され、その後、『red kimono(福島原子力発電所事故からの避難者たちによるスピーチ、手紙、そして避難手記)』(東日本大震災避難者の会Thanks & Dream/2016年3月11日刊)に再録されました。
 
(弁護士・金原徹雄のブログから)
2013年1月6日(同年2月13日に再配信)
三春町の4日間(安定ヨウ素剤配布・自治体の決断) 前編
2013年1月6日(同年2月13日に再配信)
三春町の4日間(安定ヨウ素剤配布・自治体の決断) 後編
2013年8月31日
『20年後のあなたへ-東日本大震災避難ママ体験手記集-』を読んで
2014年4月30日
もう一度「安定ヨウ素剤の予防服用」を考える
2015年4月11日
原発賠償関西訴訟(第1回、第2回)を模擬法廷・報告会の動画で振り返る(付・森松明希子原告団代表が陳述した意見)
2016年4月1日
浜岡原発「防波壁」完成と「避難計画」策定から石橋克彦氏の論考『原発震災 破滅を避けるために』(1997年)を思い出す

チェルノブイリ事故から30年目のベラルーシを訪ねた菅谷昭松本市長ほか~「自由なラジオ LIGHT UP!」最新アーカイブを聴く(023~026)

 今晩(2016年10月1日)配信した「メルマガ金原No.2586」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
チェルノブイリ事故から30年目のベラルーシを訪ねた菅谷昭松本市長ほか~「自由なラジオ LIGHT UP!」最新アーカイブを聴く(023~026)

 「ラジオフォーラム」の事実上の後継番組として、今年の4月からスタートした「自由なラジオ LIGHT UP!」は、そのアーカイブYouTubePODCASTで視聴することができますので、これまで2回にわたり、その全番組(22本)のアーカイブをご紹介してきました。
 けれど、何しろ週に1本ずつ放送されているのですから、アーカイブも同じペースで溜まっていく道理で、はやくも4本(023~026)が未紹介となっていました。
 以下に、公式サイトに掲載された番組案内と、YouTubeにアップされた動画をご紹介しますので、関心の高い回から聴いていただければと思います。
 
 私は、チェルノブイリ事故から30年目のベラルーシを訪ねた菅谷昭(すげのや・あきら)松本市長と、昨年の京大原子炉実験所定年退職を機に松本市に転居した小出裕章さんとの特別対談に注目し、番組ホームページに掲載されたテキスト(文字起こし)の一部を引用しました。
 

「今日のスタジオのお客様は、ドイツ演劇界で活躍する舞台女優の原サチコさんです。原さんはハンブルク・ドイツ劇場の専属俳優ですが、ドイツの公立劇場に所属する唯一の日本人女優です。番組では、前衛的なドイツの現代演劇についての興味深いお話が次々と飛び出しました。
 鬼才、ルネ・ポレシュの作品をご一緒した縁で実現した今回の対談では、まずは木内みどりが、ルネ・ポレシュの舞台に参加する過程で感じたドイツ人気質について、そして前衛的なこれら舞台が最終的に一体何を産み出していたのかを、こだわりの人物設定やユニークな演出から考え、語り合いました。
 そしてそれは、先の大戦中のナチス政権への深い反省から、ひとりひとりの考えをはっきりと主張することによって、無防備に大勢に流されないようにしようとする、そして他人の考えにもしっかりと耳を貸しとことん議論しようとする、また、自分たちの意思で世の中をしっかりと見つめていようとする、そんな戦後のドイツ人が自ずと醸成していった国民性と同期するものでありました。
 翻って日本人はどうなのか?政治への無関心、失うまで自分ごとにならない希薄な危機意識、長いものに巻かれた方が楽という安定思考の下での思考停止。
 ドイツの前衛的な現代演劇界を見渡すことによって、日本人がドイツに学ぶところは大いにあると思い知らされた、ユニークなインタビューとなりました。
 そして原サチコさんは、強く訴えます。日本の若者よ、一度でいいから海外に住んでみなさい!と。日本の生ぬるい快適に浸っているだけではダメなのだと。誰もが自分の国だけではない、「世界」を考えなくてはならない時代であることは確かなのですから。」

024 2016.9.13
五輪選手に政治利用するなと言論を封鎖する。それ、政治でしょう!

PERSONALITY おしどりマコ・ケン
GUEST 佐々木明さん(アルペンスキー選手)

「今回のゲストは、ソルトレーク(2002)、トリノ(2006)、バンクーバー(2010)、ソチ(2014)と4つのオリンピックに出場してきたアルペンスキー選手、佐々木明さんです。スキーに全身全霊をかけた人生を歩む佐々木明さんですが、東日本大震災による福島第一原発の事故以来、スキーヤーズヘルプファンデーションというNPOを立ち上げ、また仲間のスキーヤーとのネットワークを活かし、大きな組織にはできない本当に困っている人たちに届く支援を続けていらっしゃいます。
 まず番組前半では、オリンピックにかける思いとともに、海外での暮らしが長かった佐々木明さんが特に感じてきた、旧態依然としたJOC日本選手団の体質を例に、日本人特有の「かっこ悪さ」について言及しました。
 番組後半では、3.11原発事故に伴い家族を海外へ避難させたときのこと、またそれからは「俺たちのフィールドに不純物はいらない!雪を汚すな!」と、ゲレンデや山の放射能測定をして除染を勧めたりとアクティブに活動された日々のことなどをお話しいただきました。
 また継続的な支援として、子どもたちに「雪」にふれてもらいながら、命や自然の大切さを学ぶ「雪育(ゆきいく)」と称した活動を続けていらっしゃいます。放射能から逃れたい子供たちのためにとたくさんのお仲間のスキーヤーたちの温かい支援も集まっているといいます。今この時代に、世代を超えて人として大切なことをつないでいく尊くも美しいこのプロジェクトについて、じっくりと語っていただきました。
 また政治とオリンピックの関係について佐々木明さんは、国や人種やひとりの人間としてのバックグラウンドがあっての選手である以上切り離せないものがあり、スポーツを通して意志を伝えていくのもアスリートのあるべき姿という姿勢をもっておられます。その中で、スポーツだけに一生をかけて他のことには関心が向かない日本のスポーツ界の在り方に一石を投じました。
 今回は、そんな佐々木明さんの筋の通った本音が聞ける、特別なインタビューになりました。どうぞお楽しみください。」
 
025 2016.9.20
徹底追求!安倍自民党・閣僚たちの『政治とカネ』疑惑

PERSONALITY 西谷文和(ジャーナリスト)
GUEST 上脇博之さん(神戸学院大学法学部教授)

「舛添問題に甘利明元大臣の不起訴処分。そして安倍改造内閣閣僚や小池新都知事の不明朗な政治資金疑惑など、ゾロゾロ出てくる「政治とカネ」問題。その原資の殆どは国民の税金であるにもかかわらず、誠に節操が無いと言わざるをえません。今回は、「政治とカネ」追及の第一人者である上脇博之さんをゲストに、各閣僚の呆れた疑惑の中味と打開策を考えます。」
 
026 2016.9.27
ベラルーシで甲状腺がんを治療しつづけた医師、菅谷昭・現松本市長と小出裕章さんとの特別対談!in 松本

PERSONALITY いまにしのりゆき(ジャーナリスト)
GUEST 菅谷昭さん(長野県松本市長)、小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所)

「今回は、普段のスタジオを飛び出しまして、長野県松本市からお送りします。
 ゲストは、松本市長の菅谷昭さん、そして今は松本市の住民でもある元京都大学原子炉実験所助教小出裕章さん。クラシカルな松本市役所の中の一室をお借りしての放送です。
 菅谷昭さんは、もともとは甲状腺疾患を専門とされるお医者様でいらっしゃいます。チェルノブイリ原発事故後は、1991年からベラルーシに何度も足を運び、最長で5年半もの間滞在しながら、被ばくした子供たちの診療にあたってこられた方です。地位も私財を捨てて、なぜそこまでして現地の子供たちの甲状腺がん治療に奔走したのか?番組前半では、菅谷さんとチェルノブイリの関わりについて伺いました。
 そのあと番組は、小出裕章さんとの対談へと続きます。小出さんが京都大学原子炉実験所退官後、松本市を住処に選んだのは、環境の良さはもちろん、菅谷昭さんが市長でいらっしゃること、そして何よりもその素晴らしい市長を選んだ市民がいる町に魅かれたからだ、とおっしゃいます。
 そもそも二人の出会いは、菅谷さんがベラルーシ滞在中に、日本から調査に訪れた小出さんらを自宅に招き、そうめんでもてなしたことがはじまりだとか。そして二人はその後も、原子力発電所の事故から放出された放射能という、人類が決して制御しきれない危険物によって、罪もない人々が苦しんでいることに心を痛めている同志として、それぞれの立場で活動を続けて来られました。
 菅谷市長は、この夏、再びベラルーシに飛びました。30年後のチェルノブイリは、どうなっているのか?その検証から、今、日本の福島に必要な判断とは何なのか?を小出さんとともに語り合いました。緊急事態を宣言しすべてが特例として高線量地域に帰れと言われる福島の人々。菅谷さんは、チェルノブイリの悲劇を知る専門医の立場からは、放射能がこの先人々に及ぼす健康被害を強く憂いでおられます。ベラルーシでは、30年経てば子供たちの甲状腺がんはさすがに見つからない。しかし確実に体調を崩している人々が増えているのは、放射能に所以する免疫不全ではないかと疑います。低線量被ばくの問題は、福島に通じます。因果関係を検証するには、長い時間がかかる。しかしそれが証明された頃には、確実に人々の体は蝕まれている。ならば今、日本という国が向かうべき方向は明確なはずです。
 その中で、松本市では、放射能モニタリングや学校給食への配慮、観光客の分も含んだヨウ素剤の備蓄、また近隣それぞれの原発事故を想定した避難マニュアルを完成させています。
 そして菅谷市長は、この夏、松本市の平和式典で述べた内容に関連して、公人であるのでと言葉を選びながらも、原爆も原発も、同じ「核」なのだと言及されました。原発と戦争がつながっていて、原爆の凄惨さを語るのと同じく、原子力発電所の抱える問題と大きな危険をもっと考えるべきだという主張は、小出裕章さんがいつもこの番組でおっしゃってくれていることと等しく、大切なメッセージとなりました。
 もう二度と、チェルノブイリ、福島を繰り返さないために、「原発事故の真実」を知る二人の証言は、とても貴重なものなのではないでしょうか?
 「市民のための自由なラジオ“Light Up!”in 松本」、聴き応えたっぷりの1時間、どうぞじっくりとお聴きください。」

 録音の14分から小出裕章さんが登場して特別対談となります。
 「LIGHT UP!JOURNAL」の特別編となりますので、通常の回と同様に文字起こしされたテキストが掲載されています。
 YouTubeで聴いていただいても、テキストを読んでいただいても良いのですが、ここでは、今年の夏、チェルノブイリ原発事故から30年が経過したベラルーシを訪ねた菅谷市長による感想・意見を抜き出してご紹介しようと思います。
 
(抜粋引用開始)
いまにし:今回、菅谷さん、チェルノブイリ行かれまして、なんかこういう点が今までと変わったなあとか、なんか印象深いような所がもしありましたら、教えて頂ければと思うんですけども。
菅谷市長:健康に関してですね、向こうでは保健省って言ってます、こっちでは厚生労働省みたいな所ですね。そういう所の国の役人さん、あるいはまた私のお世話になってたがんセンターのドクター達、それから、また一番汚染されてるゴメリー州の州の保健局にも行ってお話を伺いました。国の行政関係の人っていうのは、もう今は汚染の状況も影響も心配ないぐらいなことを言われるんですけども。
いまにし:なんか日本とよく似てますねえ。小出さんねえ。
菅谷市長:現地行って、そして保健局の局長さんは前から知ってるもんですから、正直なことを話してくれます。
 やっぱり、この汚染されたゴメリー州の中でいくと、例えば、大人も含めた方々の4割から6割はもう健康状態が悪いんだと。慢性的疾患があるとか。それから、またある所に行くと、子供達が大変ある意味で元気がないということで、その具体的に、例えば免疫能力が落ちちゃっているから、非常に上気道感染って風邪引きやすいとか治らないとかって、こういう事があるとか。あるいは、また周産期医療の問題、産婦人科医に聞きますと、やっぱり早産とか死産。あるいは、また先天異常も増えてるとか、こういうのの問題があるとか。
いまにし:そんな中で、ご専門の甲状腺の方はいかがでしょうか?
菅谷市長:でね、甲状腺に関しては、子供はもうないわけですよね。基本的には。放射性ヨウ素自身が8日ぐらいでもって半減期が。そうすると、半年ぐらい経つと、その影響力が無くなりますから。甲状腺がんに関しては、子供はもう影響ないと。
 ところが、今、大人が増えてるんですね。これは2通りあって、1つはもともとの自然発生ガン。我々でもなるガンはいくらでも起こりますから。自然発生がんと、もう1つが、小さい頃にわずかな被ばくを受けてる子供達が、大人になってから徐々にそれがガン化して増えてきている可能性ってあるもんですから。だから、放射線誘発性の甲状腺がんっていう表現しますけれども、それが健診対策しっかりしてくると、やっぱり見つかってくるわけですよね。だから、そういう意味でも今、大人のガンが増えてるんですね。これが、どちらかっていうのは証明できないもんですから。少なくとも甲状腺がんに関しては、子供は15歳未満の子供はないという。但し、もっと大きな今の20代、30代、40代っていうのは、こういう方々のガンが増えてきてる。ガン、甲状腺はね。
 でも、それ以外のガンは、他にもいくらもあるわけですから。そういうものが増加してる。でも、本当にこれが放射線の影響がどうかっていうのは、そこの証明がつかないから。
あとは疫学的に、今後ずっとしばらく見ていかなきゃいけない。そうすると、向こうのドクター達も言ったのが、「ナーダブレイミアって。時間が必要なんだよ」って言うんですよね。
いまにし:ナーダブレイミアっていうのはロシア語ですか?
菅谷市長:ええ。ブレイミアっていうのはタイムなんですよ。ナーダがニードなんです。ですから、時間が必要なんですよ。「これからもずーっと継続して見るしかない」って言ってますね。
(略)
いまにし:どうなんでしょうか?チェルノブイリベラルーシではそういう考えはあるんでしょうか?核兵器もダメ、原子力発電もダメという。
菅谷市長:あれはやっぱり、あの国の体質としては、今そういう事あんまり声上げませんよね。ルカシェンコ大統領が、やっぱりあまり今回の原発事故のことはもう終息したっていう方向でやってるから、あまり言うなと。今回行きましたら、やっぱり原発造るんですよね。
いまにし:また新しく?
菅谷市長:ええ。だから、そういう方向ですけれども、国民も今の時点ではあまり言えないんですよね。気の毒だなあと思います。
いまにし:なんかね、日本とちょっと似たよいうな状況があるわけですよねえ。
菅谷市長:似てます。そうです。ちょっとねえ。
(引用終わり)
 

10/2公開研究講演会「放射線被ばくの真実―原発のない健康社会を目指して―」(日本綜合医学会関西大会)@大阪朝日生命ホール(大阪市中央区)のご案内

 今晩(2016年9月30日)配信した「メルマガ金原No.2585」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
10/2公開研究講演会「放射線被ばくの真実―原発のない健康社会を目指して―」(日本綜合医学会関西大会)@大阪朝日生命ホール(大阪市中央区)のご案内

 去る9月27日(火)の午後、大阪市天王寺区大阪市社会福祉センターを会場に開催された「避難者ぴあサポート交流会」にお招きいただき、参加してきました。もっとも、最初、主催団体「ドーン避難者ピアサポートの会」事務局長の竹井恭子さんからお電話いただいた時は、3.11を機に関西に避難してこられた方々の交流会だということは分かったものの、私が参加して何かお役に立つことがあるのか?と疑問に思ったのですが、是非にと誘っていただき、サンドリ(東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream)代表で原発賠償関西訴訟原告団代表でもある森松明希子さんも参加されると伺いましたので、参加することにしました。
※「サンドリ」ブログに掲載された開催告知

 私は、午後1時からの交流会だけに参加したのですが、当日午前10時半~午後1時に「Cafe IMONIKAI」が行われていたということで、都合により午前中だけで帰らざるを得なかった避難者の方もおられたそうなので、少し無理をしてでも、私も午前から参加すれば良かったかなとやや後悔しています。
 それで、結局、私は参加して何をしたかと言うことですが、はじめに少し自己紹介をさせていただいた後は、もっぱら参加された皆さんのお話をひたすら聞いていただけのような・・・。ということで、避難した時期も、決断した事情も各人各様の避難者の方から生の声を伺うという、私自身にとっては貴重な体験となりました。けれども、他の参加者にとって、私が参加したことで何か得るものがあったかどうかははなはだ疑問ですけどね。
 ただ、参加された方の中に、原発賠償関西訴訟第2次提訴で原告となられた方がおられ、私のブログの中で、「茨城県2世帯」も原告に加わっているということが書かれているのを読んでとても嬉しかったと仰ってくださった方がおられ、非常に恐縮しました。けれども、私自身、第2次提訴を特にフューチャーしてブログに取り上げた記憶があまりなかったため、帰宅して調べてみたところ、どうやら以下の記述だということが分かりました。
 
弁護士・金原徹雄のブログ 2013年12月21日
森松明希子さんが語る原発避難者の思い(12/19大阪市立大学にて)
(抜粋引用開始)
(付記)
 原発賠償関西訴訟は、9月17日の第1次に続き、去る12月18日、15世帯(福島県9世帯(区域内2、区域外7)、宮城県1世帯、茨城県2世帯、千葉県2世帯)40名の原告が、大阪地方裁判所に第2次提訴を行いました。
(引用終わり)
 
 タイトルから分かると思いますが、この記事は2013年12月19日に大阪市立大学の除本(よけもと)ゼミで行われた森松さんの講演(の動画)を紹介したもので、原発賠償関西訴訟第2次提訴(前日の12月18日のこと)は、わずか3行だけの(付記)ですからね。それでも、その中に「茨城県2世帯」と書かれているということが、当事者にとってはとても重みのあることだったことを知り、ブログも、あだやおろそかには書けないな、ということにあらためて思い至りました。
 
 ところで、その27日の交流会でチラシをいただき、後日、竹井さんからあらためてメールでご案内いただいた大阪での企画をご紹介したいと思います。
 朝から夕方までびっしり講演や発表が続くさる学会の研究講演会(一般公開)ですが、何しろ10月2日(日)という間際の案内であり、有料企画でもありますから、実際にこの記事を読んで「参加しよう」と思い立つ人はほとんどおられないかもしれません。
 正直、講演者の中で私が存じ上げているのは(もちろんネット上で、ということですが)西尾正道先生だけであり、日本綜合医学会という学会の存在も初めて知りましたので、学会のバックグラウンドなど知る由もありませんし、血液循環療法による効能なども全然分かりません。ホームページなどで各自調べてくださいと言うしかありません。
 
 
 けれども、「放射線被ばくと健康障害」(西尾先生の講演タイトル)やそれに関連する、重くかつ喫緊の課題について、様々な分野の専門家が一般公開の場で研究成果を発表するという、そのような企画が取り組まれているということ自体、1人でも多くの人に知っていただく価値があると思い、メルマガ(ブログ)で取り上げることにしました。
 
 なお、以下のご案内は、竹井さんからメールでお知らせいただいた内容を転記する【第1部】と、主にチラシ記載情報から私が補足した【第2部】とに分かれています。
チラシPDF

【第1部 ドーン避難者ピアサポートの会・竹井恭子さんから金原宛メールより抜粋】
放射線被ばくの真実―原発のない健康社会を目指して―
第27回研究講演会 NPO日本綜合医学会関西大会(一般公開)
 
<日時>2016年10月2日(日)10時00分~16時35分

<会場>大阪朝日生命ホール 大阪市中央区高麗橋4-2-16 06-6202-3919
 地下鉄御堂筋線 淀屋橋駅 12番出口

<スケジュール>
9:45 受付開始
10:00 開会
10:15~11:15
 講演1「チェルノブイリに学ぶⅠ―極低線量汚染地域でも健康障害が出ている」
 小若順一氏(NPO食品と暮らしの安全基金代表)
11:15~11:45 
 発表1「チェルノブイリに学ぶⅡ―健康障害の子供たちの治療」
 大杉幸毅氏(血液循環療法協会会長) 
13:00~14:00
 講演2「放射線被ばくと健康障害」―長寿命放射性元素体内取込み症候群―
 西尾正道氏(北海道がんセンター名誉院長)
14:00~15:00
 講演3「文明社会の未来とフクシマ後の生き方」
 槌田劭氏(使い捨て時代を考える会 相談役)
15:15~16:30
 パネルデイスカッション「原発のない健康社会を目指して」 
(パネラー:西尾正道、小若順一、槌田劭、福原宏一の各先生 コーデイネーター:日本綜合医学会理事・医師/昇幹夫氏)
※避難者よりの発言の時間も予定してくださっています。
17:00~19:00 講師の先生を囲んでの交流会(定員30名 会費3,000円 要事前申し込み)
 
<参加費>
一般 3,000円 
 3.11を機に関西に避難してきた人は500円割引 
 午後から参加の人は半額
※入場券の半券で、後日血液循環療法の会員の方の治療院などで割引で一回治療が受けられます。(詳しくは当日会場でお聞きください)
※入場券の半券で、血液循環健康教室(毎月一回土曜日の夜開催)を一回無料で受講できます。 参照 
http://www.sikori.jp/

<保育>保育あり(無料 要事前予約) 

<癒しコーナーあり>ロビーにて血液循環療法の体験ができます。 

<問い合わせ先>
 NPO綜合医学会関西部会事務局 
  TEL:06-6846-2256 FAX:06-6846-2296 090-4313-8486(大杉)

<主催>NPO法人日本綜合医学会関西部会
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
NPO日本綜合医学会は、1954年に設立された長い歴史のある会で、食による予防医学を中心に、東洋医学をベースにしつつも西洋医学もとりいれながら、また土づくりによる農業を大切に考えて綜合的に健康づくりをめざして研究している会とのことです。
 
http://npo-nsi.com/
 関西部会では、研究講演会を開催して、研究と啓蒙を続けてきておられますが、第27回となる今年は、「原発のない健康社会を目指して」ということをテーマに以下の研究講演会を開催されるそうです。
 
http://sougoukannsai.jimdo.com/
 一般公開の会ですので、関心のある方の目に届きますようにご案内します。
 午前の部の講演と発表は、「チェルノブイリこどもの痛みをなくすプロジェクト」で、ウクライナにボランテイアにいかれ痛みをなくしてあげてこられたお二人の貴重なお話です。
http://tabemono.info/report/chernobyl.html (食品と暮らしの安全)とhttp://www.sikori.jp/ (血液循環療法とは?)の「チェルノブイリボランティア報告」などをご参照ください。
 

【第2部 金原からの若干の補足】
 以下に、チラシ裏面に記載された講演者・発表者のプロフィールを転記します。
 
講演1 小若順一(こわか・じゅんいち)氏
1949年岡山県生まれ。元日本消費者連盟事務局員。1984年「日本子孫基金」設立。ポストハーベスト農薬の全容解明など食品の安全を守る活動家。2011年からウクライナ放射線被曝の健康調査開始し、「チェルノブイリ子供の痛みをなくすプロジェクト」(日本プロジェクト)に取り組む。著書に「食べるな、危険!」「食べ物から広がる耐性菌」「食べなきゃ、危険!」「食事でかかる新型栄養失調 など多数。
 
発表1 大杉幸毅(おおすぎ・こうき)氏
1949年岡山県生まれ。元農林技官。血液循環療法協会会長。血液循環療法専門学院・大杉治療院院長。手技療法一筋36年、療法の指導を通し「思いやりといたわり」のこころを広め、病人の少ない癒しの社会を目指し診療・療法指導と健康運動に活躍中。著書に「シコリを解けば病気が治る」「血液循環健康法」「指1本で病気が治る押圧メソッド」「ひざの激痛が指1本で消えた!驚異のひざ押圧」「簡単血流アップ押圧で首痛が消える!!」など多数。
 
講演2 西尾正道(にしお・まさみち)氏
1947年北海道生まれ。74年札幌医科大卒。同年国立札幌病院・北海道地方がんセンター放射線科勤務。04年独立行政法人国立病院機構・北海道がんセンター放射線診療部長、08年院長、13年名誉院長、北海道医薬専門学校長。著書に『がん医療と放射線治療』『がんの放射線治療』『今、本当にうけたいがん治療』『放射線健康障害の真実』『正直ながんのはなし』『被ばく列島』など。その他、医学領域の専門学術著書・論文多数。
 
講演3 槌田劭(つちだ・たかし)氏
1935年京都市生まれ。1958年京都大学理学部卒業。ピッツバーグ大学留学。京都大学工学部助教授。1973年伊方原発訴訟に住民側証人として参加し敗訴後、科学技術そのものの社会でのあり方に疑問を持ち、1979年京都大学を辞職。京都精華大学教員(美術学部)。1973年使い捨て時代を考える会設立。1975年安全農産供給センター設立。有機農業運動及び環境運動に深く関わる。日本有機農業研究会幹事など歴任。著書に『脱原発・共生への道』『共生共貧21世紀を生きる道』『地球をこわさない生き方の本』『工業社会の崩壊』『原発事故後の日本を生きるということ』(小出裕章・中島哲演
槌田劭)など。
 
 最後に、「NPO法人 日本綜合医学会」ホームページから、学会設立の経緯を説明した文章を引用します。

(引用開始)
設立の経緯
 日本綜合医学会は、明治の食医・石塚左玄が創始した「食養」の思想を継承するため、1954年に東京大学名誉教授・二木謙三博士(文化勲章受章者)を初代会長として設立されました。
 「食養」は食物修養の略で、食物の選び方、食物のいただき方を「食養道」ともいわれる規範に則って実践することにより、心身の修養を行う方法で、その結果健全な心身を得ることができるとする思想のことです。
 食の選択原理は、
  ① 食本主義
  ② 穀食主義
  ③ 身土不二の原理
  ④ 一物全体食の原理
  ⑤ 陰陽調和論
 日本綜合医学会は設立以来60年余、食養の理念にもとづき、玄米・野菜・豆類・少量の魚を中心とする伝統的な和食を望ましい食として推奨、普及に努めてまいりました。
(引用終わり)

日本綜合医学会チラシ表日本綜合医学会チラシ裏
 

NNNドキュメント’16~「ニッポンのうた ‘歌う旅人’松田美緒とたどる日本の記憶」(10/2)他のご紹介

 今晩(2016年9月29日)配信した「メルマガ金原No.2584」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
NNNドキュメント’16~「ニッポンのうた ‘歌う旅人’松田美緒とたどる日本の記憶」(10/2)他のご紹介

 昨日書いたとおり、3日連続で帰宅が遅くなり、しかもストック(書き溜め)もないというピンチの2日目です。1日目の昨晩は、和歌山市での「行事案内」をお届けしましたが、今晩は「TVドキュメンタリー番組紹介」です。私が定期的にチェックするドキュメンタリー枠はいくつかありますが、今日は、NNNドキュメントをご紹介することにしました。
 しかも、同シリーズ・ホームページの番組予告を見てみると、1本だけセレクトするのは悪いような気がしてきたので、全部ご紹介することにしました。
 このうち、気になる番組があれば、視聴・録画されることをお勧めします。
 
 私としては、まずは「ニッポンのうた ‘歌う旅人’松田美緒とたどる日本の記憶」ですね。番組公式予告編(わずか24秒ですが)はこちらです。


 また、松田美緒さんのオフィシャルYouTubeチャンネルで、多くの歌を聴くことができます。
 公式WEBサイトから、プロフィールを引用しておきます。

(引用開始)
土地と人々に息づく音楽のルーツを魂と身体で吸収し表現する”現代の吟遊詩人”。その声には彼女が旅した様々な地域の魂が宿っている。ポルトガル、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチン、ベネズエラ、ペルー、カーボヴェルデなどポルトガル語スペイン語圏の国々で、ウーゴ・ファトルーソ、カルロス・アギーレなど現地を代表する数々のミュージシャンと共演。南米やヨーロッパ、韓国など世界各地で公演を重ねている。2005年にビクターよりデビューし、以来5作のソロアルバムを発表。2014年、3年がかりのライブとフィールドワークの集大成として初のCDブック『クレオール・ニッポン うたの記憶を旅する』を発表。ブラジル・ハワイ移民の歌を含め、日本各地の忘れられた歌を現代に瑞々しく蘇らせた作品は高い反響を呼び、文藝春秋「日本を代表する女性120人」に選ばれる。2015年、3月、パリの高等社会学研究所の国際シンポジウムに招かれ、5月にはギリシャでも公演。第2回ヘテロトピア文学賞特別賞を受賞。
(引用終わり)
 
クレオール・ニッポン──うたの記憶を旅する』[CDブック]
クレオール・ニッポン──うたの記憶を旅する[CDブック]


NNNドキュメント’16
2016年10月3日(月)1:00~(日曜深夜25:00~)
ニッポンのうた ‘歌う旅人’松田美緒とたどる日本の記憶

 
日本人はどんな歌を歌ってきたのだろう。名もない人々によって歌われ、時を経る内に磨かれ、歌い継がれてきた歌。そこには、土地の人々が大切にしてきた魂や文化、原風景がある。松田美緒さん(36)。京都市在住の歌手だ。彼女が取り組んでいるのが「ニッポンのうた」プロジェクト。秋田のマタギの里、徳島の秘境、長崎の隠れキリシタンの島、そしてミクロネシアへと繋がる壮大な歌の物語。それは日本人の記憶をたどる旅でもある。
ナレーター/谷原章介 制作/読売テレビ 放送枠/55分
再放送
10月9日(日)11:00~ BS日テレ
10月9日(日)5:00~/24:00~ CS「日テレNEWS24」

2016年10月10日(月)0:55~(日曜深夜24:55~)
夢と土俵と草原と モンゴル人力士の光と影
 人気が復活し、盛り上がりをみせている大相撲。その中心に君臨するのはモンゴルから来た力士たち。一体、その成功はどこから来たのか?「日本に対して感謝しかない」。数々の記録を打ち立てながら、最近は"横綱としての品格"が問われることもある横綱白鵬。その素顔に迫ると、相撲への溢れる思いと葛藤が見えてきた。海を渡り、土俵という世界で生きる男たちの姿を通して"相撲の今"を伝え、"相撲に求められるもの"を考える。
再放送
10月16日(日)11:00~ BS日テレ
10月16日(日)5:00~/24:00~ CS「日テレNEWS24」

2016年10月17日(月)0:55~(日曜深夜24:55~)
震災2000日被災地医療の今 復活 石巻市立病院(仮)
 
東日本大震災から2000日が経過した。被災地では生活再建が進む一方、新たな課題も表面化している。高齢者の孤立、要介護者の増加、過疎の増長。これらを背景に在宅医療のニーズが顕著に増えている。そんな中、津波で被災した石巻市立病院が内陸部に移転して復活した。急性期医療に限らず、在宅医療にも積極的に乗り出す。山積する課題にどう向き合うか。石巻市立病院の新たな歩みを通し、被災地医療の実情に迫る。
再放送
10月23日(日)11:00~ BS日テレ
10月23日(日)5:00~/24:00~ CS「日テレNEWS24」
 
 以下の番組は既に地上波での本放送は終了していますが、BS及びCSでの再放送がありますのでご紹介します。
 
(再放送)
10月2日(日)11:00~ BS日テレ10
10月2日(日)5:00~/24:00~ CA「日テレNEWS24」
こぼれ落ちる災害弱者~熊本からの警告~
 熊本地震の避難生活で、障がい者や要介助者は人一倍不自由を強いられた。病気や障がいがある子どもと避難する女性は発災直後に十分なケアができず子どもが入院。医療費が重くのしかかり生活が困窮した。発達障がいの子どもは自宅に入るのを怖がり、大勢がいる避難所にも行けなかった。仮設住宅障がい者への配慮が欠けている。災害は日常の問題を顕在化させる。居場所を失くした災害弱者に何が起きていたのか、避難の実態を追う。
 
(付記/長谷部恭男氏講演会(9/30)) 
2016年9月30日(金)18:30~(和歌山ビッグ愛1F大ホール)
憲法講演会「立憲主義と民主主義を回復するために」
講師 長谷部恭男氏(早稲田大学大学院法務研究科教授)

主催 和歌山弁護士会
共催 日本弁護士連合会
入場無料・予約不要
連絡先 073-422-4580(和歌山弁護士会


(付録)
『移民節』 演奏:松田美緒
  

開催予告10/15和歌山市9条センター秋の憲法学習会~久保田弘信氏(フォトジャーナリスト)講演会「ISの出現と難民問題」@プラザホープ

 今晩(2016年9月28日)配信した「メルマガ金原No.2583」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
開催予告10/15和歌山市9条センター秋の憲法学習会~久保田弘信氏(フォトジャーナリスト)講演会「ISの出現と難民問題」@プラザホープ

 今晩は弁護士会の用事で、明日、明後日は講演会への参加で、それぞれ帰宅が遅くなり、しかもメルマガ(ブログ)のストック(書き溜め)もないというピンチを迎え、意地でも「毎日配信」を続けようとすれば、自ずから使える手は限られてきます。
 ということで、その第一弾は「行事案内」です。
 
 和歌山市9条センター(憲法9条を守る和歌山市共同センター)の深谷登さんから、昨晩、メールでお知らせがあった秋の憲法学習会をご紹介します。
 和歌山市9条センターは、例年だいたい10月半ばころに、「秋の憲法学習会」を開催します。私も深谷さんから「10月15日(土)に会場を押さえた」と聞いていましたので、自分のスケジュール帳に予定を書き込んでいたのですが、その後、講師が決まったという話が全く聞こえてこず、かえって、有力候補として折衝した政治思想史、ジェンダー論を専攻する関西地方の某大学教授からは、日程が合わないため、残念ながらお断りするという丁重な返事があったというような噂が耳に届くだけでした。
 その後、別の団体の企画に相乗りする形で開催することになったようだという話をちらっと聞いていたところに、昨夜のお知らせがあったという次第です。
 以下に、チラシの文字情報を転記します(チラシには会場は「プラザホープ」としか書かれていませんが、確認したところ、「4階ホール」ということでした)。
 
(チラシから引用開始)
戦争する国づくりを許さない!
県教研プレ集会 ・ 市9条センター 秋の憲法学習会
 職員組合などが12月初めに開催する「教育研究集会」の事前集会の記念講演を、市9条センター「秋の憲法学習会」の場として参加させて頂くことになりました。多くのみなさんの参加を呼びかけます。
●演題
『ISの出現と難民問題。
  世界はどうなっている。
   われわれ日本人にできることは?』
●講師 久保田 弘信
(フォトジャーナリスト)
講師紹介
 岐阜県大垣市出身。大学で物理学を学ぶが、スタジオでのアルバイトをきっかけにカメラマンの道へ。9.11事件の以前からアフガニスタンを取材。アメリカによる攻撃後、多くのジャーナリストが首都カブールに向かう中、タリバンの本拠地カンダハルを取材。パキスタンに流出する難民を取材。その時の難民の子どもたちの素顔を捉えた個展を多数開催。2003年3月のイラク戦争では攻撃されるバグダッドから戦火の様子を日本のテレビ局にレポートした。
●日時 2016年10月15日(土)14:00~開会(13:30~受付開始)
●場所 和歌山県勤労福祉会館プラザホープ4階ホール
       和歌山市北出島1丁目5番47号
憲法9条を守る和歌山市共同センター
連絡先:和歌山市湊通り丁南1丁目1-3 和歌山地区労内 TEL:073-436-3578

(引用終わり)
 
 「アフガニスタン」「シリア」「ジャーナリスト」と言えば、和歌山では西谷文和さんのお話を伺う機会が多いということにすぐ思い至りますが、取材者によって、しばしば取材して詳しい地域も当然異なるでしょうし、取材時に接触する現地の人たちの層も異なるはずなので、新たな物の見方を学べる貴重な機会になるのではという予感がします。
 なお最後に、久保田弘信さんの公式WEBサイトと公式ブログをご紹介しておきます。
 
 
(付記その1/俵義文氏講演会(9/29))
2016年9月29日(木)18:00~19:20(プラザホープ2F多目的室)
 憲法改悪阻止和歌山県各界連絡会議(073-432-6355 高校会館内)
 憲法九条を守るわかやま県民の会(073-436-3520 県地評内)
 
(付記その2/長谷部恭男氏講演会(9/30)) 
2016年9月30日(金)18:30~(和歌山ビッグ愛1F大ホール)
憲法講演会「立憲主義と民主主義を回復するために」
講師 長谷部恭男氏(早稲田大学大学院法務研究科教授)

主催 和歌山弁護士会
共催 日本弁護士連合会
入場無料・予約不要
連絡先 073-422-4580(和歌山弁護士会) 

市9条センター16年秋の学習会 

西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(全)

 今晩(2016年9月27日)配信した「メルマガ金原No.2582」を転載します。
 なお、「弁護士・金原徹雄のブログ」にも同内容で掲載しています。
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(全)

 2016年5月22日から25日までの間、「メルマガ金原」に3回に分けて掲載し、ただちに「弁護士・金原徹雄のブログ」と「wakaben6888のブログ」に転載した「西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』」は、西郷さんが、ドジョウスクイという切り口から自らの半生を振り返った自分史であると同時に、「ドジョウスクイは平和の踊り」という信念が実現される世界を目指して努力を続けるのだという決意表明でもありました。
 ところで、メルマガ掲載版をブログに転載するに当たり、細かな校正漏れを修正したりしていましたので、「弁護士・金原徹雄のブログ」版を底本とし、あらためて『ドジョウスクイ半生記』全編をまとめてご紹介することとしました。とりあえず、私が編集・校訂を担当した版としてはこれが確定稿となります。
 既に3回分載版で『ドジョウスクイ半生記』を読んでおられる方々にも、これを機にもう一度新たな気持ちで全編を味読していただければと思います。
 なお、3回分載時に私が書いた(リード文)は、まとめて本文の後ろに掲載しました。
 

                               ドジョウスクイ半生記
   
                                       西 郷   章 
 
はじめに
 私がドジョウスクイを覚えたのは、父親(西郷市松)の影響によるものでした(以下、ドジョウスクイにまつわる話ですから父親のことはオヤジと書かせていただきます)。私は終戦直後の昭和21年生まれです。私が物心つく頃の我が家の生計は、オヤジの遠洋漁業の雇われ船員としての収入によって支えられていました。遠洋漁業は「突き棒船」という臼杵市(うすきし/大分県)独自のカジキマグロを追う大変珍しい原始的な漁獲法ですので、歴史的な経緯も含めてあとで紹介したいと思います。
IMG_0002(1974年か5年 弟の結婚式での市ちゃん最後の踊り) オヤジがどこでドジョウスクイを覚えたのか、軍隊の時に覚えたのか、あるいは戦後漁師に復職してから覚えたのか知りませんが、軍隊では下関か門司だったか、大砲部隊の鬼軍曹の教官として恐れられ、軍国主義思想で凝り固まったクソまじめな人間だったオヤジが、なんであんな面白い踊りが踊れるのか、私は子供心にも不思議に思えてなりませんでした。 そして、私がドジョウスクイを覚えようと決めたのは、29歳で結婚をして、三男が中学校に入る1~2年前の48歳の頃でした。オヤジから見覚えた踊りは面白いのですが、あくまでもローカル的で、親しい仲間内ではよく踊っていても、どうしても品格に欠けますので、どこでも踊れるというわけにはいきません。私は、きちんとした踊りを覚えたいと思い、わざわざドジョウスクイの本場の安来市(やすぎし/島根県)観光課に問い合わせてみました。すると宇田川さんという名人の踊りのビデオテープや、安来節の道具一式5万円を紹介してくれたのです。それ以来、私のドジョウスクイは、どこでも安心して踊れるものとなり、様々な場所で踊ることになりました。ここでは、その中の思い出深い2~3の踊りとその背景についてご紹介したいと思います。
(金原注)写真は、1975年頃、息子(西郷章さんの弟さん)の結婚式でドジョウスクイを踊る西郷市松さん。西郷章さんが、お父さんの踊る姿を見たのはこれが最後だったとか。
 
一時代に繁栄した「突き棒船」とは
 ドジョウスクイを踊った特徴的な場面を紹介する前に、前置きしました「突き棒船」と当時の私の家庭事情についての話をしたいと思います。
 突き棒船は、「突きんぼ船」とか「突き船」とも言われ、海面に浮上するカジキを手投げモリ(樫の木で作った丸棒で、長さ5メートルくらいの先端に3本の矢じりのついたもの)で仕留める勇壮な漁法で、原始的漁獲法と言われていました。船の先端(棚)に構える突き方(矢じりをカジキに突き刺す者で一番方と二番方が構えていたと思います)や、マストの上でカジキを見つけて機関長や突き方に合図をする者が中心となり操業します。この漁法の由来は、明治3~4年の頃から大分県豊後水道一帯で、私の部落の板知屋(いたちや)などが中心となって始められたもので、その頃は当然エンジンなどはなく、櫓櫂(ろかい)や帆立てが動力源でした。その後、臼杵市・中津浦の板井五三郎がカジキマグロを樫棒の先につけたモリで突く「突きん棒」漁法を編み出し、やがて明治末期から大正初期にかけて帆船による突きん棒漁業が発達します。大正10年頃からは、動力源が内燃機関(焼き玉エンジン)に代わったために操業範囲も飛躍的に広範になり、夏から春にかけて長崎県沿岸から朝鮮近海まで出漁し、春からは豊後水道で操業しました。昭和10年頃からは、宮崎県油津沖合から北海道・三陸沖合までの漁場に出漁し、さらに広範囲に出かけるようになりましたが、第2次世界大戦でいったん壊滅してしまいました。 その後は、戦後復興とともに漁船は大型化し、乗組員も一船が十数人規模になり、私が中学に入る頃最盛期を迎え、30トン~50トン級の船が私の部落を中心に60隻くらいに増えました。しかし、北陸あたりの仕掛け網による大型大量漁獲法が取り入れられるようになると、原始的な突き棒船は急速に自然消滅へと追いやられ、昭和52年にはついに全滅してしまいました。

先を見越して運搬船に乗ったオヤジ
 オヤジは、私が中学生の頃(突き船の最盛期の頃)には既に先を見越して突き船から降りて、義兄弟の持つ貨物船で生計を立てるようになり、その船も幾年もしない間に降りて、自分で運搬船を持つようになりました。けれども、貧乏人が借金をして持てる船は、中古の木造船が関の山でした。仕事も決して楽ではなく、積み荷は四国の多度津などから西大分へ土管を運ぶ仕事で、その土管の積み降ろしは、私も中学の夏休みや冬休みの時に経験しましたが、1本1本手渡し作業による過酷なものでした。しかし、会社のように命令されて仕事をする訳ではなく、1本1本の手作業をやればやるほど必ず自分の利益になるのがせめてもの救いでした。
 この家業のために、臼杵の水産高校を出て、北九州の若築建設(現・東証1部上場)に就職していた5つ上の兄貴が呼び戻され、また私より4つ下の名古屋のグンゼで働いていた三男も呼び戻され、やがて四男もという具合に、私を除いては男の子は3人とも船乗り稼業で生計を立てるようになりました。子供たちが、いやいやながらも割にすんなりと親の意思に従ったのは、家父長制の名残によって、子供というものは親の言うことに従うものだという育て方に影響された点が多分にあったと思います。私だけが会社勤めをしたのは、船に酔いやすいという体質的な弱点があったからかもしれませんが、男の子は1人くらいは陸(おか)働きをさせておかないと、船乗りの身に何かあった時に家が行き詰まってしまうからという、これも親の意思が多少なりとも働いていたようなことをオヤジに聞いたように記憶しています。
 運搬船の事業もだんだんと軌道に乗ってくると、もう少し儲かる取引先として大阪まで足を延ばすようになりました。大阪からの積み荷は、チリ紙やトイレットペーパーなどの原料となる雑誌やボロ紙でした。それを大分の製紙会社に納入するために、西大分港の荷役場まで運ぶのです。西大分港の思い出は、まだ土管しか運んでいなかった中学生の頃のことしか覚えていませんが、冬休みの時に手伝いに行って、夕方仕事が終わると寒い町中に行き、そこで入った銭湯が暖かくて気持ちが良かったこと、また、ご褒美にジャンバーを買ってもらったのはいいが、生地がビニールのようなものでできているために、ひどく蒸れて、さすがの着るもののない私でも不快な思いをしたことが思い出されます。また、その後の大阪の荷役場は、大正区の川沿いにあり、当時、私は和歌山の住金(現・新日鉄住金)に入社して間もない頃でしたので、時々は船着き場まで親兄弟に会いに行きました。今でも大正区の川沿いが懐かしいのはそのためです。

大黒様・恵比寿さんになったオヤジ
 しかし、長年の運搬船事業も止めるかどうかの転機が訪れてきました。船の痛みもひどくなり、新しい船を買うにも相当な借金をしなければならず、それで採算がとれるのか、など考えた後に廃業することになりました。
 ところがその時に、思いもよらぬ福の神が舞い込んできたのです。船は処分しなければなりませんが、解体料こそ取られても古すぎる船自体は三文の値打ちもありません。だが、時はバブルの絶頂期で、関西空港建設のために海上の埋立てが盛んにおこなわれており、埋立てには多くの船が必要でした。船には権利があり、船を持つためにはその船の大きさ相応の権利を買わなければなりません。オヤジの船には権利という価値があったのです。その当時、ゴルフの会員権に法外な値段が付いたように、オヤジの船も貧乏人にとっては驚くほどの値段が付いたのです。かつて村一番の貧乏人と言われてもおかしくなかった両親は、たちまち金持ちになり、まさに大黒さんが舞い込んだような身分になりました。
 母親は、生前にその当時のことを振り返って「儲けた金には毎月利子だけでも相当額付いててきた」と言っていました。その余裕から、私が帰省すると必ず、少額でも小遣いをくれており、それは私が50歳近くになるまで続いたと思います。私は「いい年をして小遣いをもらうなどは恥ずかしいから止めてくれ」と言いながら貰っていたのを憶えています。
 オヤジは、船を売る何年か前から家業は子供たちに任せ、自分は隠居しながら小型漁船で好きな魚釣りをしていましたが、思わぬ金を手にしたことで、その一部を使い、村で一番速い船を新造しました。その漁師としての姿は、誰よりも遅く出漁し、だれよりも早く帰港して、誰よりも多くアジを釣る、アジ釣りの名人「市ちゃん」として釣り仲間に頼られる存在でした。私は、人一倍アジを釣るその秘訣をオヤジに聞いたところ、「どんなエサにアジが良く食いつくかエサのことをいつも考え研究している」と教えられましたので、私の生活にもこれを応用して、「人と仲良くしたり、人に好かれるには良いエサを撒くことが肝心だ」と考えてこれを実行するようになりました。そのおかげで、思想信条の違いは別としても、少なくとも人様にはあまり嫌われることはなかったのではないかと思っています。
IMG_0003(1995~6年 市ちゃんの船に乗る孫たち) さて、オヤジの釣った魚は網カゴの生けすに入れられて市場にもって行くまで生かされます。ある時、私は生けすにあるアジ、イカ、イサギ、サバ、タイを刺身にしてもらって食べ比べたことがありますが、その中で一番うまかったのはサバでした。サバは、関サバ(臼杵湾を出た半島の近海で捕れるサバ)も他のところで捕れるものも美味しさはあまり変わらないとオヤジは言っていました。
 子や孫が遊びに来れば、生の魚をどっさりと食わせてくれ、喜ばれるオヤジは正に大漁の神さん、恵比寿さんのような存在でした。その親父も、とっくに亡くなり、母親も金に不自由することなく老人センターなどを利用して、天寿を全うしました。その後、兄弟たちは別々に雇われ船員としての船乗り生活を経て、今では皆んな良い年になり、年金生活者として暮らしています。
 私は家業を手伝った訳ではありませんから、大黒様(金を儲けたオヤジ)の恩恵は少ししかありませんでしたが、その分、恵比寿様(魚釣り名人のオヤジ)の釣った魚は帰省した時には存分に食べさせてもらい、「ドジョスクイ」と「魚を釣るにはいいエサ」の秘伝を教わり、今もそれを実践していますので、これはいい財産をもらったと思っています。
(金原注)写真は、1995年頃、西郷市松さん自慢の“快速船”に乗って喜ぶお孫さんたち。
 
初めての中国でドジョウスクイを踊る
 私たち夫婦は3人の、それぞれが3つ違いの男の子に恵まれました。一番下の子が3歳の時、満蒙開拓団の一員として満州に渡っていた義父の長女で、敗戦の混乱の中、生き別れて残留孤児となった妻の姉の身元がようやく分かり、和歌山在住の姉の家族ともども総勢10名で再会のために中国に行くことになりました。中国の行き先は東北部の瀋陽市(旧・満州奉天市)です。上海から国内線で北京を経由して東北行きの飛行機に乗り換えるのですが、北京市内はこの頃(1985年)から道路も整備され、3~4車線の車道の他に同じような幅の自転車道と歩道が建設されていました。そして、初めての中国訪問ですから、名所見物も兼ねて、魯迅の活躍した場所や、最後の女帝の別荘や紫金城、万里の長城なども見物しながら瀋陽へと向かいました。瀋陽の姉の家につきますと、まず義父に代わり、私から、中国の養父に対し、長年我が子同然に可愛がり、育ててくれたご恩へのお礼と感謝の言葉を述べ、姉と再会することになりました。しかし、物心つく頃に親子は離散しましたから、言葉は通じません。あまり言葉を交わすことなく、互いの手を握りしめて姉は涙を流し、顔を見つめ合っているだけですが、義父は離散した当時に思いをはせていたことでしょう。
 離散した当時、和歌山県御坊市から娘を連れて先妻とともに満蒙開拓団員として入植した義父は広い土地を与えられたそうです。しかし、義父の遺品の中には、最下級の兵隊の位が書かれた身分票がありましたから、実際は満鉄沿線の警備を兼ねた食糧生産兵の役割をさせられていたのかもしれません。開拓団は入植した当初から軍のために苦しい生活を強いら、そして敗戦間際には、鍬(くわ)しか持ったことのない手に銃を持たされ、戦場と化した田畑、荒野を逃げ回ったのです。その後は、お定まりのソ連軍の捕虜となり、夫婦・親子はチリジリとになります。捕虜のシベリアでの生活は過酷なもので、1日に何百グラムのパンしか配給されずに飢えと寒さに耐えきれずに死んでいくものも多くいたそうです(その当時はソ連も食糧危機で自国民にすら十分に食料を供給できなかったと聞く)。そのような過酷な受難を生き抜いた義父は、4年前後の捕虜生活から解放されて運よく帰国できたのです。ついでに付け加えますと、義父が生前、私たちと一緒に暮らした和歌山では、近所に同じ境遇(ソ連の捕虜)を生き抜いてきたクニちゃんというオジサンがいて、2人は意気投合して、昼間からでもよく酒を飲んでいました。その義父は真冬でも素足の生活が平気でした。
 さて、中国の姉さんと再会した私たちは、3日ほど近くの公団住宅に泊まることになりました。そして、その間は親戚筋の料理の得意な人が食事を作ってくれました。日本とは当然生活習慣の違う中国のサラリ-マンの集合住宅での生活は、まず給水制限があり、朝の数時間と昼休み時間と夕食時しか水道が使えません。中国の家庭は夫婦共働きが普通で、仕事場での昼休みは2時間あるため、自宅に帰って昼食をとり、昼寝をするのだそうです。私たちが訪れた時期は真夏で、瀋陽は湿度が高く、私たちが「風呂に入りたい」と言うと、住宅街の一角にある小さな風呂場に案内され、洋式の狭い風呂で水浴びをする程度の入浴しかできませんでした。何も知らない私たちは、湿度が高く気持ちが悪いので、毎日風呂を使いましたが、現地の人たちは、何万人住んでいるかわからない広い団地での風呂は共用で数も少なく、市民はみな毎日風呂に入る習慣はなかったのではないかと後で気が付きました。
 瀋陽では、姉や義兄弟、親戚とようやく打ち解けた頃には、お別れをしなければなりませんでした。姉さん夫婦とその子供たちが北京空港まで同伴してくれました。そして、北京空港での別れの宴席で、私は初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになったのです。道具は食卓にあるお皿だけです。それを持つと義父が♪やすき~めいぶつ~♪と歌いだし、その歌に合わせてゆっくりと皿を両手にもってドジョウを救う真似をして踊るのです。そして時折、♪アラ、エッサッサ~♪の掛け声の時には皿を頭の上に乗せる格好で片足を上げて1回転するのです。こんな、たわいない踊りでしたが、中国の兄弟は大喜びでした。少し大げさですが、私はこの経験から、ドジョウスクイは世界でも通用すると実感しました。しかし、いまだに世界の檜(ひのき)舞台で踊ったことは一度もありません。
 さて、すっかり気を良くした私は、茅台酒(マオタイ酒)を飲みすぎて前後不覚となり、いつ飛行機に乗ったのやらわかりません。気が付くと機内は騒然としており、飛行機はよく揺れているのです。そして、その揺れは羽田空港近くまで続いたと思います。しかし最後に無事に着陸した時には、乗客は一斉に拍手を交わして喜び合いました。なぜそんなに感情的になったかと言いますと、この頃は丁度、御巣鷹山日本航空機墜落事故があって1週間もしない時でしたから、激しい揺れで御巣鷹山事故を連想し、恐怖心がわき、パニック寸前のさわぎになったのだと思います。私は、今まで飛行機には10回くらいしか乗っていませんが、揺れたからといって大騒ぎしたのは、後にも先にもこの時だけです。
 そのような出来事からしばらくして、中国の姉さんは夫婦で帰国し、その子供たち(2人の娘さん)も日本で一緒に住むようになり、それから 早くも30年近くが経ちました。姉さんたちは、和歌山の私たちの近くで貧しいながらも幸せに暮らしており、上の娘さん(私の妻の姪)夫婦は、中華料理店で細々と身を立てて暮らしています。
(金原注)西郷さんの奥様の姪御さん夫婦が営んでおられる中華料理店には、西郷さんに連れられて私も何度かおじゃましましたが、とても美味しい料理がリーズナブルな値段で食べられる大衆的なお店でした。
 
少年野球のコーチ、そしていつもヘルメットをかぶっていたH君
IMG_0004(1992年 少年野球最後(6年生)の二男) 中国に家族全員で出かけた2年後の1987年には、二男が小学校2年生となり、少年野球のお世話になるようになりました。それまでにも、妻は長男の頃からPTA(楠見地区では「育友会」と称していました)活動に非常に熱心でしたので、その付き合いの関係で、同じ楠見小学校のグランドを借りて行われている少年野球に誘われたのでしょう。そこへ私までもが駆り出されたのです。私は臼杵での少年時代、中学校から商業高校3年生まで、田舎野球ではありますが、一応6年間野球をやっていましたので、少年野球のコーチなら何とか務まるのではないかと思い、しぶしぶと承諾しました。ところが、実際にやりだすと責任感も出てきて熱心に関わるようになってしまいました。その頃、私は住友金属和歌山製鉄所の職工として3交代勤務でしたから、いつも練習などに出られるわけではありませんでしたが、極力出るように努めました。その時にコーチとして仲良くしていただいたIさんとUさんも、和歌山市内の化学工場に勤めており、私と同じように3交代をしながらコーチとしてお世話をされていました。少年野球の練習は平日もありますので、日中勤務のサラリーマンよりも、かえって3交代勤務の者の方が時間的に融通が利くのです。その点では、清掃事業に勤める職員も午後3時頃には勤務が終わりますので、指導するには時間的にも都合よく、彼らと私たちが主になって運営されました。
 少年野球は、自分の子供のために家族が総出で試合の応援をします。もちろん、私の家族もそうでしたが、一緒にコーチを務めていたIさんには、私の三男と同じ年くらいのH君という息子さんがおり、H君は応援の時、いつもヘルメットをかぶってグランドに来るので、余程野球が好きなのかな?と最初は思っていました。しかし、付き合っていくうちにそうではないことが分かりました。H君がいつもヘルメットをかぶってグランドに来るのは、頭にボールが当たったら困るからです。H君は、物心つく頃から脳腫瘍があることが分かり、それを治療するために頭蓋骨に穴を開けなければならず、そこを保護するための防具としてヘルメットをかぶっていたのです。
IMG_0006(1992年 少年野球の家族と瀬戸大橋巡りの旅館で) 私の家族はIとYさんに特に親しくしていただき、いよいよ少年野球も卒業する頃の秋に、3家族で瀬戸大橋の見物を兼ねて四国への一泊旅行に出かけたのです。その夜の食事の時に、私はあらかじめ用意していた小さなザルを持ち、タオルをかぶり、旅館の寝間着姿のまま、子供たちの前でドジョウスクイを踊ったのです。すると子供たちは大喜びです。もちろんH君も喜んでくれました。そのH君も、中学3年生の時にはかなくこの世を去ってしまいました。今でも、あの時に自己流ながらドジョウスクイを踊って子供たちが喜んでくれたことを思う時、ふとH君のはかない人生を想像してしまいます。
(金原注)1枚目の写真は、1992年、少年野球最後の年(小学校6年生)の西郷さんの息子さん(二男)。
 2枚目は、同じ年、少年野球の3家族が瀬戸大橋巡りの一泊旅行をした際の旅館でドジョウスクイを踊る西郷章さん。

正調・安来節を覚えた中学PTA役員の頃
 安来節には2つの踊りがあります。1つは「女踊り」で、緩やかなテンポで♪出雲~名物~荷物にゃならぬ~♪と歌われ、踊り自体も上品さこそ感じても面白いものではありません。それに比べて「男踊り」は、♪オヤジ~どこ行く~裏の小川に~ドジョ取りに~♪と早いテンポで歌われ、踊りもそれに合わせてリズミカルに腰を振ります。私がこれまで自己流で踊っていた踊りは、「女踊り」の歌に合わせたものでした。そして、ローカルで踊られる一般的な昔からの踊りは、この「女踊り」の歌に合わせて、男が面白おかしく踊るものでした。それに比べて、本場の面白い安来節として覚えようとしたのが、テンポの速い「男踊り」だったのです。
 さて、小学校では少年野球とともに、妻の勧めで早くから育友会(PTA)のコーラス部に入っていました。男性が少ないために一度顔を出すとなかなかやめることができません。小学校育友会のコーラス部に参加する一方で、少年野球でお世話になった二男が中学2年生になる頃には、中学校のPTAの役員も掛け持ちするようになりました。正調・安来節を覚えたのはその頃ではなかったかと思います。ところが、二男と入れ替えに3つ違いの三男が中学に入ると、中学校育友会(PTA)の会長を務める羽目になったのです。楠見中学校は、楠見、楠見西、楠見東の3つの小学校区からなり、中学の育友会長はそれぞれの小学校が輪番制で受け持たねばならないため、会長に一番ふさわしいからとか、なりたいからといってなれるものではありません。たまたま順番が楠見小学校にまわってきて、その条件の中で、それまで2年間、他の役員を務めてきた私が会長にされてしまったのです。そして、会長になったこの頃に、ドジョスクイ(正調・安来節)を初めて育友会の宴会の席などで1~2回は披露したのではないかと思いますが、はっきりと覚えていません。
 私はその後、計3年間楠見中学校の会長を務め、最後の3年目には、和歌山市小中PTA連合会長にされてしまいました。市の会長になりますと、和歌山市は自動的に4人いる県PTА連合会副会長のポストが付いてきます。やはりドジョスクイで一番華やいだのはこの頃でした。宴会の時は必ず引っ張り出され、ある時には和歌山市教育長と一緒に踊ったこともありました。当時の市の教育長は坂口さんという方で、色々芸達者な方でしたが、その中の一つにドジョウスクイがありました。自己流ながらドジョウスクイの名人との評判があり、私はぶっつけ本番で2人踊りをやったのですが、ストーリーなどはなく、めいめいが勝手に踊るのです。ところが坂口さんは、本場安来市で踊った時に、そこの名人から「あなたは胴が長いからドジョウスクイにはピッタリです」と言われただけあって、その巧みな腰つきには唖然とさせられました。この2人踊りが評判となり、瞬く間に5名の女性の役員さんが弟子になってしまったのです。しかも嬉しいことに、皆さんドジョウスクイにはぴったりの美貌ぞろいで私も大満足でした。
IMG_0005(1997年 和歌山市PTA連合会最後の懇親会) いよいよ私のPTA活動も終わろうという時、年に1回の全国大会の開催地が大分県に決まったのです。順番からすれば熊本県のはずでしたが、あろうことか、に熊本県の幹部役員が会費を着服したことが発覚して、急きょ大分県に変わったのです。大分県は私の故郷ですから、こんな運のいいことはありません。何しろ、和歌山という遠いところに18歳で職工として就職し、その地で県PTAの副会長までさせていただき、その最後の年に、一生に一度回ってくるかどうかわからない故郷・大分県で全国大会が行われるわけですから。しかも、幸運はそれだけではありません。その時期、臼杵市の教育長は、私の中学時代に野球部の監督であった村上先生が就任していたため、あらかじめ村上先生に、「和歌山から20名ほどのPTAの役員が臼杵見物をしたいので、名所を紹介していただけないか」とお願いしたところ、快く引き受けてくださり、村上先生直々に、大友宗麟の城下町や、臼杵の石仏などを案内していただくことができました。この時ほど、誇らしく、大船に乗った気持ちになったことはありませんでした。そしてその晩は、ドジョウスクイで皆さんに臼杵の情緒を楽しんでいただいたことは言うまでもありません。ちなみに、この年の日本PTA全国協議会の会長は、なんと臼杵市にある高野山ゆかりの寺・興山寺住職の岡部観栄さん(奥さんは和歌山高野山の人)だったのですから、これも驚きです。かくして、PTA役員を務めた時代は、私のささやかな現場作業員人生の中で、ドジョウスクイのおかげで一番華やいだ頃であったと言えます。
 しかし、楽しかったPTA時代の思い出を語るときに忘れてならないのは、陰で私を支え続けてくださった楠見中学校の当時の校長、坂本晃清(こうせい)先生です。坂本先生は、那智勝浦町の出身で、和歌山大学在学中は、休みになると勝浦に帰り、漁船に乗って近海漁のアルバイトをして学費を稼ぐといった苦学の人で、誠実で温厚な人柄である上に、責任感が強く、部落問題にも良く理解を示し、育友会活動も熱心に指導してくださいました。そのため、私も思い切ってPTA会長の役職を務めることが出来、意気投合した活動の中で義兄弟のような気持すら持ちました。その坂本先生も、停年退職をして何年もしないうちに、それまでの生真面目な性格の心労がたたったのか、早くに亡くなってしまわれました。私は今、原発反対の仲間とともに、毎週金曜日の夕方、関西電力和歌山支店前に立つようになって4年以上になりますが、当初からの仲間に貴志公一さんがおられます。貴志さんと一緒に行動する中で、坂本先生が貴志さんと和歌山大学学芸学部(現教育学部)時代の同期生であることを知りました。その貴志さんからもまた、坂本先生と同様に筋の一本通った頼もしい先輩として、いろいろと教えを受け、楽しく付き合わせていただいていているところです。
(金原注)写真は、1997年、和歌山市小中PTA連合会最後の懇親会で(ちなみに、西郷さんの相方は坂口教育長ではなく、本物の女性だそうです)。
 
カルタ取り「小倉百人一首」の名人、甥の西郷直樹君のこと
 私は5人兄弟の二男で、兄弟の子供たち(甥と姪)が合計13人います。その中で、1人ズバ抜けた頭脳の持ち主がいました。西郷直樹君といって、私より4つ下の弟の子供です。弟夫婦には2人の男の子がおり、大分の公団住宅で生活をしていました。そして、子供たちは、カルタの優れた指導力を持った先生に恵まれて、小学校の頃からカルタに打ち込んでいました。兄の拓也君が小学生の頃からカルタ競技を始めると、弟の直樹君もまだ幼稚園の頃からお母さんとともにそれを熱心に見ていました。そして、すぐさま自分でも競技をするようになりました。その腕前たるや、拓也君は小学生の部、中学生の部で日本一になりました。重い病気をしたこともあり、また学業に専念するために競技を断念しました。弟の直樹君も兄と同じように小学生の部、中学生の部と日本一になり、カルタ界では「西郷兄弟」と言われるようになったそうです。そして高校生の部でも日本一になり、早稲田大学に進学後も大学で日本一になり、カルタ大会では最高峰の名人戦に出場したのです。初挑戦となった1999年の名人戦(五回戦勝負)、二連敗の後に三連勝する大逆転勝利で、ついに史上最年少名人の座に上り詰めたのです。その後、5期連続で名人戦に勝利し、永世(えんせ)名人となり、その後も勝ち続けて連続記録や在位記録などのカルタ会のすべての記録を塗り替えました。
 ここで競技カルタについて説明したいと思います。詳しくはネットで、「百人一首入門」等を検索していただけばわかりますが、ここでは、私が10回以上競技場で観戦した知識なども基にしながら紹介したいと思います。競技カルタは、全数100枚のうちの「取り札」は無作為に50枚を抜き取り、対戦者双方の前に25枚ずつ置きます。そして読み札は100枚あり、読み方は、一回戦ごとに100枚全部を読みます。そして、読み方が最初の一言、二言と読んだときに相手より早く取る技を競うものです。、上の句の一言、二言、場合によっては3つも4つも同じ上の句で始まるものもありますから、競技者は、間違いなく相手より早く取らなければなりません、そこに幾つものルールがあって50枚のうちに先に多くとった方が一回戦の勝ちとなり、普通一試合で三戦を先に取った方が勝者となります。
 カルタ競技のことを知らない人は、十二一重(ひとえ)の着物を着たお姫様が楽しそうに笑いながら遊びに興じている姿を連想するでしょうが、実際は格闘技のようなもので、それは、瞬発力、暗記力、集中力、持続力のすべての体力や気力を必要とします。直樹君の瞬発力について、昔「夕陽のガンマン」か「荒野のガンマン」か忘れましたが、西部劇がはやった頃に、拳銃をホルダーから抜いて引き金を引くまでの時間が、0.3秒とかいう早業が人気になったことがありました。それと同じように、カルタを取る速さも、読み方が上の句を言おうとすると、すでに手が動き、カルタを払いのけるまでの速さが0・3秒なのです。また暗記力は、50枚の取り札を何分間かで暗記したのちに、それを裏返しにして、読み方が読む札を余程の間違いがない限りは、ほぼ50枚全部を当てる暗記力を持っています。集中力のためには試合時間中(場合によっては朝から晩まで)食事は抜いて水しか口にしません。直樹君はそのようなすべての力を駆使して前人未踏の記録を達成することになったのです。
 話をドジョウスクイに戻しますと、直樹君は、早稲田大学時代のカルタ仲間の女性と縁ができ、結婚をすることになりましたが、その東京での結婚披露宴で、私はドジョウスクイを踊ってお祝いしたことがあります。
IMG_0007(2001年 新春大会で3年連続名人(22歳)の頃の直樹君) そうして、彼の記録はその後も止まることを知らず、あまりの強さから、2012年に14年連続優勝したのを機に、自ら名人戦への出場を辞退して身を引きました。私は最後の1~2回は応援に行けなかったものの、それまではほとんど毎年、新年早々、名人戦とクイーン戦が行われる琵琶湖のほとりの近江神宮に応援に駆け付け、彼の偉才を目の当たりにしていました。もし辞めずに続けているなら、恐らく体力的にも技能的にもあと10年くらいは勝ち続けたかもしれません。
 記録を出し続けたその過程では、100年に1度出るか出ないかの偉才の出現を記念して、近江神宮の正門に向かって左横には西郷直樹と名前が刻まれた植樹がなされています。その樹木も今は相当大きくなっているのではないでしょうか。そして今は、忙しい仕事の合間を縫って、母校の早稲田大学での後進の指導や、自分の住む静岡県の子供たちの育成指導にも励んでいると聞きました。
(金原注)写真は、2001年の新春大会で3期連続名人となった22歳の西郷直樹さん。

ドジョウスクイを踊れる幸せ
IMG_0008(2010年 住金職場忘年会) 私は、職工時代には合理化などに反対したため、会社からはあまり好かれていなかったかもしれません。しかし、職場の中では、ドジョウスクイを踊ったり、アコーデオン伴奏をしたおかげで、多くの同僚には好意をもって接してもらうことができたと思っています。
 2000年頃の年の瀬も迫る夕方に、同じ会社で働いていた(職場は全然違います)同期入社のM君がやつれた格好で訪ねてきて、「寒い、今は普通の生活ができていない。」と言ってきたので、自分の着古した防寒着などを与え、ご飯を食べさせて、とりあえず一泊させてあげることにしました。しかし、その日は、泊まりがけの忘年会でしたので、妻に後のことを頼んで宴会場へ行くと、得意なドジョウスクイを踊ってみんなで忘年会を楽しみました。そして、次の日に自宅に帰ると、M君は自分の一別以来の人生を語りながら、「この冬をしのぐのに釜ヶ崎に臨時の宿泊所があり、そこは1万4千円払えば一冬越せるだけ泊まらせてもらえるから金を貸して欲しい。」と言うので、言われるままに金を貸してあげることにしました。すると、「この恩は決して忘れない。金は必ず返しに来ます。」と言って立ち去りました。私は、彼の言うことをほとんど信用していませんでしたから、金は落としたものとしてあきらめました。しかしその時、彼は本当にそう思っていたのか、その後、忘れた頃に手紙が来て、中身をみると熱心な文章で、お礼と必ず約束を守るようなことが書かれていました。しかし、次に彼から電話があったのは、それから1年ほど経った夏の夜中の2時頃のことでした。「今、京都のある駐在所で保護されているので、身元引受人になって欲しい。」との連絡でした。さすがに明日仕事があるのに、夜中の2時に起こされた私は、「いい加減にしてくれ、私は知らない。」と言って電話を切りました。彼はその後どうしているのか、生きているのかどうかも分かりませんが、それきり何も言ってこなくなりました。高校を卒業して九州から集団就職さながらこの地に来て、合理化の波にのまれ、要領を得ずしてあのような人生を送らねばならなかったのは決して彼が悪いわけではなく、私自身にも一つ間違えば起こり得る、誰にでも起こり得る過酷な運命と隣り合わせに生きていることを知らなければならないと思いました。
(金原注)写真は、2010年ころ、職場(住友金属)の忘年会で踊る西郷章さん。

その場その時で臨機応変に踊る
 ドジョウスクイを踊る場所は、その時々により全部違います。ですから、踊る直前にその場を見定めて、あそこではこう踊る、ここはこうすると、あらかじめ自分で計算しておかなければなりません。といっても、踊り自体は基本の動作を4~5回程踊るだけですからきわめて単純です。出来るだけお客さんの近くで、与えられたスペースを計算して踊りの順序を間違えなければ、ほぼうまくいったと言えるでしょう。狭すぎるところ、広すぎるところと色々経験しましましたが、一つ変わった場所で踊ったことをご紹介しましょう。市民運動の仲間で、和歌山の隣りの市で市会議員をやっているОさんの選挙の時でした。
Оさんは、ずいぶん前まではある民間労組の組合長をしており、その時によく歌った『頑張ろう』という歌を出陣式で歌いたいということで、私がアコーデオンで伴奏をすることになったのですが、それだけではなく、事務所の前で私にドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれたのです。なぜドジョウスクイなのかとОさんに聞きましたところ、「ドジョウをスクウ=票をスクウで縁起がいいからです。」との答えが返ってきました。それにしても、私はドジョウスクイをお座敷で踊ったことは何回もありますが、お土敷(砂利の上)で踊るのは初めてです。お座敷ですら、真剣に踊れば、知らないうちに必ず向う脛(すね)のあたりが赤くむくれてしまうのに、石ころだらけの土の上でまともに踊るとどうなるか、経験的、直感的に身の危険を察知しました。そのおかげで、危ないところでは手加減をして怪我をすることなく踊り終えることができたのです。
 そして、その後に嬉しいことがありました。私の踊りを見ていた前の後援会長の奥さんと1週間ぶりに会った時、奥さんは、亡くなられたご主人の仏前で、私の踊りのことを「いいものを見せてもらった」と報告しましたと言ってくれたのです。一見場違いに思えるところでも、そんなに喜んでもらえる人がいたことに、どこで踊っても決して無駄ではないと自信を持ちました。
 その市会議員のОさんから2016年の8月下旬に電話があり、「私の住むI市では、10月初旬に市長選がある。現職は5期20年務めており、これ以上市長をやらせることは市政のマンネリ化に拍車をかけ、市民にとって決して好ましいことではなく、市民の方を向いた政治をするため、また無投票当選を防ぐためにも私が市長選に立候補するからよろしく頼む。」と言ってきました。Оさんが市長選に立候補するのは今回で2度目であり、先日事務所開きに行ってきました。ところが最近になって、「出陣式の時に元気の出る歌なら何でもいいからアコーデオンを引いてくれないか。」という依頼のメールが届きましたので、快く了承したものの、今年の3月、郡山市で開かれた「3.11反原発福島行動’16」で弾いて以来全く触っていなかったので、9月25日の出陣式に向けて慌てて練習をしているところです。今回の出陣式では、「三百六十五歩のマーチ」を歌ってもらおうと思っていますが、残念ながらドジョウスクイはお呼びがかかりませんでした。

福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して
 3・11福島第一原発事故があり、それから1年が過ぎた頃から、今は亡き親友の寺井拓也さんの努力により、福島の被災者の皆さんとの交流が生まれました。そして、そのような関係の中から、「3.11反原発福島行動’14」の会場でドジョウスクイを踊って欲しいと頼まれることになり、大きな会場で踊ったことのない私は、そのリハーサルも兼ねて、福島(会場は郡山市)での集会の2日前に和歌山城西の丸広場で開催されたイベント(フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション)に出させてもらいました。和歌山では、その後も、“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”という大きなイベントなどでドジョウスクイを踊る機会をいただいたりしています。
飯舘村民仮設住宅を慰問して ところで、2014年3月の反原発福島行動に参加することになった私は、「被災者の皆さんが避難をされている仮設住宅に慰問に行きたい」と現地の友人にお願いしたところ、その希望がかない、アコーデオンとドジョウスクイの道具一式を持参して飯館村の高齢者の皆さんが暮らしておられる仮設住宅を訪問することになりました。その時、目的地に向かうタクシーの中で、運転手さんが話されたことが印象的でした。「ドジョウスクイですか。福島はドジョウがたくさん取れるところです。1時間もしないうちにバケツ一杯も取れます。今でもたくさん取れます。しかし、それを食べることはできません。」ということでした。慰問先の仮設住宅の皆さんは、よく笑ってくれました。しかし、大成功かに見えた慰問でしたが、1つだけ気がかりなことがありました。それは、最後に『故郷(ふるさと)』という歌をみんなで歌ってもらった時のことです。歌詞の3番♪こころざしを果たして~いつの日にか帰らん~♪の歌詞に差しかかりますと、皆さんの声が聞こえなくなったのです。それで私は、「もう一度大きな声で歌いましょう。」と合図をしながら歌ったのですが、なぜあの時に声が途切れたのか、その理由を案内の人に聞きました。するとその人は、「飯館村の人たちは、東電や国が情報を隠して知らせなかったために避難するのが遅れてしまい、その後も毎年もうすぐ帰れると行政に騙され続け、帰れないことを体で知ってしまったのです。だから3番は歌えないのです」と言ったのです。その話を聞いた時には本当にショックを受けました。その後も、希望をなくしたお年寄りは、帰れない故郷のことを思いながら次々に亡くなっていきます。そして政府や行政は、「安心、安全、大丈夫だ。」と言いながら飯館村にも帰還政策を推し進めていますが、この人たちのことを思うときに本当に切ない気持ちになります。
 私はこの10月で古希(満70歳)を迎える年になりました。しかし、世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。
(金原注)写真は、2014年3月、福島県伊達市仮設住宅飯舘村の方が避難)を慰問してドジョウスクイを踊る西郷章さん。
 なお、今のところ私が西郷さんのドジョウスクイを生で見た最後の機会となっているのが“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”です。その写真レポートを私のブログに書いており、西郷さんのステージ(この年は土の上)姿の写真も掲載していますのでご参照ください(写真レポートで振り返る“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”)。
 
天国の親友に捧げたドジョウスクイ
 私は、2015年の暮れから2016年の春にかけて2人の親友を相次いでなくしました。一人は、若いときの職場の同僚で、千葉から和歌山の住友金属に入社した友人でした。彼は、近い将来茨城県の鹿島工場が操業した時に、即戦力となる技術を身につけるために和歌山工場に来たのでした。おとなしい性格の彼とは良く気が合い、私のアパートで一杯飲んだり、お互いの故郷のことなどを語り合い、親しく付き合っていました。
 やがて、彼も鹿島転勤の時が来て、故郷の銚子に帰って行きましたが、それから幾年もしないうちに結婚の知らせがありました。その後、千葉から鹿島まで通っていた彼は、製鉄所の仕事を辞め、近くの個人企業に勤めるようになり、給料は減ったものの家庭は平凡ながら幸せに暮らしていたようです。それから数十年の時を経ても、私たちは、ずっと年賀状だけは自分の近況を書き添えて届け合っていました。そして、2016年の春先に奥さんから「実は主人が昨年末に肺がんが転移して亡くなりました」という手紙が届いたのです。私は、「近いうちにお悔やみに伺います」と約束をして、5月の妻が連休の時に2人で軽自動車に乗って、銚子の犬吠埼(いぬぼうさき)近くのお墓にお参りしてきました。お墓は彼の家のすぐ近くにあり、奥さんは毎日墓参りをしているものの、「それでも急に寂しくなりました」と言っていました。銚子は、私の先祖が遠洋漁業で世話になった特別の思い入れのある土地ですから、そのことのお礼の気持ちも含めて、彼のもとを訪ねることができたことに安堵感を覚えました。
 また、千葉の友人の墓参りに行く前の今年の4月半ば、和歌山では、市民運動仲間から、「田辺の寺井拓也さんが亡くなり、なきがらは病院へ献体するので、それに間に合うようにお悔やみに行きます」という知らせを受け、私も田辺へと駆け付け、少し細くなった彼の安らかな寝顔に接することができました。寺井さんもまた、直腸癌が肺に転移して半年もしないうちに亡くなったのです。
龍神村にて(寺井拓也さん、小笠原厚子さんと) 寺井さんと私は同じ昭和21年生まれですが、寺井さんは早生まれで学年は1つ上ということもあり、年は同じでも能力には大差があり、頼もしい寺井さんの市民運動での活躍に、私はいつも指導される方でした。その私たちが急速に親しくなったのは、2006年から2007年頃で、全国では憲法9条が危ないということで、多くの9条の会が発足した時期でした。その頃以降、私が紀南にゆかりの大逆事件の歴史を調べたり、「さようなら原発1千万署名」を進める上で、寺井さんから貴重な助言を得ることができましたし、9条を守る市民運動でも活発に交流するようになりました。そうした中、特に2人が意気投合して行動を共にするようになったのは、3.11福島第一原発事故から2年半を経た2013年9月に敢行した大間~福島の反原発交流ツァーにおいて、大間(あさこはうす)の小笠原厚子さんや、福島共同診療所の椎名千恵子さんたちと親交を結んだ頃からでした。そのような関係は、寺井さんが亡くなる前年まで続きました。特に2014年の福島訪問の際には、一度は仮設住宅に暮らす避難者の方を慰問したいという私の願いがかない、飯館村の避難者の皆さんが暮らす伊達市仮設住宅にドジョウスクイの道具とアコーデオンを持ち込んで慰問することができました。それらの行動の折に触れ、寺井さんは、「人生60年だ。あとの人生は儲けものだ。」と言われました。そして、70歳まで生きた寺井さんは、その言葉を行動で示すように、儲けた10年間の人生を、人々の平和と幸せのために、市民活動家として一直線に駆け抜けた純粋な人でした。また、謙虚で一本筋の通った寺井さんが無教会派の敬虔なるクリスチャンであることを、亡くなった翌月、「偲ぶ会」が行われる少し前に知りました。寺井さんは、クリスチャンとして明治の日露戦争主戦論に抗して非戦論を唱えた内村鑑三の教えを若い頃から人知れず実践していたのです。そして、私はといえば、中年を迎えてから、内村鑑三とともに万朝報(よろずちょうほう)で非戦論の論陣を張った堺利彦社会主義者)の影響を受けました。万朝報を去った2人の非戦論者がそれぞれの道を歩み、内村と堺の非戦論の影響を受けた私たちが、こうして出会えたのも、偶然にして必然であったのだと思いました。
 2016年5月28日に、寺井さんの地元、和歌山県田辺市の「ララ・ロカレ」で行われた「寺井拓也さんを偲ぶ会」では、私にとって生涯無二の親友であった寺井さんに天国から観てもらうためにドジョウスクイを精一杯踊りました。私は、今後も寺井さんに教わった「儲けた人生」を余すことなく使って、人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたいと思います。
(金原注)写真は、2014年4月、和歌山県田辺市龍神村にて。向かって右から、寺井拓也さん、小笠原厚子さん(あさこはうす)、西郷章さん。
                                         おわり
 

(3回分載時のリード文)
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(前編)
 はじめに
 一時代に繁栄した「突き棒船」とは
 先を見越して運搬船に乗ったオヤジ
 大黒様・恵比寿さんになったオヤジ
 初めての中国でドジョウスクイを踊る
(リード文)「毎週金曜日の夕方6時から7時までの1時間、雨の日も、風の日も、雪の日も(―和歌山はあまり雪は降りませんが)、関西電力和歌山支店前の路上で、静かに脱原発をアピールする人々の姿を見ることができます。そして、よほどのことがない限り、その中には必ず西郷章さんの姿があります。
 また、「憲法を生かす会 和歌山」として、来る10月22日(土)には、和歌山市中央コミセンのキャパ200名の会場で「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」と題した講演会(講師は何と私!)を主催したり(開催予告10/22「参院選後の改憲の動きと私たちの課題」(講師:金原徹雄弁護士)@和歌山市中央コミセン/2016年9月4日)、11月12日(土)には、ソプラノ歌手・前田佳世さんの和歌山市での初めてのコンサートを企画したりと、少しもじっとしていられない(?)活躍ぶりです。
 その活動ぶりについては、西郷さんご自身のFacebookで活発に発信しておられますが、西郷さんがFacebookを始められるまでの間は、しばしば「メルマガ金原」に寄稿していただいていました。それが、だいたい2011年から2012年にかけての時期だったでしょうか。その頃の西郷さんの文章は、その後、私の最初のブログ(wakaben6888のブログ)に転載しています(巻末にリンクしておきます)。
 その後、西郷さんはすぐさまFacebookに習熟し(動画投稿もお手のもの)、普段の情報発信はもっぱらFacebookを通じて行っておられます。
 けれども、2013年以降も、ほぼ年に1本の割合で、気合いの入った長文の原稿を執筆して「メルマガ金原」(及びブログにも転載)に寄稿してくださっています。以下のとおり。

2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~』
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる

※追悼特集の一部として西郷さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』を掲載。
 
 「ほぼ年に1本の割合で」と書きましたが、今年に入ってから執筆意欲が非常に高まったのか、かねて西郷さんから「書きたいと思っています」と予告されていた『ドジョウスクイ半生記』が遂に完成し、今年3本目の原稿として掲載できる運びとなりました。
 西郷さんの得意芸である「ドジョウスクイ」については、西郷さん自身が書かれた上記「3.11反原発福島行動’14」参加記を読んだり、また、折にふれて和歌山のイベントでドジョウスクイを披露された様子を直接見たり、私がレポートした文章を読まれた方も少なくないかもしれません。
 その見本(?)として、「3.11反原発福島行動’14」の2日前の3月9日、和歌山城西の丸広場で開かれた「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」に出演された西郷章さんのステージ写真を掲載した私のブログをご紹介しておきます(「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」を開催しました)。
 けれども、これからご紹介する『ドジョウスクイ半生記』は、西郷さんがまずドジョウスクイを見習ったお父さんの話から始まり、競技カルタの天才と謳われた甥御さんや、満蒙開拓団の一員として満州に渡った奥様のお父様、そして中国残留孤児として取り残され、その後家族との再会を果たして帰国された奥様のお姉様やその家族のお話、さらに、最近の親友との別れまで、ドジョウスクイを通じて自分と周囲の人々との交流を振り返る本格的な自伝となっており、いままで以上に読み応えがあります。それに応じて分量もかなりのものとなりましたので、前編・中編・後編の3回分載とさせていただくことにしました。
 前編の今回は、大分県臼杵(うすき)市で漁師として働き、その後、家族で海運業を営んだお父様を中心としたお話と、西郷さんが住友金属和歌山製鉄所で働くようになってから結婚された奥様のお父様や、中国に残されたお姉様のお話が中心で、そこにドジョウスクイのお話も散りばめられています。何しろ、奥様のお姉様と会うために中国を訪問した際の北京空港での別れの宴席で、「初めて自己流のドジョウスクイを踊ることになった」というのですから。」
 
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(中編)
 少年野球のコーチ、そしていつもヘルメットをかぶっていたH君
 正調・安来節を覚えた中学PTA役員の頃
 カルタ取り「小倉百人一首」の名人、甥の西郷直樹君のこと
(リード文)「西郷章さんの大作『ドジョウスクイ半生記』の中編をお届けします。3人の息子さんにめぐまれた西郷さんは、PTA活動に熱心であった奥様の影響もあり、少年野球チームのコーチ、PTAコーラスへの参加、さらにPTAの役員(和歌山市小中PTA連合会会長、和歌山県PTA連合会副会長まで)を務めながら、様々な場でドジョウスクイを披露していくことになります。
 さらに、ドジョウスクイとの関連はあまりないものの、競技かるたの世界で不世出の天才と謳われる永世名人(社団法人全日本かるた協会認定)西郷直樹さんが、西郷さんの甥(弟さんの息子)であることが明かされます。ちなみに、Wikipediaにも「西郷直樹」という項目がありました。
 少年野球を通じて交流のあった少年(H君)にドジョウスクイを見てもらえた思い出など、印象深いエピソードにもご注目ください。」
 
 
西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)
 ドジョウスクイを踊れる幸せ
 その場その時で臨機応変に踊る
 福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して
 天国の親友に捧げたドジョウスクイ
(リード文)「西郷章さんの『ドジョウスクイ半生記』(後編)をお届けします。いよいよ最終編となる今回は、今まで以上に「ドジョウスクイと人生」が語られています。
 実は、西郷さんから最初にお届けいただいた『ドジョウスクイ半生記』の原稿には、「ドジョウスクイは平和の踊り」という小見出しのついたパートがありました。非常に魅力的なキャッチフレーズではあったのですが、本文の内容と符合しておらず、まことに「惜しい」と思いながら、別の小見出しに変更しました。
 私自身、西郷さんによるドジョウスクイの実演を拝見したのは全部で3回、会場は全て和歌山城西の丸広場でした。
 2014年3月9日 「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山3.9アクション」
 2014年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”
 2015年5月3日 “HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama 2015”
西郷章さん(ハッピーバースデイ憲法2014) 本来、お座敷芸として発展したドジョウスクイを踊るのにふさわしい会場とはとても言えない広いところで、それでも西郷さんが果敢に踊られたのは、「世の中は、戦争を経験した人たちが再び警鐘を鳴らすほど危険な時代へと急速に向かっています。私はそれに抗して世の中が平和を取り戻し、子や孫たちに安心して次の時代を任せることができるまでは、年をとってもドジョウスクイの踊りを止めるわけにはいかないと思っています。なぜなら、ドジョウスクイの踊りは平和のシンボルと思っていますから。」(本稿「福島の飯館村避難者の仮設住宅を慰問して」より)という決意があったからでしょう。
 本稿が、今年の5月、「寺井拓也さんを偲ぶ会」での、平和・人権・脱原発に尽力して先立った亡き親友に捧げるドジョウスクイで締めくくられたのも、まことに感慨深いものがあります。
 私も、微力ながら、西郷さんとともに「人々の幸せのために少しでも役立つように努力をしたい」という思いや切なるものがありますし、本稿を最後まで読んでくださった多くの方も同じ思いを共有してくださるものと信じます。
(金原注)写真は、2014年の憲法記念日和歌山城西の丸広場の特設ステージでドジョウスクイを踊る西郷章さん(“HAPPY BIRTHDAY 憲法 in Wakayama”にて/撮影:金原)。ドジョウスクイの写真にしては「凜々し過ぎる」かもしれませんが、西郷さんの平和にかける熱い思いの表れでしょう(もしかしたら、痛風の痛みをこらえていたからかもしれませんが)。
 

(「メルマガ金原」から後日「wakaben6888のブログ」に転載した記事)
2011年11月17日
西本願寺の原発問題についての考え方(西郷章氏の質問に答えて)

2011年11月29日
西郷章氏の『1千万署名奮戦記』をご紹介します

2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(前編)
2012年2月29日
西郷章さんの『さようなら原発一千万人署名 街頭アピール』(後編)

2012年5月2日
西郷章さん『1千万人署名 一人街頭物語』
2012年8月27日
関電和歌山支店前・脱原発アクションのご報告(紀州熊五郎さん)

2012年11月28日
紀州熊五郎(西郷章)さんからの「近況報告」と「1千万署名がうまくいったわけについて」
2012年12月15日
西郷章さんの『夢やぶれても強く生きる熊五郎』
 
(「メルマガ金原」から即日「弁護士・金原徹雄のブログ」に転載した記事)
2013年10月6日
西郷章さん『“あさこはうす”と“福島”を訪ねて~大間・福島交流旅行報告記~
2014年3月22日
西郷章さんの『私はなぜ福島でドジョウスクイをすることになったのか~3.11反原発福島行動’14への参加報告記~』
2015年3月3日
『ドイツ脱原発の旗に願いを込めて』(西郷章さん)~第三報「フクシマを忘れない!原発ゼロへ 和歌山アクション2015」にひるがえる旗
2016年3月27日
西郷章さん『和歌山に“希望の牧場号”と“ベコトレ”がやってきた~“ベコトレ”陸送奮闘記』
2016年7月10日
追悼・寺井拓也さん~小さな蟻でも巨大な象を倒すことができる

※この追悼特集の一部として、西郷章さんが執筆された『寺井拓也さんとともに歩いて』(2016年5月31日記)を掲載しました。